弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

月寒平和公園の忠魂納骨堂

2023-07-29 18:08:13 | 歴史・社会
旧日本帝国陸軍の第七師団第25連隊に関連する記事の三部作3回目です。1回目、2回目は以下のように記事にしてきました。
つきさっぷ郷土資料館 2023-07-21
日露戦争旅順攻略と第七師団第25連隊 2023-07-23

札幌市豊平区月寒2条7丁目にある平和公園を訪問しました。最寄り駅は地下鉄月寒中央駅です。
月寒中央駅から歩くと、公園の正面入り口に到着します。左右の門柱はレンガ造りですが、門柱のてっぺんにブルーシートがかかっていたことから、写真を撮影しませんでした。あとで知ったところでは、「北部軍司令部正門門柱」だそうです。別の場所の北部軍司令部に建っていた正門門柱を、平和公園に移設したようです。
門柱の横に下写真の碑が建っています。「月寒忠霊塔 参道」と書かれています。

門柱横の碑

正面門柱を通って公園内に入ると、正面奥に大きな碑が見えます。

正面門柱から入る

近くに達しました。「忠魂納骨堂」と書かれています。

忠魂納骨堂


忠魂納骨堂

忠魂納骨堂の裏に碑文が彫られています。
『忠魂納骨塔由来
惟フニ我カ聯隊ハ創設以来既二三十有四年ノ星霜ヲ経タリ 此ノ間精忠雄節ノ将兵ニシテ身ヲ以テ国難二赴キ戦傷病没セシモノ其ノ芳骨今ヤ實二一千余體ノ多キニ上ル 是レ皆生キテハ国家ノ干城死シテハ護国ノ神霊トシテ軍旗ノ光彩卜共二永ク後人ノ敬仰スルトコロナリ 是レヲ以テ其ノ偉績ヲ偲ヒ其ノ神霊ヲ慰メンカ為二忠魂納骨塔ノ建設ヲ企テ廣ク官庶二計ルニ賛ヲ得ルコト十数萬二達シ国民銃後ノ赤誠溢レテ茲二其ノ実現ヲ見ルニ至レリ
嗚呼忠勇ナル我カ先輩将兵ノ義烈ハ是レ即チ千軍人精神ノ亀鑑ナリ 其ノ勲績ヲ敬慕スルノ士ハ須ラク塔前二頓キテ先人偉功ヲ壮トシ禮ヲ以テ忠勵ノ誠ヲ誓フベシ
 昭和九年二月二十七日
  歩兵第二十五聯隊長 永見 俊徳』

納骨堂の裏に、下写真の佛石塚が建っています。

佛石塚
塚の裏面に以下の文が彫られています。
『この地は明治三十年以来陸軍墓地として この塚の北側五十米附近に二列に陸軍歩兵少佐鈴木重行外十九柱の墓を建て その霊を祀って今日に至ったが 此度戦病歿将兵の霊地としての公園化に伴ひ其英霊は納骨塔に合祀し佛石はこの塚の下に収めたものである
  昭和三十六年八月十三日
   月寒忠霊塔奉讃会』

以上より、この地の由来としては、明治30年以来陸軍墓地であり、昭和9年に忠魂納骨堂が建設され、昭和30年に陸軍歩兵少佐鈴木重行外十九柱を納骨堂に合祀し、現在に至っていることがわかりました。
下写真より、平和公園の広い敷地が、忠魂納骨堂(月寒忠霊塔)のために用意されていることがわかります。

平和公園の全景

ところで、平和公園の存在を知ったのは、月寒公園内の月寒忠魂碑を見たときです。

月寒忠魂碑
以下のような説明書きがありました
『この碑は、明治37~38年の日露戦争で戦死した旧豊平町出身の兵士の勲功をたたえ、その霊を慰めるために大正4年8月、在郷軍人会豊平分会の有志により建てられました。
・・・
第7師団の各部隊は、(日露戦争で)もっとも激烈を極めた旅順要塞の攻防戦に参加したこともあり、多数の犠牲者を出す結果となりました。
・・・
昭和初期までは毎年盛大に慰霊祭が行われていましたが、平和公園(月寒西2条7丁目)に月寒忠魂納骨塔ができてからは参列者も少なくなったといわれています。』

さて、平和公園の忠魂納骨堂については、以下のサイトに詳しく掲載されていました。
忠魂納骨塔(月寒忠霊塔) (北海道札幌市)
『塔内には、遺骨箱2,115柱、日露戦争戦死者銘板877柱、歩兵第25聯隊樺太真岡戦霊璽簿222桂、歩兵第125聯隊樺太国境戦霊璽簿644柱、合3858柱が安置されている。』と紹介されています。

忠魂納骨堂慰霊供養の様子はこちら

忠霊塔盆おどりによると、『8月13日14日15日に月寒忠霊塔の扉が開いて参拝することができます。英霊に尊崇の念を表する慰霊顕彰の盆踊りを開催します。』とあります。

この忠魂納骨堂は、老朽化して解体の危機があったようです。こちらで紹介されているように、国が全国の軍用墓地を調査、一斉点検を実施し、月寒忠霊塔も補修が必要と判断され、補修されて現在に至っているようです。
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白石こころーど(札幌)

2023-07-27 20:06:34 | 趣味・読書
私が住んでいるところから北上して地下鉄白石駅に至る途中で、自転車・歩行者専用道路を横切ります。
魅力発見!白石こころーどを行くにその説明がありました。
『白石こころーど(旧白石サイクリングロード)の正式名称は「道道札幌恵庭自転車道線」。現在、札幌コンベンションセンター(札幌市白石区東札幌6条1丁目)から、厚別川に架かる虹の橋(札幌市白石区南郷通21丁目南)を渡って白石区を抜け、さらに、厚別区を通り、JR北広島駅まで続いています。
この白石こころーどは、昭和48年9月に廃止された旧国鉄千歳線跡地でしたが、白石区民の「市民の憩いの場にして欲しい」という強い要望により、翌年8月、自転車・歩行者専用道路として生まれ変わりました。』
全区間のうち、白石区の部分の図面はこちらです。
東広島市までの全区間についての説明は、「札幌恵庭自転車道路(白石サイクリングロード)」にあります。
『3つのロードがつながっています。
①札幌市白石区間「白石こころーど」(7.2km) 
②厚別区間「陽だまりロード」(4.5km) 
③北広島市区間「エルフィンロード」(8.1km)(含・共栄広島道)
合計19.8kmです。』

そこで、私が住んでいる場所を軸として、白石こころーどを歩いてみることにしました。実際には2回に分け、1回目は地下鉄白石駅付近から大谷地まで、2回目は地下鉄白石駅付近から東札幌の終点(始点)までを歩いたのですが、以下の説明では混乱を避けるため、大谷地からスタートして東札幌の終点(始点)までたどったような構成としています。また、白石こころーどを省略して「ロード」と呼ぶことにします。
ロードの途中に、以下のような説明図が設けられています。

説明図

このロードは、もちろん至る所で車道と交差します。このロードの特徴は、車道との交差点の大部分が立体交差になっている点です。代表を下の2枚の写真としてあげます。

立体交差


立体交差
旧国鉄千歳線時代、線路はもちろん今のロードのように車道の下に潜ったりせず、平面を走っていたはずで、車道との交差点は通常の踏切になっていたはずです。廃線跡からロードに変更するに際し、ほとんどの車道との交差点(それまでの踏切)について、ロードを掘り下げ、立体交差にしたと思われます。お金がかかったことでしょう。

ロードは大谷地の近くで、道央自動車道の下をくぐります(下写真)。

道央自動車道の下

ロードのすぐ横に神社が見えたので、寄ってみました。
うっそうとした森の中ですが、関東で神社の森というと広葉樹ですが、ここ大谷地神社では針葉樹林でした。これも北海道ならではでしょうか。

大谷地神社の森


大谷地神社

ロードの近くに北星学園大学のキャンパスが広がっています。

北星学園大学

ロードが厚別川をまたぐ位置の橋です。旧千歳線時代は鉄橋だったでしょうから、鉄橋を撤去して下写真にあるような橋に立て替えたと思われます。これもお金がかかったことでしょう。

虹の橋

今回のこのロードで、ごく一部ですが、車道との交差点を立体交差ではなく平面交差としているところがありました。

平面交差

ロードの北側に、アサヒビールの工場が見えます。

アサヒビール
旧千歳線のつきさっぷ駅がこの近くにありました。この記事の最後でふれることにします。

ロードの地下鉄白石駅近くには、白樺並木もあります。

白樺並木

ロードと環状通との交差点には、立派な橋で立体交差が形成されています。これもお金がかかっていそうです。



環状通側から見た橋が下の写真です。



さて、ロードは南郷通との交差点に至りました。さすがにここは、立体交差になっていません。

南郷通との交差点
それも、下写真のように、ロードからちょっと横にずれたところの横断歩道まで移動しなければなりません。

南郷通を横断するための横断歩道

南郷通を通過すると、下写真のようなロードが続きます。写真の右側は、ラソラ札幌、マックスバリュなどの建物のはずです。


そして終点に到着しました。さっぽろ大地公園の北端に位置しているはずです。

終点
ただし、上写真で、右上の終点の標識とは別に、左下にあるように1.5kmの標識もあります。これはなんでしょうか。この先を見ると、下写真のようになっています。国道12号(札幌江別通)の高架の下に空間が見えます。ロードは、この高架の下を通過してさらに延びる計画でもあるのでしょうか。

終点の先(国道12号(札幌江別通)の高架)

ここから南に戻ると、地下鉄東札幌駅に至ります。そこまで歩くことにしました。さっぽろ大地公園の中を通ります。

さっぽろ大地公園

さて、このロードの途中、アサヒビール工場の近くに、旧千歳線のつきさっぷ駅がありました。それを記念するモニュメントがあるというので、別の日に探しに行きました。
ロードから外れた分かりづらいところにあります。地図アプリ(例えばgoo地図)で「北海道札幌市白石区栄通5丁目9-5」で探すのが手っ取り早いでしょう。

モニュメントは、工場裏手の曲がり角にひっそりと建っていました。

つきさっぷ駅
碑文には以下のように書かれています。
『旧国鉄月寒駅跡地由来
月寒駅は大正15年8月21日北海道鉄道千歳線の開通と同時に、この地において開業した。その後昭和18年に旧国鉄が買収し、国鉄月寒駅となり、開業以来約半世紀にわたり、白石の地の主要駅として親しまれた。
昭和48年9月千歳線の切替後は、最寄りのアサヒビールの積み出し駅となったが、昭和51年10月1日その歴史を閉じ、平成3年アサヒ物流センターとなる。旧千歳線跡地は、サイクリングロードとして、現在に至っている。』

先日私は、つきさっぷ郷土資料館を訪問しました(つきさっぷ郷土資料館 2023-07-21)。このとき、年1回発行されている「資料館だより」を、第35号(2013)から第43号(2022)までいただきました。そのうちの第39号(2017)の表紙に、つきさっぷ駅の写真が掲載されていたのです。

この写真がいつごろ撮影されたかは、説明がありません。一方、写真の右上背景にある建物は、下の写真との照合により、現在のアサヒビール工場の建物に相違なさそうです。ということは、上の写真もさほど昔のものではなさそうです。

現在のアサヒビール工場
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さっぽろ羊ヶ丘展望台

2023-07-25 23:59:45 | 趣味・読書
さっぽろ羊ヶ丘展望台を訪問しました。
公共交通機関で訪問するためには、地下鉄東豊線「福住駅」から「羊ヶ丘展望台」行きのバスを利用する必要があります。ネットで調べると、地下鉄東豊線「福住駅」から「羊ヶ丘展望台」行きのバスは、平日ですと30分に1本運行されています。

バスの終点で降りると、そこはなだらかな丘の上で、クラーク像が出迎えてくれます。

クラーク像
クラーク像の先には羊の群れです。遠景に札幌ドームが見えます。

羊の群れ

私は今回、屋外をぐるっと回って写真を撮っただけで、施設内には入りませんでした。下の写真のような建物(クラーク記念館)のほか、雪まつり資料館、レストハウス、オーストリア館などが立ち並んでいます。

クラーク記念館


左・オーストリア館、右・札幌ブランバーチ・チャペル

札幌ブランバーチ・チャペルの前には、少女と羊の像が見られます。像の台座によると、山脇正邦氏昨 昭和51年北日本毛織から寄贈 とあります。

少女と羊

施設群の裏に回ると、広い草原が出迎えてくれます。

裏に広がる草原

7月はラベンダーの季節と書いてあったので期待していたのですが、下の写真の程度でした。終わりかけなのか、それともこれからなのか、よく分かりませんでした。

ラベンダー

天気に恵まれたこともあり、気持ちのいいひとときをすごすことができました。
帰りは同じように、30分に1本のバスを利用し、福住経由で帰宅しました。
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日露戦争旅順攻略と第七師団第25連隊

2023-07-23 14:31:48 | 歴史・社会
今、司馬遼太郎著「坂の上の雲」を読んでいます。40年以上前に読んでいるのですが、今回再読です。

現在、日露戦争の旅順攻撃の項を読んでおり、ちょうど先日、札幌のつきさっぷ郷土資料館を訪問して資料館の方と同じ内容のお話をしたところから、「坂の上の雲」で描かれた旅順攻撃の詳細を以下にメモしておきたいと思います。
つきさっぷ郷土資料館訪問記については、こちらで記事にしました。ここつきさっぷは、第七師団第25連隊の根拠地でした。
以下、第七師団、特に第25連隊の関連記述については、太字としています。

日露戦争の中国本土での戦いは、大山巌司令長官と児玉源太郎総参謀長が率いています。旅順攻略については、一応大山司令長官の下ではありますが、乃木希典司令官と伊地知参謀長が半ば独立に指揮しています。

海軍は「203高地を攻撃の主目標にしてほしい」と乃木軍に要請していましたが、乃木軍司令部は拒否し続けていました。しかし東京の大本営もこれを求めてやかましかったので、1904年9月19日、第一師団(東京)をうごかし、わずかの兵力で203高地をつつき、退却しました。
203高地はこの時期、ロシア側の防備が手薄でした。しかしステッセルは、乃木軍の攻撃で防備の手薄に気づき、大急ぎで要塞化にとりかかりました。司馬氏は、乃木軍司令部がやった無数の失敗の中で最大のものであった、と述べています。

日本国内には、第七師団のみが予備軍として残っていました。乃木軍は第七師団をくれ、とやかましくいってきます。
「旅順の敵壕の埋め草にさせてしまうだけだ、と大本営ではやりたくはなかった。いままでの乃木式によれば裸突撃をしてたった一回の突撃で、1万6千とか、5千といった数字で兵員を死傷させている。第七師団はたった一回の突撃で消滅するであろう。」
第七師団は北海道の兵で構成され、旭川に司令部を持ち、連隊本部を札幌、函館、釧路、旭川にそれぞれもっています。この師団が、乃木軍の系列に入りました。
第七師団の師団長は薩摩人の大迫尚敏(おおさこなおとし)中将でした。


旅順要塞に対する第三次総攻撃は11月26日
『乃木と伊地知がやった第三次総攻撃ほど、戦史上、愚劣な作戦計画はない。あいかわらず要塞に対する玄関攻撃の方針をすてず、その作戦遂行の成否のすべてを、日本人の勇敢さのみに頼った。乃木軍司令部というのは、ただ、
「突撃せよ」
死を命ずるのみで、計画と判断の中枢であるという点では、まったくゼロというに等しかった。』
まったくの正面攻撃である。

このとき、一大決死隊として「白襷隊」が編成されました。総勢三千百余人。この特別部隊を中村覚(さとる)少将に率いさせます。
突撃縦隊というのは、本来、奇襲のために敵の搦め手を不意につくという用兵のために存在します。ところが乃木軍司令部は、これを正面攻撃に用いたのです。敵の正面どころか、もっとも敵が強大な防御力を集中している本街道方面をゆけ、というのです。
隊員は夜間相互の識別がしやすいように白襷をかけており、それが隊の名前になりました。

ロシア側のステッセル将軍は、26日の乃木軍総攻撃を予想していました。それは、乃木軍が決まったように毎月26日に総攻撃を仕掛けるからです。ロシア側は予測して部署していました。
午後6時、白襷隊は動き始めました。やがて敵の探照灯に発見され、すさまじい砲弾の集中を受けました。ウィキには、「味方識別のために掛けていた白襷がロシア軍の探照灯照射によって反射し目立ったため大損害を受けた。」との記載もありました。迷彩服着用の真反対です。残念なことです。
三千人の白襷隊が事実上壊滅したのは、戦闘開始から1時間ほど経ってからでした。三千人の半分までが死傷しました。それでも生き残った人数が、鉄条網を切って敵の陣内に入り、敵の塹壕の中にとびこみました。
指揮官の中村少将も重傷を負い、指揮を引き継いだ渡辺水哉大佐(第25連隊長)は乃木軍司令部に退却命令を求めました。乃木は退却を命じました。

大山総司令部や東京の大本営、海軍側から乃木軍に対し前々から、「目標を203高地に変更せよ」「正面決死攻撃ではない別の戦術に変更せよ」「司令部の位置をもっと前線の近くにせよ」と示唆しても、乃木軍は頑として受け入れません。伊地知参謀長が頑なであり、乃木司令官はすべてを伊地知参謀長に任せきっています。

児玉総参謀長が、旅順に乗り込んで、乃木司令官の指揮権を一時借用して戦闘指揮を執ることを決意しました。児玉総参謀長が列車で移動している最中、27日、乃木司令官が初めて「203高地を攻めよ」と命じました。乃木は、第一師団と、内地から到着した新鋭部隊である旭川の第七師団を当てることにしました。
29~30日の203高地の攻防は凄惨を極め、千人が十人になるのに15分を必要としないほどの消耗でした。

児玉が旅順に到着し、乃木と二人だけで話して、乃木司令官の指揮権を一時借用して戦闘指揮を執ることの承諾を得ました。そのあと、作戦会議のため乃木軍司令部に向かいます。その途中、同じ会議に参加する、第七師団の大迫師団長と一緒になりました。このとき、大迫の第七師団は、1万5千もいたがわずか数日の間に千人に減っていたのです。

作戦会議では児玉が主導権を持ちました。
「203高地の占領を確保するため、すみやかに重砲隊を移動し、高崎山に陣地変換する」
「203高地占領の上は、28サンチ榴弾砲をもって、連続砲撃を加え、敵の逆襲に備える」
これは、砲兵の常識からいえばまるで不可能なことでした。乃木軍の若い参謀がそれに異論を唱えます。児玉はこれをおさえ、
「命令。24時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ」
と、大声でどなりました。結果からいえば、児玉の命令どおり、24時間以内に重砲は203高地の正面に移されたのです。

12月3日は日露で協定した休戦日でした。日本側は日本兵の死体収容のため、ロシア側は砲塁の修復のためです。児玉にとっては、この間に重砲陣地の移動ができるので好都合でした。
12月5日、陣地移動を完了した攻城砲は早暁から砲撃を開始しました。
児玉の重砲陣地の大転換は、みごとな功を奏しつつありました。それまで203高地へ向かう日本歩兵は、周囲の諸砲台からの砲撃のために全滅を繰り返していたのです。児玉が移動させた重砲が周辺砲台を沈黙させました。
そのとき、歩兵の突撃も開始されていました。斎藤太郎少将の指揮する隊は午前9時から開始し、10時20分には203高地西南角は完全に日本軍によって占領されました。わずか1時間20分です。
203高地東北角のロシア軍に対しては、吉田清一少将指揮の隊が午後1時30分に攻撃を開始し、歩兵28連隊の第1中隊が登攀突撃に成功しました。攻撃開始から占領までわずか30分でした。

児玉は、砲兵指揮官に命じて、占領した203高地の山頂に観測班を登らせるように命じました。児玉は有線電話で観測将校に「そこから旅順港は見えるか」と問いました。「見えます。まる見えであります。」との返答が返りました。児玉は軍艦砲撃を命じました。乃木軍の砲兵指揮官は反対しましたがそれを押して命令しました。命令の10分後、28サンチ榴弾砲の陣地から殷々と砲声が響き始めました。その命中精度は百発百中であったといっていいでしょう。港内にすわりこんでいた戦艦、巡洋艦が、次々と爆発・大火災を起こして沈没していきました。

以上が、司馬遼太郎著「坂の上の雲」での描写です。司馬氏は、伊地知参謀長に対して腹の底から怒っています。
しかし、ウィキペディアを見ると、様子が大分異なるようです。
司馬氏がどのような一次史料に基づいて小説を書いたのか、知りたいところです。伊地知参謀長に対してあれだけ怒っているのですから、怒りの原因は、一次史料で十分に裏付けられているだろう、と普通なら思います。
小説の中で、たまたま現場を目撃した若手の参謀の発言として、「○○少佐は、終生このことを語り続けた」といった紹介が多く見られます。これなどは、「○○少佐の言行録」のような一次史料を読み込んだ、と受け取ることができます。

ウィキによると、旅順港のロシア艦隊は、203高地奪取前に、実質上無力化されていた、とされています。しかし、東郷連合艦隊は、203高地奪取とその後のロシア艦隊への砲撃が完了するまで、全艦で旅順港の封鎖を行っていました。バルチック艦隊が近づいている中、一刻も早く内地に帰って軍艦のメンテナンスを行いたい筈であるにもかかわらずです。このことは、少なくとも東郷司令部は旅順港ロシア艦隊が健在であると信じていたことを示します。従って、本当は旅順港ロシア艦隊がすでに無力化されていたとしても、203高地占領がない限り、日本連合艦隊はバルチック艦隊とまともに戦えなかったはずです。

さて、日露戦争旅順攻略と第七師団第25連隊との関係です。
203高地への攻撃を開始する直前、旅順要塞への第3次総攻撃において、乃木軍は白襷隊を編成して突撃をかけました。白襷隊総勢3千人中で第25連隊が1500人を占めており、また、白襷隊の指揮官中村少将が重傷を負ったあと、指揮を受け継いだ渡辺水哉大佐が第25連隊長でした。白襷隊は、全体で総員の45%が死傷する結果となりました。
203高地への攻撃を開始した最初の総攻撃(児玉総参謀長の到着前)で、第七師団はその中心を担ったようです。そして、その戦闘のあと、大迫の第七師団は、1万5千もいたがわずか数日の間に千人に減っていたのです。第七師団の第25連隊も、白襷隊で人員が大幅に減ったにもかかわらず、203高地への攻撃にも参加してさらに損害を拡大したものと思われます。

「もっと知りたい!旭川」の日露戦争と旭川・前編 2022-02-20に、児玉総参謀長到着後の203高地攻撃に関する記載がありました。
『このときの模様を、第七師団司令部編の「師団歴史」はこのように書いています。
「午前九時迄に突撃を準備し、一方には決死隊を四回に分つて二〇三高地西南角に向い突撃せしめ、次で歩兵第二十七連隊の一中隊、歩兵第二十八連隊の二中隊、歩兵第二十五連隊の一小隊、工兵第七大隊の大部を逐次高地上に攀登(はんと)せしめ、(中略)午後二時頃西南角は全く之を占領す。鞍部の敵は頑強に抵抗し、東北角頂も亦敵によりて妨げらる。偶々攻撃隊長の意見具申に依り東北角占領に決したり。此実行は意外に行われ、午後四時頃全く該地を占領せり。続て敵は数回逆襲を企てしも皆之を撃退せり」(「師団歴史」より)
なお余談ですが、このとき頂上にひるがえった二十八連隊の連隊旗は、のちの太平洋戦争のガダルカナルの玉砕戦で、敵の手に渡らぬよう焼かれたことが知られています。』

そうそう、ガダルカナルで逆上陸奪還戦を戦い、全滅したのは一木支隊でした。第七師団歩兵第28連隊についてウィキには以下のように記載されていました。
『1942年(昭和17年)
8月、本連隊(第28連隊)を基幹とする一木支隊はグアム島にてガダルカナル島の飛行場奪還の命令を受ける
8月16日、ガダルカナル島に上陸する
8月21日、イル川渡河戦で支隊長以下第1梯団は壊滅する
第2梯団も攻撃に失敗した後は飢餓に陥り、戦場を彷徨いながら撤退部隊の最後尾部隊としてブーゲンビル島経由で旭川に帰還。この出征の最中、連隊旗を奉焼する』

第七師団は、日露戦争では旅順攻略戦で全滅に瀕する戦いを強いられ、太平洋戦争ではガダルカナルで同じく全滅に瀕する戦いを強いられたのですね。
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つきさっぷ郷土資料館

2023-07-21 16:08:05 | 歴史・社会

今住んでいる場所のすぐ近くに、「つきさっぷ郷土資料館」があります。4月~11月の水曜日、土曜日が開館日、とあるので、今週水曜日、訪問しました。

資料館の紹介によると、
『この記念館は、もともと旧陸軍北部軍司令官官邸として昭和16年に建てられたもので、赤いレンガの建物が特徴です。戦後は北海道大学の学生寮として使用されていましたが、昭和60年につきさっぷ郷土資料館として開館しました。ここには、旧歩兵第25連隊をはじめ旧陸軍資料が数多く展示されています。』
とあります。


資料館の門


資料館外観


階段

戦前、この建物の近くに、大日本帝国陸軍第7師団第25連隊がありました。

上は、昭和10年のつきさっぷ付近のジオラマです。写真中央やや上の黄土色の建物密集地が第25連隊、その左上の緑のピンがこの建物(当時の北部軍司令官官邸)の位置です。

資料館の方にいろいろお話を伺うことができました。その方は、「第七(しち)師団」と発言されていました。えっ、と思いましたが、旧軍の旭川第七師団が第しち師団、陸上自衛隊の千歳第七師団が第なな師団と呼ばれているようです。ウィキでも確認できました。

第七師団第25連隊が日露戦争で旅順攻撃に参加したとの話になりました。「白襷隊」が話題になりました。私はちょうど、司馬遼太郎著「坂の上の雲」を読んでおり、この前日に旅順攻撃における白襷隊の部分を読んだばかりでした。そこで「三千人ですね」と返したところ、「よく知っていますね」とびっくりされました。
帰ってからウィキで白襷隊について調べました。合計3133人のうち、第七師団第25連隊が1565人で、半分を占めています。そして、攻撃は短時間で壊滅的打撃を受け、全体の45%が死傷しました。
白襷隊を含め、日露戦争の旅順攻撃について、「坂の上の雲」からの知識を別記事として掲載します。


農機具の展示


村田銃


38式歩兵銃・騎兵銃


加藤隊長
加藤隼戦闘隊の隊長として有名な、加藤建夫氏は、ここ歩兵第25連隊出身なのですね。ウィキには、「札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉に任官するも、翌27日にはもとより航空に興味のあった本人の希望で航空兵に転科し飛行第6連隊附の陸軍航空兵少尉となる」とあります。

資料館の紹介に、「戦後は北海道大学の学生寮として使用されていましたが、昭和60年につきさっぷ郷土資料館として開館しました。」とあります。私の学生時代(50年前)、大学の寮というと、「きたない」ことが当たり前でした。長いこと大学の寮として使われたら、ものすごく傷んでいるはずなのに、この資料館には傷みが見当たりません。私が「大学生はきれいに使ったんですね」と述べたところ、資料館の人は、「大学生が去ったあと、あまりの傷み方にびっくりしたらしい」と話されていました。それから修復したのでしょう。また、最近当時の学生から聞いた話として、「玄関前の床にある黒い点」(下写真中央)は、学生が重い鉄球を落としてついた傷だ」そうです。

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伊澤理恵著「黒い海」

2023-07-17 09:22:19 | 趣味・読書

先日、原発処理水と福島県漁連野崎哲氏 2023-07-15で紹介したように、私は最近、以下の本を読みました。
黒い海 伊澤理江著

『2008年、千葉県の犬吠埼からおよそ350km沖の太平洋で、碇泊中の漁船「第58寿和丸」が突如水没した海難事故。4名が死亡し、13名は今も行方不明という大規模な事故であるにもかかわらず、調査報告書が公表されたのは3年後で、しかもそこに書かれていたのは、3名の生存者をはじめとする関係者が首をかしげる内容だった――。』

第58寿和丸は、135トン、20名乗り組みの漁船です。その日、第58寿和丸は、千葉県の犬吠埼からおよそ350km沖の太平洋でカツオの群れを追っていました。この朝は群れを追うのが難しく、追尾を中断して乗組員を休ませることにしました。パラシュート・アンカーによる漂泊(パラ泊)です。船首側の海中にパラシュートを広げ、水の抵抗を使って船首を風上に向けます。横波を受けにくくすることができます。そのとき、風速は10~11メートル、波は3メートルと記録され、漁ができないほどの天候ではありません。乗組員は船内でくつろいでいました。

午後1時10分頃。
右舷前方から「ドスン」という衝撃を感じ、わずかに船体が右へ傾きます。その7~8秒後、「ドスッ」「バキッ」が重なるような衝撃を受けました。船体の右傾斜が増します。
波を受けて右甲板に水が入ったための傾斜であれば、そのうち放水口から水が抜けて復元するはずですが、船の傾きが増しています。「転覆する!」と感じました。
ブリッジから見ると、船体はやや前のめり、右舷側に傾斜していますが、海水は甲板上に入っていませんでした。
最初の衝撃から1~2分、一気に右傾斜が増しました。何人かが船から脱出しました。
船体が右へ、さらに大きく傾き、左舷側が天高く持ち上がり、転覆しました。

第58寿和丸の僚船が、近くで同じようにパラ泊中でした。第6寿和丸の船長がレーダーを覗くと、第58寿和丸がはっきりと映りません。双眼鏡で確認すると、第58寿和丸が転覆し、茶色い船体をさらしているのが確認できました。レーダーでは、パラ泊中の僚船以外には映っていません。
近くの僚船は直ちに、パラ泊を中断して救助に向かいました。

転覆した船の乗組員のうち、3名が助かりました。3名がレッコボートというボートに乗り込もうとするとき、乗組員たちは全身が油で真っ黒になっていました。

僚船が到着したとき、数人の仲間が油まみれになって海に浮かんでいました。海は油で真っ黒になっていました。仲間を救助しようとすると、油で滑って引き上げられません。結局、油まみれになった4人の遺体を収容しました。

《事故原因調査》
刑事責任については、福島海上保安部が業務上過失致死罪で漁労長を書類送検しましたが、福島地検は被疑者死亡で不起訴としました。刑事司法面からの原因究明は公の場で行われませんでした。

そのため、原因究明の場は、運輸安全委員会のみになります。
国交省所管の運輸安全委員会は、2007年12月、それまでの「航空・鉄道事故調査委員会」と海難審判庁の事故調査部門が統合する形で新設が決まりました。実際の発足は2008年10月です。運輸安全委員会は懲罰ではなく、事故から「教訓」を得て、再発防止に役立てることを大義名分に掲げています。
第58寿和丸の事故調査は、機構改革の実施をまたいで新旧の調査機関が担うことになりました。
当初は、海難審判庁横浜地方海難審判理事所でした。2008年7月の新聞記事では、事故原因として当初は三角波の可能性が指摘されていたが、横浜理事所は、①三角波を見た者がいない、②救助された乗組員は「体験したことのない衝撃を機関室の右舷船底部から受け、急激に右舷側に傾き沈んだ」と証言している、③機関室下の燃料タンクから漏れたとみられるA重油が海面に多量に浮いていた---といったことが明らかになったとし、「理事所関係者は衝撃でタンクが破損したとみている」と結んでいました。
別の記事では「潜水艦衝突の可能性」にまで踏み込んでいます。

組織が変わり、新しい運輸安全委員会による調査報告書は、事故から3年後に出されました。調査報告書で、事故原因は以下のように記述されていました。
---
パラ泊中、船の重心が標準状態より高く、かつ右舷側への初期横傾斜が生じた状態であった。
そのため、大波を右舷前方の舷側に受けて海水が打ち込み、船首甲板に停滞して船首が沈下するとともに右傾斜が増大し、右舷から波が連続して打ち込んでさらに傾斜が増大し、右舷側が没水して復元することなく転覆した。
(油について)
事故報告書は、燃料の流出量について推定で「約15~23リットル」、つまり18リットルの一斗缶一つ程度としています。
この点は、目撃者の証言を完全に無視した結論となっています。
(船の重心が標準状態より高く、かつ右舷側への初期横傾斜が生じた状態であった点について)
①大量のロープ等を操舵室の天蓋に積載した
②チェーン、網、浮き子の積みつけが原因となってはじめから船体が右舷側に傾斜していた
③②のため、船体の動揺により漁網が右舷側に横移動し、バランスを崩した
④放水口が機能していなかった
ところが、①~④のポイントは当事者たちの証言とことごとく食い違います。

生存者,目撃者の証言を尊重して事故原因を考えると、「2度の衝撃により、船底に重大な損傷が発生し、大量の重油が流出するとともに、右舷側船底部に大量の水が浸入し、早期の転覆に至った」という結論になります。
この場合、「2度の衝撃により、船底に重大な損傷が発生」の原因は何なのか、を検証する必要が生じますが、考えられる原因としては「潜水艦の衝突」ぐらいしか思い浮かびません。これでは、運輸安全委員会の報告書にならないのでしょう。

一方、「波が原因であった」との結論であれば、一件落着です。
ただし、その結論に至るためには、生存者,目撃者の証言を無視しなければなりません。
パラ泊中の135トンの船が、波によって短時間で転覆するためには、その過程で船がもみくちゃにされるような波を受けていなければなりませんが、生存者はそんな波を記憶していません。
「船の重心が高くかつ右に寄っていた」などの仮定、「放水口が塞がっていた」との仮定も、「波が原因であった」とするために必要な前提なのでしょうが、何ら実証されていません。当事者は「そんなことはあり得ない」と主張しています。
油の流出量は一斗缶1個程度、との仮定も、生存者、目撃者の証言と大きく食い違っています。
運輸安全委員会の結論は、これら証言を無視することによって初めて成立しているのです。

本の著者は、「潜水艦衝突説」の可能性について取材を進めています。
2001年のえひめ丸事故において、急浮上した米海軍潜水艦の左舷側がえひめ丸に接触し、その後、船尾の縦舵(垂直尾翼)がえひめ丸を切り裂きました。
1981年には、日本の貨物船「日昇丸」に対する米原子力潜水艦「ジョージ・ワシントン」の当て逃げ事件もありました。
専門家に取材の結果、パラ泊(エンジン停止)中の第58寿和丸が潜水艦と衝突したのだとしたら、エンジン停止のため潜水艦はソナーで事前に検知できず、まず潜水艦のセイル(司令塔)がぶつかり、次いで急速潜行しようとして潜水艦の船尾が持ち上がり、潜水艦の縦舵(垂直尾翼)が船体を切り裂き、今回の事故に至る可能性はある、ということがわかりました。

著者の伊澤理江さんは、長い期間をかけ、膨大な資料調査と当事者・関係者・専門家に対する取材を行い、ここまでの解明を行ってきました。
運輸安全委員会報告書の「波が原因で転覆した」との論理が破綻していることは明らかでしょう。
一方で、では原因は何なのか、という点では、潜水艦衝突説が上がっているのみで、仮説に過ぎません。
それにしても、このようにして伊澤さんの著作として公になったので、少なくともこの著作がスタートポイントとなりました。さらなる進展は期待できないかもしれませんが、ここまでで大きな進展があったことは明らかです。伊澤さんに感謝したいと思います。
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原発処理水と福島県漁連野崎哲氏

2023-07-15 20:52:05 | 歴史・社会
全漁連「放出反対変わらず」 原発処理水で経産相に
2023年7月15日 日経新聞
『西村康稔経済産業相は14日、都内で全国漁業協同組合連合会の坂本雅信会長と面会した。政府が8月にも始める東京電力福島第1原子力発電所の処理水の海洋放出への理解を求めた。坂本氏は「現時点で処理水の放出は反対だという立場は変わっていない」と伝えた。』
『西村氏は11日に福島県に出向いて同県漁連の野崎哲会長らと面会した。6月に続いて2ヶ月連続で現地を訪れたが、処理水放出への理解は得られなかった。
政府と東電は15年に福島県漁連と「関係者の理解なしにはいかなる処分もしない」と約束した。政府は現在も約束を遵守するとの立場を変えていない。』

私は最近、以下の本を読んでいます。
黒い海 伊澤理江著

『2008年、千葉県の犬吠埼からおよそ350km沖の太平洋で、碇泊中の漁船「第58寿和丸」が突如水没した海難事故。4名が死亡し、13名は今も行方不明という大規模な事故であるにもかかわらず、調査報告書が公表されたのは3年後で、しかもそこに書かれていたのは、3名の生存者をはじめとする関係者が首をかしげる内容だった――。』

この内容についてブログ記事に挙げたいと思いつつ、まだできていません。
この「第58寿和丸」が属する漁業会社が酢屋商店であり、その社長が野崎哲さんです。そう、上記記事の福島県漁連会長その人です。

この本の主題である「第58寿和丸」の沈没事故が2008年、そして震災と福島原発事故が2011年です。野崎さんは、「第58寿和丸」沈没事故の原因究明がままならない中、原発事故とその後の漁業補償交渉の渦中に放り込まれました。

書籍「黒い海」でも、福島県漁連会長としての野崎氏が描かれています。
『野崎は言った。
「廃炉はどうするかという問題を突きつけられれば、反対ばかりもしていられない。でも、反対という漁業者の立ち位置はどうしても変えられない。『だったら(海洋放出を)やる側の責任で判断してくれ』というところまで、われわれは膝を屈してきた』
『野崎はつまり、次のように言っているのだ。
----自分たちは放出反対の姿勢を崩せないが、絶対反対と言い張って抗議活動をやったり、対抗措置を取ったりしたとしても物事は前に進んでいかない。一方で、廃炉に至らない限り、福島の本当の復興はない。廃炉を進めるには汚染水問題を片付けなければならないことも分かっている。
では、海で生きてきた漁師はどうしたらいいのか。汚染水の陸上保管をこれ以上増やせないのかとか、どこか遠くの処理場所へタンカーで運べないのかとか、自分たちは別の考え方も出してきた。それらが法律や国際条約などの問題で難しいことも分かった。しかし、国による検討の結果として海洋放出以外に手段がないというのであれば、放出の是非を福島の漁業者に迫らないでほしい。国・東電が結果を含めてすべてを引き受けで自らの責任で決定するののが本筋ではないか。漁業者に国策決定の荷を背負わせるな----と。』

野崎さんの言うとおりです。新聞記事にあるように、『政府と東電は15年に福島県漁連と「関係者の理解なしにはいかなる処分もしない」と約束』しました。これはまさに、責任を福島県漁連に背負わせるということです。福島県漁連が「うん」と言ったら、国は「漁業者の了解が得られた」と大手を振って行動に出るでしょう。国がいい子になろうとしています。しかし、地元の漁業者が本心からOKを出すはずがありません。あくまで、「理性で考えたらノーとはいえない。」という苦渋の判断です。

国は、地元にそのような重荷を背負わせるべきではありません。地元がノーと言い続けたとしても、国が判断して放出を行うべきです。国が悪者になればいいのです。
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小樽訪問

2023-07-10 21:58:39 | 趣味・読書
7月10日、札幌からの日帰りで小樽を妻とともに訪問しました。


JR函館本線の小樽駅を降り、海岸に向けて東方向に歩きます。ほどなく、鉄道の廃線が見えてきました。

廃線
<旧手宮線>とあります。1880(明治13)年、北海道で最初、日本で3番目の鉄道として(一部)開通しました。幌内(三笠市)の炭山から石炭を港のある小樽市へ運ぶために敷かれた鉄道、とあります。
1962年旅客としての営業を廃止、1985年には路線自体が廃止となりました。

廃線

さらに海岸に向けて歩くと、小樽運河に到達します(下2枚の写真)。

小樽運河


小樽運河

ウィキによると、
小樽運河は、沖合いの貨物船と陸の倉庫の間の運搬を艀(はしけ)で行うに際し、艀が倉庫の近くまで直接行けるために建設した水路でした。戦後になると港に埠頭が整備されて運河は使命を終えました。
1966年、小樽市内の交通渋滞緩和を目的として、運河の埋立てと倉庫群の解体が計画されました。これに対して反対論が巻き起こりました。最終的に、当時の北海道知事・横路孝弘氏が、運河の幅の半分を埋立てて道路とし、残りはポケットパークの配置や散策路を整備する折衷案の支持を示し、議論が決着して1986年(昭和61年)に現在の姿となりました。運河の幅の半分を埋め立てた部分が、車道の拡幅と、遊歩道になりました。この遊歩道から、運河対岸の倉庫群を見ることができるようになり、観光スポットに生まれ変わったとのことです。

運河の南端付近から西に向かいます。
途中に日銀旧小樽支店があります(下写真)。内部は金融資料館になっているようです。今回は素通りしました。

日銀旧小樽支店

昼食はおたる政寿司本店でいただきました。予約せずに訪問したので、待ち時間は1時間ほどでした。いただいたのは特選海鮮丼です。

海鮮丼

こうして、駆け足の小樽訪問が終了し、札幌へと帰りました。
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札幌・月寒公園

2023-07-05 21:49:58 | 趣味・読書
私の現在の居住地が札幌市の南東部で、近くを望月寒川(もつきさむかわ)が流れています。望月寒川を南西にたどると、月寒公園に至ります。
先日、月寒公園を訪れました。

下の案内図で、公園の北東端、こどもひろばのあたりから敷地内に入りました

月寒公園案内図

まずは、⑪阿部與之助の威徳を表する碑です(下写真)。
説明書きによると、山形県出身の阿部與之助は、明治5年に30才前後で身一つで北海道に渡り、豊平町(月寒公園の近く?)に住み着き、夫婦力を合わせて働きながら土地を少しずつ買い増し、10年もたたないうちに広大な田畑を所有する地主になりました。
さらに、郷里から農民を誘致して入植させ、稲作を奨励し、用水路建設に多くの私費を投じました。

⑪阿部與之助の威徳を表する碑

歴史の森を歩きます(下写真)。


⑨吉田善太郎功労碑
豊平町開町50年にあたる大正9年に建てられました。
善太郎は父が南部藩の旧士族で、善太郎は明治の初め、10歳で父とともに月寒組開拓団に加わって北海道に移住しました。20歳で父が亡くなり、その後も農業開拓の努力を惜しみません。善太郎の業績として、6kmに対する水田用水路を造り上げました。大正2年の凶作のときは、所有地を抵当に資金を作り、農民を助けました。
⑩開町五十年記念碑
大正2年に建てられました。

⑨吉田善太郎功労碑
⑩開町五十年記念碑


月寒神社

日露戦争で戦死した旧豊平町出身の兵士の霊を慰めるため、大正8年に建てられました。日露戦争では、月寒の第7師団は旅順要塞の攻防戦に参加し、多数の犠牲者を出しました。

⑧忠魂碑

下写真、左下の看板には「キツネは野生動物です。一定の距離を置いて見守りましょう」と記載されています。


月寒開基百年にあたる昭和45年に建てられました。

⑥月寒開基百年之碑




ボート池


坂下野球場

月寒の丘から滑り降りる滑り台です。

滑り台

月寒(つきさむ)の地名は、もともとアイヌ語の「つきさっぷ」に由来します。私が学生の頃、50年ほど前ですが、東京に在住していた私も、札幌のつきさっぷを知っていました。札幌を訪問したときにも、つきさっぷ公園を訪れたような記憶があります。つまり、道外から札幌を訪問する旅行者にとって、「つきさっぷ」は観光スポットだったはずです。
ところが、今回訪問してみたら、月寒公園は、地元の人が利用する公園に過ぎず、札幌の重要な観光スポットにはなっていないようでした。50年前になぜ私が「つきさっぷ」を知っていたのか、今回ネットで調べてみましたが根拠は見いだせませんでした。
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