日経新聞・私の履歴書・3月は、島精機製作所会長・島正博氏です。
ウィキペディアでは、「日本の実業家・発明家。島精機製作所代表取締役会長」と紹介されています。
1938年生まれで、和歌山市で生まれ育っています。終戦時にも和歌山市在住で、和歌山市の空襲も体験しました。
戦争中にお父様が戦死されています。空襲のとき、戦後すぐ、まだ島さんは小学校2年生です。空襲で逃げる途中、あやうく焼夷弾の直撃を受けるところでした。自宅は焼失し、小2の島さんは一家の大黒柱となります。
焼け跡の廃材を用いてバラックの家を作る、空き地に野菜を植えて食料とする、戦死した父親が残してくれた手袋編み機を使って、母親と一緒に手袋作りの内職を行う、など、本当に小学生なの?とびっくりするような活躍ぶりです。
生活保護を受けていましたが、隣家の池永製作所の支援も受け、県立和歌山工業高校に進学し卒業しました。
当時の作業用手袋は、手首のところにゴムが入っておらず、編み目を減らして絞っていました。緊急時に手袋が脱げないので機械に巻き込まれる事故の原因となっていました。島少年は、「手首のところをゴムにすれば良いのだ」と着想し、実用化しました。
ここまでは、私が新聞のスクラップを残していないので、記憶に基づく記載です。ここからは、スクラップをもとに書き残します。
1955年、ゴム入り安全手袋の実用新案登録出願しました。一度は拒絶されますが、つてを頼って資金支援を受け、不服審判の末に登録になりました。ところが話はここで終わらず、「同じ構造の手袋をすでに製造・販売している」と連絡してきたUに騙され、知らないうちに権利の名義人を取られ、あったはずの利益もすっかり消えていました。(第7回)
奥様の和代さん、高校のハンドボール選手として国体に2度出場するなど、地元では有名なスポーツ選手でした。島さんの実家の近くに和代さんの実姉が経営する美容室がありました。「時折手伝いに訪れ、周囲の雰囲気をぱっと明るくする快活さに惹かれるようになった。ただ、・・・和代はあまり良い印象を抱いていなかったようだ。」
ようやくデートに誘い出すようにはなりましたが、和代さんは「こんな人と結婚するとは絶対思わなかった」との気持ちだったそうです。それが結婚することになったのにはいきさつがあるのですが、島さんとしては、実用新案に基づく収益で立派な一軒家を建てるつもりでした。それがUに騙されて夢は潰えました。
『バラック立ての家に住み続けることになった顛末を話した時の和代の言葉は忘れられない。
「私は、そんなほんまにあるかどうかも分からんおカネ、ハナから当てにしてへん。きれいな家に住めるから、あんたと結婚しようと思うたわけやない」
あっけらかんとこう言ったのである。』(第8回)
島さんは半自動の手袋編み機を完成して、知人らと会社を興しました(第9回)。しかし島さんはそれでは満足せず、別会社(今の島精機製作所)を興して、全自動の手袋編み機を考案しました(第10回)。ところが、新型の全自動手袋編み機がうまく作動しません。借金が膨れ上がり、60万円の手形の決済が迫りました。当時、社長の島さんと資金繰り担当の専務さんは、自殺の場合でも保険金が下りる生命保険に加入していました。もう、二人して電車に飛び込むしかない。(第10回)
そんな1964年のクリスマスイブ、奇跡が起こりました。見知らぬ初老の紳士が島さんを訪ねてきたのです。風呂敷包みから現金100万円を取り出し、「明日の決済に間に合うようにカネを持ってきたで。」と言いました。紳士は大阪で金属加工の会社をやっている上硲(かみさこ)俊雄さんでした。仕掛け人は当時の和歌山県経済部長(後の知事)の仮谷志良さんで、ひそかに部下で中小企業診断士の田村徹さんにスポンサー探しを依頼していたのです。
こうして目の前が一気に開け、島さんはさらに1週間、一睡もせずに、大晦日に全自動角形手袋編み機が完成したのです。
さらに島さんは、1月3日に会社で展示会を開くことを決めました。(第12回)
この頃(1964年頃)、アパレル製品製造の自動編み機は海外の有力メーカーが開発済みでしたが、衿の部分だけは自動化が困難でした。島さんは、全自動フルファッション衿編み機(FAC)の開発に乗り出します。島さんは次々にアイデアを生み出しました。島さんは短時間で完成させるため、機械全体の設計図は島さんの頭の中にとどめ、開発が進むのに合わせて各部位の図面ができていくようにしました。設計変更のたびに図面を描き直す手間を省くためです。(第15回)
脇道に逸れますが、弁理士業において、機械の特許明細書の作成に際し、普通はまず図面を完成し、それから文章作成に入るようです。私は、図面は私の頭の中にとどめ、明細書の文章執筆が進むのに合わせて図面ができあがる手順を踏んでおり、人とは違うやり方です。その点では島さんと共通点を感じますが、島さんは世界初の機械を開発しているのですから、規模は全く異なっています。
1967年6月にスイスで開かれる国際繊維機械見本市(ITMA)の前に新鋭機を発表しようと頑張りました。ところが、FACは柄やサイズの変更などに対応するために構造が複雑で、最後の一週間はまたもや徹夜になりました。問題なく機械が動き出したのは発表会当日の朝でした。その1週間後、島さんはスイスに飛び、ITMAの会場に乗り込みました。(第16回)
「FACに搭載したストローク幅の小さいキャリッジはもちろん、編み針の摩耗を防ぎかつ動きを円滑にするニードルベッド(複数の針の格納庫)は熱処理された特殊鋼のプレートをインサート。キャリッジ内のピッカーで編み目を増減させる装置など個別の技術も高い評価を受けた。」(第17回)
76年春、石川県にある石川製作所の工場見学に招かれ、たまたま覗いた印刷機械の3原色(マゼンタ、シアン、イエロー)の粒子から目が離せなくなりました。
『オフセット印刷が写真のように見えるのが不思議だったが、3原色の組み合わせだったのだ。約2時間ルーペで覗き込みながら、「編み方の基本と一緒や。応用すれば3次元のコンピューター言語ができるかもしれない」と閃いた。』(第21回)
1979年、NASAが公開入札で払い下げた3枚のコンピューターグラファックス(CG)ボードの1枚を1500万円で落札し入手しました。
これも役に立ち、シマトロニックデザインシステム(SDS)が81年に完成しました。5年前の3原色のインスピレーションが結実したものであり、『ニット、タック、ミスの編み物の3動作をパンチカードや紙テープを使わず、プログラミングコードで読み込ませた。いわばニット製品デザインのCAD(コンピューターによる設計)システムである。欧州各社も追随できないシステムの完成により、以後編み機の世界トップメーカーとしての評価が定着していく。』
一方、CGシステムはその後、独立した事業部門に育っていきました。(第22回)
ブラックマンデーが起きたのは87年10月です。
『「潮目が変わる」。・・・予感通り、横編み機の出荷はピタリと止んだ。』
メーカー各社は編み機のパワーやスピードを競っていましたが、実はユーザー側が欲していたのはコンパクトな小型機だったのです。(第25回)
基本コンセプトをコンパクト化に切り替えた「第2世代」のコンピューター横編み機「SES」が完成したのは1988年末です。さらにデジタルステッチコントロールシステム(糸を均等に編み機に送り込む装置)を使用し、島精機のシェアは大きくアップしました。
バブル崩壊後のアパレル各社は、人件費の安い中国へ製造拠点を移す動きを加速しました。「ニット製品の地産地消」の道はないのか。行き着いた結論が「完全無縫製ホールガーメント機」の開発です。すでに要素技術は開発済みであり、いつ世に出すか、タイミングの問題でした。95年にホールガーメント機の1号機となる「SWG-X」を発表し、「東洋のマジック」と賞されました。(第26回)
初代「SWG-X」は、無縫製だが立体感がいまひとつでした。弱点は編み針です。1847年にイギリス・タウンゼントが発明したラッチニードルではなく、当初はコンパウンドニードル(複合針)を使っていました。
2年間考えてスライドニードルを生み出しました。「針本体に2枚組みのスライダーを取り付け、針本体の上下動とスライダーの上下動を個々に制御。この新型針を搭載したニードルベッドを上段の前後と下段の前後に2セットずつ設置し、この4枚のベッドをフルに活用して編んでいく。」「デザインや柄のバリエーションが無限大に広がると言っても過言ではない。」
このスライドニードルを思いついたのは、97年に和歌山市内のホテルで開かれた懇談会の席上です。県の説明の最中、ふと新しい針の構造が閃いたのです。「忘れちゃいかん」と手元の封筒の裏に針のイラストや構造図を必死に書き込みました。
スライドニードルはタウンゼントの発明以来「150年ぶりの針の革命」といわれました。
99年、スライドニードル搭載のホールガーメント機が登場すると、世界の高級ブランド各社が次々に新型機導入に踏み切っていきました。(第27回)
島家の資産管理会社として設立した和島興産。社長は島さんの妻の和代さんです。和歌山放送からラジオのパーソナリティーをやって欲しいと声が掛かり、「ホエール和代のワンダフルわ~るど」が始まりました。06年から6年間続きました。
『いつも元気だった妻が突然病に伏したのは13年3月。温泉旅行から帰って「なんや疲れたな」と口にした後に寝込み、その後内臓疾患や不整脈も重なり、5月上旬に帰らぬ人に。私の心にポッカリ穴が開いてしまった。』(第29回)
この3月は、毎日の私の履歴書が楽しみな1ヶ月でした。私もかつて発明者の端くれで、現在は顧客がなした発明を権利化する仕事をしている者です。類い希な発明家としての島さんの来歴を辿ることができ、わくわくするとともに、翌日の朝刊が待ち遠しい日々でした。
これからの日本でも、島さんのような発明スピリットと発明能力を備えた若者が次々と出現し、その若者たちを育てる環境が日本に備わることを、切に願うものです。
ウィキペディアでは、「日本の実業家・発明家。島精機製作所代表取締役会長」と紹介されています。
1938年生まれで、和歌山市で生まれ育っています。終戦時にも和歌山市在住で、和歌山市の空襲も体験しました。
戦争中にお父様が戦死されています。空襲のとき、戦後すぐ、まだ島さんは小学校2年生です。空襲で逃げる途中、あやうく焼夷弾の直撃を受けるところでした。自宅は焼失し、小2の島さんは一家の大黒柱となります。
焼け跡の廃材を用いてバラックの家を作る、空き地に野菜を植えて食料とする、戦死した父親が残してくれた手袋編み機を使って、母親と一緒に手袋作りの内職を行う、など、本当に小学生なの?とびっくりするような活躍ぶりです。
生活保護を受けていましたが、隣家の池永製作所の支援も受け、県立和歌山工業高校に進学し卒業しました。
当時の作業用手袋は、手首のところにゴムが入っておらず、編み目を減らして絞っていました。緊急時に手袋が脱げないので機械に巻き込まれる事故の原因となっていました。島少年は、「手首のところをゴムにすれば良いのだ」と着想し、実用化しました。
ここまでは、私が新聞のスクラップを残していないので、記憶に基づく記載です。ここからは、スクラップをもとに書き残します。
1955年、ゴム入り安全手袋の実用新案登録出願しました。一度は拒絶されますが、つてを頼って資金支援を受け、不服審判の末に登録になりました。ところが話はここで終わらず、「同じ構造の手袋をすでに製造・販売している」と連絡してきたUに騙され、知らないうちに権利の名義人を取られ、あったはずの利益もすっかり消えていました。(第7回)
奥様の和代さん、高校のハンドボール選手として国体に2度出場するなど、地元では有名なスポーツ選手でした。島さんの実家の近くに和代さんの実姉が経営する美容室がありました。「時折手伝いに訪れ、周囲の雰囲気をぱっと明るくする快活さに惹かれるようになった。ただ、・・・和代はあまり良い印象を抱いていなかったようだ。」
ようやくデートに誘い出すようにはなりましたが、和代さんは「こんな人と結婚するとは絶対思わなかった」との気持ちだったそうです。それが結婚することになったのにはいきさつがあるのですが、島さんとしては、実用新案に基づく収益で立派な一軒家を建てるつもりでした。それがUに騙されて夢は潰えました。
『バラック立ての家に住み続けることになった顛末を話した時の和代の言葉は忘れられない。
「私は、そんなほんまにあるかどうかも分からんおカネ、ハナから当てにしてへん。きれいな家に住めるから、あんたと結婚しようと思うたわけやない」
あっけらかんとこう言ったのである。』(第8回)
島さんは半自動の手袋編み機を完成して、知人らと会社を興しました(第9回)。しかし島さんはそれでは満足せず、別会社(今の島精機製作所)を興して、全自動の手袋編み機を考案しました(第10回)。ところが、新型の全自動手袋編み機がうまく作動しません。借金が膨れ上がり、60万円の手形の決済が迫りました。当時、社長の島さんと資金繰り担当の専務さんは、自殺の場合でも保険金が下りる生命保険に加入していました。もう、二人して電車に飛び込むしかない。(第10回)
そんな1964年のクリスマスイブ、奇跡が起こりました。見知らぬ初老の紳士が島さんを訪ねてきたのです。風呂敷包みから現金100万円を取り出し、「明日の決済に間に合うようにカネを持ってきたで。」と言いました。紳士は大阪で金属加工の会社をやっている上硲(かみさこ)俊雄さんでした。仕掛け人は当時の和歌山県経済部長(後の知事)の仮谷志良さんで、ひそかに部下で中小企業診断士の田村徹さんにスポンサー探しを依頼していたのです。
こうして目の前が一気に開け、島さんはさらに1週間、一睡もせずに、大晦日に全自動角形手袋編み機が完成したのです。
さらに島さんは、1月3日に会社で展示会を開くことを決めました。(第12回)
この頃(1964年頃)、アパレル製品製造の自動編み機は海外の有力メーカーが開発済みでしたが、衿の部分だけは自動化が困難でした。島さんは、全自動フルファッション衿編み機(FAC)の開発に乗り出します。島さんは次々にアイデアを生み出しました。島さんは短時間で完成させるため、機械全体の設計図は島さんの頭の中にとどめ、開発が進むのに合わせて各部位の図面ができていくようにしました。設計変更のたびに図面を描き直す手間を省くためです。(第15回)
脇道に逸れますが、弁理士業において、機械の特許明細書の作成に際し、普通はまず図面を完成し、それから文章作成に入るようです。私は、図面は私の頭の中にとどめ、明細書の文章執筆が進むのに合わせて図面ができあがる手順を踏んでおり、人とは違うやり方です。その点では島さんと共通点を感じますが、島さんは世界初の機械を開発しているのですから、規模は全く異なっています。
1967年6月にスイスで開かれる国際繊維機械見本市(ITMA)の前に新鋭機を発表しようと頑張りました。ところが、FACは柄やサイズの変更などに対応するために構造が複雑で、最後の一週間はまたもや徹夜になりました。問題なく機械が動き出したのは発表会当日の朝でした。その1週間後、島さんはスイスに飛び、ITMAの会場に乗り込みました。(第16回)
「FACに搭載したストローク幅の小さいキャリッジはもちろん、編み針の摩耗を防ぎかつ動きを円滑にするニードルベッド(複数の針の格納庫)は熱処理された特殊鋼のプレートをインサート。キャリッジ内のピッカーで編み目を増減させる装置など個別の技術も高い評価を受けた。」(第17回)
76年春、石川県にある石川製作所の工場見学に招かれ、たまたま覗いた印刷機械の3原色(マゼンタ、シアン、イエロー)の粒子から目が離せなくなりました。
『オフセット印刷が写真のように見えるのが不思議だったが、3原色の組み合わせだったのだ。約2時間ルーペで覗き込みながら、「編み方の基本と一緒や。応用すれば3次元のコンピューター言語ができるかもしれない」と閃いた。』(第21回)
1979年、NASAが公開入札で払い下げた3枚のコンピューターグラファックス(CG)ボードの1枚を1500万円で落札し入手しました。
これも役に立ち、シマトロニックデザインシステム(SDS)が81年に完成しました。5年前の3原色のインスピレーションが結実したものであり、『ニット、タック、ミスの編み物の3動作をパンチカードや紙テープを使わず、プログラミングコードで読み込ませた。いわばニット製品デザインのCAD(コンピューターによる設計)システムである。欧州各社も追随できないシステムの完成により、以後編み機の世界トップメーカーとしての評価が定着していく。』
一方、CGシステムはその後、独立した事業部門に育っていきました。(第22回)
ブラックマンデーが起きたのは87年10月です。
『「潮目が変わる」。・・・予感通り、横編み機の出荷はピタリと止んだ。』
メーカー各社は編み機のパワーやスピードを競っていましたが、実はユーザー側が欲していたのはコンパクトな小型機だったのです。(第25回)
基本コンセプトをコンパクト化に切り替えた「第2世代」のコンピューター横編み機「SES」が完成したのは1988年末です。さらにデジタルステッチコントロールシステム(糸を均等に編み機に送り込む装置)を使用し、島精機のシェアは大きくアップしました。
バブル崩壊後のアパレル各社は、人件費の安い中国へ製造拠点を移す動きを加速しました。「ニット製品の地産地消」の道はないのか。行き着いた結論が「完全無縫製ホールガーメント機」の開発です。すでに要素技術は開発済みであり、いつ世に出すか、タイミングの問題でした。95年にホールガーメント機の1号機となる「SWG-X」を発表し、「東洋のマジック」と賞されました。(第26回)
初代「SWG-X」は、無縫製だが立体感がいまひとつでした。弱点は編み針です。1847年にイギリス・タウンゼントが発明したラッチニードルではなく、当初はコンパウンドニードル(複合針)を使っていました。
2年間考えてスライドニードルを生み出しました。「針本体に2枚組みのスライダーを取り付け、針本体の上下動とスライダーの上下動を個々に制御。この新型針を搭載したニードルベッドを上段の前後と下段の前後に2セットずつ設置し、この4枚のベッドをフルに活用して編んでいく。」「デザインや柄のバリエーションが無限大に広がると言っても過言ではない。」
このスライドニードルを思いついたのは、97年に和歌山市内のホテルで開かれた懇談会の席上です。県の説明の最中、ふと新しい針の構造が閃いたのです。「忘れちゃいかん」と手元の封筒の裏に針のイラストや構造図を必死に書き込みました。
スライドニードルはタウンゼントの発明以来「150年ぶりの針の革命」といわれました。
99年、スライドニードル搭載のホールガーメント機が登場すると、世界の高級ブランド各社が次々に新型機導入に踏み切っていきました。(第27回)
島家の資産管理会社として設立した和島興産。社長は島さんの妻の和代さんです。和歌山放送からラジオのパーソナリティーをやって欲しいと声が掛かり、「ホエール和代のワンダフルわ~るど」が始まりました。06年から6年間続きました。
『いつも元気だった妻が突然病に伏したのは13年3月。温泉旅行から帰って「なんや疲れたな」と口にした後に寝込み、その後内臓疾患や不整脈も重なり、5月上旬に帰らぬ人に。私の心にポッカリ穴が開いてしまった。』(第29回)
この3月は、毎日の私の履歴書が楽しみな1ヶ月でした。私もかつて発明者の端くれで、現在は顧客がなした発明を権利化する仕事をしている者です。類い希な発明家としての島さんの来歴を辿ることができ、わくわくするとともに、翌日の朝刊が待ち遠しい日々でした。
これからの日本でも、島さんのような発明スピリットと発明能力を備えた若者が次々と出現し、その若者たちを育てる環境が日本に備わることを、切に願うものです。