弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

私の履歴書・島正博氏

2021-03-31 18:59:12 | Weblog
日経新聞・私の履歴書・3月は、島精機製作所会長・島正博氏です。
ウィキペディアでは、「日本の実業家・発明家。島精機製作所代表取締役会長」と紹介されています。

1938年生まれで、和歌山市で生まれ育っています。終戦時にも和歌山市在住で、和歌山市の空襲も体験しました。
戦争中にお父様が戦死されています。空襲のとき、戦後すぐ、まだ島さんは小学校2年生です。空襲で逃げる途中、あやうく焼夷弾の直撃を受けるところでした。自宅は焼失し、小2の島さんは一家の大黒柱となります。
焼け跡の廃材を用いてバラックの家を作る、空き地に野菜を植えて食料とする、戦死した父親が残してくれた手袋編み機を使って、母親と一緒に手袋作りの内職を行う、など、本当に小学生なの?とびっくりするような活躍ぶりです。
生活保護を受けていましたが、隣家の池永製作所の支援も受け、県立和歌山工業高校に進学し卒業しました。

当時の作業用手袋は、手首のところにゴムが入っておらず、編み目を減らして絞っていました。緊急時に手袋が脱げないので機械に巻き込まれる事故の原因となっていました。島少年は、「手首のところをゴムにすれば良いのだ」と着想し、実用化しました。
ここまでは、私が新聞のスクラップを残していないので、記憶に基づく記載です。ここからは、スクラップをもとに書き残します。

1955年、ゴム入り安全手袋の実用新案登録出願しました。一度は拒絶されますが、つてを頼って資金支援を受け、不服審判の末に登録になりました。ところが話はここで終わらず、「同じ構造の手袋をすでに製造・販売している」と連絡してきたUに騙され、知らないうちに権利の名義人を取られ、あったはずの利益もすっかり消えていました。(第7回)

奥様の和代さん、高校のハンドボール選手として国体に2度出場するなど、地元では有名なスポーツ選手でした。島さんの実家の近くに和代さんの実姉が経営する美容室がありました。「時折手伝いに訪れ、周囲の雰囲気をぱっと明るくする快活さに惹かれるようになった。ただ、・・・和代はあまり良い印象を抱いていなかったようだ。」
ようやくデートに誘い出すようにはなりましたが、和代さんは「こんな人と結婚するとは絶対思わなかった」との気持ちだったそうです。それが結婚することになったのにはいきさつがあるのですが、島さんとしては、実用新案に基づく収益で立派な一軒家を建てるつもりでした。それがUに騙されて夢は潰えました。
『バラック立ての家に住み続けることになった顛末を話した時の和代の言葉は忘れられない。
「私は、そんなほんまにあるかどうかも分からんおカネ、ハナから当てにしてへん。きれいな家に住めるから、あんたと結婚しようと思うたわけやない」
あっけらかんとこう言ったのである。』(第8回

島さんは半自動の手袋編み機を完成して、知人らと会社を興しました(第9回)。しかし島さんはそれでは満足せず、別会社(今の島精機製作所)を興して、全自動の手袋編み機を考案しました(第10回)。ところが、新型の全自動手袋編み機がうまく作動しません。借金が膨れ上がり、60万円の手形の決済が迫りました。当時、社長の島さんと資金繰り担当の専務さんは、自殺の場合でも保険金が下りる生命保険に加入していました。もう、二人して電車に飛び込むしかない。(第10回)

そんな1964年のクリスマスイブ、奇跡が起こりました。見知らぬ初老の紳士が島さんを訪ねてきたのです。風呂敷包みから現金100万円を取り出し、「明日の決済に間に合うようにカネを持ってきたで。」と言いました。紳士は大阪で金属加工の会社をやっている上硲(かみさこ)俊雄さんでした。仕掛け人は当時の和歌山県経済部長(後の知事)の仮谷志良さんで、ひそかに部下で中小企業診断士の田村徹さんにスポンサー探しを依頼していたのです。
こうして目の前が一気に開け、島さんはさらに1週間、一睡もせずに、大晦日に全自動角形手袋編み機が完成したのです。
さらに島さんは、1月3日に会社で展示会を開くことを決めました。(第12回

この頃(1964年頃)、アパレル製品製造の自動編み機は海外の有力メーカーが開発済みでしたが、衿の部分だけは自動化が困難でした。島さんは、全自動フルファッション衿編み機(FAC)の開発に乗り出します。島さんは次々にアイデアを生み出しました。島さんは短時間で完成させるため、機械全体の設計図は島さんの頭の中にとどめ、開発が進むのに合わせて各部位の図面ができていくようにしました。設計変更のたびに図面を描き直す手間を省くためです。(第15回)

脇道に逸れますが、弁理士業において、機械の特許明細書の作成に際し、普通はまず図面を完成し、それから文章作成に入るようです。私は、図面は私の頭の中にとどめ、明細書の文章執筆が進むのに合わせて図面ができあがる手順を踏んでおり、人とは違うやり方です。その点では島さんと共通点を感じますが、島さんは世界初の機械を開発しているのですから、規模は全く異なっています。

1967年6月にスイスで開かれる国際繊維機械見本市(ITMA)の前に新鋭機を発表しようと頑張りました。ところが、FACは柄やサイズの変更などに対応するために構造が複雑で、最後の一週間はまたもや徹夜になりました。問題なく機械が動き出したのは発表会当日の朝でした。その1週間後、島さんはスイスに飛び、ITMAの会場に乗り込みました。(第16回

「FACに搭載したストローク幅の小さいキャリッジはもちろん、編み針の摩耗を防ぎかつ動きを円滑にするニードルベッド(複数の針の格納庫)は熱処理された特殊鋼のプレートをインサート。キャリッジ内のピッカーで編み目を増減させる装置など個別の技術も高い評価を受けた。」(第17回)

76年春、石川県にある石川製作所の工場見学に招かれ、たまたま覗いた印刷機械の3原色(マゼンタ、シアン、イエロー)の粒子から目が離せなくなりました。
『オフセット印刷が写真のように見えるのが不思議だったが、3原色の組み合わせだったのだ。約2時間ルーペで覗き込みながら、「編み方の基本と一緒や。応用すれば3次元のコンピューター言語ができるかもしれない」と閃いた。』(第21回)

1979年、NASAが公開入札で払い下げた3枚のコンピューターグラファックス(CG)ボードの1枚を1500万円で落札し入手しました。
これも役に立ち、シマトロニックデザインシステム(SDS)が81年に完成しました。5年前の3原色のインスピレーションが結実したものであり、『ニット、タック、ミスの編み物の3動作をパンチカードや紙テープを使わず、プログラミングコードで読み込ませた。いわばニット製品デザインのCAD(コンピューターによる設計)システムである。欧州各社も追随できないシステムの完成により、以後編み機の世界トップメーカーとしての評価が定着していく。』
一方、CGシステムはその後、独立した事業部門に育っていきました。(第22回

ブラックマンデーが起きたのは87年10月です。
『「潮目が変わる」。・・・予感通り、横編み機の出荷はピタリと止んだ。』
メーカー各社は編み機のパワーやスピードを競っていましたが、実はユーザー側が欲していたのはコンパクトな小型機だったのです。(第25回)

基本コンセプトをコンパクト化に切り替えた「第2世代」のコンピューター横編み機「SES」が完成したのは1988年末です。さらにデジタルステッチコントロールシステム(糸を均等に編み機に送り込む装置)を使用し、島精機のシェアは大きくアップしました。
バブル崩壊後のアパレル各社は、人件費の安い中国へ製造拠点を移す動きを加速しました。「ニット製品の地産地消」の道はないのか。行き着いた結論が「完全無縫製ホールガーメント機」の開発です。すでに要素技術は開発済みであり、いつ世に出すか、タイミングの問題でした。95年にホールガーメント機の1号機となる「SWG-X」を発表し、「東洋のマジック」と賞されました。(第26回

初代「SWG-X」は、無縫製だが立体感がいまひとつでした。弱点は編み針です。1847年にイギリス・タウンゼントが発明したラッチニードルではなく、当初はコンパウンドニードル(複合針)を使っていました。
2年間考えてスライドニードルを生み出しました。「針本体に2枚組みのスライダーを取り付け、針本体の上下動とスライダーの上下動を個々に制御。この新型針を搭載したニードルベッドを上段の前後と下段の前後に2セットずつ設置し、この4枚のベッドをフルに活用して編んでいく。」「デザインや柄のバリエーションが無限大に広がると言っても過言ではない。」
このスライドニードルを思いついたのは、97年に和歌山市内のホテルで開かれた懇談会の席上です。県の説明の最中、ふと新しい針の構造が閃いたのです。「忘れちゃいかん」と手元の封筒の裏に針のイラストや構造図を必死に書き込みました。
スライドニードルはタウンゼントの発明以来「150年ぶりの針の革命」といわれました。
99年、スライドニードル搭載のホールガーメント機が登場すると、世界の高級ブランド各社が次々に新型機導入に踏み切っていきました。(第27回

島家の資産管理会社として設立した和島興産。社長は島さんの妻の和代さんです。和歌山放送からラジオのパーソナリティーをやって欲しいと声が掛かり、「ホエール和代のワンダフルわ~るど」が始まりました。06年から6年間続きました。
『いつも元気だった妻が突然病に伏したのは13年3月。温泉旅行から帰って「なんや疲れたな」と口にした後に寝込み、その後内臓疾患や不整脈も重なり、5月上旬に帰らぬ人に。私の心にポッカリ穴が開いてしまった。』(第29回)

この3月は、毎日の私の履歴書が楽しみな1ヶ月でした。私もかつて発明者の端くれで、現在は顧客がなした発明を権利化する仕事をしている者です。類い希な発明家としての島さんの来歴を辿ることができ、わくわくするとともに、翌日の朝刊が待ち遠しい日々でした。
これからの日本でも、島さんのような発明スピリットと発明能力を備えた若者が次々と出現し、その若者たちを育てる環境が日本に備わることを、切に願うものです。
コメント (5)
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ウエスト・サイド物語

2021-03-28 15:17:58 | 趣味・読書
私がまだ小さかった頃に上映された映画で、観るチャンスがなかったけれども記憶に残っている映画があります。最近、そのような映画について、アマゾンプライムなどを使って観ています。
「ウエスト・サイド物語」もそのような映画の一つです。ただし、観たいと思ったときにアマゾンプライムには登録されていませんでした。そこでBlu-ray版を購入してあり、最近になって視てみました。
ウエスト・サイド物語 [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]


1960年代のアメリカ映画ですが、いろいろな気付きがあり、なかなか面白い経験でした。
映画「ウエスト・サイド物語」について私が鮮明に記憶しているのは、「この写真」です。写真の真ん中で踊っている俳優の名前(ジョージ・チャキリス)とともに、よく覚えています。
当時、映画を観た同級生は「踊りが衝撃的」と言っていたように記憶しています。
私が今回視た印象としては、「さほどでもないな」でした。1960年代から現代までの60年間に、踊りがものすごく進化したのがその理由です。間にマイケル・ジャクソンの登場もあり、踊りの質は圧倒的に向上したようです。

私自身ストーリーは全く知らなかったものの、劇中で歌われる「トゥナイト」「アメリカ」「マンボ」「マリア」などの歌は、私が少年だった当時に流行っていたので、記憶に残っていました。

ニューヨークのウエスト・サイドが舞台で、ポーランド系アメリカ人少年非行グループ・ジェット団と、プエルトリコ系アメリカ人の非行グループ・シャーク団との縄張り争いが軸になっています。

不思議に思ったこと
ニューヨークの下町の貧困層が主に暮らす地域が舞台なのですが、通行人を含め、黒人が全く見当たりませんでした。ニューヨークだったら人口に占める黒人の割合が多いはずなのですが。1960年代の当時は、貧困層とはいえ白人が住む市街と、黒人街とは、完全に隔絶されていたということでしょうか。
そういえば、1990年代に職場が用意した英会話教室に通っていた頃、講師は白人男性でしたが、「黒人の友人の車に同乗して黒人街に入るときは、狙撃されることを警戒して、車内で身を隠していた」と述べていました。やはり黒人街は隔絶されていたのですね。それにしても、白人街には通行人でさえ黒人が登場しない、というのは不自然ではありますが。

時代が変わったなと思ったこと
ジェット団、シャーク団いずれも、女性も含まれているのですが、いざ抗争が始まるとなると、「女たちは帰れ」と引き離されてしまいます。「危ないから下がっていろ」という意味ではなく、「女たちの出番ではない」といった感じでした。男女の役割分担が明確に定められていたようです。
ジェット団の中にジーパンをはいた女の子が一人、仲間に入りたがっているのですがなかなか相手にされていません。抗争が始まるとき、一緒に行こうとするのですが「スカートにはきかえろ」と言われて追い出されてしまいます。
そういえば、その女の子を除いて、女子は全員スカートでした。そういう時代だったのですね。隔世の感です。

英語のフレーズを一つ覚えました。
"Who knows?"
調べたら、意訳すると「知らねーよ」「分かるわけねーだろ」といった意味のようです。
主人公の一人が、誰かが述べた"Who knows?"からの連想で"Something's Coming"(何かが起こりそう)という歌を歌うのですね。
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法案の条文ミスはペーパーレスが原因ではないか

2021-03-26 16:05:22 | 歴史・社会
法案・条約ミス、20本に拡大 コロナで疲弊か、野党審議拒否も
3/25(木) 時事通信
『今国会の政府提出法案のうち、12府省庁の計20法案・条約の条文や関連資料にミスが判明した。
政府が24日、立憲民主党に報告した。野党は強く反発し、全法案の点検が済むまで、2021年度予算案などを除き審議に応じない構えだ。立て続くミスに与党からも苦言が相次いだ。
・・・
 与党からも厳しい声が上がっている。自民党の下村博文政調会長は会見で、各府省庁の責任者を党本部に呼んで厳重注意したと明かした上で「政府は緊張感がない」と非難。公明党の山口那津男代表も「度重なるミスは断じて許されない。与党への報告も迅速ではない」と声を荒らげた。
ただ、役所側にも事情があるようだ。内閣府職員は「コロナ対応のため職場の人数が少ない中で読み合わせをしなければいけなかった。リモートではやりにくい」と漏らす。立憲の蓮舫代表代行は会見で、働き方改革にも触れつつ「労働環境が相当過酷になっているのではないか」と指摘した。』

法案・条約ミス、23本に 厚労省でも新たに発覚
3/25(木) 時事通信
『厚生労働省は25日、今国会に提出した医療法、健康保険法の両改正案と、成立済みの改正新型インフルエンザ特別措置法にミスが見つかったと、立憲民主党に報告した。
これにより、政府提出法案・条約の条文、関連資料のミスは、13府省庁の計23本まで拡大した。』

法案・条約の条文や関連資料のミスが、特定の省庁で発生しているのではなく、あらゆる省庁でまんべんなく発生しているようです。これには、何か特定の理由があるとしか考えられません。「政府は緊張感がない」で解決する問題ではないでしょう。
『内閣府職員は「コロナ対応のため職場の人数が少ない中で読み合わせをしなければいけなかった。リモートではやりにくい」と漏らす。』とあります。
仕事のフローが、「職場に出勤して複数人数で読み合わせを行う」スタイルをベースとしており、リモートのこの1年間でも何らリモートに適した業務スタイルに転換できなかった、ということでしょうか。

「複数人数による読み合わせ」が必須、ということであれば、リモートでの在宅勤務は不可能、ということになります。本当にそうでしょうか。
リモートを前提とする以上、「在宅で執務スペースに書類を広げ、書類間の誤りを目で追いながら見つけていく」というスタイルに変更すべきです。特許事務所業界では昔からそうしています。事務所内において読み合わせの呪文が聞こえてくる、など、経験したことがありません。

私はむしろ、「従来は印刷物でチェックを行っていたが、在宅ではペーパーレスとなり、印刷物でのチェックをおろそかにした結果、ミスが多発した」ということではないかと危惧しています。
在宅勤務で、リビングの一隅を執務スペースとするような場合、プリンターを設置することができず、ディスプレイ画面内に表示した文書でチェックを行うことになりがちです。私は、これではチェックの精度が低下する、と信じています。
私の場合、自宅の執務スペースにレーザープリンターを設置し、事務所勤務時と変わらないほど頻繁に印刷を行い、書類のチェックは必ず印刷物で行うようにしています。

世の中では、「ペーパーレスなのだからディスプレイ画面でチェックすべきだ。」との圧力もあり、精度が不十分なペーパーレスチェックが強要されているのではないでしょうか。

p.s. 3/27
どうしても「複数人数で読み合わせを行う」スタイルをとりたいとしても、ウェブ会議方式で行えば、在宅でもできるではないですか。その場合も、目で追いかけるのはパソコン画面ではなく、デスクに広げた印刷物にすべきです。
どうしても印刷物でのチェックができず、パソコン画面でチェックを行う場合、そのパソコン画面がノートPCの小さな画面だったら最悪ですね。比較すべき2文書を並べて表示するなどとてもできないでしょう。
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コロナ対策政策立案能力

2021-03-21 20:33:05 | 歴史・社会
首都圏の緊急事態宣言を解除するに当たり、菅首相は5つの対策なるものを列挙しています。聞いていると、対策の項目は述べるものの、その具体的中身については何ら説明されません。どうも具体的中身は全く存在しない、と考えた方が良さそうです。つまり「絵に描いた餅」です。この1年間、日本政府の対応はずっとそうでした。

現在進行している問題を解決するに当たっては、問題の発生状況を解析し、どの要因が問題の原因になっているのかを抽出する必要があります。問題を支配している要因が見えてきたら、次に解決のための対応策を立案し、その対応策で問題が解決に向かうか、シミュレーションを行う必要があります。
ところが、報道を見る限りにおいては、日本政府はこのようなデータ解析も、シミュレーションも、全くといって良いほど行われていないようです。
データ解析やシミュレーションをタイムリーかつ効果的に行うためには、それなりの能力を備えた専門家のチームを結成し、チームとして遂行していくことが不可欠です。ところが、政府のコロナ対応部署には、このような有効なチームが全く存在していないように思います。

現在は専門家分科会や諮問委員会があるようですが、報道に接する限りでは、それぞれの委員は、会議に出席して意見を述べているだけのように見えます。決して、チームとしてデータを解析し、シミュレーションを行っているようには見えません。

有効なチームの結成と業務の執行は、だれが音頭をとって行うべきでしょうか。
まずは厚労大臣が指揮を執る厚労省ですが、厚労省は雑事で疲弊し、専門家としてデータ解析やシミュレーションを行う能力が全く機能していないように見られます。
西村康稔コロナ担当大臣の指揮下ではどうでしょうか。たまたま集められた少人数の官僚を酷使するばかりで、有効なチームを結成しようとする姿勢は見受けられません。

私は民間の製造会社に技術者として在籍し、製品製造に際しての品質の問題点を克服する業務にも携わってきました。品質を決定する上での、製造工程での要因がきちんとデータ採取できていれば良いですが、「これが要因ではないか」と推定するモデルを思いついたときに、その要因がデータとして採取できていないのであれば、データ採取を行うように業務を修正していかなければなりません。実際、品質不良の隠れていた原因を推測し、その要因をデータとして日々採取するように手配し、そのようにして採取したデータを解析した結果として、見事に問題を解決した経験もあります。

コロナ問題であれば、全国の現場においてデータが入力されます。専門家が知恵を絞って対策を検討するに際し、必要なデータが不足しているのであれば、現場においてそのデータを入力するように指令を発しなければ行けません。入力項目の増加は現場の混乱を増す要因ですから、よっぽど考え抜いて要因を絞り込む必要があります。

3月21日日経新聞の「風見鶏」に「データ後進国からの脱却」という記事があります。
『そもそも政府にデータを分析できる人が少ない、という根本的な問題もある。
感染データの説明で前面に出ているのは対策分科会の尾身茂会長。世界保健機関(WHO)などで働いた感染症の専門家で、政府の幹部ではない。尾身氏のほか医学者らがそれぞれの見方を出し合う。
データを用いた経済分析を専門とする米エール大助教授の成田悠輔氏は「政府内に政策効果を検証し将来を予測するデータ分析の組織がない」と指摘する。「米国では大統領経済諮問委員会(CEA)などで博士号を持つ研究者がフルタイムで分析する」と語る。
・・・
エビデンスに基づく政策立案はEBPM」と呼ばれる。
・・・
EBPMは政治家の思惑や勘、声の大きさがものをいう政策決定プロセスへのアンチテーゼでもある。データを活用できるかは政治の手法も問う。(佐藤賢)』

私のような門外漢ばかりでなく、専門家も同じように見ているのですね。
コロナ禍の1年が明らかにした日本政府の体たらく、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
内閣人事局制度を濫用したことが原因でしょうか(「強すぎる官邸」黙る霞ヶ関 2021-01-13参照)。
もっとも、第二次世界大戦時の日本帝国陸海軍も同じでしたから、問題は日本人が抱える宿痾かもしれませんが。
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菊池昇先生『研究者は2つの「E」を磨け』

2021-03-08 18:20:33 | Weblog
『研究者は2つの「E」を磨け』豊田中央研究所所長 菊池昇氏・3月5日・日経新聞
『私は東京工業大学で土木工学を学んだが、アルバイトで手掛けたコンピューターを使う模擬実験や可視化に魅了され、以来IT(情報技術)を駆使した工学を専門にしてきた。』

これは共感を得ました。
私(このブログの著者)は東京工業大学で機械物理工学を学びました。卒論・修論ではコンピュータを使った数値計算シミュレーションを行い、またアルバイトでもコンピュータプログラミングを手掛けました。コンピュータプログラミングに魅了されましたが、職業としては製鉄技術者を選び、その点では菊池氏と進路が分かれました。

私がはじめてコンピュータプログラミングの授業を受けたのは、学部の2年か3年のときでした。1968年頃でしょうか。「JIS FORTRAN 入門」という教科書を使い、大講義室でフォートランの基礎を教えてもらいました。私ははじめてコンピュータプログラミングというものに触れて、「こんな面白い世界があったのか」と引き入れられました。
当時は大型コンピュータしか存在しない時代で、大学にもまだ計算機センターは設置されておらず、実際にプログラムをコーディングして走らせることができません。たまたま私の知り合いがとある会社の電算部に勤務しており、その会社の大型コンピュータ(IBMシステム360)を使い、私がフォートランでコーディングしたプログラムを走らせてもらうことにしました。
当時、プログラムはパンチカードにパンチし、カードリーダーでマシンに読み込ませます。プログラムの1行が1枚のパンチカードです。100行のプログラムだったら100枚のカードの束です。

プログラミング言語としてPL/1という言語がありました。日本IBMがPL/1の講習会を開くという案内が大学に掲示されており、私は友人とともにその講習会に参加することにしました。プログラミングに触れるとあったら、何でもやってみたかったのです。
私がはじめてフォートランを走らせてもらった会社で、業務ソフトをPL/1でコーディングしていると聞き、アルバイトでプログラム作成をさせてもらえないかと交渉し、させてもらうことになりました。都合2本、PL/1を用いて業務用のプログラムを作成しました。

学部4年生と修士の2年間、丹生慶四郎先生のもとで流体力学の問題をコンピュータシミュレーションで数値計算を行う研究に専念しました。ちょうど東工大に計算機センターがはじめて設置されました。研究室のキーパンチ機を用いて自分でパンチカードにキーパンチし、そのパンチカードの束を計算機センターに預けると、翌朝に計算結果がプリントアウトされて出ている、というバッチ処理です。学部の卒論を論文投稿しました(J. Phys. Soc. Jpn. 32, p. 584 (1972))。

勤務先は、大学の研究室の専門とは関係のない、製鉄会社に勤めました。そこでも、新人研修時代に製鋼工場のDH真空脱ガス装置の担当となり、流体の挙動を数値シミュレーションで解くためにフォートランを駆使しました(学会発表:鐵と鋼 : 日本鐡鋼協會々誌 62 (11) S512 1976-09-03 社団法人日本鉄鋼協会、特許:特公昭57-022970)。会社の電算機は、同じくIBMのシステム360でした。
当時、「キーパンチャー」という職種がありました。プログラマーはコーディングシートに鉛筆でプログラムを書き起こし、それをキーパンチャーに渡してパンチカードにキーパンチしてもらうのです。ほぼ若い女性の職場でした。会社にもキーパンチャー室が設置されており、私も一度だけ、室内に入る機会がありました。
ちなみに、映画「男はつらいよ」(第1作)で、妹のさくらは独身時代、大手企業のキーパンチャーをやっていました。それを聞いた寅さんが「キーパン?」と問い返したことが印象的でした。

ところで、菊池昇先生は、調べると1977年に学部を卒業されています。ということは私の6年後輩ですね。まだパソコンの時代は到来していないものの、私の学生時代に比べたら電算機の環境もずいぶん進歩していたことでしょう。

菊池先生の記事『研究者は2つの「E」を磨け』に戻ります。
『「日本の研究者は自分の専門分野の中で研究を極める意識が強すぎる」と指摘する。解決には目的を達成する手段を意味する「イネーブラー」と新たに出現する様子を示す「エマージング」の2つのEが欠かせないと唱える。』
『日米で研究開発の運営に関わると、その環境や制度、そして研究者の考え方に多くの違いを感じる。』
米国で土木工学の研究者になぜ研究しているか問うと、社会でどのようにつながっているのかを想定した答えが返ってきます(イネーブラーとして研究がある)。日本の研究者は「自分のやりたいことが課題解決につながればうれしい」という思いが主で、研究の目的は個人的な趣味や自己実現を目指す内容に偏りがちだ、といいます。
エマージングに関しても、米国の研究者は新しい技術やアイデアなどにすぐ飛びつきます。日本の研究者は「専門の道を究めたい」という気持ちが勝っている、とのことです。
『日本の研究者の能力は素晴らしい。決定的に欠けているこの2つのEを身につければ、日本発のイノベーションを継続していけるだろう。』

日米の両方で研究をしている菊池先生には、日米の研究者の意識の違いが上記のように映っているのですね。
私もどちらかというと、自分を突き動かす原動力は「真理の探究」だとずっと感じています。菊池先生に言わせると「日本人そのもの」ということになるのでしょうか。
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津波の記憶

2021-03-07 10:52:23 | 歴史・社会
『のまれた「万里の長城」』3月3日・日経新聞
『田老地区はかつて、繰り返し東北地方を襲った大津波で最大級の被害を受けた。「悲劇を繰り返さぬように」と建設された全長2433メートルの巨大防潮堤は「万里の長城」と呼ばれ、津波対策のモデルとして全国に知られるようになった。』
『だが、大震災の大津波は「絶対大丈夫」と信じた防潮堤を破壊し、約180人の命を奪った。』

10年前の東日本大震災の前、田老地区に住む人たちは、本当に『防潮堤があるから絶対大丈夫』との認識だったのでしょうか。

私は震災のあった年の8月、このブログに以下の記事を上げました。
吉村昭「三陸海岸大津波」』2011-08-08
三陸海岸大津波 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
まえがきによると、吉村氏は何度か三陸海岸を旅しており、小説の舞台に三陸海岸を使ったことがありますが、いつの頃からか津波のことが妙に気にかかりだしたといいます。津波を調べはじめ、体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残しておきたい気持ちになり、この本ができあがったということです。昭和45年です。

内容は、明治29年の津波、昭和8年の津波、そしてチリ地震津波です。

今回の東日本大震災津波では、宮城県の被害が一番大きく、ついで岩手県と福島県でした。しかし明治と昭和の大津波では、岩手県が最大の被害だったようです。

田老町は、津波太郎(田老)という名称が町に冠せられるほどでした。

明治29年の震災時、田老地区は、23メートル余の高さをもつ津波に襲われて一戸残らずすべてが流出してしまいました。1859人が死亡し、陸上にあって生き残ったのは36名のみでした。
昭和8年の津波の高さはこの本に記載されていませんが、津波に洗われた地域の広さは、昭和8年時と今回の東日本大震災とでほぼ同じであるように見受けられます。

2度の大津波に被災したものの住民は田老を去らず、津波被害防止のために積極的な姿勢をとりました。昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、戦後になって堤防として出現しました。さらに新堤防を建設し、昭和33年に高さ最大7.7m(海面からの高さ10.6m)の新堤防を完成しました。

防潮堤は作ったものの、明治29年と昭和8年の津波の高さが地域の人々にきちんと伝承されていれば、『防潮堤があるから絶対大丈夫』などと安心しなかったはずです。

この本(2004年発行)の「解説」で高山文彦氏は『10年ばかり前、私は田老を訪れたことがある。異様なほどに巨大な防波堤が、視界をさえぎるように海にそそり立っていた。景観美をいちじるしく損ねる姿に閉口したけれども、それはただ過ぎ去るだけの旅人の独りよがりというものだ。20メートルをはるかに超える高さで押し寄せてくる大津波を、この防波堤がすべてくい止めることができるはずがない。海に生きる人びとは、津波の来襲を拒めない。いや、拒まないのである。』と記しています。
今回の大津波は、明治29年大津波と昭和8年大津波の記憶の想定内のできごとだったことがわかります。

この本の「再び文庫化にあたって(平成16年)」で吉村氏は、その3年前に岩手県の三陸海岸にある羅賀のホテルで津波の講演をした話を語っています。
『沿岸の市町村から多くの人びとが集まってきて、熱心に私の話を聞いてくださったが、話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。耳を傾けている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである。
「明治29年の6月15日夜の津波では、この羅賀に50メートルの高さの津波が押し寄せたのです」
私が言うと、人びとの顔に驚きの色が濃くうかび、おびえた目を海に向ける人もいた。』

明治29年と昭和8年に大被害を被った岩手県でさえ、その記憶を地元での生きた記憶として語り継ぐことには非常な困難が伴っていたことがわかります。

ただし、田老地区の全住民が『防潮堤があるから絶対大丈夫』と信じていたわけではないでしょう。10年前の津波では180人の命が奪われた(今回新聞記事)ということで、明治29年時の1859人からは遙かに少ないです。やはり大部分の人たちは、「絶対大丈夫」などと過信せず、高台に逃げていて助かったのでしょう。
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