弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

澤地久枝著「14歳(フォーティーン)」

2015-07-28 21:25:11 | 趣味・読書
14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還 (集英社新書)
澤地久枝
集英社

澤地久枝さんの著書として、私は「滄海(うみ)よ眠れ―ミッドウェー海戦の生と死〈1〉 (文春文庫)」を昔読みました。この本から得た、ミッドウェー海戦の印象は忘れることができません。

今年、澤地さんの「14歳〈フォーティーン〉」が出版されたということで、読んでみました。

澤地さんは終戦時、満州の吉林でご家族と暮らしていました。14歳の女学校生徒です。
「はじめに」から
『わたしの話は、昭和の初期のこと。そして、どうして好戦的な少女になったのか、恥ずかしくて、これまでずっとかくしてきた。戦争が終わって70年になるけれど、おのれの無知を愧(は)じながら、わたしは生きてきた。
戦争が終わったと聞いた瞬間、「ああ、神風は吹かなかった」と真面目に思った。戦争は勝つものと、一点の疑いもないような14歳、軍国少女だった。』
『誰だって、語りたくない人生経験を持っている。しかし、満州(中国東北部)から引き揚げてきた14歳から15歳の日々をいま、書いた方がいいと思うようになった。』

私はこのブログで2010年に「田崎清忠先生」として思い出を書きました。その中で、昭和一桁生まれについての私の考えを述べています。
『「昭和一桁世代」について私は以下のような仮説を立てています。
昭和一桁生まれということは、ティーンエージャーのときに終戦を経験しています。
これより早く生まれた人は、終戦時にすでに20歳を超えており、それなりに分別もついて敗戦も理性的に受け入れることができたようです。またこれより遅く生まれた人は、終戦時に10歳未満で「お腹いっぱい食べたい」という記憶しかないようです。
それに対し「昭和一桁世代」は、多感な年頃に終戦を迎え、終戦までは「軍国少年・軍国少女」で信じていたものが、終戦とともに価値観が180°転換して心に混乱を抱えたことがその後の人生に影響を及ぼしているように見受けられます。』

澤地さんも同じだったということになります。終戦時に14歳で軍国少女だったことは、日本中の14歳が同じだったのですから、何ら恥ずべきことではありません。しかし、澤地さんの心に負った傷は大きかったようです。

著書の中で、澤地さんご本人である主人公を「少女」と呼んでいます。
『アッツ島玉砕で衝撃を受けながら、少女はマーシャル諸島、サイパンと玉砕の報がつづいても、おどろいていない。戦争は死ぬものと思っている。自分もかならず死ぬ。負けるということなど、少女の頭をかすめもしない。』
このような心境こそが、終戦間際の日本人、特にティーンエージャーの共通認識であったと思っています。

終戦の前、少女たち女学校の生徒は、1ヶ月の泊まり込みで(満州の)開拓団に動員されます。少女は水曲柳村に行きました。開拓団の家は泥づくりであり、窓ガラスはなく、水道も電気もないことを、少女ははじめて知りました。1ヶ月で5軒の家を回りましたが、働き盛りの男手はひとりもいませんでした。
いわゆる「根こそぎ動員」ですね。当時、満州に展開していた関東軍は、精鋭も装備も南方に回してしまい、空っぽでした。そこに、満州開拓団の男手を根こそぎ動員して補充していたのです。開拓団に残された彼女たちがソ連軍侵攻後にどんな悲惨な運命をたどったか。

そして終戦です。
少女の一家は満鉄の社宅に暮らしていました。終戦後は同居家族が増え、9人が暮らしていました。そんな日の昼日中、ソ連軍将校が二人、その家に乱入するのです。少女はレイプされかけましたが無事に過ぎました。

昭和21年早々、吉林からソ連軍が引き揚げます。それに替わって、吉林は中国共産党軍の支配下に入りました。このときは治安が良好であったのか、少女はたいこ焼の店員に雇われ、その仕事をはじめています。

中国は国共内戦が始まっていました。
昭和21年4月以降、国府軍が吉林に押し寄せ、このとき国府軍の勝利に終わり、共産軍は松花江にふたつある橋を爆破して引いていきました。
『その夜から、国府軍軍人による「女狩り」がはじまる。』

昭和21年8月、少女一家は内地に引き揚げることになります。無蓋貨車に乗り、吉林から新京(長春)、奉天(瀋陽)を経て錦県まで移動します。この引き揚げ行は、1週間かそれ以上か、著者の記憶も定かでありません。錦県ではじめて米兵に出会いました。
中国大陸から日本への移動は、米軍の上陸用舟艇が充てられました。少女一家が舟に乗り込むところで、物語は終わります。

終戦前後の中国東北部に暮らす日本人がどのように生活し、何を考えていたのか。貴重な記録でした。
当時のティーンエージャーの大部分が軍国少年・軍国少女であったこと、満州開拓団が「根こそぎ動員」で男手を失ったところにソ連軍が殺到し、悲惨な運命をたどったこと、無事生き残った人たちも内地へ帰還するまでの1年以上にわたって辛酸をなめたことなど、すでに見聞していることではありましたが、あらためて印象に残りました。

なお、著書の副題に「満州開拓村からの帰還」とありますが、澤地さんは終戦時に吉林という都会にいたのですから、満州開拓団の悲惨さとは全く異なっています。

このブログでの関連記事を以下に記しておきます。
藤原てい「流れる星は生きている」()。
半藤一利「ソ連が満洲に侵攻した夏」
藤原てい「旅路」
山田風太郎著「戦中派焼け跡日記」
童謡「里の秋」
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明治天皇荻窪御小休所

2015-07-26 00:20:16 | 杉並世田谷散歩
荻窪界隈の探訪第2弾です。
荻窪駅から東南東方向の道を歩いていたら、不思議な建物を見つけました。杉並区立中央図書館へ行く途中です。

《明治天皇荻窪御小休所》
《武家長屋門》
南の道路側から




 

石柱には以下のように記されています。
「明治天皇荻窪御小休所」
「史蹟名勝天然記念物保存法に依り史蹟トシテ昭和九年十一月文部大臣指定」
「昭和十一年十一月」

場所は、下の地図の中央[+]の位置です。

私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。この地図から、上の地図と同じ位置を下に記します。


「明治天皇荻窪御小休所」について、ネット上では公式の説明を見つけることができませんでした。唯一、伊藤Pの部屋で、下記書籍に説明があるとの記述を見つけました。そこで、さっそく購入しました。
東京の歴史名所を歩く地図
ロム・インターナショナル
河出書房新社

説明によると、古い建築物としては、「明治天皇荻窪御小休所」そのものと、「武家長屋門」の二つがあるようです。私が最初に見つけたのは、そのうちの「武家長屋門」の方のようです。

この場所のすぐ北の道路は、青梅街道の旧道です。江戸時代、その青梅街道沿いに、この界隈の名主を務める中田家の屋敷があったようです。
ここは、第11代将軍家斉が寛政年間(1789~1801)にたびたび訪れた鷹狩りの際、休憩に立ち寄った場所でした。しかし、名家といえども将軍が農家に立ち寄るのではご威光にかかわると、特別に作らせた武家長屋門だと言われています。

南の道路側から見た長屋門の入口
 

この長屋門、下々の出入りを固く禁ずるようないかめしい作りですが、上の写真のように、入口の左通用門が開いています。そこから人々が自由に出入りしています。そこで私も通用門を通り抜けてみました。
長屋門の北側は、左右に大きなビルが建ち並んでいる区域です。長屋門自体は、北側から見た方がよくわかりますが(下写真)、ビルが邪魔して全体を見ることはできません。

北のビル敷地側から


北側から見ると、長屋門の骨組みがよくわかります。中央は門、そして左右は空きスペースです。左側は現在建築資材が置いてありますが、右側は空っぽでした(右下写真)。上記書籍によると、普段はビルの車を停める駐車スペースとして使われているそうです。

ビル敷地側から見た入口                        右側スペース
 

さて、上の長屋門はあくまで「門」であり、それとは別に「明治天皇荻窪御小休所」があるはずです。長屋門の東側、四周を高い生け垣で囲まれてよく見えないのですが、古い木造の平屋一戸建ての小さな建物があります。この建物が「明治天皇荻窪御小休所」のようです。

御小休所らしき建物(南の武家長屋門側から)


ぐるっと一周しました。東側には、出入り口らしい門がありました(下写真)。
御小休所らしき建物(東側から)


p.s. 7/30 明治天皇荻小休所の由来について書き忘れていたので追記します(上記「東京の歴史名所を歩く地図」から)。
明治天皇小休所は、明治天皇が明治16年(1883)4月16日に埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かう途次と、同年4月23日に小金井の観桜会への途次の二度にわたってご小憩した屋敷の跡ということです。以来、明治末まで侍従らによる小金井観桜遠乗り会は毎年行われ、必ずここにも立ち寄られました。

小休所と長屋門はいずれも、昭和62年(1987)に邸宅跡地にビル建築と同時に現在の場所に移転復元された、とあります。それでは、移転前はどのあたりに建っていたのでしょうか。
上の、明治20年地図の中央当たりが、長屋門と小休所の現在の所在地です。ピンクの印は、現在のJR荻窪駅で、私が記入しました。左上から右下に走る道路が青梅街道で、荻窪駅と交差している部分は旧道であり、すぐ上に(現在は)青梅街道バイパスが通っています。地図の「46.1」と書かれた左上部分、ここが「旧中田家」ではないでしょうか。道路を迂回させている当たり、名家の威光が感じられます。そして、長屋門ですから、やはり旧青梅街道に面する位置に建っていたのでしょうか。そうとすると、現在長屋門が建っている南側道路から一つ北側に走っている道路(旧青梅街道)に沿って、北を向いて建っていたことになります。

ところで、上の明治20年地図に戻ります。青色は私が記入したもので、当時の河川を表します。地図の上端の中央に端を発して東に向かう青色、これは桃園川の源流になります。左下に流れる川は善福寺川です。右下にY字の青が見えます。Yの左上端位置は太田黒公園、Yの右上端位置は、これから向かう「読書の森公園」に該当します。
これからも、「明治20年地図」が活躍することとなります。

さて、区立中央図書館に向けて東南東に進みます。
右側に由緒ありげな建物が見えてきました。

《西郊ロッヂング》


ウィキペディアによると、1938年(昭和13年)建築の洋風建築で、2001年の改修後は賃貸住宅となっているそうです。
正確には、1931年(昭和6年)に建築されたのは本館(下写真)で、1938年(昭和13年)には新館(上写真)を増築し、その後、本館を旅館「西郊」として、新館を高級下宿洋館「西郊ロッヂング」として運営されるようになったそうです。
旅館西郊は、西郊ロッヂングに隣接して東側にあります。

《割烹旅館西郊》



せっかく荻窪に勤務しているのですから、一度は旅館西郊に泊まってみたいものです。

区立中央図書館のすぐ西側に、不思議な公園がありました。

《読書の森公園》

説明書きには、「読書の森公園は、平成14年10月に荻窪在住の中田和夫氏のご厚意により寄贈を受けた土地を、区民がみどりに触れながら読書に親しめる公園として整備したものです。 平成18年3月 杉並区」と書かれています。
中田さん?、明治天皇御小休所となった名主の中田さんとご親戚でしょうか?。







不思議な公園です。公園というと、普通は平地で、子供用の遊具が並んでいるものですが、ここは上の写真にあるようになだらかな丘であり、池も配置されています。
上の明治20年地図と対比すると、ここはY字の川の右上源流部分に該当します。
明治20年地図の上にgoo地図を掲載しています。この地図の左下「地図」ボタンを押すと地図ページに飛びます。ここで「古地図/昭和22年」を選択すると、昭和22年の航空写真に変わります。この航空写真で見ると、Y字の川の右上部分は、読書の森公園とその北の体育館を含め、当時は畑か原野になっていたようです。
また、同じ地図で「航空」を選ぶと、現在の読書の森公園の位置には、まだ大きな建物が建っている写真になっています。

読書の森公園の裏手、区立中央図書館との境界の林の中に、下のガンジー像が建っていました。

《ガンジー像》

「東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・シュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デシュパンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が深められることを祈念して、送る。」

《杉並区立中央図書館》
 

私は杉並区在住ですが、自宅の近くには杉並区立図書館が存在せず、仕方がないので、通勤の経路にある図書館(渋谷区立図書館笹塚分室)を利用していました。
今回、上記中央図書館で利用登録しました。今後図書館から本を借りる際には、この図書館を利用することになります。

区立中央図書館のすぐ北側は体育館です。下のような記念碑が建っていました。

記念碑の由来
昭和28年11月に開設した杉並区立公民館
「特筆されるものは、昭和29年3月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広汎な区民の間で始まった原水爆禁止署名活動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
その公民館も老朽化により平成元年3月末日をもって廃館されました・・・。
ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。
平成3年3月」

荻窪駅から東南東方向への探索は、こうして終了しました。
コメント (2)
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荻窪~太田黒公園

2015-07-22 21:02:11 | 杉並世田谷散歩
この5月から、私は荻窪にある特許事務所に勤務しています。
お昼休みには、食事の後に荻窪界隈を散策しています。ここでは、散策で目に留まった風景を写真に撮り、順次ご紹介していきたいと思います。

まず最初は太田黒公園です。太田黒公園は、荻窪駅から南東方向に歩いたところに位置しています。写真は、7月13日に訪問したときに撮影した写真です。以下、ウィキペディア杉並区役所の施設案内から引用した部分を『 』で示します。
下の地図、中央の緑色のところが太田黒公園です。荻窪駅は左上の端です。

『大田黒公園(おおたぐろこうえん)は、東京都杉並区荻窪にある区立の都市公園。音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年(昭和56年)10月1日に開園した。
自邸の30%を公園にして欲しいという大田黒元雄の遺志に基づいて、遺族から杉並区に寄贈された土地に、周囲の敷地を合わせて公園として整備したものである。
可能な限り旧自邸の庭園の原形を残して、回遊式日本庭園として整備されており、正門から延びるイチョウ並木をはじめとして随所に巨木が残るほか、従前からあった池が再現されている。
園内には、休憩室及び茶室や、1933年(昭和8年)に建てられたレンガ造洋館のアトリエを改装した記念館が設けられている。』

  
正門                      通用門から
正門(左上写真)から入ると、まずは左右に銀杏の巨木が並んだ素晴らしい並木が出迎えてくれます。しかし今回は残念ながら、並木の銀杏を剪定している最中で、正門からは入れませんでした。替わりに、普段は閉じている正門横の通用門から入ることができました(右上写真)。

 
正門から続く並木
『門を入ると白い御影石を敷いた園路がまっすぐにのびています。
その長さは70メートルあり、左右は樹齢100年を経た大イチョウの並木です。』
上の写真は、公園の中から並木とその先にある正門を撮影したものです。

 
庭門
公園の配置としては、正門から銀杏並木の部分は細長く続いており、銀杏並木の終点には庭門(上写真)があり、その先には池を配した広い庭園が広がっています。

 
園内
園内には水の流れが配置され(上写真)、その先には池があります(下写真)。
 

 

 
『池は筑波石と植込みで飾られ、ほとりにはあずまやが建っています。』

 
休憩室と茶室

 
記念館
『大田黒氏の仕事場であったレンガ色の記念館が保存されています。
記念館は昭和8年に建てられたもので、当時としては珍しい西洋風の建築物です。
中には愛用のピアノや蓄音機などが展示されています。』
記念館の中は残念ながら写真撮影禁止でした。そのため、説明についてもきちんと再現できません。
記念館の中に入ると、グランドピアノが置いてあります。古いスタインウェイらしく、最近までは演奏不可能でしたが、調律して演奏可能な状態に復活したようです。ただし、劣化を恐れてたまにしか演奏しないそうです。

この公園は、音楽評論家太田黒元雄氏の旧自邸が寄贈されて整備されたといいます。太田黒元雄氏について、ウィキペディアで調べてみました。
『大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。』
『大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。』
音楽評論家としての業績は、私も知ることができません。しかし、資産家であったことから、こうして杉並の地に太田黒公園が遺ることになりました。ありがたいことです。

こちらの紹介によると、11月末から12月はじめにかけて、この公園は紅葉がライトアップされるそうです。また、そのときが楽しみです。
コメント (3)
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安全保障関連法案

2015-07-18 22:10:16 | 歴史・社会
なかなかブログ記事更新がはかどりません。特に時事問題などに関してはしばらく書いていません。その結果、安保法案関連については完全に出遅れてしまいました。
出遅れではありますが、この時点でなにがしかの意見は書いておこうと思います。

私が気にしているポイントは3点です。

《普通の国であれば当然に行使できる集団的自衛権》
現代世界において、それぞれの国は集団的自衛権を保持し、健全な普通の国家であれば、国と地域の平和と安全を確保するために必要であれば当然に集団的自衛権を行使し得るものと考えます。
日本を取り巻く情勢を見ると、同盟国であるアメリカは、オバマ大統領が「世界の警察官であることをやめた!」と宣言し、実際に軍事費は大幅に削減されつつあります。
一方で中国は、周辺地域で覇権を握ろうとする思惑が露わであり、南シナ海でも東シナ海でも膨張の機会を虎視眈々と狙っている状況です。南シナ海が中国の制海権下におかれ、中国のミサイル潜水艦が南シナ海の底を遊弋するようになれば、横須賀に司令部を置く米国第7艦隊はハワイまで撤退することになるでしょう(飯柴智亮著「2020年日本から米軍はいなくなる」)。
このような状況下で、日本と周辺地域の平和を守るために必要なのは「抑止力」と「対話」であると考えられます。米国による抑止力が減退している状況下で、日本は何をなすべきなのか、その点を考えると、集団的自衛権をどのように取り扱うのか、真剣に討議すべき時期だと思われます。普通の国であれば集団的自衛権を保持して平和を守ることは当然に認められているのですから。

普通の国であれば・・・

さて、「日本は普通の国だろうか」というのが次の2つのポイントです。

《憲法との関係》
日本は憲法9条を持っている国です。もし、政策とその政策を実現するための法律が憲法に違反するのだとしたら、その政策は実現することができません。私は、今回の安保関連法案と憲法との関係について立ち入って勉強していないので、自分の意見を言うことはできません。しかし、ネットでの評論を読む限り、普通の法学者であれば、今回の安保関連法案が合憲であるとのロジックはほとんどできなさそうな雰囲気があります。そうだとしたら、たとえ今国会で法律が成立したとしても、いずれ最高裁によって「違憲」との決定がなされてしまう蓋然性が極めて高いのではないでしょうか。それでは、世界平和を維持する上でも法的安定性がきわめて脆弱になる、と言わざるを得ません。

法学者がこぞって「違憲」というような法案が、なぜ上程されてしまったのでしょうか。やはり、2年前、内閣法制局長官を安倍総理が任命したあの人事に端を発しているように思います。憲法の番人としての内閣法制局を安倍総理がもっと尊重していれば、最高裁や法学者をも説得できる法案に仕上げることも可能だったのでは、と悔やまれます。

《先の戦争の総括》
日中戦争にしろ太平洋戦争にしろ、日本国がそれら戦争を始めたこともさることながら、「どのような戦争をしたか」という点で日本は大きな責任を持っていると感じています。
このブログ記事から拾うと、
吉井義明「草の根のファシズム」
保坂正康「昭和陸軍の研究」
私が読んだその他の著書としては、
秦郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)
小松真一著「虜人日記 (ちくま学芸文庫)
石川達三「生きている兵隊 (中公文庫)
五味川純平「人間の条件〈上〉 (岩波現代文庫)
が挙げられます。

私の印象では、戦後、日本は自分たちがしてきた戦争の内実をきちんと総括してきていません。責任を曖昧にしてきました。なぜ日本はそのような曖昧な態度で終始することが許されたか。私は、「日本は憲法9条に逃げ込んだ」と思っています。「日本は戦争を放棄したのだから、これから戦争を起こすことはない。だから、済んだことは良いじゃないか」といった態度です。
ところが、世界情勢が変化して、日本も集団的自衛権の行使を可能にして抑止力を確保し、それをもって世界平和に貢献すべきときが来ました。そうなるとどうなるか。
「戦争放棄」で臭いものに蓋をしていたのに、その蓋を取り払わなければなりません。
本来であれば、「これこの通り、日本は自分たちが行った戦争についてきちんと総括した。その結果、日本は平和の維持のためにしか軍事力を行使しない国になった。だからこそ、集団的自衛権についても普通の国として法整備化し、世界平和に貢献していく。」と正々堂々と主張すべきなのに、それができないのです。
今回も野党は「戦争をする国にするのか」と反論しています。これなど、「日本は凶暴な国だ。武器を持たせると凶暴になるから、今まで武器を封印してきた。ここで武器を持たせたら、気違いに刃物だ」と言っているようなものです。自分が国会の一員であるこの国についてです。

韓国や中国から謝罪を要求されると、「いつまで謝罪をしていたら気が済むのだ」との言い方がされます。しかし、ドイツのメルケル首相はポーランド国民に対し、今でも折に触れて謝罪し続けています(川口マーン惠美「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」)。

日本とアジアの平和を保つためには、日本が抑止力を働かせることは必須であり、そのためには集団的自衛権も避けて通れないと思います。
この際、日本はきちんと先の戦争を総括する方向に舵を切るべきでしょう。
憲法問題については、まずは最高裁に違憲と決定されないような法律で出発すべきです。そして、先の戦争の総括ができさえすれば、必要とあらば、改憲も視野に入れるべきと思います。
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百草園

2015-07-11 10:34:29 | Weblog
梅雨の合間を縫って、百草園を訪れました。妻と二人、6月27日のことです。
最寄り駅は京王線の百草園駅ですが、今回はウォーキングをかねて、聖蹟桜ヶ丘駅から歩くことにしました。聖蹟桜ヶ丘駅からのルートにあるように、広い自動車道路を800mほど進んで、そこから田舎道に入ります。広い自動車道路からの入り口を間違えてしまい、スマホのGPSをオンにして何とか正常ルートに戻りました。
下の写真のような山間の道路を歩いて行くと、

百草園の正門に到着です。

百草園入口


入口を入った登り道


百草園のホームページには以下のように紹介されています。
『江戸時代の享保年間(1716 年~)、小田原城主大久保候の室であった寿昌院慈岳元長尼が徳川家康の長男・信康追悼のため当地に松連寺を再建しました。その後、時代を経て作られたのが京王百草園です。園内の有名な「寿昌梅(じゅしょうばい)」は寿昌院自ら植樹したと伝えられています。
梅の開花の季節には約50 種500 本の梅たちが咲き競い、園の華やかさも最高潮に達します。』

地図によると、下の写真が寿昌梅のようです。


寿昌梅の奥に松連庵(しょうれんあん)があります。

上の写真の入口を入ると、食べ物を注文できます。おそばは、冷やしきつねと冷やしたぬきでした。われわれは冷やしたぬきを注文しました。

上の写真に見えるお座敷で、庭の景色を見ながらいただくことができます(下の写真)。


松連庵の向かいには、「三檪庵(さんれきあん)」が見えます。下の写真です。


松連庵での食事も終わり、園内を散策します。
池には、蓮の花がちらほら咲いていました。


池から登りはじめに建っている句碑は、松尾芭蕉句碑とありました。「志ばらくは 花の上なる 月夜かな」


一番高いところには見晴台があります。東方向に、新宿の高層ビル群が見えました。その向こうにスカイツリーがあるようなのですが、あいにくの曇天で見ることはできませんでした。

一番奥まったところに「芭蕉天神」があるということで、細い上り下りをたどって行ってみました。裏から見たときは「まさかこれじゃないだろう」と思ったのですが、回ってみたらまさにこれでした(下写真)。

「当園の北部、旧三沢下郷の篤学農民・土方誠助(文政7年~大正3年)が学問の大切さを子孫達に知らしめるために祀ったという。そのお陰か、子孫・龍之介は昭和26年旧七生村(現在日野市の一部)の村長となった。
以前、北方40mにあったものを平成2年2月吉日、現在地に遷祀した。」
松尾芭蕉との関係は不明のままです。

あじさいの季節ということで、あじさいの花を見ることができます。


帰りも、来た道をそのままたどり、聖蹟桜ヶ丘駅に出ました。
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