14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還 (集英社新書) | |
澤地久枝 | |
集英社 |
澤地久枝さんの著書として、私は「滄海(うみ)よ眠れ―ミッドウェー海戦の生と死〈1〉 (文春文庫)」を昔読みました。この本から得た、ミッドウェー海戦の印象は忘れることができません。
今年、澤地さんの「14歳〈フォーティーン〉」が出版されたということで、読んでみました。
澤地さんは終戦時、満州の吉林でご家族と暮らしていました。14歳の女学校生徒です。
「はじめに」から
『わたしの話は、昭和の初期のこと。そして、どうして好戦的な少女になったのか、恥ずかしくて、これまでずっとかくしてきた。戦争が終わって70年になるけれど、おのれの無知を愧(は)じながら、わたしは生きてきた。
戦争が終わったと聞いた瞬間、「ああ、神風は吹かなかった」と真面目に思った。戦争は勝つものと、一点の疑いもないような14歳、軍国少女だった。』
『誰だって、語りたくない人生経験を持っている。しかし、満州(中国東北部)から引き揚げてきた14歳から15歳の日々をいま、書いた方がいいと思うようになった。』
私はこのブログで2010年に「田崎清忠先生」として思い出を書きました。その中で、昭和一桁生まれについての私の考えを述べています。
『「昭和一桁世代」について私は以下のような仮説を立てています。
昭和一桁生まれということは、ティーンエージャーのときに終戦を経験しています。
これより早く生まれた人は、終戦時にすでに20歳を超えており、それなりに分別もついて敗戦も理性的に受け入れることができたようです。またこれより遅く生まれた人は、終戦時に10歳未満で「お腹いっぱい食べたい」という記憶しかないようです。
それに対し「昭和一桁世代」は、多感な年頃に終戦を迎え、終戦までは「軍国少年・軍国少女」で信じていたものが、終戦とともに価値観が180°転換して心に混乱を抱えたことがその後の人生に影響を及ぼしているように見受けられます。』
澤地さんも同じだったということになります。終戦時に14歳で軍国少女だったことは、日本中の14歳が同じだったのですから、何ら恥ずべきことではありません。しかし、澤地さんの心に負った傷は大きかったようです。
著書の中で、澤地さんご本人である主人公を「少女」と呼んでいます。
『アッツ島玉砕で衝撃を受けながら、少女はマーシャル諸島、サイパンと玉砕の報がつづいても、おどろいていない。戦争は死ぬものと思っている。自分もかならず死ぬ。負けるということなど、少女の頭をかすめもしない。』
このような心境こそが、終戦間際の日本人、特にティーンエージャーの共通認識であったと思っています。
終戦の前、少女たち女学校の生徒は、1ヶ月の泊まり込みで(満州の)開拓団に動員されます。少女は水曲柳村に行きました。開拓団の家は泥づくりであり、窓ガラスはなく、水道も電気もないことを、少女ははじめて知りました。1ヶ月で5軒の家を回りましたが、働き盛りの男手はひとりもいませんでした。
いわゆる「根こそぎ動員」ですね。当時、満州に展開していた関東軍は、精鋭も装備も南方に回してしまい、空っぽでした。そこに、満州開拓団の男手を根こそぎ動員して補充していたのです。開拓団に残された彼女たちがソ連軍侵攻後にどんな悲惨な運命をたどったか。
そして終戦です。
少女の一家は満鉄の社宅に暮らしていました。終戦後は同居家族が増え、9人が暮らしていました。そんな日の昼日中、ソ連軍将校が二人、その家に乱入するのです。少女はレイプされかけましたが無事に過ぎました。
昭和21年早々、吉林からソ連軍が引き揚げます。それに替わって、吉林は中国共産党軍の支配下に入りました。このときは治安が良好であったのか、少女はたいこ焼の店員に雇われ、その仕事をはじめています。
中国は国共内戦が始まっていました。
昭和21年4月以降、国府軍が吉林に押し寄せ、このとき国府軍の勝利に終わり、共産軍は松花江にふたつある橋を爆破して引いていきました。
『その夜から、国府軍軍人による「女狩り」がはじまる。』
昭和21年8月、少女一家は内地に引き揚げることになります。無蓋貨車に乗り、吉林から新京(長春)、奉天(瀋陽)を経て錦県まで移動します。この引き揚げ行は、1週間かそれ以上か、著者の記憶も定かでありません。錦県ではじめて米兵に出会いました。
中国大陸から日本への移動は、米軍の上陸用舟艇が充てられました。少女一家が舟に乗り込むところで、物語は終わります。
終戦前後の中国東北部に暮らす日本人がどのように生活し、何を考えていたのか。貴重な記録でした。
当時のティーンエージャーの大部分が軍国少年・軍国少女であったこと、満州開拓団が「根こそぎ動員」で男手を失ったところにソ連軍が殺到し、悲惨な運命をたどったこと、無事生き残った人たちも内地へ帰還するまでの1年以上にわたって辛酸をなめたことなど、すでに見聞していることではありましたが、あらためて印象に残りました。
なお、著書の副題に「満州開拓村からの帰還」とありますが、澤地さんは終戦時に吉林という都会にいたのですから、満州開拓団の悲惨さとは全く異なっています。
このブログでの関連記事を以下に記しておきます。
藤原てい「流れる星は生きている」(1、2、3)。
半藤一利「ソ連が満洲に侵攻した夏」
藤原てい「旅路」
山田風太郎著「戦中派焼け跡日記」
童謡「里の秋」