弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

知床遊覧船の通信手段

2022-04-30 12:29:28 | 歴史・社会
今回の知床遊覧船事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。また、行方不明の方が1日も早く発見されることをお祈りします。

遭難した知床遊覧船の通信に関して、昨日まではさまざまな情報が錯綜していました。
「会社の屋根に設置しているアンテナが折れていた。」
「会社から船長に連絡してもつながらない。同業者が自分の施設でアマチュア無線で呼びだしたところ、連絡がつき、その同業者が118番通報した。」

それに対して昨日、以下の情報が上がりました。
事故直前に通信手段“変更”申請…なぜ衛星電話から“エリア外”の携帯に 4/29(金) テレ朝ニュース
『確実な通信手段がない状態で出航した「KAZU1」。小型船舶の検査機関を所管する国土交通省への取材で、新たな事実が浮かび上がってきました。
今月20日の検査のとき、法令で設置が定められている通信手段を、衛星電話から携帯電話に変更したいとの申請があったことが新たにわかりました。豊田船長への確認、また、漁業関係者からの「つながる」との情報もあったため、変更を認めたうえで、検査は合格としています。全国的に、通信手段の確認は、自己申告を基に行われているため、実際につながるかどうかは確認していないということです。・・・
地元で30年以上の経験がある漁師に聞きました。業務連絡は、衛星電話で行うのが当たり前だといいます。』

「法律で遊覧船に通信設備の設置が義務づけられている中、遭難事故の当日は、携帯電話が通信手段であった」というのが正しい認識でしょうか。
ところが、知床半島の先端付近では、携帯が圏外となる可能性が高い、というのが実態だとのことです。
船長との携帯のやりとりが一時的には可能であり、また乗客が家族に「沈没する」と携帯で伝えていることから、完全に圏外ではなかったようです。

さて、今月20日までの通信手段であった「衛星電話」とは、多分イリジウムのことだと思います。地球上どこでも、多数のイリジウム衛星の一つと船内の衛星電話が無線でつながり、必要とする相手と通信ができます。会社側は普通の電話回線でも繋がるはずです。そうとすると、「折れていた会社屋上のアンテナ」は必要ありません。あのアンテナは何なのでしょうか。

同業者がアマチュア無線で船長と連絡したということです。ということは、船にアマチュア無線機器が搭載されていて、事故当時に船長はアマチュア無線で通信が可能だったということです。会社の折れていたアンテナは、アマチュア無線用のアンテナなのかも知れません。
しかし、アマチュア無線を遊覧船の業務に使用することは法律違反です。どのような実態があったのでしょうか。

私は、船舶無線というと、国際VHFを思い浮かべます。超短波を用いた無線通信で、船上に船舶局、会社に海岸局を設置します。船舶局の運用には3級海上特殊無線技士の資格が必要で、海岸局の運用には2級海上特殊無線技士の資格が必要です。
しかし今回の報道では、国際VHFの話題は一切登場しません。最近の実務では、もう衛星電話に集約されているのでしょうか。衛星電話であればなんの資格も必要ないでしょうから。

遊覧船事故の報道でも、「通信手段について何が問題だったのか」そろそろ正しい報道に集約してほしいものです。

ps 4/30 以下の報道がありました。
航路の大半が通信圏外の携帯 船長が通信手段と申請 観光船の事故前検査で 4/30(土) 北海道新聞
『海事局によると、日本小型船舶検査機構(JCI)札幌支部が20日、船舶安全法に基づく年1回の中間検査を行った際、豊田船長が通信手段を衛星電話から携帯電話に変更すると申請した。JCI側が「海上でつながるか」と確認すると、船長は「つながる」と答え、その場で変更を認めた。
船舶安全法は20トン未満の小型船舶の通信手段として携帯電話の使用を認めている。ただ、通信事業者の公式サイトによると、豊田船長が申請した携帯は航路の大半がエリア外だった。
これとは別にカズワンを運航する知床遊覧船は海上運送法に基づき、緊急時の連絡手段として衛星電話と無線を届け出ていた。だが関係者によると、衛星電話は少なくとも1年前から故障し、無線も数カ月前から同社事務所のアンテナが壊れ、自社では受信不能だった。』
上記記事の「無線」の意味が不明です。アマチュア無線が海上運送法で認められるはずがないし、とすると国際VHFでしょうか。
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特許庁基幹システム開発の失敗

2022-04-26 19:05:06 | 歴史・社会
特許庁の基盤システム開発の失敗の経緯については、このブログで「特許庁システム開発で何が起こったのか 2013-01-08」として記事にした経緯があります。
日本では、昨年デジタル庁が発足し、特に行政において遅れている業務コンピュータシステムの最適化推進が叫ばれています。
ところが、先日「日経・もがくデジタル庁 2022-04-24」で記事にしたとおり、デジタル庁は残念ながら悪い方向に進んでいるようです。

そういう意味ではすでに手遅れかもしれませんが、特許庁におけるシステム化の失敗は、行政の業務システム改善時に遭遇する問題点が顕著に現れているので、ここにブログ記事を再掲します。

特許庁システムの失敗について、以下の記事が最も詳細に事件を追っていました。
55億円無駄に、特許庁の失敗 2012/12/10 出典:日経コンピュータ 2012年7月19日号
《2004年、特許審査や原本保管といった業務を支援する基幹系システムの全面刷新を計画》
従来の政府のシステムは、構築とメンテに膨大なコストがかかっていました。これを低コストのシステムに入れ替えようという考え方のようです。
特許庁の情報システム部門担当者(以下A職員)が調達仕様書を作成しました。
『業務プロセスを大幅に見直し、2年かかっていた特許審査を半分の1年で完了することを目指した。度重なる改修によって複雑に入り組んだ記録原本データベース(DB)の一元化に加え、検索や格納などの基盤機能と法改正の影響を受けやすい業務機能を分離し、保守性を高めるという野心的な目標を立てた。一方で、全ての情報をXMLで管理するなど技術的難度が高く、十分な性能を出せないなどのリスクを抱えていた。』
ところが、仕様書の骨格が固まった2005年7月、A職員は異動となりプロジェクトを離れたのです。「役人の2~3年ローテーション制度」の弊害によるのでしょうか。

《2006年7月に入札を実施》
○ 一般競争入札
○ 大規模プロジェクトについては分割発注を原則
一般競争入札の恐ろしさ、それは、“安い入札価格の業者が本当に実力を有しているか”の判断を、利用者側が下さなければならないことです。正しい判断を行うためには、利用者側がシステムに精通している必要があります。
『落札したのは東芝ソリューションだった。技術点では最低だったが、入札価格は予定価格の6割以下の99億2500万円。これが決め手となった。』

《2006年12月プロジェクト開始開始》
『特許庁は東芝ソリューションにこんな提案をしたという。
 「現行業務の延長でシステムを開発してほしい」。
業務プロセス改革(BPR)を前提にシステムを刷新するのではなく、現行システムに機能を追加する形でシステムを開発しようというわけだ。』
恐ろしいことです。
プレーヤーは3者です。
①ユーザーの利用部門
②ユーザーのシステム部門
③システムベンダー(東芝ソリューション)
システム設計方針の大幅変更が、システム開発にどのような影響を及ぼすのか、しかるべき部署がきちんと評価する必要があります。しかし①が方針変更の要求を出し、それに対して②が待ったをかけられませんでした。③は言われたとおりに進めるしかありません。
東芝ソリューション(東ソル)は、現行の業務フローを文書化するため、2007年5月までに450人体制に増強しますが現行業務の把握に手間取りました。遅れを取り戻すため、2008年には1100~1300人体制にまで増員しましたが、さらなる混乱をもたらしました。ただただ、現行業務について聞き取った結果を書き写した書類が積み上がるばかりです。

《2009年4月、A職員プロジェクト復帰》
プロジェクトの仕切り直しを図り、開発範囲を当初の仕様書ベースに戻すことにしました。
『とはいえ本格的にプロジェクトを立て直すには、現行システムを担当するNTTデータの参画が必要なのは明らかだった。分割発注に基づくアプリケーション開発をNTTデータが落札すれば、現行業務の把握など懸念のいくつかを解消できると見込んだ。』

《2010年6月、NTTデータ等が特許庁職員にタクシー券などの利益供与をしたことが明らかに》
NTTデータ社員と特許庁の職員は逮捕されました。A職員も入札前の情報を東芝ソリューションに提供していた事実が認められ、プロジェクトを再び離れました。NTTデータには6カ月の指名停止処分が下りました。
万事休すです。

《2011年頃、プロジェクトはほとんど「開店休業」》
プロジェクトの破綻は明らかでしたが「開発中止」を認定・判断するプロセスがなかったのです。
『苦肉の策として持ち出されたのが、贈収賄事件を機に2010年6月に発足した調査委員会だった。同委員会をベースとした技術検証委員会は2012年1月に「開発終了時期が見通せない」とする報告書を公開。この報告書を根拠に、枝野幸男経済産業大臣がプロジェクトの中止を表明した。プロジェクト開始から5年が経過していた。』
(以上)

私が最も関係している省庁で、このようなことが起きていたのですね。
失敗の経緯をたどってみると、大規模システム開発で陥りやすい罠にすっぽりとはまっていることがわかります。
ニュースでは、「開発に失敗した東芝ソリューションが悪い」ということで烙印が押されているようです。東ソルに問題があるのはもちろんですが、もっと大きな問題があります。

1.競争入札でシステムベンダーを選定する際、ベンダーの実力が不明な中、一番安い見積もりベンダーに落札していいのかどうか、発注側が最も悩むところです。今回はまずそこで失敗がありました。
2.基幹業務システムを構築する際、システム設計では利用部門とシステム部門が相談して仕様を決めます。利用部門はシステムについて素人ですから、「今やっている業務をベースにしてもっと便利に」としか提案しません。それを鵜呑みにしてシステム設計したら、膨大な冗長システムができあがってしまいます。あくまで、業務改革とベアでシステム設計すべきです。今回も当初はそのような方針でしたが、途中で利用部門の声に押されて「現行業務ベース」に変更になってしまいました。
3.私も製鉄所の現場でエンジニアとして働いていたとき、職場のシステム更新の仕事を横目で見ていました。利用部門にもシステム担当者がおりましたが、長いことシステム専任でした。そうしないと使えるシステムは作れないからでしょう。それに対して特許庁は、システム担当者を異動させてしまいました。
4.悪いことに贈収賄事件が勃発し、頼みとしていたNTTデータの参画が不可能になると共に、A職員が再度離脱しました。

業務のコンピュータシステムの改善では、どのようなシステムにするのかについて強い信念を有し、リーダーが強力にリーダーシップを発揮しない限り、その効果を十分に発揮することはできません。
成功例は、先日「私の履歴書・野路國夫氏 2022-04-23」で紹介したコマツの例です。
そして失敗例が、上記特許庁の事例となるでしょう。
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モデルナジャパン社長・鈴木蘭美さん

2022-04-25 00:00:41 | Weblog
日経新聞夕刊のシリーズ記事「人間発見」、4月18日~22日は、モデルナ・ジャパン社長の鈴木蘭美(すずきらみ)さんでした。
第1回 4月18日
第2回 4月19日(写真は通学路だった巴波川沿いの遊歩道)
第3回 4月20日(写真はUCLで博士号を得たとき)
第4回 4月21日(写真はエーザイ時代2015年)
第5回 4月22日

私は鈴木蘭美さんについて全く存じ上げませんでした。日経のシリーズ記事を読んでも、全経歴が凄すぎて、まだ全体像がつかめずにいます。ネットでも、鈴木蘭美さんの情報は極めてわずかです。
まずは、年代に沿ってまとめてみます。こちらの情報も援用しました。

母の実家の栃木県栃木市で生まれた。
3歳の時両親が離婚、父の記憶はほとんどない。
小学校1年生まで東京の鶯谷や金町で過ごした。母が働いていたので鍵っ子。
6年生で栃木の祖父母に預けられた。
中学からは埼玉県飯能市の自由の森学園に通い、寮生活となった。鈴木さんはのびのびしすぎて勉強に身が入らなかった。
このまま日本にいたらずっと遊んでしまうと思い、中学卒業後は海外への留学を志した。母からは「高校までは日本にいなさい」と言われたので、高校には行かずに大検に合格しようと考えた。当時は理系は苦手だったが、大検に向けて勉強するうちにサイエンスの世界に引かれていった。
まず向かったのはスウェーデン。英語を猛勉強し、最上級の英語検定とされる英ケンブリッジ大学の「ケンブリッジプロフィシエンシー試験」を受けた。
18歳でウェールズ大学に入学。
エクスター大学で修士課程に進んだ。
ここで学友2人が相次いでガンを患った。2人が苦しむ姿を目の当たりにして、ある朝「私はガンを完治するために生まれてきた」とのメッセージが心に焼き付いた。それをドイツ人教授に話すと、教授は、親友のバウム教授を紹介してくれた。バウム教授はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の医学部で乳がんを専門とする外科医だった。教授はマイクロ・オヘア教授を紹介してくれた。
オヘア研究室で働くことになり、実験助手的な仕事をした。先生は奨学金の手続きまでしてくださり、おかげで1999年、UCLで博士号を取ることができた。
インペリアル・カレッジ・ロンドン(ICL)でポスドクとなり、乳がんの研究に取り組んだ。
2000年4月、日本のベンチャーキャピタルITXの欧州事務所(ロンドン)に就職した。欧州とイスラエルのヘルスサイエンスに投資をする仕事だった。
2004年エーザイ・ヨーロッパに転職。2006年にエーザイ入社、2016年にはエーザイ本社の執行役となり、がんとアルツハイマー型認知症の治験薬の開発に取り組んだ。
2017年にヤンセンファーマに移り、がん、結核などの薬を出すとともに、重度うつ病の開発にも取り組んだ。
21年秋(ヤンセンファーマからフェリング・ファーマに移って10ヶ月後)、モデルナ・ジャパンの社長になるよう誘いを受けた。
『mRNAは人類の歴史を変える画期的な技術だと確信していたので、「私がやらずに誰がやる」との思いでした。』

上記の経歴の通り、鈴木さんは高校を出ていません。世の若者が高校生活を送る年代を、スウェーデンで独学しています。この時代について、
『オフは近くの森で過ごしました。歴史と自然に富むこの街での2年間は宝物です。』
と記載されているので、普通に日本の高校に通学するより以上の有益な青春時代を過ごしたようです。

博士課程で勉強していた頃、
『周囲の好意で勉強を続けられる幸運に感謝し、「恩返しをしなければ」という思いに駆られるようになりました。がんで知人が亡くなると自分のせいだと思うようにもなりました。カウンセリングでは「背負っている十字架を下ろしなさい」と言われました。
この頃、別の転機もありました。ともに十字架を背負ってくれる伴侶との出会いです。』
2000年に結婚したのは、やはりがん研究者の英国人の男性でした。
3人の息子さんがおられます。2人は大学生、三男は高校生です。
『勤めながらの育児は大変でしたが、研究者仲間だった夫が、日本に帰国した2006年10月から、主夫に専念してくれたので、乗り切ることができました。私のキャリアがあるのは彼のおかげといっても過言ではなく、いくら感謝しても足りません。』
エーザイ・ヨーロッパを経てエーザイに入社した2006年に、日本に移ってきたのですね。そのときから、軽井沢に住み、片道2時間の新幹線通勤を始めました。この4月には東京にも居を構えました。

ベンチャーキャピタルITX時代、投資先を探して欧州とイスラエルの大学を訪ね回る日々でした。ベンチャーを立ち上げた若手経営者たちと熱く語り合い、彼らの夢と野望に心を躍らせました。
ただし、新薬の開発には膨大な時間が必要で、市場に出るまで10~15年かかるのも普通です。一方、VCの投資期間は8~10年程度と短いです。矛盾に悩んだ末、エーザイヨーロッパに転職しました。

もともとエーザイには優れたがんの新薬候補があり、認知症の薬は開発すれば社会に大きく貢献すると考えました。
『製薬会社は負担を他社と分け合っておらず、すべて自社でまかなうビジネスモデルに固執していました。そんな中、米企業と連携し、6つの化合物について、11の適応症を開発したので、かなり周りには驚かれました。』
「ギリアデル」という悪性脳腫瘍の新薬の開発では、ノーベルファーマ(東京・中央)と組みました。開発と販売の権利はエーザイにあったのですが、社内にこの分野のエキスパートがおらず、一方で、この分野に精通したノーベル社のYさんから「私に任せてくれ」とのオファーを受けました。約束通り、Yさんはギリアデルの承認取得をなし遂げ、晴れて日本の患者に届けることができました。
『認知症治療薬の開発も、開発を進めていた米バイオジェン社と共同で行うことにしました。』
『アルツハイマー型認知症の新薬登場が長年滞っていたなか、先頭を走って承認を得たことで、この領域に挑戦する研究者たちを勇気づけることができたと、誇りに思っています。』

日本の新型コロナ対策の問題点として、「リアルワールドエビデンス」(実世界においての証し)が欠けていることだとのことです。英国では毎週、政府がコロナ感染の報告書を出しており、どのようなワクチンを接種した人が、その後どうなったかなどが一目でわかります。
それに対して日本では、接種履歴、医療情報、介護情報という3つの情報がつながっていないので、英国のような調査を定期的に行うのは事実上不可能なのです。

やはりそうでしたか。私は、この2年間の日本でのコロナの対応を見ていて、整理された情報が全く出てこないことを疑問に思っていました。データが出てくるとそれは外国のデータです。「日本ではデータが蓄積されていないのだろう」と想像していたのですが、想像していたとおりだったのですね。

日経新聞の「人間発見」や「こころの玉手箱」では、今まで知らなかった凄い人を知ることができます。このブログでも、国連事務次長・中満泉さん 2020-06-13建築家・早間玲子さん 2020-06-14を紹介してきました。
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日経・もがくデジタル庁

2022-04-24 08:55:11 | 歴史・社会
日経朝刊4月18日~21日に「もがくデジタル庁 1~4」が連載されました。

この4月から、マイナ保険証を使うと支払う初診料が高くなるという制度がスタートしました。初診時には21円、再診時には12円が上乗せとなります。厚労省が、マイナ保険証の普及には病院などの設備投資を後押しする必要があると判断し、診療報酬の引き上げを優先したのです。
『国民生活を便利にするはずが、なぜユーザー不在の政策と化したのか--。デジタル庁はデジタル行政の司令塔役を期待され、他省庁への勧告権など強い権限を持つはずだった。それにもかかわらず診療報酬に関する既得権益への配慮が立ちはだかった。』

萩生田経産大臣は、「デジタル庁がもっと大きな絵を描いてくれるかなという気持ちもあったが、今のところそういう動きもない」(1月の記者会見)として、経産省が独自に社会インフラのデジタル化の工程表を作ると表明しました。

デジタル庁の組織問題も露呈しました。飲食店など事業所のデータ整備事業について、昨年11月時点で事業に問題があることがわかっていながら、結論を先送りして入札の公開(1月)に至ってしまい、3月になって中止する異例の事態となりました。『問題があるときに中止を建議する責任者がいないことがぶざまな展開につながった。』

『ガバナンスが迷走しつつあるデジタル庁から民間も距離を置き始めた。ある電機大手は3月末に出向中の技術者を引き上げ、後任を送らなかった。このままでは持たないとの危機意識がデジタル庁を覆う。』
(以上、もがくデジタル庁(1)「誰が決めているのか」2022年4月18日

2021年12月14日、職員のパソコンに幹部連名の「謝罪メール」が送られてきました。組織体制の混乱を謝罪する内容であり、「責任分担があいまいになり、情報共有もできていない」状態だった、とするものです。

『民間からの出向者200人を含む約600人で立ち上げられたデジタル庁。それなのに「仕事ができる」とされる20~30人の官僚が兼務の形であらゆる案件に絡むようになるまで、時間はかからなかった。違和感を抱いた民間出身者は反発した。』
「会議が多すぎる」「同じような書類を何度も作っている」兼務者が多いため根回し先が増え、不毛な業務の水準は「ほかの役所と比べても異常な水準」(官僚出身の若手職員)に達しました。
『21年度末にかけ、デジタル庁で働いていた職員が10人近く一斉に退職し、通信大手や外資系コンサルなどに転職した。いずれも優秀な若手だが「ここにいても未来はないと思ったのだろう」と中堅職員は解説する。』

この春には、100人近い新たな職員が加わりました。その半分は地方自治体からです。「中央官僚文化の霞ヶ関」「民間の意識」に「地方」の感覚が加わり、『壮大な組織立ち上げの実験は、息を継ぐ間もなく次の段階に突入している。』
(以上、もがくデジタル庁2 「会議に出たくない」2022年4月19日

第3回は、送電線や鉄塔の保守点検をドローンとAIに任せようとする改革が、規制の壁に突き当たっている、といった話です。民間の事業のデジタル化について、規制が立ちはだかっているという内容で、「行政のデジタル化」とはちょっと離れます。
『「デジタル庁のやりたい方向性は分かるがそう簡単ではない。お手並み拝見だ」との声が公然とデジタル庁に寄せられる。現状維持の姿勢が根強い各省庁をどこまで説き伏せ、規制を取り払えるか。デジタル庁の突破力が試されている。』
(以上、もがくデジタル庁3 「お手並み拝見だ」2022年4月20日

2021年10月、行政向けシステム基盤「ガバメントクラウド」の選考事業の公募がありました。ガバメントクラウドは、省庁や自治体が各自運営してきたシステムを共通化するデジタル庁の目玉事業です。
ところが、公募でデジタル庁が求めた要件は、「米アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)のプレゼン資料そのものだ」、ということです。結局、AWSとグーグルの米2社が選ばれました。
政府からは「国産クラウド」の選定を求める声も上がりましたが、NTTデータやNECは必要な実績や性能を満たせず、応募もできませんでした。
官庁などで使われているシステムはNEC製も多く、「実績やノウハウがある」と強調しますが、クラウド事業では土俵にも上がれず、米企業が担うデータ基盤への移行作業を請け負うしかないのが現状です。
(以上、もがくデジタル庁4 「結局アマゾンか」2022年4月21日

しかしこの現状は、デジタル庁が何とかできる問題ではありません。このブログの「クラウドの世界シェア動向 2021-12-08」でも述べたように、世界のクラウド市場における上位3社(アマゾン、マイクロソフト、グーグル)の寡占は進む一方であり、日本の企業は出る幕がありません。
私は12年前、このブログで「クラウドコンピューティングとは何か 2009-11-25」との記事を書きました。2009/4/23発売の「クラウド大全」という書物の内容をレビューした記事でした。
私が「クラウド大全」を参照して記事を書いてから12年間、日本でクラウドインフラに関する技術や事業が大幅に拡大した話を聞くことができません。クラウドインフラに関して日本企業の躍進は見られず、デジタル庁が選定したクラウド提供企業も、結局はアマゾンとグーグルなのですね。クラウドインフラを提供する日本発の事業が立ち上がる気配はないのでしょうか。

もがくデジタル庁4 「結局アマゾンか」では、もう一つの話題があります。
20年6月に、独仏政府は企業間などの国際データ流通基盤「ガイアX」を公表しました。これに対抗するための日本政府の施策として、1月上旬、デジタル庁のサイトに「産業データ連係」の入札公告がひっそりと載りました。『欧州から約2年遅れで指導する「日本版データ流通基盤」だが、まだ調査段階に過ぎない。』

日経新聞「もがくデジタル庁」の内容は以上です。
デジタル庁の状況については、日経「ニッポンの統治 危機にすくむ④」2021-12-05でも取り上げました。
日本の行政、デジタル化拒む本能 使い勝手より組織優先
ニッポンの統治 危機にすくむ④ 2021年11月25日 日経新聞
『9月に発足したデジタル庁の動きが鈍い。政府内のやりとりからは電子化の推進役とはほど遠い姿勢が浮かび上がる。』
『デジタル庁の民間人材も突破口になっていない。企業出身の職員が電子化を提案すると、個人情報保護法や自治体実務の慣習を盾に「複雑な業務だから無理」と返される。「技術に詳しくても行政知識で負けるので論破しにくい」とこぼす。』
『壁をつくることで自らの責任が問われるのを避けようとする日本の行政機構。』

業務のシステム最適化について、私は成功例を「私の履歴書・野路國夫氏 2022-04-23」で紹介しました。失敗例を次回紹介する予定です。
どうも、デジタル庁については、良い話は全く聞かれず、失敗に向けて進んでいるようです。

また、デジタル庁に関連する記事では、閣僚の顔が全く見えてきません。これだけ、もともとの計画から離反しつつあるのですから、正しい方向に戻すためには閣僚が頑張るしかありません。牧島かれんデジタル大臣は、この舵取りには任が重いのでしょうか。そうであれば岸田総理が指導力を発揮しなければなりませんが、それも期待できなさそうです。

以上の記事を書いていたら、「<独自>デジタル庁事務方トップの石倉氏退任へ 4/23(土) 産経新聞」という記事が飛び込んできました。
『デジタル庁の事務方トップ「デジタル監」の石倉洋子氏(73)が退任する見通しとなったことが22日、分かった。早ければ5月にも退任する方向で、昨年9月の就任から1年足らずという異例の早さでの交代となる。政府はデジタル分野の専門家をあてる方向で後任人事の調整に入った。』
石倉氏の専門は経営戦略やグローバル人材であり、デジタルは専門ではありませんでした。当初から石倉氏の適性を懸念する声もあったとのことです。デジタルへの知見が少ないことや体調問題などがネックとなり、今年に入ってからは登庁機会や政府の会議への出席も減っていたとのことです。

これはもう、デジタル庁が関連する日本のデジタル改革は、とてもではないが期待することはできなさそうです。
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私の履歴書・野路國夫氏

2022-04-23 09:21:03 | Weblog
4月の日経新聞・私の履歴書は、コマツ特別顧問 野路國夫さんです。
野路さんは1946年生まれの75歳、私とほぼ同年代です。大阪大学の基礎工学科を卒業して小松製作所に入社し、コマツ一筋で社長・会長を歴任し、現在に至っています。
野路さんの私の履歴書の中で、特に興味を引かれたのは、社内システムの改革についてです。

日本は、特に行政においてデジタル化の遅れが顕著であり、昨年はデジタル庁が発足しました。しかし、業務のコンピュータシステムの改善で大きな成果を得るためには、まず業務の仕組み自体をコンピュータシステム化しやすいように改革することが必至です。
先週の日経新聞朝刊のシリーズ記事「もがくデジタル庁」で、行政の業務改革が進んでおらず、デジタル庁による行政デジタル化がうまくいっていない状況が露わになりました。その記事の内容について追々ここで述べようと思いますが、まずは、デジタル化の成功例として、野路さんによるコマツでのシステム改革を紹介します。

1995年、野路氏はアメリカのチャタヌガ工場長に着任しました。5年の約束でしたが、わずか2年で突然日本に呼び戻されました。
当時、坂根正弘常務(後に社長)が米国への駐在経験から社内のITシステムの刷新を強力に主張していました。
『システム刷新に抵抗するのは、仕事のやり方の変更を迫られる現場と相場が決まっている。「生産畑の長い野路をERP導入の責任者に据えれば、各工場の抵抗も小さくなるだろう」という作戦だったようだ。』
そんな経緯で1997年に本社の情報システム本部長に就任しました。
『安崎暁(あんざきさとる)社長からは「生産や販売など会社のすべてを網羅する統合基幹業務システム(ERP)を導入することに決めた。そのプロジェクトリーダーとして指揮をとってほしい」と指示された。』
コンサルティング会社と一緒に一通りの各機能のチェックを行い、ソフトウエアはオランダ・バーン社のもの、ハードはIBMのメインフレーム(大型汎用機)「Z9」に決定しました。
『システム変更への抵抗は海外でも強かった。ERP導入に連動し、部品表を世界で統一したので、イタリア工場ではそれまで慣例だった顧客ニーズに応えた独自の製品カスタマイズができなくなると猛反発が起きた。ドイツなどでも同様の声が上がった。
そこで世界の工場を訪ね「過去の常識を捨て、仕事の仕方を切り替えてほしい」と説得して回った。』
(以上、(13)ITの威力

こうして、コマツは業務改革とセットで、コンピュータシステムの更新を実現しました。次回の記事はその効果についてです。

統合基幹業務システム(ERP)導入のインパクトは野路氏の想定よりはるかに大きいものでした。コマツの経営に新機軸をもたらし、社員の意識と行動にも大きな変化が生じました。
まず効果を発揮したのが、コスト構造を見える化する「SVM(標準変動利益)」管理です。これにより、同じ機種を生産するときに、例えば日本と米国とインドネシアの工場のうち、どこが最も低コストでつくれるのか、実力が一目瞭然になりました。また固定費の割り振りをやめたことで、個別最適から全体最適へ、連結経営重視のマインドセットが組織に定着しました。
『管理会計の方式次第で、組織の関心事がこれほど急に変わるのかと、目からうろこの落ちる思いだった。また固定費については売上高が増加しても増やさない方針が徹底された。実際、世界の建設・鉱山機械の市場が03年ごろから再び成長し始めると、固定費抑制が寄与し、利益を大きく押し上げた。』

加えてそれまで工場ごとにバラバラだった「部品表」を世界的に統一したことで、世界のどこの工場でも同じ製品をつくれる体制が整い、工場間の生産移管も容易になりました。
その結果、忙しい工場の仕事を暇な工場に肩代わりしてもらうことで、売り損ねなどを防げます。

『00年から07年にかけてコマツの売り上げはほぼ倍増したが、コスト増は抑制され、07年度の営業利益率は日本の製造業としては高水準の約15%に達した。その原動力のひとつが、柔軟なグローバル生産体制に道を開いた新システムだった。』
(以上、(14)生産本部の悲哀

以上の話は、コマツにおいて実現した、「システム改善の成功例」ですね。このような成功をもたらすためには、各職場の業務構造を変革することが必須であり、それまでと比較して不便になるところが必ず生じますから、現場の大反対は必至です。その現場を説得して、デジタル化の効果を最大限発揮できるような業務構造に変革するためには、リーダーのリーダーシップが重要であることが、これで明らかです。

次回は、「日経・もがくデジタル庁」を記事にします。システム化の失敗例としての特許庁の事例は、そのあとで紹介します。
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私の履歴書・浮川和宣氏(3)

2022-04-19 16:00:00 | Weblog
前号に引き続き、「私の履歴書・浮川和宣氏」の第3回です。

「三太郎」の発売から2年の1989年4月、バージョン4を発売しました。このバージョンは画期的な機能を有していました。ジャストウィンドウと名付けたウィンドウシステムを採用し、「花子」や「五郎」などのソフトを一つの画面で同時に使えるようにしました。
しかし、当時のパソコンの内蔵メモリーは640kBが主流で、この容量ではバージョン4を十分に使いこなすには足りませんでした。メモリーボードを発売しましたが8万円もしました。
問題はハードのメモリー不足にとどまりませんでした。深刻なバグが多く存在していたのです。バージョン4は店頭から回収することになりました。((21)試練)

(私自身の感想その他について、《 》でくくって表示します。)
《わが家にはじめて導入されたパソコンは、PC-9801RAです。1989年頃でしょうか。CPUは80386、ハードディスク未装着で、外付け40MBのハードディスクを別途購入しました。OSはもちろんMS-DOSです。
ウィキによると、『PC-9801RA/RX前期 1988年7月(RA)/9月(RX)5インチFDD搭載、大型筐体、FM音源なし。CPUはRA2/5が80386DX/16MHz+V30/8MHz、RXが80286/12MHz+V30/8MHzを搭載。RA5は固定ディスクドライブ(SASI HDD、容量40MB)を、RX4は固定ディスクドライブ(SASI HDD、容量20MB)を搭載。』とあります。》
《私は、PC-9801RAをいかにしてオアシスライクにカスタマイズするかに苦心しました。親指シフトキーボードとして、ASkeyboardを購入しました。知人から親指君を借りて使ったりもしました。ASkeyboardについて詳しくはこちらに、親指君についてはこちらが詳しいです。》
《当時の私のアマチュア無線のシャックを写した銀塩写真がありましたので、デジカメで撮り直しました(下写真)。
 
 
パソコン本体は、デスクの右隣の自作棚に収納しています。その上に乗っているのは、ドットインパクトプリンターです。上写真に写っているパソコンのキーボードが親指君です。》
《PC-9801RA上のワープロソフトとして何を使ったのか記憶が定かではありません。多分、ワープロソフトは使わず、エディターを使っていたのでしょう。エディターはVzエディターです。》
《MS-DOSの時代、パソコンのかな漢字変換機能が搭載されている部分はフロントエンドプロセッサー(FEP)と呼ばれていました。Windows時代のIMEですね。日本語FEPとして、最終的にはWXシリーズを使っていた記憶があります。》

《私は一太郎を使っていませんでしたが、一太郎4で問題が発生している噂は聞いていました。巷間で「与太郎」と呼ばれていたことも。》
《当時のOSであるMS-DOSは、メモリー空間として1MBしか認識できません。プログラムは、このメモリー内で処理をしなければならないので、性能が著しく制約されていました。一太郎4は、時代の先を行き過ぎていたのですね。》

さて、「私の履歴書」です。
デバッグのために合宿しようと提案したのが福良伴昭さんでした。徳島大学歯学部時代のアルバイトから、一太郎シリーズの開発では中心的な役割を担う社員になっていました。鳴門市の公営施設で、24時間体制でデバッグの作業に集中しました。
バージョン4発売から半年後、とうとうデバッグが完了したのが一太郎バージョン4.3でした。既存のユーザーには無料で配布することとしました。結局、バージョン4シリーズは累計販売63万本の大ベストセラーとなりました。((22)バグ除去合宿)

1994年、マイクロソフトが発表したのが「ウィンドウズ3.1」でした。
1995年、ウィンドウズ95が出現しました。そこから「ワード」との戦いが始まりました。
ジャストシステムは、学校と自治体向けに、キメの細やかな対応でシェアを取ろうとしました。公立小学校では85%で使われるソフトに成長し、官公庁向けでも根強い支持をもらいました。しかし、ウィンドウズのシェア拡大とともに、一太郎は徐々にシェアを落としていきました。((23)ワードと開戦)

《私が1995年から所属していた職場では、ワープロとしてオアシス(ワープロ専用機)が使われていました。1996年、ウィンドウズ95パソコンが一人に一台配布され、ワープロとしてはワードを使うこととなり、オアシスは職場から一掃されました。同じように、今まで一太郎が使われていた環境で、ワードによって一太郎が駆逐されていく状況は理解できます。》
《わが家でも1996年にウィンドウズ95パソコンを導入しました。富士通製です。パソコンには、ネットスケープをネットからダウンロードして使用できる特典がついていました。わが家は2400bpsのモデムでネットと繋がっており、30分くらいかけてネットスケープをダウンロードした覚えがあります。》
《その後、マイクロソフトのInternet Explorerがシェアを伸ばしていきました。私は意地になってネットスケープ(ネスケ)を使い続けていたのですが、ネスケ自身が降参してしまい、その後は私もInternet Explorerを使うことになりました。》
《表計算についても、MSDOSの時代はロータス1-2-3が一人勝ちでしたが、ウィンドウズ95になってエクセルに駆逐されてしまいました。》
《以上のような状況ですから、一太郎がワードに負けを喫することも致し方なかったでしょう。》

2007年末、キーエンスとの業務提携の話が持ち上がりました。この時点でジャストシステムの業績悪化はますます厳しくなっていました。
2008年のリーマン・ショックの後、キーエンスが出資比率43.96%で出資し、和宣氏は会長、初子氏は副会長に退くことになりました。後任社長は福良伴昭さんです。((26)卒業)(右端が福良さん)

キーエンスからは、基礎研究は不要でチームの解散を要求されました。このチームを率いるのは初子さんです。話し合った結果、初子さんがジャストシステムを離れ、彼ら、彼女らを引き連れて独立することになりました。整理の過程で、和宣さんも同時期にジャストシステムを退任することとなりました。((27)再出発)(再び起業)

2016年、アップルのiPadについて和宣さんは、日本で発売される前に、昔からお世話になっていた弁理士の先生がハワイまで行って買ったというiPadを見せてもらいました。和宣さんは、これこそが次の革新だと実感しました。このマシンを使って、手書きですらすらと文章を書けるようなアプリを作ろうと決めました。7notesの名前でリリースしました。((28)手書きアプリ)

2012年、「MetaMoji Note」をリリースしました。
大林組は、iPadを現場に配布しましたが、現場で受け入れられていませんでした。どんなアプリが現場で使われているか会社で調査したところ。「MetaMoji Note」を野帳の代わりに使っている社員が多いことがわかりました。野帳とは、建設業の現場監督が肌身離さず持ち歩いている現場の手書きメモ帳です。そこで2004年、大林組の人が浮川さんらの事務所にやってきたのです。
それならば電子野帳を作ろうと、大林組との協業が始まりました。15年に完成した「rYACHO」は、今では建設現場だけでなく広く使われるようになっています。建設業以外の現場でも使ってもらえるように工夫したのが「GEMBA Note」です。このソフトは、映画撮影や、歯科医の診療現場でも使われています。((29)現場で役立つ)

「生涯現役。先のことは分からないがこれからも初子とともに、この流れの中に身を置いて夢中でこぎつづけていきたい。それが私の人生だ。」((30)生涯現役

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私の履歴書・浮川和宣氏(2)

2022-04-18 17:58:02 | Weblog
前号に引き続き、「私の履歴書・浮川和宣氏」の第2回です。

和宣さんが会社を辞め、初子さんとともに徳島の初子さんの実家を本社として会社(ジャストシステム)を設立しました。
徳島でオフコンの営業を始めましたが、1台も売れない日々が半年も続きました。半年経った頃、吉成種苗という地元の会社にオフコンが売れました。
『正式に契約してもらった日のことは生涯忘れない。ジャストシステムのオフィス、つまり初子の実家に戻り台所の扉を開けると彼女の祖母・義子さんがいた。
「注文もらいましたよ。売れました!」
開口一番、そう言いながら涙が流れる。おばあちゃんも涙が止まらなかった。初受注に成功したことを知った初子も泣き出してしまった。』
受注第2号は、初子さんの母・陽子さんの俳句の会で、俳句仲間のご主人が建設会社を経営しており、そこから契約となりました。
『私が売り、プログラマーの初子がお客様の要望を取り入れたオーダーメードのシステムを作り上げていく。その後も代わらぬ夫婦の役割分担が、徐々にではあるが回り始めたのだった。』((12)オフコン)

オフコンの仕事は回り始めてはいましたが、限界も感じ始めていました。一方、80年代に入るとコンピューターを取り巻く環境が大きく変わり始めていました。
NECの8ビットパソコンPC-8001が発売されたのが79年です。
和宣さんは早くからパソコンを入手してBASICというプログラミング言語で簡単なゲームを作ったりしていました。いずれ「1人に1台」の時代になったとき、パソコンには何が一番求められるだろうか。
当時、コンピューターへの漢字入力は、各漢字の4桁JISコードを入力することにより行っていました。79年には東芝が日本初のワープロ「JW-10」を発売しましたが、価格と大きさはオフコン並みでした。
『私はだれもが簡単にパソコンで文章が作れるような日本語ワープロを作りたいと考えるようになった。そうすれば日本人の知的生産性を飛躍的に高められるはずだ。
思うようにオフコンが売れない中で、私はひとり、そんな考えを巡らせるようになっていた。』((13)パソコン登場)

『初子は前職でオフコンのOS開発に参加していたこともあり「日本語の入力をOSのレベルで組み込めないか」と構想していた。』
徳島市で工業展示会が開かれ、そこに取引関係があったロジック・システムズ・インターナショナルの営業部長が視察に来ていました。和宣さんはその部長に、日本語のかな漢字変換ソフトの必要性を説きました。営業部長は「東京に来てうちのエンジニアに説明してもらえませんか」と言います。東京では技術を預かる初子さんが説明しました。徳島に帰ってから、その営業部長から電話がかかりました。
『ご説明いただいたソフトですが、うちのエンジニアは「あの人たちでできるんじゃないか」と言うんですよ。』
和宣さんが隣の初子さんに聞くと、初子さんの答えは「できるよ」と、明確にして簡潔なものでした。
『こうしてオフコンの販売代理店だった我々ジャストシステムは日本語ワープロソフトの開発を始めた。初子が構想した「OSレベルで日本語を入力する方式」を提供する会社へと変貌を遂げたのだ。
初子にOS開発の経験があり、パソコン向け汎用OSが出始めた時期に呼応した日本語入力の構想。そこにハードメーカーとの接点を得た。千載一遇のチャンスである。1982年夏のことだ。』((14)かな漢字変換)(写真は手書きで作った当時の企画書)

(私自身の感想その他について、《 》でくくって表示します。)
《いよいよ、初子さんのプログラマーとしての活躍が始まりました。》
《初子さんの高千穂バローズでの経験は、新入社員としてせいぜい数年の経験です。その程度の経験を糧として、前人未踏の分野を開拓していくわけですから、初子さんの才能はやはり人並み外れています。》

こうして生まれた「OSレベルでの日本語入力」をデータショーで発表すると反響を呼びました。
その頃、ジャストシステムはオフコンの販売だけでなく、プログラミング言語として「マイクロソフトBASICコンパイラー」を使って、業務用ソフトの開発も行っていました。初子さんは、マイクロソフトに利用料を払わないといけないかも、と懸念し、東京のアスキーマイクロソフトに電話しました。
電話に出たのが、後の日本マイクロソフトの初代社長になる古川享さんでした。古川さんが関心を示したのは利用料ではなく、初子さんの開発でした。四国のとあるシステム代理店が日本語入力システムを開発した話が、古川さんの耳にも届いていました。初子さんは電話で「一度、うちにも遊びに来てくださいよ」と言われました。
その後東京のアスキーを訪問すると、古川さん不在で、入社4日目の成毛真さん(日本マイクロソフトの2代目社長)でした。
もう少し後のことですが、初子さんは成毛さんから貴重なヒントを得たことを覚えています。「もっとニュートラルな誰でも使える普通のワープロを作らないといけないんじゃないですか」
この回の写真には『日本語入力搭載の「NCR9005」を公開した』と説明されています。「NCR9005」というパソコンに搭載した機能として、初子さん開発の日本語入力機能が使われたのでしょうか。
その後、個別のパソコン搭載ではなく、ソフト別売りワープロソフトとして「一太郎」に発展していきます。その端緒となるヒントが、マイクロソフトの成毛さんから得られた、ということでしょうか。((15)展示会で発表

1983年、NECがジャストシステムのワープロソフトに興味を持ち、新開発のパソコン(PC-100)に搭載するワープロソフトを、3ヶ月という超特急で作成する業務を受けました。そのとき、徳島大学歯学部の学生でアルバイトとして働いていた福良伴昭さんが中心的役割を担いました。徹夜続きの作業で完成したのが「JS-WORD」です。搭載したパソコンがさほど売れなかったので、このソフトもそれほどのヒットとはなりませんでした。NECがすでに販売していた「PC-9801」の方が大ヒット商品になったためです。((16)ワープロソフト)

ジャストシステムが作成した「JS-WORD」は、アスキーのブランドで販売していました。
1985年、ジャストシステムは、日本IBMのパソコンに搭載する「jX-WORD」、NEC「PC-9801」対応の「jX-WORD太郎」、その後継の「一太郎」を次々と発売しました。((17)一太郎誕生)

「一太郎」は1年足らずで3万本を突破しました。ユーザーから受け入れられた理由は使い勝手の良さでした。
○仮名漢字自動変換での連文節変換
○同音異義語について、利用の頻度や文章からふさわしい漢字を自動で選択
○スペースキーでの入力
○これら日本語変換機能を「ATOK」に進化させ、他社のソフトでも使えるようにした。
今では当たり前のこれら機能は、1980年代半ばの当時は画期的であり、いずれもジャストシステムが構想したもので、商品として作り上げていったのが、初子さんが率いるエンジニアたちでした。
続けざまにバージョンアップを打ち出しました。そんな一太郎を販売面で支えてくれたのが日本ソフトバンク(当時)でした。((18)大ヒット)

(私の感想その他を《 》でくくって掲載しています。)
《一太郎とATOKの上記特徴は、ジャストシステムが開発した飛び抜けて優秀な機能です。これらの開発秘話が、プログラマーの立場で詳細に語られることを期待したのですが、残念ながら私の履歴書の記述は不十分でした。やはり、初子さんに直接話を伺わなければ本当のことはわからないようです。》

《1985年当時、「ワープロ」は、パソコン搭載のワープロソフトではなく、「ワープロ専用機」が主流でした。ワープロ専用機の値段もこなれてきて、1985年当時、私のような若手サラリーマンでもワープロ専用機が購入できる時代に入っていました。》
《私はこう考えました。100年前にアメリカでタイプライターが生まれて、英語の文章入力に革命が生じました。同じように1985年当時、日本語ワープロが生まれて、日本語の文章入力に革命が生じるのではないか。》
《いろいろ調べたところ、富士通のワープロ専用機「オアシス」が、独特のキー入力方式「親指シフト」を採用し、使いやすそうでした。オアシスにはさまざまな機種がある中、私は1985年、「OASYS LITE F」を購入しました。液晶で4行表示のノートタイプです。》
《1986年に、半導体用シリコンウェーハの製造会社に出向になりました。その職場では、ワープロとして親指シフトのオアシスが全面的に使われており、自宅での使用環境と一致しており、私には好都合でした。こうして、現在に至るまでの親指シフトとの付き合いが深まっていきました。》
《一太郎と、日本語変換ソフト「ATOK」です。私は一太郎を使わず、ATOKを使うようになったのも最近です。1985年当時、一太郎とATOKがどの程度斬新だったのかは知りません。しかし、あれだけの人気が出たのですから、とても使いやすかったのでしょう。このようなヒット商品を生み出す過程で、和宣さんと初子さんがどのように役割分担したのかが知りたかったのですが、私の履歴書ではそのあたりの詳しい説明はなされていませんでした。》

次々と打ち出す一太郎のバージョンアップにおいて、重視したのがお客さんの声でした。一太郎のパッケージの中に、意見用のはがきが同封されていました。
87年に発売したバージョン3は31万本の大ヒットとなり、「三太郎」の愛称で親しまれました。((19)うれしい悲鳴)

《私の職場には、PC-9801も何台か稼働していましたが、文章入力機器としてはオアシスに満足しており、「一太郎を使いたい」という要望は出ていなかったように記憶しています。》

1987年、自社ビルを建てることになりました。それでも足りそうもなく、隣に2号館が建ちました。
ジャストシステムは社員の半分は女性でした。理由は、優秀な人が多かったからです。本社の隣に託児所を作りました。
ジャストシステムは、会社が大きくなっても徳島から東京へは移転しませんでした。徳島なら関西や四国の優秀な人たちがどんどん集まってくれる。この効果は絶大でした。((20)本社建設


戻る                            続く
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私の履歴書・浮川和宣氏(1)

2022-04-17 09:43:51 | Weblog
日経新聞、3月の「私の履歴書」は、ジャストシステムの創業者であった浮川和宣さんでした(私の履歴書・浮川和宣)。
ジャストシステム創業の立役者と言えば、ご夫君の和宣さんよりも、奥様の初子さんの方であろう、というのが私の持っている印象です。「私の履歴書にどちらか一方が登場するのであれば、初子さんの方ではないか」
しかし、ネットで検索してみると、和宣さんの情報は多く見つかりますが、初子さんの情報がほとんど見つかりません。ウィキペディアにも和宣さんしか登場しません。どうも、「対社会の窓口は和宣さん」ということで役割分担してきたのかも知れません。私の履歴書も、執筆は和宣さんですが、初子さんの活躍の様子さえしっかり描写してもらえれば良いです。
この記事では、「私の履歴書」に基づいて浮川和宣さん・初子さんご夫妻の業績をたどっていきます。
その中で、私自身の感想その他について、《 》でくくって表示することとします。

和宣さんは1949年に愛媛県新居浜市生まれ、一浪で愛媛大学に入学します。初子さんは1年下で徳島県に生まれ、香川県の高松高校を出て、和宣さんと同学年で愛媛大学に入学します。

《私が1948年生まれの理系人間ですから、和宣さん、初子さんのたどった人生と同じ時期を生きてきました。そのため、共感することが多々あります。》

和宣さんは電気工学科を選び、アマチュア無線のサークルに参加しました。同じ新人の中に、電子工学科の初子さんが来ていました。工学部の同級生で女子はたったの2人でした。サークルの会合後に一度下宿に帰り、古本屋に教科書を買いに行きました。そこに同じ女性が来ていました。
「これが生涯の伴侶である橋本初子との出会いだった。彼女は徳島の出身。土地勘がある私が松山の街を案内するうちに、すぐに打ち解けるようになった。」
「4年間はあっという間に過ぎ、初子ともしばしの別れがやってきた。」((4)出会い)(学生時代の筆者(右)と初子さん)

初子さんの実家は4代続く女系家族でした。祖母の義子さんは米屋の娘で、父親が店を大きくするのを手伝ったといいます。母の陽子さんは今も藍染め作家として活躍しています。
「コンピューターに興味を持つようになったのは私よりも早く、中学生の頃からだという。お父さんが銀行の業務推進本部でオンラインコンピューター導入の責任者だった。」
「コンピューターの仕事のなかでも彼女が選んだのがプログラマーだった。」
初子さんや仲間たちとの学生時代はあっという間に過ぎ、和宣さんは姫路市にある西芝電機に就職、初子さんは初志貫徹でプログラマーとして東京にある高千穂バローズ(現日本ユニシス)に入社しました。((5)初子)(写真・前列左が初子さん)

《私の中学時代、父親が勤務する会社にコンピューターが導入され、そのことがわが家で話題になりました。私は中学で天文研究会に所属し、その中で、月の表面の熱伝導の挙動について調べることがありました。理科の先生に聞きに行ったら、熱伝導に関する微分方程式を教えられました。中学生の私にはもちろん、微分方程式を数学的に解くことはできません。しかし、式を眺めていたら、『これは(のちに知ることになる)差分で数値計算すればいいのではないか』と思いついたのです。『父親の会社のコンピューターが使えるのではないか?』しかし、妄想もここまで。“中学生がコンピューターで微分方程式を解いた”という快挙は生まれませんでした。》
《大学では流体力学の研究室に所属し、FOTRANを駆使してコンピューター数値計算に没頭しました。ただし、就職先としてはコンピューターではなく、製鉄会社を選びました。》

和宣さんは西芝電機に入社し、船舶の設計関係の仕事をしていました。
駆け出し時代、恋人の初子さんが住む東京に、給料日の次の金曜に通ったとのことです。「銀座は端から端まで二人で歩き、映画もよく見に行った。」
「こんな遠距離恋愛も2年がたった頃、私と初子は結婚することになった。ただ、互いに長男と長女だ。女系家族である初子の実家からは猛反対されることになった。」((6)就職)

特に彼女の母方の祖母が猛反対しました。そこで、初子さんの父の昭さんにお会いし、おばあちゃんの説得を頼みました。そして二人は無事に結婚することができました。「それに、後述するがおばあちゃんも含めて橋本家のの皆さんにはジャストシステムの創業期に多大な恩を受けた。」
初子さんは高千穂バローズを退社し、網干にある西芝電機の社宅にやってきました(1975)。
「結婚してしばらくたつと地元の職業安定所に希望の職種を「コンピューターのプログラマー」と書いて応募した。その日の夜中に自宅に電報が届き仕事が決まった。東芝のコンピューターの代理店だった。ここから二人の人生はコンピューターの世界を舞台に動き始めることになったのだ。」((7)新婚生活)(写真は結婚前に初子さん(左)と)

《私が会社勤務を始めたのが1973年、勤務する会社は工場がオールオンライン化され、IBMの花形機種であるシステム360が6台、稼働していました。私は、精錬容器内での溶融金属の流動挙動を解明すべく、非定常ベルヌーイの式を数値計算で解く仕事をしていました。コンピュータールームのパンチカード機に向かい、自分でFORTRANのコーディングをした上で、IBM360で計算を行っていました。》

初子さんは、東芝のオフィスコンピューターの代理店にシステムエンジニアとして職を得ました。
二人が結婚した1975年、東芝は12ビットマイクロプロセッサーの「TLCS-12」を本格的に実用化していました。
『時代の転換期が押し寄せようとしていることを、私(和宣さん)はひしひしと感じていた。
そんな時に初子の会社の先輩が独立することになった。初子も誘われたのだが、その際に考えた。・・・(会社員だけが人生ではない)・・・・』
「では、自分はどう生きるべきだろうか。29歳にして決断の時が迫っていた。」((8)妻、エンジニアに)(写真は新婚時代に初子さん(左)と)

1978年の秋、初子さんが電話で実家の祖母・義子さんと話していました。
『祖母は「そろそろ徳島に帰っていたらどうか」と言っていたという。・・・それだけならともかく、「これからは四国でもコンピューターが使われるようになるから」とも。商家に育った義子さんは鼻の利く人だった。
「そんなに簡単やないのにね」と初子。・・・
「俺、やってみようかな」
「えっ、なんで?」』
「同じアホなら・・・」と決断
正月に初子さんの実家に行くと、地元の銀行の支店長だった義父が地元の経営者たちが集まる新年会に誘ってくれました。コンピューターについて尋ねると、未採用だが関心があるという人が多くいました。「やはり私の考えは間違っていない。
こうして私は6年間勤めた西芝電機を辞めて独立することになった。」((9)独立)

「西芝電機を辞めて独立したのが1979年4月のことだ。妻・初子の実家がある徳島に拠点を置いて、オフィスコンピューター(オフコン)を地元の企業に売り込もうと考えた。」
義父の親類の紹介で、日本ビジネスコンピューター(JBCC)創業者の谷口数造さんに会い、JBCCの販売代理店をやりたいとお願いしました。和宣さんが営業の経験を全くもっていないことから、大阪のJBCCの営業所で営業の研修を受けることになりました。研修担当の営業マンにあるビルの前に連れて行かれ、「このビルの上から下まで全部の会社に飛び込み営業をかけてください」と言われました。結果は散々なものでした。
二人で話し合った上で研修を2ヶ月で切り上げて徳島に行くことにしました。
『私たちの会社の名前は「ジャストシステム」。大きくも小さくもなくちょうど良いという意味だ。本社は初子の実家の応接間。オフィスらしいものは何もないゼロからのスタートだ。私が社長で初子が専務。夫婦二人きりでの船出である。いつか社員が30人くらいにでもなったらすごいことだなどと考えていた。』((10)営業研修)(写真は本社のある初子さんの実家)

以下次号
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ウクライナ戦争とベトナム戦争

2022-04-16 18:21:49 | 歴史・社会
ウクライナ戦争は、泥沼から脱する気配も見つけることができません。ウクライナ軍がアメリカやその他西欧諸国からの軍事支援を受け、ロシア軍に対して善戦すればするほど、双方の戦術はエスカレートし、ウクライナ民間人の犠牲は増える一方です。

戦争というのは、一端起こってしまったら、双方の人々を不幸のどん底に落とし込みます。誰も止められません。「戦争は起こさないことが何より大事」ということを、今回は身にしみました。

第2次大戦以降、このような戦争があっただろうか、と考えていて、ベトナム戦争を思い出しました。アメリカがベトナムに軍事介入した経緯は軽率だったろうし、あのアメリカが介入してみたら、ベトナムのジャングルで米軍は苦戦の連続でした。最終的には米軍が撤退し、南ベトナムが崩壊してベトナム戦争は終結しました。

ベトナム戦争に関しては、いくつものアメリカ映画を観た記憶があります。地獄の黙示録、フォレストガンプの中の一部、プラトーンなどです。プラトーンがどんな映画だったか記憶が定かでないので、ウィキペディアで調べて見ました。
『ベトナム帰還兵であるオリバー・ストーンが、アメリカ陸軍の偵察隊員であった頃の実体験に基づき、アメリカ軍による無抵抗のベトナム民間人に対する虐待・放火、虐殺や強姦、米兵たちの間で広がる麻薬汚染、仲間内での殺人、誤爆、同士討ち、敵兵に対する死体損壊など、現実のベトナム戦争を描く。』
何ということでしょう。上記の「アメリカ」「米」を「ロシア」に、「ベトナム」を「ウクライナ」に置き換えたら、現在のウクライナで起こっている事柄そのものではないですか。

ベトナム戦争において、ベトナムのジャングルに兵士として送り込まれたアメリカの若者は、いつ殺されるか分からない恐怖の中で理性を失っていき、残虐な行為に至るのでしょう。
ウクライナ戦争においても、車列を作って進軍するロシアの戦車は、米国から供与されたジャベリンの餌食となります。戦車1台には4人のロシアの若者が乗っており、ジャベリンに襲われたら遺体も残らないでしょう。兵士たちが恐怖の中で理性を失っていき、残虐な行為に至るであろうことは、ベトナム戦争でのアメリカの若者の行動からも十分に予測できることです。

バイデン大統領は、少なくとも映画「プラトーン」を観ておくべきですね。
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藤子不二雄A氏と和代氏

2022-04-10 23:57:41 | 趣味・読書
まんが道88年、藤子不二雄Aさん逝く 最高コンビFさんの元へ
4/8(金) 日刊スポーツ
『「忍者ハットリくん」「怪物くん」「プロゴルファー猿」で知られる、漫画家の藤子不二雄A(ふじこ・ふじお・えー)さん(本名・安孫子素雄=あびこ・もとお)が7日、川崎市内の自宅で亡くなったことが分かった。88歳だった。
コンビを組んだ藤子・F・不二雄さん(本名・藤本弘=ふじもと・ひろし)が児童漫画、ギャグ路線を進んだのに対し、ブラックユーモアや社会、人間の心を深くえぐった作風と違う路線を歩み、作品が実写化されるなど晩年まで活躍した。
64年に共作した「オバケのQ太郎」が大ヒット。その後も、藤子Aさんが「忍者ハットリくん」「怪物くん」を、藤子Fさんが「ドラえもん」をそれぞれ描き、2人は藤子不二雄として児童向けのギャグ路線の大人気コンビとして認知された。一方、藤子Aさんは68年の「黒ィせぇるすまん」などブラックユーモアを利かせ、人間の心理を深掘りする大人向けの作品に取り組み始めた。作風が乖離(かいり)し始め、87年にコンビを解消も、藤子Fさんが亡くなった際は真っ先に駆けつけた。』

藤子不二雄Aさん、本名安孫子素雄(あびこ もとお)さんについて、私の一番の印象は、奥様の和代さんが脳出血で倒れ、左半身麻痺と失語症を患われていたことです。その件は、以下の書籍を読んで知りました。
妻たおれ夫オロオロ日記 (中公文庫) 文庫 – 2000/5/1 藤子 不二雄A (著)

しかし、訃報が出て以降にネットで検索したのですが、奥様の和代さんが現時点でご健在なのか否か、そして上記疾患を患われていたことについて、情報が一切上がっていませんでした。
上記の書籍についても、現時点では絶版で、高価な古本を購入するしかないようです。
そこで、亡くなられた藤子不二雄Aさんのご冥福を祈りつつ、上記書籍の内容についてこの場で紹介したいと思います。

藤子さん(安孫子素雄さん)は1934年生まれ、奥様の和代さんは2歳年下です。1985年当時、素雄さん、和代さん、素雄さんのお母さん、姪の泉さんが、自宅に住んでいました。お隣には素雄さんのお姉さん一家(松野さん)が住んでいます。

1985年の大晦日、和代さんが生田の自宅で突然倒れました。
川崎市の救急車を呼び、新宿の鉄道病院に運んでもらいました。
1月8日、鉄道病院脳外科の大塚先生のお話では、(脳出血の)出血は止まって固まっているので、開頭して塊を取ることはせず、そのままにすることとしました。出血部は1週間ほどで吸収され、それにともなって脳の浮腫もおさまり、2,3週間で気分もスッキリするとのことでした。
回復直後、左手、左足が動きません。また、発話が全くできず、失語症の状況です。
左半身麻痺ということは右脳の損傷です。言語中枢は左脳にあるので、左半身麻痺の場合は失語症は起きないか起きても軽症のはずですが、和代さんの場合は重い失語症でした。

1月20日 「ウー」と発音できるようになる(「アー」は言えない)。
1月27日 車椅子でリハビリに行く。
2月3日 ST(言語聴覚士)によるリハビリが始まる。
2月10日 杖で歩行のリハビリを始める。ハイとイイエが言える。
2月17日 杖なしで立ち、片足ずつあげる。
2月24日 OT(作業療法士)による左手の訓練が始まる。杖なしで歩ける。
4月22日 リハビリで肉じゃがを作る。
5月11日 左手が少し上がる。指はまだ動かない。
10月4日 退院
1987年
3月26日 金沢の失語症全国大会に参加して帰ってくる。
10月
「母とぼくの食事の支度や面倒をみなければいけないのだから大変なエネルギーを要する。肉体的な疲れの上に精神的な疲労が重なり、すぐナーバスになった。・・・そしてまた倒れた。」
「1985年の大晦日にJR総合病院へ入院し、十ヶ月後に退院してから、86年、87年と入退院を繰り返した。
家へ帰ると、家事の負担がドッとかかる。
母の身のまわりの世話は通いのお手伝いさんをたのんでいたのだが、食事は全て和代氏がやっていたので大変だった。ぼくはすごい偏食なので、毎日スタジオへお弁当を持っていく。限られた材料で変化を付けて毎日作らなければならない。言葉はこの頃、だいぶしゃべれるようになってきたが、話し相手である僕が、日中ほとんどスタジオへ行っているので、話し相手がいなくてストレスがたまる。それが昂じて発作を起こす・・・というくりかえしだっか。
しかし、87年の暮れ、ついに入退院生活にピリオドを打った。滝澤先生の『もう絶対に戻ってきてはダメだよ』と言われた言葉を守って、この後、入院はしなかった。」
「和代氏が脳内出血で倒れてから十年の歳月がたった。あっという間の十年だった。当初は入退院を繰り返していたが、8年前に最後の退院をしてから、あぶないときはあったが、入院はしなかった。
母は5年前に85歳で亡くなって、ぼくと2人暮らしとなった。和代氏の左手は、十年前倒れたとき以来、くの字になったまま動かない。しかし今や和代氏は右手だけでかるがるといろんな料理をつくる。口の方もほとんどしゃべれるようになった。本人は『まだまだ・・・』と手を振っているが、新宿の失語症友の会に入り、いろんな活動にも参加している。和代氏が倒れたことは不幸なことだったが、それによって和代氏もぼくも今まで知らなかったことを知った。和代氏が言葉を失うことがなかったら、絶対に失語症について関心を持たなかっただろう。
言いかえれば和代氏の病気によって、ぼくたちは多くのなにかを得たのだ。」

この書籍、本文は、安孫子さんの日記をそのまま転載する形式となっています。最初のうちはほぼ毎日の日記、その後まばらに、和代さんの話題が出ている日のみの掲載となります。書籍は1995年12月まで続きました。つまり、和代さんの発病から10年間です。

この本は安孫子さんの日記の転載ですから、日常の安孫子さんの私生活がそのままわかります。
安孫子さんは性格が人なつこいです。家族、親族とは日常的に交わっています。ゴルフが大好きです。藤子F氏とその家族を含め、仲間の漫画家や編集者、文筆業の人とも仲良くやっています。そのため、ナーバスな和代さんが1人で待つ自宅に早く帰ろうとの気持ちはあるものの、誘われると断れず、帰りはいつも深夜になります。また、和代さんの家事の一部を肩代わりするような才覚も生まれません。
左手が動かず、思うように言葉を発することのできない和代さんをしょっちゅう怒らせることになっています。
しかしこの本は、そのような安孫子さん本人の至らなさを隠すことなく、読者に伝えてくれます。

あとがきは1997年、「いつか漫画を描くことからリタイアしたら、ぼくは今まで外で使っていた時間を一切家にむけ、和代氏と2人でいろいろなことをただひたすらしゃべり合う毎日を過ごしたいと思う」と記しました。

しかし、2000年の文庫版あとがきでは、「15年目の反省」として、「今度こそ本当に(!?)和代氏とベターハーフの生活を送るようにしようと決意した」と書かれていました。文庫本あとがきから22年、安孫子さんはお亡くなりになりました。結局、安孫子さんは和代さんと2人の生活を実現することができたのでしょうか。

こちらで紹介されているこの写真は、1977年6月10日号のアサヒグラフの1ページとのことです。

p.s. 4/11
藤子不二雄Ⓐさん死去 子供から青年まで魅了し続けた異才、80歳超えても連載 2022/04/08」に、『関係者によると妻の和代さんは施設に入っているとの情報があり、藤子Ⓐ さんは一人暮らしで近所に住む親族女性が世話をするなどしていた。』と記されていました。
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