弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

駿府城訪問

2024-04-21 12:31:57 | 趣味・読書
4月20日(土)、お城めぐりとして静岡の駿府城を訪問しました。
新幹線で静岡に移動し、静岡駅からまっすぐ駿府城を目指します。
この記事の末尾の地図で、右下が静岡駅、左上が駿府城です。

駿府城の水堀は、外堀、中堀、内堀の三重構造になっています。地図で、静岡県庁の南にある堀が外堀、北にある堀が中堀です。中堀はほぼ全周が現存、外堀は半分弱が現存でしょうか。内堀については、ほとんど消滅しています。地図で、静岡県庁の右上に「内堀」と記載されている部分が、わずかに残った内堀のようです。
後述の東御門内の展示物に、江戸時代の駿府城のジオラマが展示されています。下の写真です。このジオラマと上の現代の地図を見比べると対応が分かります。

江戸時代の駿府城
上のジオラマで、中堀の右下端の巽櫓と東御門、左下端の坤櫓が、再建されて現存する駿府城の建造物です。

われわれは、静岡駅から静岡県庁を目指して歩きました。左手に静岡市役所の建物が見えてきます。

静岡市役所

静岡市役所の先で右折し、外堀をわたって城内の静岡県庁に向かいます。

外堀


外堀

予定では、静岡県庁ビルの21階にある展望台から駿府城の全景を俯瞰する予定でした。しかし、県庁ビルに到着したものの、中に入るルートが見つかりません。出入り口に行って理由が分かりました。第3土曜とその翌日の日曜は休館であり、本日はまさに第3土曜に該当していたのです。
こんな不運に見舞われるとは思いもしませんでした。仕方がないので、駿府城観光に向かうことにしました。
まずは、県庁の北にある中堀沿いに東に進み、東御門を目指します。

中堀と巽櫓(辰巳(たつみ)(南東)にある櫓)

巽櫓の近くに弥次喜多の銅像がありました。『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念して建てられた銅像。十返舎一九は静岡市出身。』

巽櫓と弥次喜多


中堀、巽櫓と東御門

東御門橋を渡り、城内に入りました。

東御門(高麗門)と東御門橋

東御門は、東御門橋で中堀を渡り、城内側は枡形になっています。

東御門(高麗門)(枡形内から)

枡形内の右方向に、枡形から城内に入る門(櫓門)があります(下写真)。

東御門(櫓門)(枡形から城内へ)

「東御門・巽櫓」施設入場
入場料200円を支払い、「東御門・巽櫓」施設に入場しました。入場者はごくわずかで、場内は閑散としていました。

二ノ丸堀から発見された青銅製鯱(しゃちほこ)
鯱の説明「国内の青銅製鯱の中で最古の部類に入り、家康在城時から東御門に使用されていたと考えられます。
天守には、鉛瓦や銅瓦といった金属瓦が採用されました。当時の日本では珍しいものでしたが、ヨーロッパでは一般的に使用されていました。家康による外交と関係が深いとともに、家康は金属瓦を用いた織豊系城郭からの脱却を狙っていたのかもしれません。」


竹千代手習いの間(復原)
説明『この部屋は、家康公(幼名・竹千代)の勉強部屋です。
家康公は、天文18年(1549年)から12年間、今川義元の人質として駿府で生活していました。8歳から19歳の時です。
家康公は人質の間、この部屋で今川家軍師の臨済寺住職雪斎和尚から学問を学んだと伝えられています。現在、特別に臨済寺様より許可を得て、「手習いの間」を原寸で、ここに復原しています。』

施設の見学を終え、駿府城内の散策を開始しました。
下の写真は、現存する内堀の一部のようです。

内堀
『内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され保存されている。(ウィキ)』
『発掘調査に基づいて復原された内堀跡。復原されたの内堀一部分だけ。(出展)』


内堀と中堀を結ぶ水路
『内堀の水位を保つためにつくられた。幅4.5m、長さ95m、4回折れ曲がっている。石垣の一部は徳川家康が天下普請で駿府城を築いた当時のものと考えられている。(出展)』

天守台跡は発掘中であり、近づくことはできませんでした。
天守台跡の南側に、徳川家康の像が立っています。

徳川家康の像

坤櫓(ひつじさるやぐら)
『坤櫓とは、駿府城の二ノ丸の南西の方角に位置する櫓で、この坤(ひつじさる)という名は、築城当時には方位に干支が用いられていて、北を子(ね)として時計回りに割り当て、南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間であるため、坤(ひつじさる)と呼んだことに由来しています。』

坤櫓

疲労が溜まってきたので、坤櫓は城内側から眺めるだけとし、帰途につきます。
二ノ丸橋で中堀を渡り、外に出ました。

中堀(二ノ丸橋から西方向)


中堀(二ノ丸橋から東方向)

さらに外堀を渡り、静岡駅方向に移動しました。
昼食については、途中の大庄水産を利用し、「ぶっかけ寿司こぼれ盛り」(下写真)をシェアしていただきました。

お昼

さて、駿府城の歴史について、ウィキから拾います。
『14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
桶狭間の戦いで義元が戦死したあと、永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失。
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。・・翌天正14年(1586年)に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。・・
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、・・駿府に隠居した。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。』


駿府城周辺地図
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本佐倉城訪問

2024-04-15 15:26:59 | 趣味・読書
前号から続く。

本日は、前号に記載のようにまず佐倉城を訪問し、次いでタクシーで移動して本佐倉城を訪問しました。

本佐倉城は、大佐倉駅の東方に位置しています。

現代の本佐倉城跡は、四方を田んぼと林に囲まれた場所に位置しています。

タクシーは、本佐倉城跡の国史跡本佐倉城跡観光案内所に到着しました。まずは続100名城のスタンプです。
観光案内所は、小さな建物ですが、中は展示が充実しています。まずはビデオ鑑賞です。何枚ものパンフレットが用意されていて、係の人から説明も受けました。そして、われわれが実際に東山から城山を歩くのにもつきあっていただきました。
以下では、上の地図の赤数字で、1番付近から2番、4番、5番~9番と進む順で写真を上げています。
下の写真は、城の北側の田んぼ地帯から、東山を眺めています。中央の台地が東山です。その中央の切れ目が赤2番の東山虎口です。

北方の東光寺ビョウ付近から2番の東山虎口を見る


2番の東山虎口

東山虎口の途中から北方を見たのが下の写真です。

2番の東山虎口から北方の印旛沼方面
はるか北方の丘の上に建っているビルは、順天堂大学のさくらキャンパスのようです。江戸時代末期に佐倉城主の堀田正睦が順天堂を佐倉に招致した事情と、現代の順天堂大学さくらキャンパスが本佐倉城の北方に位置していることとの間には、何らかの関連があるのかないのか。

上の写真で遠方の順天堂大学よりも手前、左右に連なる土手が見えます。この土手が京成線の線路です。戦国時代は、印旛沼がこの線路の付近まで広がっていたそうです。そして印旛沼は太平洋まで繋がっており、印旛浦を形成していました。印旛浦は水運が盛んであり、また敵は印旛浦を経由して攻めてくることもできます。本佐倉城は、印旛浦からの攻撃に備え、北側の防御を固めていたそうです。

東山虎口を抜けると、下の写真のような段々の地帯となります。「Ⅳ郭」と呼ばれています。説明書には「利用不明の郭」とあります。

Ⅳ郭方向
上の東山虎口は、厳重に守られていて侵入は難しくなっています。一方で、東山と城山の間の地帯、東山馬場からⅣ郭にかけては、何の防備も見当たりません。北方から侵入した敵は、東山虎口の固い守りを突破するのではなく、東山を時計回りに回って東山馬場からⅣ郭を突破することとすれば、苦もなく5番の大堀切まで到達できそうです。どうなっているのでしょうか。


5番の大堀切から6番の城山通路方向
5番の大堀切、6番の城山通路、7番の城山虎口、8番の城山門跡を経由して、城山まで到達します。

城山

下の写真は、城山から北方を見ています。左遠方が東山の東端で、中央、駐車場右の建物は国史跡本佐倉城跡案内所です。

城山から北方

さて、本佐倉城の来歴です。
本佐倉城跡は、今から約500年前(西暦1470年前後)に造られた中世戦国時代の城跡です。城の主は千葉氏一族、約100年間で9代の城主が本佐倉城を本拠地としました。治めていた国は下総国一国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で、関東でも有数の名族でした。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めの際、小田原の北条側についていた千葉氏は滅亡し、本佐倉城はここから長い眠りにつきます。
そして現代、ほぼ当時のままの姿で今、再び目覚めようとしているとのことです。

関東一円の戦国時代の城主で、北条側についていたために豊臣秀吉の小田原攻めの際に滅ぼされ、城も廃城となった、というお城を、私はもう一つ知っています。
世田谷区豪徳寺の南側に位置する世田谷城跡がそれです。世田谷城跡をご参照ください。

帰りは、城の北側の東山虎口を降り、徒歩で京成の大佐倉駅まで歩きました。京成本線を京成八幡で降り、そこから都営新宿線の本八幡駅まで歩き、都営新宿線で帰宅しました。
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佐倉城訪問

2024-04-14 17:35:26 | 趣味・読書
ブログ更新が滞っていました。3月は年度末で仕事が山積して繁忙期であったこと、健康上の理由、などが重なりました。

4月になって繁忙期も終了し、健康も回復しました。そこで4月13日火曜日、日本200名城めぐりを再開しました。
今回は、佐倉城(100名城)、本佐倉城(続100名城)を訪問しました。

まずは佐倉城です。東京から京成本線を利用し、京成佐倉駅で降ります。南口の駅近くに観光案内所があったので、そこに立ち寄りました。係の方がとても親切に説明してくださいました。
観光案内図で説明します。上部中央が京成佐倉駅、そこから西へ地図の緑色ルートを進みました。地図の左上に国立歴史民俗博物館、その南西に佐倉城址公園です。

の左上に国立歴史民俗博物館があります。まずはここのロビーで100名城のスタンプをゲットしました。
上の図で下(南)に下ると、馬出し空堀、そしてその南方に本丸跡を中心とした佐倉城址が広がっています。

佐倉城

下の写真は、馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物が見えます。馬出空堀の手前が、椎の木門跡のはずです。

馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物


椎の木門跡から本丸跡に向かう


佐倉城址出土の礎石


本丸跡

佐倉城は、現在の国立歴史民俗博物館を含む広い領域が外側を堀(水堀)で囲まれ、その内側については、随所に空堀が設けられて本丸地域を防御する構造になっているようです。

佐倉城は、江戸時代初期、家康の命で家康家臣の土井利勝が築城しました。
以来佐倉城は、江戸城を囲む関東東域の諸国や海上の動静を伺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。
江戸時代末期には堀田氏が封ぜられました。
堀田正睦は、幕末に老中としてハリスとの日米修好通商条約交渉に身命を賭し、鎖国から開国へと導きました。また、順天堂の開設に尽力し、順天堂は一時佐倉に位置していました。

タウンゼント・ハリス像           堀田正睦像


空堀


三の門跡付近の空堀

佐倉城址を一回りしたあと、われわれは東の方向に歩き、一番上の地図で朱色の経路を大手門までたどり、さらに東方に進んで、地図中央の麻賀多神社のそば、地図上9番のおそば屋さんに入りました。
房州屋本店です。京成佐倉駅前の観光案内所で、このおそば屋さんを紹介されたのです。小さな店ですが、入ってみると大勢の人が順番待ちしていました。結局、店に入ってから食事にありつけるまでに2時間ぐらい待ったでしょうか。皆さんじっと待っています。「長時間待ってでも食べたい」という強い意志を感じました。
われわれにも順番が回ってきました。下の写真の三味そばを注文しました。

房州屋の三味そば
食べてみると、とてもおいしいおそばでした。天ぷらそば、とろろそば、なめこそばの3つの味を楽しむことができます。おそらく、この店は味がおいしいこと有名で、お客さんが集まってくるのでしょう。

たっぷりのおそばで満腹になりました。
ここから本佐倉城までの移動は、「京成佐倉駅まで徒歩-一駅先の大佐倉駅まで電車-本佐倉城まで徒歩」という経路をたどることもできますが、もう疲労困憊です。京成佐倉駅前の観光案内所では、タクシーの頼み方も教わっていました。そこで電話で配車を依頼しました。タクシーはすぐに来ました。

以下次号
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