弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

情報通信研究機構上席研究員 笠井康子さん

2022-08-21 16:30:42 | サイエンス・パソコン
日経新聞夕刊のシリーズ「人間発見」、8月15~18日の週は、情報通信研究機構上席研究員 笠井康子さんの特集です。
『最先端電磁波の研究者であり異能人材育成の政策を進める行政官、宇宙に挑む起業家と多彩な顔を持つ。一貫するのは常に新しい世界に挑み、科学で社会をよくしたいという思いだ。』科学でE・マスクに挑め(1) 2022年8月15日
『東京・渋谷に生まれ、同町田市に転居した。幼いころから負けず嫌いで好奇心が旺盛だった。』科学でE・マスクに挑め(2) 2022年8月16日
『進学した東京工業大学では化学を専攻、大学院では電波望遠鏡で宇宙を探った。』科学でE・マスクに挑め(3) 2022年8月17日
『抵抗していた総務省への出向だが、行ってみると行政の面白さに目覚めた。』科学でE・マスクに挑め(4) 2022年8月18日
『研究や行政の経験からデータサイエンスの重要性を説く。』科学でE・マスクに挑め(5) 2022年8月19日

まずは経歴をたどってみます。
1965 東京・渋谷に生まれる。町田に転居。
     小学校から高校まで自宅に近い玉川学園に通った。
     東京工業大学に進学
1995 東京工業大学理工学研究科博士課程修了
     東京大、理化学研究所を経てNICT(情報通信研究機構)入所
2016 現職
 他、内閣府上席政策調査員、東京大学や筑波大学の客員教授、等

笠井さんは私の17年後輩に当たります。

『何でも試してみないと気がすまない性格です。
目の前を塞がれたり邪魔されたりするのが大嫌い。』
『電柱に登っても「すごいね」と褒めてくれた母でしたが「男の子じゃないか」と悩んだことがあったそうです。』
『玉川学園は個性を尊重する校風で、授業は先生が教えるのではなく生徒が分からないことを先生に聞くスタイルでした。』
運動が得意、また読書が大好きで1年に読んだ本は100冊以上。
勉強に興味がわかず落第しそうになったことがありますが、「勉強もちゃんとやる」という約束で進級し、翌年はほとんどの科目で最高評価の「5」をとりました。それまで手を抜いていたことがばれてしまいました。(2回目)

『小学生のときに地球儀を眺めていて、南北アメリカと欧州・アフリカなど海を挟んだ大陸の形が似ていることに気づき、パズルのようだなと思いました。昔は小さかった地球が膨らんで大陸がバラバラになったというストーリーをひとりで考えていました。』(2回目)
今では大陸移動説で説明される現象(南北アメリカと欧州・アフリカの大西洋側海岸が同じ形をしている)を、小学生の当時に気づいていた、ということですね。
私が小学生時代、「なぜだろうなぜかしら」という小学生向けの科学の本の中に、大陸移動説が載っていました。ですから私は、この現象(南北アメリカと欧州・アフリカの大西洋側海岸が同じ形をしている)を、自分で気づく前に本で知らされてしまいました。それも大陸移動説の証拠として。
私が小学生の当時、大陸移動説は学界では忘れ去られていました。プレートテクトニクスの発見で大陸移動説が復活したのはその後ですが(ウェゲナーの大陸移動説 2008-03-29 )、笠井さんの小学生時代がちょうどその頃だったような気がします。

『東工大は単科大学でマニアックなところが子どものころから何となく好きでした。ただ進学すると女性がほとんどおらず、広い本館に一つしか女子トイレがありません。
学生のときに専攻した量子化学は実験も解析も面白かったのですが、伝統のある分野です。前例のあることをやるのは嫌で、大学院博士課程では誕生して間もない電波天文学の研究を始めました。長野県野辺山にある電波望遠鏡まで通って、宇宙にある生命のもとになる分子などを観測。鉄と一酸化炭素の化合物が特殊な結び付き方をしていることを明らかにして、国際学会で注目されました。』

私は、東工大修士卒で笠井さんの18年先輩に当たります。(笠井さんの東工大学部卒は確認できませんでした。)
私が東工大に進んだ理由も何となくで、笠井さんと似ているかもしれません。
私の頃は、学部入学が約800人で、そのうちに女子が1~2名しかいませんでした。
女子トイレの数は記憶にありませんでしたが、笠井さんの時代にも本館に1箇所しかなかったのですね。

その後、笠井さんはSMILESプロジェクトに出会いました。
『SMILESは国際宇宙ステーション(ISS)に観測装置を設置。それまで不可能だった大気中のごくわずかな分子の動きを詳しく調べ、気候変動の研究などに役立てる目的だった。』4Kの極低温を用いる超電導受信機を宇宙船に乗せるもので、そのための冷凍機も開発しました。
SMILES(宇宙からのテラヘルツ大気観測)には、
『「超伝導サブミリ波リム放射サウンダ」(SMILES: Superconducting Submillimeter-Wave Limb-Emission Sounder) は、 625 GHz と 650 GHz のテラヘルツ波を使って、成層圏などの大気中の、 オゾンを始めとする微量な分子の量を測定する装置です。 2009年9月に HTV (「こうのとり」1号機) に載せて打ち上げ、 国際宇宙ステーションの日本実験棟 (「きぼう」)に取りつけて観測を、 2010年4月まで行いました。』
と紹介されています。
観測は装置が故障するまでの7カ月間のみでしたが、『とれたデータは涙が出るくらい美しかった』とのことです。『このときのデータから10年たった今も新発見が生まれています。』
2016年の笠井さんの論文

笠井さんらは、テラヘルツ波を使った観測の推進に尽力し、欧州が中心になった木星とその衛星の探査計画「JUICE」に採用になりました。ところが、NICT内において予算が認められません。辛抱強く応募を続け、周囲を説得しました。

2014年、NICTを管轄する総務省に出向しました。総務省の研究開発のとりまとめなどをする技術企画調整官の仕事です。
2014年、独創的な人材を発掘、支援する「異能vation」を作りました。
内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)において、文科省から内閣府に出向していた迫田健吉さん、国交省から出向していた広瀬昌由さんらとの出会いが、今でも笠井さんの宝になっています。

2021年から始めた月探査プロジェクト「TSUKIMI(ツキミ)」は、超小型衛星を使って月のどこにどれだけ水があるかを調べます。月の表面に水がある可能性は少なく、資源として期待できるのは表面から数十cmくらいの浅い地下です。探索にはテラヘルツ波が威力を発揮します。

この7月にギリシャで開かれた科学者団体の会合に出席、コミッションの議長を務めたところ、若い研究者が笠井さんのことを知らなかったのです。これには衝撃を受けました。この8年、官庁の仕事が主で学界には参加しなかったのがその原因です。
研究をリードし、その後は行政をリードしてきた笠井さんです。『私もこれから人生の新しいフェーズを作っていく時期に入ったのだと思います。』
『だれも見つけられない宝物をこれからも探し続けたいと考えています。』

また1人、異能の日本人女性科学者を知ることができました。これからも、笠井さんのご活躍を心から応援しています。
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田辺聖子 18歳の日記

2022-08-14 15:04:12 | 歴史・社会
8月14日 NIKKEI The STYLE
田辺聖子 18歳の日記をたどる

『「18歳の日の記録」と題した作家、田辺聖子の日記が見つかったのは、2020年の11月25日のことだ。兵庫県伊丹市の聖子の自宅。弟の娘である田辺美奈さんと、妹の娘、辻野真理さんが、前の年に亡くなった聖子の遺品を整理していたところ、辻野さんが1階の奥の部屋の押し入れで発見した。
グレーの紙封筒に入った1冊の日記には、昭和20年(1945)4月1日から22年3月10日まで、つまり太平洋戦争の終戦前後の2年間の体験が克明に記されていた。当時、聖子は樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)の学生だった。軍需工場への動員、空襲、敗戦、父の死などの異変に次々襲われる。』

『18歳の日の記録」を読んでいたら、2つの疑問が頭をもたげた。
数えで18歳(満17歳)といえば、今なら、女子高生だ。その年代だった田辺聖子がなぜ、大阪大空襲の様子を、あんなに巧みに描写できたのか。』

『もう一つの疑問は、文学少女だった聖子がバリバリの軍国少女になったのはなぜなのか、という点だ。』
昭和20年6月24日付の日記では、ドイツの降伏に触れて、ドイツの婦人に対して「何故、御身らは不甲斐なき男子に代って銃を取らなかったか」と檄を飛ばしています。
『同8月15日付。
「嗚呼日本の男児何ぞその意気の惰弱たる。
何ぞその行の拙劣たる。・・・日本民族の栄誉にかけて三千年の伝統をそのままに、玉と砕けんことをこいねがう。」』

日経の記事には、足立則夫の署名があります。昭和22年10月生まれの74歳、としています。

先の戦争の終戦時にティーンエージャーだった少年・少女(昭和一桁生まれ)は、少数の例外を除いて、軍国少年・軍国少女であったことを、私は繰り返し見てきました。この点についてはこのブログでも何回も記事にしています。
従って、終戦時に満17歳だった田辺聖子氏が軍国少女であったとしても、全く違和感がありません。

もう一度たどってみましょう。
私はこのブログで、昭和一桁生まれの4人の方について述べてきました。
田崎清忠先生 2010-05-16
澤地久枝さん 2015-07-28
辻真先さん 2020-12-25
堀辰雄さん 2021-02-07
の4人の方々です。
いずれの方々も、終戦時にティーンエージャー、そして田崎清忠先生を除いて、多かれ少なかれ軍国少年・軍国少女であり、終戦時の価値観の逆転にショックを受けられた方々でした。
その代表として澤地久枝さん。終戦時、満州の吉林でご家族と暮らしていました。14歳の女学校生徒です。
澤地さんの著書「14歳〈フォーティーン〉」「はじめに」から
『わたしの話は、昭和の初期のこと。そして、どうして好戦的な少女になったのか、恥ずかしくて、これまでずっとかくしてきた。戦争が終わって70年になるけれど、おのれの無知を愧(は)じながら、わたしは生きてきた。
戦争が終わったと聞いた瞬間、「ああ、神風は吹かなかった」と真面目に思った。戦争は勝つものと、一点の疑いもないような14歳、軍国少女だった。』

今回、終戦時に17歳であった田辺聖子さんが、その1人として加わりました。
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