映画的・絵画的・音楽的

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イレブン・ミニッツ

2016年09月02日 | 洋画(16年)
 『イレブン・ミニッツ』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判が良さそうなので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はワルシャワでしょう(注2)。
 最初の方では、警察から戻った夫・ヘルマンヴォイチェフ・メツファルドフスキ)が妻で女優のアニャパウリナ・ハプコ)と言い合いをしています。
 ヘルマンが「さあ、話してくれ、俺を閉めだして何をしたんだ?」と言うと、アニャは「あなたが、最初に殴ったのよ」と答え、それに対しヘルマンは「やつがお前の尻を触ったからだ」と応じます。
 さらに、ヘルマンが「何があったんだ?」と訊くと、アニャは「5時に会う約束なの」と答えます。
 ヘルマンはそれを無視して、「警察では一睡もできなかった」と言って、シャンパンに睡眠薬を入れて飲みます。
 そして、「行くのはやめてくれ」とアニャに求めます。アニャが「私を信用しないの?」と答えると、ヘルマンは「そんなことはない。結婚したのがその証拠だ」と言います。

 舞台は変わって、画面には別の男が現れて、「あの女、全部持って行きやがった!」、「この指輪のおかげで惨めなことになった!」などと言って怒り狂います。

 画面が変わって、監視カメラの映像がスクリーンの左右に現れます。
 机の前に男が座っています。
 その前に座っている警官が書類を取り出し、その男がサインをします。

 また、画面が変わって、パンクへアの女が、「続けても?私はその頃ここに戻ってきました」と答えると、男が「あなたはここを出るはずだったのでは?」と尋ねます。女は「少し休憩してもいいかしら。臭くてたまらない」などと言います。

 さらに、別の部屋で、若い男が「母さん」と呼ぶと、女は「急いでいるの」と取り合わず、それで、若い男は、「消えた。さっきまであったのに」とつぶやき、大きな鞄を肩にかけながら、「母さん、もし何かあったら、とにかく、母さんが全て知っているわけで、…」などと話します。

 こんな具合に断片的な映像が次々と映し出されていきますが、さあ、この後どのように映画は展開するのでしょう、………?

 本作はポーランド映画で、都市で暮らす様々な人間が、夕方5時丁度から5時11分までの11分間に何をするのかを描いている作品。それぞれお互いに何のつながりも持っていないにもかかわらず、偶発的な出来事の重なりによってつながりを持ってしまう様子が、サスペンスフルに描かれており、音の使い方がトテモ巧みなこともあって、見ている方は思わず引きこまれてしまいます。群像劇ともいえるこうした構成の作品はこれまでにも作られているころ、本作がそれにどんな新しさを付け加えているのかは見てのお楽しみです。

(2)それぞれマッタク別々の背景を持っている人たちでありながら、たまたま同じ列車に乗り合わせたがために、その列車がひとたび事故に遭うと、バラバラだった人たちが同じ運命を共有することになってしまう、という状況であれば、これまでにも映画で描かれていたように思われます。
 例えば、『人生スイッチ』の第1話「おかえし」では、お互いに無関係と思って乗り込んでいた飛行機ですが、突然、地上のある家に向かって墜落し始めます。
 ただ、それくらいでは話に面白さがありませんから(注2)、インパクトのある映画になるように捻りが加えられています。すなわち、ある乗客の話がきっかけとなって、乗り合わせている人たちの間には共通事項があることが判明してきます。どの人も過去に同じ男に酷い仕打ちをしてしまったようなのです(注3)。

 本作についても、まるで、事故に遭遇する電車に乗り合わせた人たちのように、それぞれの人に関するエピソードがバラバラに描かれていながらも、最後になって同じ事件の中に絡み取られてしまう、という有様が描かれているような印象を受けます。
 しかしながら、実際には、描かれている人たちは、それぞれマッタク孤立しているわけでもなく、別の人たちとある程度のつながりがあるようにも描かれているのです(注4)。

 例えば、本作の最初の方で登場する女優アニャは、5時になると、ホテルで待ち構えている映画監督のリチャードリチャード・ドーマー)の部屋(注5)に現れます(注6)。



 下心のあるリチャードは、アニャの気を引こうといろいろ喋りますが、アニャは簡単になびきそうにありません。そうこうしている間に、嫉妬深い夫・ヘルマンがホテルにやってきて、二人が会っている部屋のある11階の廊下をうろつき出します。



 それを不審に思ったボーイが警備員をよこすよう連絡を取ります。そして、…。

 また、ヘルマンがアニャのいるホテルへ急ぎ足で向かっている画面には、ホットドッグを屋台で売っている男(アンジェイ・ヒラ)が映ります(注7)。



 この屋台には、パンクヘアの女が2度ほどホットドッグを買いに現れます。
 さらに、屋台の主人の息子が、オートバイを乗り回す若い男(ダヴィド・オグロドニク)のようなのです。そして、この若い男は、…。

 本作では、他にも様々な工夫が凝らされています。
 例えば、近くに飛行場があるのでしょうか、車輪を出した旅客機が低空を飛ぶ映像が何度も挿入されます(注8)。それだけでなく、その爆音で、部屋の鏡にヒビが入ったりもします。

 そして、本作で注目すべきは、ラストのカタストロフの描き方でしょう。
 何しろ、スコリモフスキ監督は、「一番最初にあったのは、映画のラストのシークエンス」と述べているくらいですから(注9)。
 そこでは、列車の衝突事故とか飛行機の墜落事故といったありがちな一瞬間の出来事ではなく、ヘルマンが消火器を使ってドアをぶち壊してアニャのいる部屋の中に突入し、そして…という具合に、連鎖反応的に様々の出来事が起こるのです。
 まさに、スコリモフスキ監督が語っているように、「あらゆる曲がり角には、不測の事態、想像を絶する事態が潜んでい」るのであり(注)、そのことがこのラストのカタストロフでよく表わされているように思いました(注10)。

 このカタストロフを写している監視カメラの映像は、マルチスクリーンの中の映像となってどんどん小さくなり、最後には無数の映像の一つに過ぎなくなってしまいます。
 ということは、こうしたカタストロフは、当事者にとっては実に大変なことであるにせよ、社会というマクロの視点から見たら、無数に起きている出来事のホンの一つにすぎないということでしょうか。そして、「人生において非常にたくさんの悲劇を経験し」たスコリモフスキ監督に言わせれば、「人生ってそういうもの」なのでしょうし(注11)、それほど厳しい状況に遭遇したことのないノーテンキなクマネズミにしても、あるいはそうかもしれないと思うところです。

(3)中条省平氏は、「一見ばらばらなドラマの断片が一気にひとつの焦点を結んでいくラスト10分は、まったく予想不可能、誰しも仰天すること請けあいだ。映画にまだまだこんな可能性があると示し、しかも、どんな災厄が起こっても不思議でない現代世界のいわば縮図になっている。驚くべき作品である」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「この「イレブン・ミニッツ」では、選択とは無関係に結果が襲いかかります。ストーリーがないんじゃなくて、ストーリーの否定。これじゃ映画になるわけありませんが、それを映画に仕立ててしまった。その奇妙なリアリティーをご賞味ください」と述べています。
 柳下毅一郎氏は、「映画の中で空に不思議な黒い染みを見る人がいる。全員がそれを見るわけではなく、そもそも本当にあったのかどうかもわからない。遍在するカメラにも決して映らない謎の物体、その見えない存在こそがこの11分間の核なのである」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『エッセンシャル・キリング』のイエジー・スコリモフスキ

(注2)この監督インタビュー記事においてスコリモフスキ監督は、「この映画の撮影は主にワルシャワで、グジボフスキ広場を中心に撮影しました。……でもこの広場はおろか、都市自体も特定することは意味をなさないし、特定しえない都市として描いたつもりです。高層建築が立ち並ぶような現代都市で、交通が発達した都市であれば、どこでも構いません」と述べています。
 そうだとしても、少なくとも撮影地はワルシャワです。

(注2)それだけならば、ある無差別殺人事件に遭遇した被害者各人の過去のエピソードを綴る新聞記事とあまり変わりがないようにも思えます。

(注3)飛行機の墜落は、酷い目に合わされた男の、酷いことをした人達に対する復讐だったのです!

(注4)言うまでもありませんが、本作に登場するすべての登場人物が相互につながりを持っているというわけではなく、主要な登場人物が、狭い範囲ながら相互に関係しているというのに過ぎません。
 なお、邦画の『海炭市叙景』でも、函館の市電と思われる電車にたまたま乗り合わせている人々が別々のエピソードで描かれるという構成をとっています。そして、当該市電は事故に遭わないとはいえ、そこに乗り合わせた人々の間に緩いつながりがあるように描かれています。

(注5)ルームナンバーが「1111」と明示されます。
 映画のタイトルといい、本作では「11」が強調されていますが(見る方は、どうしても「9.11」を想起してしまいますが)、この監督インタビュー記事においてスコリモフスキ監督は、「なるべく意味付けされていない数字を選んだつもりだ。最終的には、純粋に美学的な水準で、どういうわけか11という数字の対称性(シンメトリー)と単純さに魅せられたので、それに決めたんだ」と述べています。

(注6)リチャードが監督する映画への出演についての面接という設定になっています。

(注7)ホッドドッグ屋の主人は、本作の始めの方で、警察で机に向かって座って書類にサインをしていた男のようです。もしかしたら彼は、(子供に対してでしょうか)卑猥な行為をして警察に捕まり、書類にサインをして釈放されたのではないか、と思われます〔映画の後のほうで、この男に唾を吐きかける若い女(男の行為を目撃したのかもしれません)が登場しますから。なお、男は、この女から「先生」と言われています〕。

(注8)上記「注5」で触れた監督インタビュー記事で、スコリモフスキ監督は、「ふつう飛行機はあんなに低く飛ばないものだ。人は普段より低く飛行機が飛んでいると不安になる。また、街中を走る霊柩車、登場人物の何人かが気づく「空にあるなにか」など、不安を呼び起こすシーンをかなり意識的に、随所に忍ばせた」と述べています。

(注9)上記「注2」で触れた監督インタビュー記事において、スコリモフスキ監督は、「一番最初にあったのは、映画のラストのシークエンスです。この映画を作り始めた当時、私にとって一番身近だった数人が亡くなったんです。そうした悲劇的な体験から、私は悪夢を見るようになりました。この映画のラストはそうした悪夢のひとつとして私が見たものです。これはドラマチックな映画のラストにふさわしいと思い、そこから逆算して物語を作ってゆき、冒頭の部分にたどり着きました」と述べています。

(注10)上記「注2」で触れた監督インタビュー記事において、スコリモフスキ監督は、「我々は薄氷の上や奈落のふちを歩いているのと同じです。あらゆる曲がり角には、不測の事態、想像を絶する事態が潜んでいます。確かなことなど何ひとつとしてなく、次の日、次の一時間、次の一分間でさえも不確かで、全く予期せぬかたちですべてが不意に終わってしまうかもしれないと思います」と述べています。

(注11)上記「注2」で触れた監督インタビュー記事によります。



★★★★☆☆



象のロケット:イレブン・ミニッツ



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2 コメント

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Unknown (atts1964)
2016-09-04 06:50:05
この作品は、逆回しの発送なんでしょうね。
ただ、群像劇なんで、それぞれ登場人物に注視して行くと帰って見づらい感じがしました。
まあそれだけ書くキャラの味付けが濃くしてあるんですね。
あの点がいったいなんだったのかの設定が面白かった。
こちらからもTBお願いします。
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Unknown (クマネズミ)
2016-09-04 07:54:04
「atts1964」さん、TB&コメントをありがとうございます。
監督のインタビュー記事からすると、本作は、おっしゃるように、「逆回しの発想」からつくられているように思われます。
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