孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

南スーダン  「また食べ物がないという悪夢」 「独立10年」への絶望と「次の10年」への希望

2021-09-10 23:07:31 | スーダン
(7月9日、南スーダン・ジュバの広場で国旗を掲げ独立記念日を祝う人たち【7月9日 共同】)

【「国に帰ってまた食べ物がない、という悪夢を見る」 日本で長期合宿のパラアスリート】
2011年に独立した世界で最も新しい国、南スーダン。

日本は、国連平和維持活動(PKO)の一環として2012年1月に自衛隊の施設部隊を国連南スーダン派遣団(UNMISS)に派遣し、道路改修などにあたりました。

しかし、宿営地の施設が被弾するなど、自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険にも直面。2017年5月に部隊は撤収しましたが、司令部に要員を派遣し続けています。

部隊撤収後は日本における南スーダンへの関心は急速に薄れましたが、この南スーダンから陸上の代表選手とコーチ、計5人がJICA(国際協力機構)の斡旋で2019年11月に来日し、東京オリンピック・パラリンピックの出場を目指して群馬県前橋市で長期事前キャンプを続けていました。

その南スーダンの選手が語る母国での状況は、練習以前の問題として、食べることさえままならない現実です。

****南スーダン代表選手が語る母国の困難 「食べられない悪夢」をなくしたい****
南スーダンは国民の6割が日々の十分な食事を摂れずにいる、世界で最も飢餓の深刻な地域の一つ。選手団の中にも、何も食べられない日々を送った人がいます。私たちには何ができるでしょうか。

父は病死、何も食べられない日も
(中略)(選手たちの)滞在中は、前橋市が住まいや3度の食事、練習場などを、協賛企業が衣類やスポーツの道具をそれぞれ提供しています。前橋市へのふるさと納税を通じて、一般の人々からキャンプへの支援も集まっています。

「来日して、毎日3回食べられることが本当にうれしい」と語るのは、パラリンピック100メートルの選手、クティアン・マイケルさん(30歳)。南スーダン中央部の村で育ちましたが、18歳の時に父親を病気で失い、厳しい暮らしを強いられてきました。

家族を支えてくれる人は誰もいません。ラッキーな日は1度ご飯を食べられましたが、何も食べられない日もしょっちゅうでした」。パラアスリートとなり首都・ジュバで練習を始めてからも、生活費の援助は一切なかったそう。

「競技場まで歩いて3時間かかり、お金がなくて食べ物を買えない日は、練習に行く力も湧きませんでした。胃が空っぽではトレーニングはできません」。来日して栄養状態が改善したことで、自己ベストは1秒近く縮まりました。

「栄養をつけてエネルギーを蓄えてこそ、パフォーマンスが上がると実感しました。自信がつき、記録を更新したいという意欲も高まりました」

マイケルさんは生まれつき、右腕に障害があります。しかし誰よりも練習熱心で、走りは健常者のアスリートとも遜色がありません。将来は母国で、障害者を集めて競技会を開くのが夢です。

ただ、今は帰国して再び飢餓に直面することを恐れています。親しくなった前橋市の職員に「国に帰ってまた食べ物がない、という悪夢を見る」と、ポツリと漏らしたそうです。(中略)

総合的食料安全保障レベル分類 (IPC) 評価によると、南スーダンでは農作物の収穫量が減る7月になると、724万人が深刻な飢餓に直面し、140万人の子どもが急性栄養不良に陥る恐れがあります。

しかし今年4月、国連WFPは資金不足のため、同国で1人当たりの食料配給量を削減すると発表しました。これによって難民や国内避難民、70万人近くが影響を受ける見通しです。

飢える恐怖のあまり悪夢を見るというマイケルさんのような人を一日でも早くなくすため、国連WFPは厳しい状況の中でも懸命に、現地での食料支援を続けています。【8月11日】
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【国際パラリンピック委員会加盟が間に合わず大会出場出来ず】
しかし、上記記事にも紹介されているパラアスリートのマイケルさんは、パラリンピックに出場出来ませんでした。

****IPC 南スーダンのパラリンピック出場認めず “PCに未加盟”で****
24日に開幕する東京パラリンピックに参加するため前橋市で長期合宿を行っていた南スーダンの選手について、IPC=国際パラリンピック委員会は南スーダンがIPCに加盟していないとして大会の出場が認められないことを明らかにしました。

南スーダン出身で陸上男子の腕に障害があるクラスのクティヤン・マイケル選手は、母国の練習環境が十分でないとして、東京パラリンピックの出場を目指しおととしからホストタウンの前橋市で長期合宿を行っていました。

この選手についてIPCのスペンス広報部長は20日、NHKの取材に対して「南スーダンはIPCに加盟していないので大会には参加できない」として出場が認められないことを明らかにしました。

南スーダンは2011年に独立したあとも政府と反政府勢力の間で武力衝突が繰り返されるなど内戦状態でしたが、東京大会までにIPCに加盟することを目指していました。

マイケル選手とともに前橋市で合宿をしていた南スーダンの陸上選手2人は東京オリンピックに主催者の枠で出場しています。

東京パラリンピックにはおよそ160の国と地域から選手4400人が参加する予定ですが、これまでに北朝鮮とバヌアツ、それにアフガニスタンの不参加が明らかになっています。【8月20日 NHK】
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“大会開催までに国際パラリンピック委員会への加盟が間に合わず、出場が認められなかった”【8月23日 読売】とも。

このあたりに、独立後も民族対立を背景にした大統領派と副大統領派の内戦が続いた南スーダンの“食べること”“生きていくこと”で精一杯の混乱ぶりがうかがえます。

【内戦は停戦したものの混乱が続く】
****南スーダン、見えぬ未来 独立10年 各勢力の軍統合難航****
南スーダンが(7月)9日、独立から10年を迎えた。内戦を繰り返し、自衛隊もインフラ整備などを支援した「世界で最も新しい国」だが、人口の3分の1にあたる約390万人の難民や避難民は帰還のめどが立っておらず、国の先行きは不透明なままだ。
 
サルバ・キール大統領は同日朝、首都ジュバの大統領府で演説し、「私は再び内戦に戻ることがないことを国民に約束する。失われた10年を取り戻し、新たな10年でこの国を発展の道へと戻すために皆で力を合わせよう」と呼びかけた。
 
南スーダンは、1955年から05年まで断続的に続いた武装闘争の末、11年にスーダンから分離独立。だが、13年12月、最大民族ディンカ出身のキール大統領と、2番目に多い民族ヌエル出身のマシャル副大統領の間で緊張が高まり、ジュバでの戦闘をきっかけに全土で内戦に突入。約40万人が犠牲になったとされる。(中略) 
 
18年にキール氏とマシャル氏などの間で和平合意が成立し、20年2月に暫定政府が発足した。だが、各勢力を国軍に統合する計画が進まないなど、合意内容の実現は遅れている。

政府のガバナンスなどを監視する現地NGOのエドムンド・ヤカニ事務局長は「平和と安定は軍統合の成否にかかっているが、階級の割り当てなどをめぐる争いで進まない。新たに内戦が起きないか恐れている」と話す。

 ■国内720万人、食料不足
内戦で家を追われた人々の苦しい生活は今も続いている。
 
7月8日朝、首都ジュバ郊外にある計約3万1千人が暮らす避難民キャンプを訪れた。
複数の避難民によると、昨年キャンプの運営が国連から政府に移管されて以降、生活環境は悪化。給水が制限されるようになり、近くの溝を流れる水をくんでしのぐ。
 
世界食糧計画(WFP)による支援が続いてきたが、コロナ禍で財源不足に陥り、配給は基準の半分に落ち込んでいるという。国連人道問題調整事務所(OCHA)は、今年5~7月に国内の約720万人が食料不足に陥り、独立以来、最悪の状況だと指摘する。
 
それでも、避難民で起業家を目指す男性(29)は「指導者たちが協力できれば、戦後の日本のように国を立て直すことはできる」と希望を語った。【7月10日 朝日】
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大統領派と副大統領派の内戦は一応2018年に停戦したものの、副大統領派の分裂など不安定な状態は続いています。

****南スーダン戦闘、30人超死亡 副大統領派が分裂****
南スーダンでマシャール第1副大統領を支持してきた勢力が分裂し、7日までに戦闘を開始した。副大統領派の報道官は同日、敵対する勢力の有力司令官を含む29人を殺害、自派の兵士3人が死亡したと明らかにした。ロイター通信が伝えた。
 
一方、副大統領派と敵対する勢力側は兵士28人を殺害したと発表。4日にマシャール氏を指導者から「解任した」と主張しており、戦闘の激化が懸念されている。
 
マシャール氏は5日、敵対勢力側が南スーダンの和平プロセスを阻害しようとしていると批判していた。【8月8日 共同】
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【「独立10年」への絶望と「次の10年」への希望】
こうした南スーダンの現状に絶望を隠さない人も、あるいは、「次の10年」に希望を託す人も。

****希望と絶望抱え…世界一若い国が独立10年 最貧のアフリカ南スーダン****
東京五輪の開幕が間近に迫った7月上旬、世界196カ国のうち一番若い国が独立10年を祝った。アフリカ東部に位置する南スーダンだ。

多くの犠牲を経て2011年に始まった新国家の歩みは決して順調とは言えない。国連開発計画(UNDP)が昨年12月に発表した国民生活の豊かさを示す「人間開発指数」の世界ランキングでは下から4番目だった。

最貧国を抜け出せないまま訪れた「次の10年」。人々の思いには希望と絶望が入り交じっている。

▽血塗られた歴史
「平和の中で独立10年を迎えられたことをうれしく思う」。独立記念日の7月9日、首都ジュバの大統領府でサルバ・キール大統領はこう演説し、国家の安定を強調した。演説の直前には記念日を祝うショートマラソン大会がジュバ市内で開かれ、リアク・マシャール第1副大統領が「過去の不幸を忘れて国家の新しい章を開こう」と観覧席から訴えた。集まった数千人の市民から歓声が沸き上がり、会場は大興奮だ。
 
政府首脳2人の前向きな発言の背景には血塗られた歴史がある。南スーダンは05年まで20年以上続いた内戦を経て、11年にスーダンから独立した。当初は豊富な地下資源を活用した経済発展が期待されたが、政権内でキール氏とマシャール氏が対立し、両氏の出身民族を巻き込んで13年12月に再び内戦に突入。18年9月の和平協定締結までに約40万人が犠牲になったとされる。
 
20年2月、共同で権力を握る現政府が発足し、両陣営は元のさやに収まった。民主的な選挙を23年までに実施することを目指しているとされ、権力闘争は表面上、一時休戦となっている。
 
ただ不穏な空気は晴れない。キール氏とマシャール氏が独立記念日を公の場で共に祝うことはとうとうなかった。

今年8月に入ると、マシャール陣営内の分裂が表面化。反マシャールに転じた勢力は同氏を指導者から「解任した」と主張した。対立する勢力間では激しい戦闘が起きたとみられ、ロイター通信は何十人もの死者が出た可能性を伝えた。次の10年の始まりには、早くも暗雲が垂れ込めている。
 
▽悲しみ抱えた難民生活
独立後の内戦では多くの人々が南スーダンから逃れ、今も220万人以上が国外で暮らしている。多くは祖国での悲しい思い出を抱えたまま、経済的にも苦しい日々が続く。隣国エチオピアの首都アディスアベバで出会ったジョックさん(29)=フルネーム非公表=もそんな中の一人だった。
 
「おれの生活を見てみろよ。独立10年に何の意味がある」。7月9日の独立記念日が近づいてきた6月後半、自宅がある貧困地区の薄暗いカフェの片隅で聞いたジョックさんのつぶやきにはあざけりと怒りが込められていた。
 
11年の南スーダン独立時は学生だった。首都ジュバ郊外で両親や兄弟との9人で暮らし、スーダンからの分離闘争を経ての祖国誕生は「まさに喜びだった」。原油などアフリカ諸国有数の豊富な地下資源が、明るい未来を約束しているかのように感じたという。
 
だが現実は違った。政権内の主導権争いが激化。ジョックさんの民族はマシャール氏と同じヌエル人で、キール氏が属するディンカ人との間で緊張が高まった。
 
悲劇が起きたのは13年12月の夜。近所の人と夕食を囲んでいると背後から銃声が響き、目の前で3人が倒れた。「ディンカだ!」。当時9歳だった弟の手を引いて一目散に闇の中を逃げた。その日以来、他の家族の行方は分からない。
 
逃げた方向が同じだった約50人で一緒にコンゴ(旧ザイール)国境を目指した。森林をさまよう決死の逃避行。「動けなくなった人は置いていった。仕方なかったんだ」。7日後にコンゴの名も知らない町にたどり着いた時には、仲間は20人ほどになっていた。
 
コンゴで国連機関の保護を受け、難民として弟と共にエチオピアに受け入れられた。「安全だが仕事はない」。わずかな公的補助を頼りに、同じ境遇の南スーダン人同士で寄り添い合って生きている。最近、難民仲間の女性(21)と結婚したが、生活力がなく同居はできない。
 
「もちろんいつかは彼女と暮らしたい。仕事があるなら、どこの国にだって行くさ。おれから全てを奪った南スーダン以外なら…」
 
▽国歌への思いもう一度
ジョックさんのように祖国への絶望を隠さない人がいれば、国内にはその行く末に希望を見いだそうとする人々もいる。国歌の誕生を支えたジュバ大学コーラス隊メンバーら、当時の学生たちだ。この10年への思いを聞きたくて、独立記念日2日前の夜、既に社会人となった彼らにジュバ市内のレストランでささやかな“同窓会”を開いてもらった。
 
「新しい国の始まりに貢献できたわけだから、それは光栄な気持ちでいっぱいだったよ」。ITエンジニアのエベネザ・ゴレさん(32)は卓上のスープを口に運びつつ懐かしげに語った。
 
分離独立の道筋が見えた10年ごろ、南部スーダン自治政府(当時)のリーダーたちは新しい国歌の歌詞を定め、旋律は複数の音楽家に作曲を打診し選ぶことにした。ある作曲家グループがジュバ大学のゴレさんら約30人に歌唱を依頼し、同年秋のコンテストで歌ったものが採用された。
 
その後、歌詞の一部改訂を経て生まれたのが今の国歌「南スーダン万歳!」だ。聴いてみると、国歌一般に抱いていた荘厳なイメージは裏切られ、軽快な響きが印象に残る。
 
「近隣国で流行していた音楽のコード進行やリズムを取り入れたんだ。これからの国なんだから重たい感じはふさわしくないと思ってね」。作曲補助と編曲を担当した音楽プロデューサーのエイブラハム・コスタさん(32)は振り返る。生まれてくる祖国を待ち受けているはずの幸福な未来への願いを明るい調子に託したという。

コーラス隊は小中学校を訪れ国歌の普及に努めた。11年7月9日の独立の日にはジュバ中心部の祝賀会場で、300人を超える大編成を組み、高らかに歌った。
 
政権内の主導権争いの末に内戦が始まり、夢は色あせた。ゴレさんらは「内戦時のことは思い出したくない」と口が重い。明るい将来を信じて共に歌った仲間の中には、命を落としたり国外へ逃れたりした人もいた。

国歌の普及活動も頓挫した。「国歌を少しでも歌える国民なんて今はほとんどいないだろうね」。元コーラス隊で、コスタさんと音楽活動を続けるジョン・ボスコさん(34)が浮かべた笑みは自嘲気味だった。
 
政情不安の続く南スーダン。だが内戦は18年に一応の終結をみた。彼らにとってはわずかな光が差し込む中での建国10年。「また独立時と同じ気持ちで国歌と向き合いたい」。この日の会合ではこんな言葉も聞こえてきた。
 
「平和と調和の中でわれらに団結をもたらしたまえ」―。あのころ力いっぱいに歌った歌詞の願いはまだかなっていない。それでも元コーラス隊の気持ちは同じだ。「次の10年でこそきっとかなうはず。いつか平和な世の中で、この歌が歌い継がれるようになってほしい」【9月10日 47NEWS】
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