孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

スリランカ  イスラム教徒ムーア人の問題と野生の象についてチャットAIに訊いてみた

2023-05-17 01:13:19 | 旅行

(救出されたタイから寄贈のサックスリン(ムトゥラジャ)。スリランカ・コロンボ近郊のデヒワラ動物園で(2003年5月13日撮影)【5月16日AFP】)

【複雑で緊張したイスラム教徒との関係】
現在、スリランカの北端ジャフナを旅行中です。

昨日ブログで触れたように、スリランカには内戦を戦った多数派仏教徒シンハラ人(人口の約74%)と少数派ヒンドゥー教徒タミル人(18%)以外に、ムーア人と呼ばれるイスラム教徒が人口の1割弱存在します。

9・10世紀ごろに島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれます。

たまたま検索サイトBingのAIチャットのページが開いたので、試しにムーア人に対する「差別」「政治的状況」について訊いてみました。

問い)スリランカのイスラム教徒であるムーア人が受けている差別はどんな状況ですか?
回答)
*********************
ムーア人は、スリランカ内戦の間にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)から多くの迫害や暴力を受けました。

1990年には、LTTEが95,000人以上のムーア人を北部州から強制的に追放しました。 これは、タミル人単一民族国家建設のための民族浄化と見なされています。 この追放は、ムーア人の間ではいまだ苦い記憶として残っています。

ムーア人は、スリランカの東部州や西海岸に多く住んでいます。
東部州のムーア人は、タミル語を第一言語として使用し、母系社会でシャリーアを行動規範としています。 
西海岸のムーア人は、シンハラ語や英語を話し、多言語民族の宗教集団と言えます。
******************

なるほど・・・・タミル人とは問題があったようですね。
多数派シンハラ人とは?

問い)ムーア人とシンハラ人の関係はどうですか?
回答)
******************
ムーア人とシンハラ人の関係は、歴史的にも現代的にも複雑で緊張したものです。

ムーア人は、スリランカのイスラム教徒の大部分を占める民族で、タミル語やシンハラ語を話します。シンハラ人は、スリランカの多数派民族で、仏教やキリスト教を信仰し、シンハラ語を話します。

ムーア人とシンハラ人の間には、経済的、政治的、宗教的な対立があります。

1915年には、ムーア人の商人や金貸しに対する暴動が起きました。 これは、シンハラ・ナショナリズムの高まりと関係していました。

スリランカ内戦では、ムーア人はタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)から迫害されましたが、政府軍とも協力しませんでした。

そのため、シンハラ人からは不信感や敵意を持たれることもありました。

ムーア人とシンハラ人の関係は、地域によっても異なります。 東部州では、ムーア人はタミル語を話し、タミル人と近い関係にあります。 西海岸では、ムーア人はシンハラ語や英語を話し、シンハラ人との交流が多いです。

しかし、どちらの地域でも、ムーア人はイスラム教の文化やアイデンティティを保持しています。
********************

なるほど・・・・チャットAIは便利です。
Bingチャットでは、情報の出典も明示してくれます。

今回旅行のシンハラ人ガイド氏に訊くと、シンハラ人政府とムーア人の間では対立がない訳ではないが、それが大きくならないように互いに自制しているとのことでした。

ただ、親近感・縁遠さのという話で言えば、タミル人のヒンドゥー教は、仏教徒シンハラ人にとってもなじみやすいものであるのに対し(昨日ブログで書いたように、ヒンドゥーは(仏教国を含めて)南アジア・東南アジアの文化の根底にある共通文化です)、イスラムは非常に縁遠い存在。

ガイド氏も、生まれてから一度もモスクに足を運んだことはないとのこと。

【チャットAI ときどき「奇妙」な回答も それに気づけるか・・・・】
チャットAIの話で言えば、非常に便利・・・ですが、情報が正しい保証はありません。

ちなみに、帰国時の成田空港から浜松町へのアクセスを訊いてみたところ、詳しく・具体的に教えてくれました。

ただ一つだけ「奇妙」だったのは、日暮里から東京までは山手線、その後、東京で京浜東北線に乗り換えて浜松町に・・・という案内になっていたこと。

「山手線でそのまま浜松町まで行けるじゃないか」という事前情報があれば、その部分は無視すればすみます。

しかし、前出のムーア人に関する回答のなかに、そうした「奇妙」な部分があるのか、ないのか・・・事前情報がないのでそこらはわかりません。信用していいのかどうか・・・。

【野生の象に対する国民感情なども訊いてみた】
今日目にしたスリランカ関連のニュース。

****タイ寄贈のゾウ、虐待されていた寺院から救出 スリランカ****
スリランカでこのほど、虐待されていたとみられるゾウが救出された。13日には、コロンボ近郊のデヒワラ動物園で静養する姿が見られた。
 
ゾウは、2001年にタイ政府からスリランカに贈られた3頭のうちの1頭、サックスリン。スリランカではムトゥラジャと名付けられた。飼われていた寺院で虐待されていたとみられ、在コロンボ・タイ大使館の介入により保護された。 【5月16日 AFP】
********************

ガイド氏に「スリランカ人は象嫌いですか?」って尋ねたら、「そんなことないです」って言っていました。それはそうでしょう。

スリランカには野生の象がすんでいます。
アヌラダープラからジャフナへの移動中に、道路わきに鉄線が張られていることがありましたが、象が侵入しないように電流を流しているとのこと。

道路標識にも「象に注意」みたいなものがあります。

スリランカの象についても、前出Bingチャットに訊いてみました。

先ずは単純な問い。

問い)スリランカには野生の象は何頭ぐらいいますか?
回答)
********************
スリランカには約7,500頭の象が野生で生息しているとみられています。

スリランカの中でも野生の象が最も見られる場所がシーギリヤの近くにあるミンネリヤ国立公園です。シーズンは5月〜10月で、特に象が多いのが7月〜9月と言われています。多いときで300頭ほどの象が見られることもあります。
********************

続いて本題に。

問い)スリランカでは、野生の象による被害は出ていますか?
回答)
*********************
はい、スリランカでは野生の象による被害が出ています。

スリランカでは2019年の1年間に、史上最多の361頭の象が死んだ。その内85パーセントは、「農作物荒し」に対する仕返しとして殺されている。

毎年数10名が象に殺され、象による被害は農作物及び生計手段にも被害が及んでいる。

スリランカ政府は、ゴミ投棄場の周りにゾウ侵入防止のための電気フェンスを張るなどの対策を講じていますが、すべての場所で完全に実施されていないという。
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問い)スリランカの一般市民の象に対する感情はどのようなものですか? 大切なものだと思っているとか、可愛い生き物だと思っているとか、あるいは農作物を荒らす困った生き物だとおもっているとか。

回答)
************************
スリランカの一般市民の象に対する感情は、地域や状況によって異なると思います。

象はスリランカの国の象徴であり、仏教の信仰にも深く関わっています。多くの人々は象を大切なものだと思っているでしょう。

しかし、農民と象の間には衝突が起こっており、象は農作物を荒らしたり人間に危害を加えたりするという問題があります。そのため、一部の人々は象を困った生き物だと思っているかもしれません。

スリランカ政府は、人間と象の衝突を最小限に抑えるために様々な対策を講じていますが、効果は限定的です。

2020年1月には、人間と象の衝突が最も激しい地域において、防御組織の要員2500名を志願制により一般市民から募集し、銃器を支給する計画を発表しました。 これに対して自然保護活動家や法律家は反発し、銃器が象の殺害や密猟に悪用される恐れがあると指摘しました。

一方で、スリランカでは象の保護や救済に取り組む施設もあります。例えば、ピンナワラ象の孤児院は、傷ついたり孤立したりした野生の象を保護し、飼育しています。ここでは約100頭以上の象が暮らしており、観光客は象と触れ合ったり水浴びを見たりすることができます。

ピンナワラ象の孤児院はスリランカでも有名な観光スポットであり、多くの人々が象の可愛さや魅力に感動しています。

以上のように、スリランカの一般市民の象に対する感情は一様ではなく、複雑な問題が絡んでいます。しかし、象はスリランカの自然や文化に欠かせない存在であり、共存の道を探る努力が必要だと思います。
*********************

なかなか立派な回答で、特に付け加えることもありません。

前述の「信頼性」「正確性」の問題のほかに、人間は何も考える必要がなくなるという問題も。

電卓が普及して計算する必要がなくなり、パソコンの変換に頼るようになって漢字を忘れ、チャットAIに頼るようになって情報を集めたり、判断したりすることもなくなり・・・・。
 
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スリランカ  旅行で遭遇した国民の間で言葉が異なることの問題

2023-05-16 01:42:18 | 旅行

(ジャフナからカイツ島への海中土手道 記事のトラブルは、この道をジャフナ側の公園から撮影していたときに発生)

現在スリランカを旅行中です。
今回の目的地は、少数派のヒンドゥー教徒タミル人の居住エリア最大都市である北端のジャフナ。
スリランカ内戦の被害が甚大だった地域でもあります。

ジャフナは島の最北端で、海を隔ててインドも間近。
紀元前3世紀、インド・カニシカ王の時代、お釈迦様がその木の下で悟りを開いた菩提樹の枝をカニシカ王の娘がスリランカにもたらすべく船でやってきたのも、ジャフナ郊外の海岸です。

当時のスリランカの王は、海中に入って彼女を迎えたとのことです。

前回ブログでも、シンハラ・タミルの間で言葉が通じない問題は触れましたが、昨日もそのことで面倒なことになりかけました。

ジャフナの沖合にはジャフナ諸島と呼ばれる島が点在していますが、手前側の島とジャフナは海中の土手道で繋がっています。

14日、その島のひとつカイツ島観光に行く際、まずジャフナ側の海岸で、海中をまっすぐに伸びる土手道の写真を撮っていました。

すると警備員のような男性が笛を吹いて、写真を撮るなとのこと。
何のことかよくわからず、ガイド氏が理由を訪ねますが、警備員はタミル人、ガイド氏はシンハラ人ということで言葉が違うため、相手の言っていることが理解できません。

その警備員は英語も通じないとのこと。

やはりシンハラ人のドライバーも加わっていろいろ言い合っていましたが、どうも、スマホ撮影なら構わないが、一眼のようなカメラで撮影するためには、チケットを購入しなければいけない・・・みたいなことを言っているようだというところまではわかりました。

埒が明かないので、車に戻り、移動しようとしていたら近くに警官が。
警官に事情を話すと、「写真を撮るのに制約はない」とのこと。

そこで、改めて車外に出て撮影再開。

すると再び別の警備員が撮らないようにとのこと。
ガイド氏「いや、ポリスはかまわないといってるぞ!」ということで、警官を呼んで、ガイド、ドライバー、警備員、警官が集まって協議。

警官が警備員を押し切ったようでしたが、私も撮影はほぼ終了。
「トラブルのは困るので、次へ移動しましょう」ということに。

本当に警備員の言うようなローカルルールがあるのかどうかは知りません。
ガイド氏に言わせれば「ああいう難癖をつけてカネをとろうとしているだけ」とのこと。

ことの真相はよくわかりませんが、話がこじれる大きな理由は、言葉が違うため相手の言い分が理解できないところにあります。

当然ながら、どちらかの言葉で統一すれば意思疎通は簡単になります。
ただし、この問題は非常に敏感な問題。そのやり方が、他方の言語を否定することになると、否定された方は激しく反発します。

****多民族国家スリランカにおける公用語政策と教育の課題****
1948年にイギリスから独立して 8年後、スリランカの政治的、社会的状況はまったく変わった。

スリランカではこれまで、シンハラ語とタミル語 の両言語公用語案が提示されていたが、 1956年 になり、シンハラ語のみが公用語と規定された。 

タミル語が公用語として認められなかったため、 反シンハラ主義の若者を中心として一部のタミル人が激しく抗議し、テロ運動が始まった。(後略)【2008年9月 日本学習社会学会年報第 4号】
********************

言語だけでなく、シンハラ人による政府がシンハラ民族主義的政策を強行し、タミル人の立場を顧みなかったことが、夥しい犠牲者を生む二十数年に及ぶ内戦を惹起したと言えます。

****タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)設立の背景*****
スリランカは多民族国家であり、人口の約74%がシンハラ人、約13%は古くから住んでいる「スリランカ・タミル人」、約5%がイギリス植民地時代にプランテーションへの労働力として移住させられてきた「インド・タミル人」である。

植民地時代、シンハラ人(主に仏教徒)はイギリスの支配に対立・抵抗を続けたのに対し、比較的従順だったタミル人(主にヒンドゥー教徒)がイギリス政府に重用されていた。

1947年の議会選挙では1人1票制が採用され、シンハラ人がセイロン(当時)の政府で多数派を得た。

1944年に設立されていた全セイロン・タミル会議(ACTC)はレバノン型の権力分割(50:50)を主張していたが、高地ではシンハラ人よりもインド・タミル人が多数派であり、独立直後の政府にとって脅威であったため、受け入れられることはなかった。

その後インド・タミル人は1948年制定の『セイロン市民権法』により公民権を失い、1949年の『国会選挙法』により選挙権を失った。さらに1956年、ソロモン・バンダラナイケ政権は「シンハラオンリー法」を採択し、タミル人への差別が始まった。

セイロン政府は、悪化するスリランカ経済に対する不満をそらすために、シンハラ政策を推し進め[、1965年にはシンハラ人による反タミル人・キャンペーン、民族浄化を提唱するスリランカ人民解放戦線が創設された。

1970年に就任したシリマヴォ・バンダラナイケも、1978年に大統領に就任したジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナもタミル人政策には着手しなかった。

1972年制定のスリランカ共和国憲法でも、1978年制定のスリランカ民主主義共和国憲法でも、『仏教に至高の地位を与える』という条項は残り、タミル人への差別は続いた。【ウィキペディア】
*******************

人口の約74%がシンハラ人、約13%は「スリランカ・タミル人」、約5%が「インド・タミル人」・・・・残りは?

残りの大多数はムーア人(9,2%)と呼ばれる人々。
ムーア人も9-10世紀ごろに島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれますが、一般的認識としてはイスラム教徒を差します。言語はタミル語をつかうことが多いようです。

シンハラは仏教、タミルはヒンドゥーですが、その宗教的対立はあまりないと推察されます。
仏教徒シンハラ人でもヒンドゥー寺院に参拝することは極めて普通のことです。(日本人がお寺にも神社にも行くようなものでしょうか)

スリランカに限らず、タイのような仏教国でも、ヒンドゥー由来の宗教・文化が根付いており、ヒンドゥー文化は南アジアから東南アジアにかけての共通文化になっています。ちなみに、仏教国タイの国章はヒンドゥー由来のガルーダです。

非常に近しい関係にある仏教・ヒンドゥー教に対し、イスラムはかなり異色。
仏教国ミャンマーではロヒンギャなどのイスラム教徒は強烈に排除されます。差別というより、「彼らはミャンマー人ではない」という形で。

タミル人との内戦や差別はよく話題になりますが、スリランカにおけるイスラム教徒・ムーア人はどういう立場にあるのでしょうか・・・・今後、少し関心を持っていこうと思っています。
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スリランカ  内戦の「記憶」

2023-05-14 22:10:21 | 旅行
(キリノッチ 内戦時にタミル人武装勢力LTTEが政府軍キャンプ襲撃に使用した改造兵器)

11日から1週間、4回目のスリランカ旅行中です。

スリランカにについては前回記事にも書いたように、観光的な関心以外に内戦(多数派・仏教徒のシンハラ人政府と少数派・ヒンドゥー教徒のタミル人武装勢力の間で1983年7月から2009年5月まで戦われた内戦で、政府軍勝利で終結)に関する記憶がいくつかあります。

スリランカ内戦が国際的に問題となったのは、タミル人側が最後の拠点に追い詰められた最終段階。
タミル人側は住民を「人間の楯」とすることで、政府軍の最終攻撃を防ごうとしました。

強硬な軍事的制圧を行うと多数の住民被害が出ることが予想される状況で、国連・欧米はスリランカ政府に自制を求めました。

しかし、スリランカ政府はそれを拒否して軍事作戦を強行。結果、多数の犠牲者も出ました。
そのことで、スリランカは欧米から制裁を受けることにもなりました。

民間人犠牲を顧みないのはタミル人側武装勢力も同じで、、武装勢力LTTEは逃げようとする民間人を銃撃しているとも報じられていました。

****スリランカ内戦:「病院に多数の避難民ら」戦闘地域の医師****
「この状態では脱出すらできない」。スリランカ政府軍が北東部に立てこもる反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)への最終攻撃を本格化した14日、戦闘地域に閉じ込められた病院の男性医師(39)は毎日新聞の電話取材に切迫した状況を伝えた。

医師は「武装ヘリが飛び回り、あちこちに迫撃砲が撃ち込まれている。ここには2000人以上の患者や避難民がいるが、薬や食料、飲用水のない危機的状況だ」と訴えた。
「病院の外に一歩出れば、戦闘に巻き込まれる」。医師は早口で言った。非戦闘員の保護を定めたジュネーブ条約に反し、政府軍とLTTEの戦闘で多数の民間人が犠牲になっていることを物語る。

医師によると、戦闘は10日ごろから散発的に始まった。LTTE支配地域に取り残された多くのタミル人市民が、「病院なら攻撃されない」と信じて駆け込んできた。治療が必要な数百人以外は建物の外で野宿している。

LTTE側は10日、この病院について「政府軍の攻撃で2000人以上死亡した恐れがある」と主張していた。医師は「死者は推定数百人。病院の敷地外に放置されたままの遺体も多く、実際の数は分からない」と言う。

戦闘には、政府が民間人への被害を防ぐため「使用しない」としていた迫撃砲も使われているようだ。ただ、医師は「どちらの攻撃かなんて分かるはずがない」と打ち明けた。

病院の様子は悲惨だという。頭に包帯をぐるぐる巻いた幼児が、行方不明の母親を捜して泣き叫ぶ。骨が浮き出るほどやせた老人たちが床の上で息を引き取っていく。

次々と負傷者が運び込まれてくるが、ベッドは足りず、医薬品不足などで手術もままならない。野戦病院のような混乱の中、医師と看護師の計10人が不眠不休で治療しているという。

戦闘の影響なのか、電話回線は数分おきに途切れる。通算20分間、言葉を選びながら語った医師は、「病院にLTTEか政府軍はいるか」との質問をきっぱり否定。「最後の患者が保護されるまでここに残る」と語った。【2009年5月15日 毎日】
**********************

今回旅行で専用車のドライバーを努めてくれた男性は、内戦当時政府軍兵士としてこの北部地域に駐屯し、今は観光地となっている「ジャフナ・フォート」(17世紀のポルトガルやオランダ支配当時からの要塞で五稜郭と同形)に政府軍兵士650名ほどが立てこもり、約1か月に及ぶLTTEの攻撃を耐えた経験があるとのこと。包囲されているので、食糧などは空輸したとか。

フォートの石垣には今も内戦当時の弾痕が多数残っていますが、ドライバー氏も足首あたりに被弾し、頭皮には弾丸がかすめた傷跡が残っています。弾道があと数cm低ければ即死でした。

彼の運転で13日、観光地アヌラダープラから北部の拠点都市ジャフナに移動しました。

途中、昼食をとったレストランでは、支配人男性とフロアマネージャー的な女性の二人がシンハラ人で、あとのスタッフはタミル人とのこと。

ガイド氏に意地悪い質問を。「ようするに、偉い人はシンハラ人で、タミル人はその下で働いているということですかね?」

シンハラ人男性のガイド氏(日本で数年働いた経験がある40歳ぐらいの方)は、その問いを否定せず、「そうですね」とも。

ただ、そのレストランの収益は、体の不自由な方々への支援に使われているということで、社会的に有意義な活動を行っている見せです。

更に進んで、LTTEの最後の拠点があったキリノッチ付近の道路際にブルドーザーを戦闘用に改造したようなものが展示されていました。軍の兵士が管理していました。

当時、政府軍の駐屯地があり新兵を徴用していたそうですが、そこをLTTEが上記改造兵器で攻撃してきたとのこと。

そのとき政府軍兵士の一人が、手りゅう弾を手にしてこの改造兵器の中に飛び込み自爆し、LTTEの攻撃を阻止したそうです。

かれはシンハラ人の英雄となって、その行動を称えるビデオなどもそこで見ることができます。

そこには大勢のスリランカ人観光客が来ていました。

私「あの観光客は(この付近に住む)タミル人ですか?」 ガイド氏「いいえ、シンハラ人です。」

シンハラ人にとっては英雄の記念碑ではあっても、敗者タミル人の目には・・・・
ガイド氏も、いたずらに両者の溝を深めるような展示については、あまり賛成していない様子でした。

シンハラ人とタミル人の溝・・・・もっとも基本的なところでは、言葉が通じません。シンハラ語とタミル語はまったく異なります。

ガイド、ドライバーもシンハラ人ですからタミル語がわかりません。

そのため、ジャフナのホテルに着くと、ホテルスタッフとガイド氏は英語で会話・交渉することに。

ともに英語を理解できる場合は、こういうコミュニケーションも成立しますが、そうでない場合は会話できません。

ジャフナのレストランで夕食を食べた際にも、ガイド氏はレストランスタッフに英語でオーダーしていたのですが、そのスタッフ男性が「私はシンハラ人です」 そういうこともあります。

あと、私のまったくの印象にすぎませんが、昼食をとったレストランのレジ係をしていたタミル人女性スタッフの様子や、ホテル女性スタッフ(子供時代から若い頃に内戦を経験した年齢)の言動から「数字・計算について十分な教育を受けていないのかな・・・」と感じたことも。

まったくの個人的印象で、私の勘違いにすぎず、事実はまったく異なることが大いに予想されますので、この件の詳細は省きます。

そんなこんなで、特に内戦の記憶・残影を求めて旅行している訳ではありませんが、ちょっとしたことに内戦の「記憶」がのぞくこともあるみたい・・・・。
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スリランカ旅行中 内戦の中心都市ジャフナへ

2023-05-13 02:12:16 | 旅行
(2006年、2回目のスリランカ旅行の際のネゴンボの海)

現在スリランカを旅行中です。

スリランカ旅行は4回目
ただ、これまでは内戦のため、北部と東部は行けませんでした。

スリランカでは多数派の仏教徒が多いシンハラ人主体の政府と少数派ヒンドゥー教徒タミル人武装勢力の内戦が二十数年続きました。

北部と東部はタミル人居住地域のため観光はできませんでした。

****スリランカ内戦*****
スリランカ内戦は、1983年から2009年にかけて展開されたスリランカ政府とタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) による内戦。スリランカ政府軍がLTTE支配地域を制圧して26年にわたる内戦は終結した。【ウィキペディア】
****************

今回は内戦時、LTTEが拠点としていた北部の中心都市ジャフナに滞在する予定です。内戦の被害が大きかった地域でもあります。

最初のスリランカ旅行(1993年)のときは、大統領ラナシンハ・プレマダーサがLTTEの自爆テロで殺害される事件が起き、旅行中に外出禁止令が出される経験もしました。

そのため、スリランカ内戦はやや身近に感じるところもあります。

当時、旅行を世話してくれていたシンハラ人男性が、タミル人も多く住むエリアを車で通り抜ける際に、傍目でもわかるぐらいに緊張ていたことをよく覚えています。

また、コロンボにもどった際に、その男性の奥様が、普段は温厚な方なのに、タミル人の話になると非常に厳しい言い様になったことなどからも、ふたつも民族の間の溝の深さを感じたりもしました。

内戦が終わった後の2010年の3回目の旅行は西部の都市ゴールが中心でしたが、広場に大勢が集まっている催しがあったので私も出かけたところ、LTTEからの戦利品である武器の展示会でした。

こうした催しが敗者のタミル人の目にはどのように映るのだろうか・・・という感じもありました。

今回の旅行で行くジャフナは、観光的にはそれほどのものもありませんが、個人的にはそうした内戦の中心地だったところということで、興味がある場所です。

11日夜にスリランカに到着し、海辺の都市ネゴンボに宿泊。
12日は日本語ガイド同行で仏教遺跡が多い世界遺産都市アヌラダープラに移動しました。

13日はジャフナに入る予定です。

旅行中のため、ブログ更新は「もし可能であれば」といったところです。
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ウズベキスタン  通貨スムの話 観光三日目の時点での印象 サービス体制には大きな改善余地

2019-11-09 02:38:56 | 旅行

(夕暮れ時のサマルカンド・レギスタン広場 11月6日 ウズベキスタン最大の観光スポットですが、さすがに一見の価値がある景観です)

 

【不透明な為替レート】

5日から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中で、観光3日目の今日(8日)は古都ブハラの遺跡巡りでした。

 

ウズベキスタンの通貨はスム、ネットで為替レートを検索すると「1円=86.5スム」といった数字が出てきますが、実際にガイド氏が両替してくれたレートは「1円=70スム」程度。

 

ガイド氏のレートが不当に悪いのか・・・そのあたりの事情はよくわかりません。

 

さらに、現在の状況はよくわかりませんが、2015年当時の記事を見ると、公式レートと市中の実勢レートには倍近い差があるといった指摘も。【2015820日 島田晴雄氏 「ウズベキスタン通貨「スム」の交換レートの不透明性」より】

 

つまり、市中で闇両替すれば、1円が100スム以上にもなる・・・ということです。

 

旅行者にとっても本来なら大きな問題ですが、今回はツアー参加のため、現地で使用するおカネは飲み物代など極めて少額ですむので、あまり問題にもすることなくすませています。

 

【現金社会】

日本でウズベキスタンのことが記事になることは殆どありませんが、珍しく目にしましたので。

やはりおカネの話です。

 

****札束が飛び交う現金王国ウズベキスタン、キャッシュレス社会へ一歩****

日本をしのぐ「現金王国」がある。中央アジアのウズベキスタンだ。買い物では札束が飛び交うが、財布を持つ人は見かけない。激しいインフレで紙幣の束が分厚くなりすぎ、財布に入りきらないからだ。

 

首都タシケントにある市場「チョルス・バザール」に入ると、広大な敷地に店が並び、ありとあらゆるモノが売られていた。解体されたばかりの羊や牛の肉、トマトやタマネギなどの野菜、果物、香辛料、陶器、衣類……。

 

銀行カードで支払いができるという表示はあるが、買い物客はみな通貨「スム」の札束を渡している。ウズベキスタンでは、まだ給料を現金でもらっている人が多く、銀行口座にあまりお金が入っていないという事情もある。

 

Cash is King(現金は王様)」。ウズベキスタンの財務副大臣オディルベク・イサコフ(38)はそう言って苦笑した。

 

2年前から米ドルに対する為替相場は半分以下に急落し、インフレ率は20%近い。「お金が余ったら不動産や牛・羊などを買うか、米ドルに両替する人が多い」。

 

金利がつかない預金では、価値が目減りすることになり、米ドルや資産に換えれば、逆に価値は上がるからだ。それでも買い物の前には、スムに両替しなければならない。

 

ウズベキスタンでは2017年に1万スム札と5万スム札、今年は10万スム札が発行された。10万スムでも、日本円では1100円ほどだ。

 

その前は自動車など高額なものを買うには大量のお札が必要だった。スーパーの大きいレジ袋13袋に札束を詰め込んで販売店に持参し、数えるのに5時間かかったつわものもいる。

 

そんなウズベキスタンでも、政府はキャッシュレス化に向けた政策を矢継ぎ早に打ち出し始めた。今年5月、ビザやマスターとカードリーダーの規格が同じ銀行カード「フモカード」がつくられ、デジタル通貨の発行まで視野に入れる。

 

デジタル経済の構築を進める行政組織「NAPM」ファンド部門トップのバホディール・ベコフ(37)は「ブロックチェーン技術を使った電子政府づくりや、デジタル通貨の開発をめざしている」と意気込む。

 

現金からキャッシュレス、そしてデジタル通貨へ。自国通貨が弱い国の挑戦が続く。【118日 GLOBE+】

*******************

 

円を両替するととんでもない札束になるというのは別にウズベキスタンだけではありません。ベトナム、イラン、インドネシアなどでも。

 

ほんの数日の印象では、ウズベキスタンで銀行カードやデジタル通貨が流通するというのは、なかなか想像しがたいものがあります。

 

現在はクレジットカード利用も観光客相手のお店などにかなり限定されていますので。

 

旅行者にとっては、商品の価格が非常に大きな数字になるというのは非常に厄介なことで、最初は頭の中が混乱します。

 

まあ、それでも公園のお店でポッポコーンを買おうとするとき、指で「4」を示されれば、それが4万スムではなく4千スムのことだな・・・という程度にはわかるようになりました。

 

【観光対応については、これから改善すべき問題も多いうような感じ】

実質的な観光はまだ三日しかしていませんが、その大雑把な印象から。

 

まず、観光資源についてはチムール帝国関連など歴史的な遺産・遺跡が多数存在していますが、イスラム的なものが多いせいもあって、やや単調な印象も。異教徒にとってはイスラムのモスクや神学校というのは、どれもこれも似たような感じに見えてしまいます。(日本を訪れた外国人にとっても、お寺・神社はそんな印象なのかも)

 

歴史的な遺産・遺跡は多いのですが、自然景観で見るべきものが少ない(あるいは、まだ観光用に開発されていない)のも、印象を単調にします。

 

料理については、私はあまり食べ物についてあれこれ言う方ではありませんが、他のツアー客からは「なんだか毎日同じようなメニューばっかりで、ワンパターンだ」との不満が多く出ています。

 

まだ三日経過しただけですから評価は早すぎますが、逆に三日目で「ワンパターン」と言われるあたりには、日本人的感覚とのずれがあるのかも。

 

ホテル・レストランの対応・設備には、まだまだ改善の余地が大きいようにも。

 

初日のサマルカンドのホテルでは、シャワーのお湯がほとんど水で、大ブーイングを浴びました。

気温0℃で水シャワーというのは・・・・(私は、気合で洗髪などしましたが)

一部の部屋は暖房も効かなかったようです。

 

お湯については、翌日夕方に「ガス工事を周辺でやっており、地域一帯でガスが十分に使えなかった」との説明がありました。

 

問題はトラブルそのものよりも(どこの国でも、日本でもトラブルはあります)、そうした事情は最初から分かっていたはず(分かっているべき)で、説明がなされるまで1日を要したというところでしょう。

 

ホテル側はお詫びの印として各部屋にワインボトル1本ずつを提供しましたが、そんなことより状況説明を速やかに行うべきでしょう。

 

二日目に昼食をとったシャフリサブスのレストランでは、ポトフのようなメイン料理がでてくるまでに30分ほども間隔があき、みんな待ちくたびれましたし、予定も遅れることに。

 

これもガス関連で、ガス供給が十分でなく火力が弱いため、調理に時間がかかっているとか。

 

ツアー客が2組、合計60名ほどが利用していましたので、大変だというのは想像できますが、受け入れ能力について十分に検討すべきでしょう。

 

今日三日目のブハラのホテル(11階建ての大きなホテル)でも、観光を終えて3時過ぎという早い時間にホテルに戻ると、部屋のお湯が出ないというトラブルも。客室への給湯のバルブが閉まったような状態にあったようです。

 

このホテルのエアコン、ものすごい勢いで熱風が吹き出して部屋が暑くなりすぎるため結局使えない・・・ということも。(うまく調整できるのかもしれませんが、私を含めて多くのツアー客が使えませんでした)

 

まあ、いろんな問題を列挙しましたが、ウズベキスタンが観光に力を入れ始めたのは最近のことですから、これからサービス体制も改善されていくのでしょう。

 

 

 

 

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ウズベキスタンと日本との懸け橋「NORIKO学級」 ウズベクで志を語る若者

2019-11-08 10:34:07 | 旅行

(「NORIKO学級」が入る建物の前で、ナジロフ・ガニシェル校長(前列右から2人目)と生徒たち。ウズベキスタン東部リシタン 【220日 GLOBE+】)

 

【「NORIKO学級」開校のいきさつ】

5日から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中です。

実質二日目の今日(7日)は、チムール生誕の地シャフリサブスを観光してブハラへ移動。

 

今回旅行は直行チャーター便利用ということで、観光的にも今後ウズベキスタンを訪問する日本人も増加するとは思いますが、全体的にはまだまだ両国関係は太い繋がりとは言い難い状況です。

 

そうしたなかで、日本とウズベキスタンの「架け橋」と言えるものに、「歩き方」にも掲載されており、TVでも取り上げられたことがある「NORIKO学級」があります。

 

*****無料の日本語学校、灯は消さない 創設者の遺志継いだ校長の決意****

首都から車で5時間。中央アジア・ウズベキスタンの小さな町に、日本語を教える無料の私塾がある。20年前の開校以来、ウズベキスタンと日本との架け橋となる人材を多く輩出してきたが、資金的には厳しい運営が続いている。この冬、校長が来日して支援を訴えた。

 

ボランティア頼み、綱渡りの運営

「ウズベキスタンでは最近、韓国や中国が経済的な存在感を増していますが、私は日本を応援したいのです。ウズベキスタン人に日本のいいところをもっと知ってほしい」

 

そう話すのはウズベキスタン東部のリシタンにある日本語学校「NORIKO(ノリコ)学級」の校長、ナジロフ・ガニシェルさん(55)

 

昨年の大みそかに来日し、2月下旬まで日本に滞在。学校運営への支援を求めるとともに、各地で出身者の活躍ぶりを見て回った。

 

リシタンは、首都タシケントから車で約5時間。絹や陶器が有名なフェルガナ盆地にある、人口3万人余りの地方都市だ。

 

この地にNORIKO学級ができたのは1999年。建設機械大手コマツのエンジニアだった大崎重勝さんが、フェルガナ盆地の他の街にできた自動車工場で重機操作を指導するため、ウズベキスタンと日本を行き来していた。その大崎さんが退職金を元手に、妻の紀子さんと開いた学校だ。学校名は、紀子さんから取った。

 

ガニシェルさんは工場で運転手や世話係として働いていたが、滞在していた日本人と接しながら独学で日本語を身につけ、開校時には資金も出した。

 

学校ではこれまで約5000人が学び、100人以上が日本に留学。商社や銀行など日本企業で活躍している卒業生もいる。

 

大崎さんは体調を崩して2001年に帰国。その後05年に病没した。ガニシェルさんは、大崎さんの遺志を継いで学校を続けることを決めた。

 

現在、講師はウズベキスタンを観光で訪れる大学生などの日本人ボランティア頼み。

 

観光シーズンはいいが、寒さが厳しい冬場はほぼいなくなる。講師が学校内の宿泊施設(3食付き)に泊まる際に支払う130米ドルだけが収入だが、支払えない人からは無理には徴収していない。あとはガニシェルさんが材木業で稼いだ持ち出しの資金と有志からの寄付だが、経営は厳しい。

 

「大阪大学に留学して、将来はダイハツの工場をここに持ってきたい」

記者が昨年12月に学校を訪れると、大阪府豊中市にホームステイしたことのある17歳の男性はそう日本語で夢を語った。

 

学校では、約15人の生徒が記者を迎えてくれた。ただ、資金難から暖房も付いていなく、室温が10度を下回っていた。

 

群馬県富岡市に滞在したことがある19歳の女性は「Hey! Say! JUMPの歌を歌うのが好きです」と話した。また、生徒らに知っている日本人を訪ねると、「本田圭佑」「柔道の野村忠宏」「E-girls」などとの名前が上がった。

 

暖かい季節は150人近くの生徒が通うが、冬場は10分の1に減る。講師もいなくなるため上級生が下級生を教えている。

 

悩みの暖房だが、以前、石炭ストーブを試すと室内が真っ黒に汚れてしまった。薪は高価で手が出ない。最近まで不安定だった電気が安定供給されるようになり、ガニシェルさんは次の冬からは電気暖房を使いたいと思っている。しかし、変圧器を買う資金はない。

 

昨年、日本語学校に対して綿花畑などに使われていた近くの国有地の使用許可が出た。3ヘクタールの広さがある。ガニシェルさんは庭園や建築など日本文化を紹介する「日本村」を作りたいという夢があるが、資金のめどが立たない。

 

ガニシェルさんは今回の来日で、支援を求めて各地を歩いた。富岡市の国際交流協会などから桜と桑の苗木をそれぞれ100本寄贈されたが、企業など大口の支援者は見つかっていない。

 

ウズベキスタンはいま、変革期を迎えている。1991年の独立以来、カリモフ大統領のもと孤立主義的な外交を展開してきたが、カリモフ氏は16年に死去。後任のミルジョエフ大統領は善隣外交に転換し、経済開放も進めている。

 

ガニシェルさんは、日本企業にとっていまが進出のチャンスだと強調する。そして、「大崎さんのお陰でみんなの人生が変わりました。NORIKO学級はどうしても残さないといけません」と力を込めた。【220日 GLOBE+】

*********************

 

上記で紹介されている大崎氏とウズベキスタンの関わりが始まった話には、前段があります。

 

今回のツアーガイドのドストンさん(30歳過ぎぐらいの男性)はリシタンの出身で、彼自身も「NORIKO学級」の生徒でした。その後、文部省の留学生試験にパスして、筑波大で1年学んだそうです。

 

そのドストンさんのおじいさんがリシタンでは有名な陶器の職人でした。

 

ソ連崩壊・ウズベキスタン独立時の混乱で、それまでの大きな国営の陶器工場は潰れ、ドストンさんのおじいさんが中心になって、なんとか大勢の陶工たちの生活がなりたつようにあれこれやっていたそうですが、ある展示会でリシタンの焼き物を見た日本大使が九谷焼とコラボすればいいものが生まれると思い、おじいさんと日本大使の交流が始まりました。

 

その関係でドストンさんのおじいさんは日本に来て九谷焼の技法を学ぶことに。

 

ちょうどそのときウズベキスタンで工場建設の仕事を請け負っていたコマツは、現地に派遣するエンジニアの日常の面倒をみてくれる人を探していました。

 

そして、近隣にウズベキスタンから陶工が来日しているのを知り、30名ほどのエンジニアの現地生活の面倒を依頼します。

 

ドストンさんのおじいさんはこの依頼を受けて、コマツのエンジニアのウズベクでの面倒をみることに。

ドストンさんの家でも大勢のエンジニアが暮らしていたそうです。

 

そうしたエンジニアの一人が上記記事の大崎氏で、上記のような「NORIKO学級」の話にその後展開したとのこと。

 

この「NORIKO学級」のおかげで、リシタンの人々の多くが職を得ることができるようになり、暮らしも改善したそうです。

 

【志ある人】

ガイドのドストンさんと日本の間には、そのような因縁浅からぬものがありますが、ウズベクで発見された150万年前の人骨から始まって、各民族の興亡、更にソ連崩壊後の独立・苦難の時代に至るまでのウズベキスタンの歴史を車中で30分ほど話したあと、「実は私にはある秘密があります」と話始めました。

 

「私は将来、この国の大統領になりたいと思っています」

 

独立当時に比べれば改善したウズベクの人々の生活ですが、政治家・上層部にはまだ“ソ連的”な考えが残っているとのこと。

 

日本留学の経験を経て、そうしたものを一掃して、ウズベキスタンを更に発展させるために必要なものは「教育」だとわかったそうです。

 

そこでまずは教育面の改革から初めて、やがては大統領になってウズベキスタン全体の改革を進めたいと考えているそうです。

 

(冗談半分にしても)こういうのを「志」というのでしょう。

 

日本の若い人たちのなかに、そのような志を持った人がどれほどいるのか・・・?

 

みんな今ある小さな幸せを守ることだけに気を取られて、大きなトラブルなしに生きることを望んでいるようにも見えます。「志」を語れるひとがどれほどいるでしょうか?

 

もちろんそれは、日本が豊かになったことによるものですが、少子化、AI技術の革新といった社会の転換点を迎え、非常に懸念されることです。

 

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ウズベキスタン 寒さこらえて歓迎セレモニー鑑賞

2019-11-07 12:00:36 | 旅行

(レギスタンス広場で催された歓迎セレモニー)

5日から(自宅出発は4日)から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中です。

 

時間がままならない旅行中ということで、世の中の動きも把握できていませんので、簡単に旅行中のことなど。

(旅行のことは、帰国後、旅行記サイトに詳しくアップする予定です)

 

5日夜に、ウズベキスタン・サマルカンドに到着。

昨日6日は、終日、サマルカンド市内を観光していました。

 

普段は自己手配の一人旅ですが、今回はチャーター便を利用したツアーに参加しています。

そんな訳で、普段とはずいぶん勝手が違います。

 

観光から、食事・ホテルまで、すべてお任せですから、気楽と言えば気楽ですが、自分の都合で動くことはできません。やや煩わしいことも。

 

サマルカンドと言えば、中央アジアからトルコ・エジプトに至る広大な領域を支配したチムール帝国の都ということで、歴史的遺産が多く、その代表は壮麗さで世界的にも有名なレギスタンス広場でしょう。

 

そうした観光的な話は旅行記サイトに譲るとして、観光初日の最大の印象は「寒かった!」ということ。

 

気温は夜は0℃ぐらい、日中も昨日は10℃にとどくかどうか・・・・というところ。

 

流れ落ちる鼻水を拭きながらの観光でしたが、最大の試練は夜の歓迎プログラム。

 

何が「歓迎」というと、チャーター便で日本から多くのツアー客がやってきたので、その歓迎セレモニーということ。

 

第一部は、夕方5時からレギスタンス広場の一角(屋外)でウズベキスタンの民族舞踊・音楽を披露してくれるのですが・・・・

 

寒いのは予想されていたので、着られるだけ着込んで。シャツを2枚、セーターも2枚、その上に薄手のマウンテンパーカーを。荷物になるので、厚手のコートなどは持ってきていません。

 

まあ、0度近い気温はともかく、一番の問題は風。

丁度風の通り道にあたる場所だったようで、カメラを持つ手も凍てきます。

 

最初の12曲ぐらいはいいとしても、次第に難行苦行、寒中我慢大会の様相に。

 

「早く終わって!」という感じにも。

 

ウズベクの人はあまり商売っ気がないようで、周囲の売店にはひざ掛けや羽織るのに使えそうなものを手にした売り子さんなどがいましたが、特にこちらに売りつけにくることもありません。歓迎セレモニーということで制約されているのでしょうか。

 

「売りにきたら、買ってあげるのに・・・」と思いながら、ひたすら寒風に耐えます。

 

踊っている方は、体を動かしていますので、まだいいかも。

 

寒さのせいか、1時間ほどの予定が40分で終了。

 

ここで問題発生。

 

このあと1時間後に、第2部のレギスタンス広場の全体を使ったプロジェクション・マッピングがあるのですが、寒さに耐えかねたツアー客の中から「もう私見ない」という声が。

 

「帰国したら、面倒みなきゃいけない年寄りがいるから、風邪ひくわけにいかないのよ!」といった声も。

 

予定では、広場を散策したり、買い物したりで時間を潰すことになっていましたが、急きょバスを呼んで、いったんバスに避難。

 

なんだかんだで、26名のツアー客のうち10名近くがそのままバスに残ることに。

 

私を含め、その他の客は、再度寒空のもとに突入。第2部へ。

 

結果的には、第2部の観覧場所は風が殆どなく寒さは耐えられる範囲、ショーも素晴らしく、「観てよかった」ということに。

 

前夜ホテルのお湯がでなくてシャワーも浴びられなかったというトラブルもあって、寒さが体の芯までこたえた1日でした。

 

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