細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

CO2削減、脱炭素についての私の見解

2021-11-29 12:26:56 | 研究のこと

このエッセーでは、私個人のCO2削減や脱炭素という社会の大きな流れに対する考え方を述べます。

まず、私は脱炭素、CO2の排出総量削減、ということ自体を目的として社会を運営すること、研究を推進すること、に反対です。

私がそう考える根拠は、渡辺 正 著の「地球温暖化狂騒曲」-社会を壊す空騒ぎー に定量的なデータとともに整理されているので、ぜひご一読ください。

以下の説明を始める前に、「CO2の排出量」と「CO2の排出総量」は異なる概念であること、にご注意ください。例えば、日本国家の「CO2排出総量」であれば、日本国家のありとあらゆる活動から排出されるCO2の総量になります。私が反対する「CO2の排出総量を減らすこと」は、現代社会で言えば、GDPが減ることとほぼイコールになります。すべての社会活動は炭素エネルギーを母体としていると言って過言ではなく、現代ではほぼイコールになります。遠い将来は、実力のある代替エネルギーが出てくれば、状況が変わってくるでしょうね。

さて、具体的な説明を始めます。

CO2の大気中の濃度がこの50~60年、増えてきているのは間違いないようです。それが悪いのか?ということですが、CO2の濃度が増えたから気温が上がっているという短絡的な因果関係には反対している科学者がたくさんいます。そして、CO2の濃度が高くなったことで、実は森林の面積も世界全体では大幅に増えています。農作物が育ちやすくなる(CO2は生物にとって恵みの物質です)ので、人間が生活する環境としては、良くなる方向に進んでいます。詳しくは上述の著書をご覧ください。大気中のCO2の総量を減らそうとする「CO2の排出総量」を削減する、という方向性は、農作物の生産性が低下するなど、生物にとって生きにくい方向に進むため、この観点からも私は「CO2の排出総量」の削減に反対です。

ですが、気にせずに「CO2排出量」をどんどん増やしてよい、資源は好きなだけ使ってよい、などとは私は微塵も思っていません。

現代社会は、コスト≒CO2排出量(エネルギー使用量)と考えてよい状況です。例えば、ある土木工事をやるとして、同じ成果物を得るためにかかるコストを削減する、ということは、その土木工事で消費されるエネルギーを減らす、ということです。より少ない資源、エネルギー、時間、コストで同じ成果を得ることになるのです。これを「生産性向上」と言います。これが今の日本に最も求められていることです。それは、生産年齢人口が急減してきている状況なので、自明でしょう。

個別のプロジェクトでは、CO2排出量を減らす方向性が良いのです。この点が、「CO2の排出総量」の削減に反対を唱える私の主張が、世の中の大半の方々になかなか理解されない点なのですが、極めて重要なポイントです。

ある例を示します。例えば、1兆円もかかる巨大土木プロジェクトがあったとしましょう。羽田空港のD滑走路の工事はそのような規模でした。結果的には、様々な工夫により、6000億円程度で完成したようです。40%程度ものコスト削減は、最先端技術を組み合わせたことによる技術者たちの工夫が最大の要因でした。当然、CO2排出量も減ったことでしょう。さて、「浮いた」4000億円をどうすればよいのでしょうか?ドブに捨てれば、CO2排出総量は減ります。そんなバカなことをする人はいないでしょうね。4000億円は、新たな投資に使えばよいのです。災害が激甚化している、というのであれば防災対策に投資すればよいではないですか。(温暖化で災害が激甚化している、というのもどうも怪しい話で合って、渡辺先生の著書にいくつものデータと考察が示されています。温度を下げようなどと考えるのではなく、災害対策にしっかり投資されてはいかがでしょうか?)

個別のプロジェクトでCO2排出量の削減を追求することは、「生産性向上」であり、「質の高い投資をする」ことなので大歓迎。そして、質の高い投資を積み重ね、投資の総量(現代では社会のCO2の「総排出量」とほぼイコール)も増やすべき、そうすることで社会は健全に発展していく、というのが私の考えです。

発展していくためには、投資の総量を減らしてはいけないのです。

さて、11月24日にプレスリリースされましたが、私が研究代表者で、国土交通省関東地方整備局の「技術(シーズ)マッチング」という制度の、取組1:インフラサービスにおける省エネ推進・CO2削減に寄与する研究、において「生コンの廃棄物等を資源として革新的に活用する方法についての技術研究開発」というプロジェクトが採択されました。

私はこの研究において、「CO2の排出総量」を削減することを目指すような文言を一切、申請書の中に書いていません。すなわち、CO2の排出総量を削減することを目的とするような研究は一切やるつもりはありません。

ですが、当然に今の社会に「真に」求められていること、を達成するためにこの研究もやります。「真に」ですよ(「目先の」お金儲けのため、ではありませんよ。念押しのため。)。当たり前のことです。

上記の採択された研究においては、委託側から求められている「インフラサービスにおける省エネ推進・CO2削減に寄与する」という目的に対しては、当然に貢献するつもりです。

使いようのない廃棄物にお金をかけて処理している現状があるとして、そのような廃棄物を有効に活用して、社会のニーズを満たすプロダクトに変換できれば、素晴らしいと私は思います。

さて、私が強調したい最後のポイントですが、脱炭素やCO2排出総量を減らすことを目的とする方々と、私とでは、やろうとしていることが似ているように見えて、実は全く異なってきます。いろんなことをやればやるほど異なってきます。

例えば、造粒したポーラスコンクリートというものがあり、これをコンクリート舗装として使うとしましょう。脱炭素派の方々は、ポーラスコンクリート舗装にCO2を吸収させたい、と思うらしいです。私は一切そんなことは思いません。どうせ大した吸収量ではないので、CO2を吸っても吸わなくてもどうでもよいのですが、むしろ吸わない方が植物もたくさん育つ、と心の底から思っています。

では私はどうするか。CO2など吸っても吸わなくてもどちらでもよいですが、仮にポーラスコンクリートがCO2を吸う能力が減ったとしても、誰も使わない廃棄物を活用し、同じ性能のポーラスコンクリートができた方がよほどうれしい。

これが私の考え方です。脱炭素やCO2排出総量削減を目的とする方々とは、研究の目標も、哲学も全く異なりますので、この点を明確にさせていただきました。


学生による論文⑯ 「日本の電力供給について〜化学工学・土木学の2つの視点から考える。」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:49:02 | 教育のこと

タイトル:「日本の電力供給について〜化学工学・土木学の2つの視点から考える。」

 現在の日本の電力供給を取り巻く環境は極めて危険なものである。経済産業省「エネルギー白書2021」によると、日本の一次エネルギー国内供給のうち84.8%が化石燃料である石油・石炭・天然ガスによるものであり、日本はこの化石燃料のほとんどを中東などからの輸入に頼っている状態である。すなわち、現状日本は「海外由来の」電力が供給される電力の大半を担っているのである。地球温暖化に向けた脱炭素化がムーブメントとなっている今の時代、化石燃料の輸出入に対する規制が強まることや、そうでなくとも中東による石油価格の急激な値上げなどによって化石燃料が十分に輸入することが出来なくなってしまうというシナリオは想像に難くないであろう。そのようなことになれば、日本はどうなってしまうのであろうか。考えただけでも恐ろしいことである。では、このような現状に対して日本はどのような対策を講じていけば良いのか。私は次の2つの対策が考えられると思う。

 1点目は、化石燃料の取り扱い技術の向上である。つまり、少ない化石燃料の資源でより大きな電力を生み出すことのできるようにするということである。日本は、既に石炭火力発電の技術が世界トップクラスであり、世界各国に比べて発電効率が高く環境にやさしい火力発電を実現している。また、日本の現状を考えると化石燃料を用いた発電から完全に脱却するのはあまりにも現実的ではないように思われる。このような世界と日本の現状を踏まえると、日本はいかに少ない化石燃料で電力を安定的に供給するのかということに注力するべきなのではないかと思う。今ある技術を磨くことによって、今後想定される厳しい事態にも耐えうるシステムの構築を目指すことが重要なのではなかろうか。もちろん、世界的な脱炭素化の流れの中で石炭火力発電施設が座礁資産化していく可能性は否めない。しかしながら、日本という国において安定した電力供給を確保するためには、脱炭素化の名の下に多額の予算をつぎ込みながら再生可能エネルギーの開発を進めるよりも技術の向上を促す方が極めて現実的で実効性のある対策なのではないかと考えられる。

 2点目は、今回の講義でも話に挙がった水力発電のかさ上げである。講義であったように、水力発電は太陽光発電の一種とも捉えることができ、日本に合った再生可能エネルギーであるともいえる。山がちな地形が多い日本としては、この水力発電所(ダム)を利用しない手はない。かさ上げを行い、発電能力を向上させることで今ある水力発電所の発電の潜在的な能力を遺憾無くな発揮できるようにするだけでなく、それに伴う治水能力の向上によって川の氾濫などの災害の防止への効果も期待することができる。また、かさ上げでは新たに水力発電所を作るよりも周辺の環境の変化を少なく抑えることができるため、合意形成を比較的容易に行う事ができ、この点からもかさ上げは現実的で実現性の高い対策であるということができるであろう。

 以上のように、日本の電力供給を取り巻く厳しい環境の中で日本がこれからも長期間の安定した電力供給を実現していくためには、現在の技術にさらに磨いていくと共に、現在ある施設をより有効に活用していくという2つの対策を同時に進めていくことが重要なのではないかと考えた。
また、これらの対策を実現していくためには、国の支援は不可欠である。いずれの対策に関しても研究費や施工費、国民との合意形成など国の支援なしでは進められない問題が多く存在することは明らかであろう。では、現在の日本の現状はどうであろうか。エネルギー政策ついては国が2050年までの脱炭素化を宣言するなど、再生可能エネルギーの開発への投資が活発になっている。もちろん、再生可能エネルギーを開発して使用することのできるエネルギー量を増やしていくことは重要である。しかし、日本のエネルギー利用の現状と現在の技術力をもとにして真剣に対策を考えるのであれば、私が述べたような化石燃料の取り扱い技術の向上や水力発電所のかさ上げ工事などへの投資の議論がもっとなされても良いように思われる。ここで問題となるのが、国の政策である2050年までの脱炭素化との整合性であるが、そもそも、脱炭素化は日本にとって本当に有益なものであるといえるのであろうか。たとえ、脱炭素化を推し進めることで世界に10の利益があったとしても日本に30の損失があるのであれば、日本は国として30の損失をしないための選択を主張する必要がある。これは私の自己中心的な考え方なのであろうか。日本ではどうも地球温暖化の恐怖や脱炭素化の素晴らしさばかりが強調されており、日本での再生可能エネルギー開発にかかる膨大な費用の問題や再生可能エネルギーへの依存度を高めることへのリスクに対する理解、議論が進んでいないように感じる。日本をより強い国にしていくためにも、現在の日本にはリスク・ベネフィットの両面を考慮した上での建設的な議論が必要なのではなかろうか。


学生による論文⑮ 「対等な関係」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:48:01 | 教育のこと

タイトル「対等な関係」

 前回のレポートでは、我が国の国民は基本に土木に関心がなくわがままであり、そういった国民に対して私たち技術者も国民も共に変わっていかなければならないと論じた。今回のレポートではこれに引き続き、土木技術者と国民はどのように変わっていかなければならないのか、また国民と土木技術者はどのような関係にあるべきなのかを具体的に示していく。

 正直私の土木および建築業界のイメージは昔からずっと変わらず、古臭いというものであった。建築・土木業界にこのようなイメージを持つ人々は少なからず存在するだろうと私は思う。これは長期的な効果を見込んで作られるインフラストラクチャーを扱う土木では仕方のないことなのかもしれない。だが土木のイメージを悪くしているのはインフラの所為だけではない。土木に従事する技術者の考え方もまたその理由の一つになるのではないか。私が思うに、土木技術者や建築関係に従事する人間は基本的に古い。確かに都市基盤というものは多くの偉人が残した知識や過去の歴史などに基づいて発展してきており、私たちもまた過去のデータや事例からさまざまなことを読み取って社会の基盤を整備する。これは間違ったことではない。だが今の土木には、新しいことが足りないと私は思う。考え方の面でもそうであり、実際の構造物に関しても同じである。前々から私が述べているように、重要なのはもっと時代の流れを読み取ってそれらをいち早く反映させることだ。つまり、今土木技術者に必要なのは、古くからある固定概念に囚われない柔軟な考えと、新しいことに対応することができる力である。

 では、土木技術者に対して国民はどのような変化が必要なのか。それは国の整備にもっと関心を持ち、それに対する意見をもっと示していくことだ。前回の論文で国民はわがままであるがそれは必ずしも悪いことではないと述べた。むしろ私は、国民はもっと声を大にして国を操作する政府の人間や年の基盤を整備する私たち土木技術者に届くようにわがままを言ったほうがうまくいくのではないかと思う。これは別に土木に関する話だけではないのかもしれない。何事も意見を述べるものがいなければ発展は見込めない。自分たちがしたいこと、叶えて欲しいこと、心配なことなどなんでも自由に発せばいいのだ。実際に都市で生活している当事者からの意見ほど貴重なものはない。ただ一つ注意したいのが、全ては叶えられないと言うこと。国民のわがままは多種多様であり、一つの物事についても意見が分かれることがほとんどだ。そうなると私たちはどれかの意見を優先するかもしくはいい塩梅で調節するかしかなくなる。それは仕方のないことだ。でも国民、特に現代を生きる若者を中心に多くの意見が寄せられれば私たちのやるべきことももっと明確になり、国と国民が一体となって社会を構築していけるのではないか。だからこそ国民は自分の生きる中で都市基盤の整備と言うものにもっと興味を持つべきなのである。

 ここまでで述べた技術者側と国民側の両方の変化が実現し、多くの意見が飛び交ってそれが都市基盤整備に反映することができれば、私たちの暮らしはさらに豊かさを増していくと私は思う。国民が社会基盤の整備に興味を持ち、技術者と対等に意見を交わすことができる関係こそが、これからの社会に必要なのである。そしてこの関係が実現したとき、また新たに求められる変化は生まれるだろう。


学生による論文⑭ 「祖国の若者として」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:45:16 | 教育のこと

タイトル:「祖国の若者として」

 私は、今日の講義の冒頭で細田先生が紹介していた「国家の品格」という本に興味が湧き、講義後に図書館で借りて読んでみた。その感想や自分なりの解釈をまとめる。

 まず、「国家の品格」を読み終えて、強く印象に残った言葉がある。それは「駄目なものは駄目」という第二章の終盤、「『卑怯』を教えよ」という小見出しが付けられている部分に出てくる言葉である。著者は、いじめに対して何をするべきかという問いに対して、武士道精神にのっとって「卑怯」を教えなければならないと主張している。カウンセラーを置くなどの一般的には理論的で筋の通っている対応を跳ね除け、とにかく「いじめは卑怯である。駄目なものは駄目。」と叩き込むという、理論を超越した対応を必要としている。このような著者の主張の根本には「この世の中には、理論に乗らないが大切なことがある」という考えがあるように感じた。

 また、同頁で著者は「理論が通ることは脳に快いから、人々はこのようにすぐに理解できる理論、すなわちワンステップやツーステップの理論にとびついてしまう」と述べている。この主張には激しく賛同できる。特に読書離れが進んでいる現代の若者に顕著であると感じる。数百頁に渡る本の中で展開される、味わい深く、時に理解が難しい理論に触れることなく、投稿内容に文字数制限のあるSNSのコメント欄の中で主張される理論にばかり触れている。すべてがそうとは言い切れないが、SNSのコメント欄で主張される理論にはワンステップやツーステップの理論が多いと思う。それゆえ、物事の本質に辿り着くことができないまま脳が快さを感じてしまい、何も得るものがないままSNSに時間を吸い取られる若者が多くいるのだと感じる。

 もちろん、理論的に考え、意見を主張することは大切なことであるが、著者の言う「ワンステップやツーステップの理論」が多く存在する現代に生きる若者として、「理論に乗らないことの大切さ」を忘れないようにしたいと考える。大学を卒業して社会に出ればその瞬間から立派な大人であり、自分や自分の大切な人を脅かす理論は自分の手で排除しなければならない。社会の中では、自分は担当者ではないから…、誰かがそう言っているから…、そういう決まりだから…、などの「ワンステップやツーステップの理論」で片づけられて終わりになる機会が多々ある。そのような理論を理解したと脳に言い聞かせ、偽りの快さと共に心を殺してお金のためだけに働く社会人にはなりたくない。そうならないためのポイントとして、「この世の中には、理論に乗らないが大切なことがある」という考えを心に留めておくことは効果的であると感じる。具体的には、心の中に湧いてくる「それは違うのではないのか…」、「どうもおかしいぞ…」という声を無視しないようにすることである。もしそれらの声を無視してしまえば、本来自分が持っていたはずの、論理では説明できない繊細な感受性(著者によると「情緒」や「形」)を失ってしまうことに繋がる。論理では説明できない繊細な感受性による主張を持つことで恥を知る場面があるかもしれないが、そうした恥が気にならない程に全力をぶつけ、夢中になる対象を見つけることが、自分自身の品格を保つための道であり、国家の品格を向上させることに繋がるのではないかと感じた。


学生による論文⑬ 「教育の役割」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:43:07 | 教育のこと

「教育の役割」

 前回、今回の講義で英語が話せる、使えることは当然様々な場面で役立つため習得しておいて損はないが全員にとって必須のことなのか、どれほど努力したとしても多くの人にとってネイティブと同じレベルに達することは難しいという状況の中で莫大な時間をかけて取り組むべきことなのか、時間があるなら他に学ぶべきことがあるのではないかといったことが1つの論点になったのでこの論文では教育の役割とは何かということについて自分なりの考えを論じようと思う。

 教育とは、生きていくうえで最低限知っておくべきこと、理解すべきこと、人生を豊かに生きていくために必要なことを学ぶものであり、また自分の人生を豊かにするものを知る入り口となるものであると筆者は考える。生きていくうえで最低限知っておくべきこと、理解すべきことというのはいわゆる一般常識のようなもので、これまでにどのような出来事があり我々が豊かに暮らすことができているのか、世の中はどのような仕組みで成り立っているのかといった内容である。歴史の授業や国語で文学作品を学ぶ授業、また家庭科の授業などがこれにあたる。人生を豊かに生きていくために必要なことというのは、例えば自分の人生における重要な選択をある根拠に基づいて行うこと、物事を考える論理的思考能力を培うことなどであり、これは数学や国語の学習を通して得ることのできる能力である。また、自分の人生を豊かにするものを知る入り口となるというのは教育を通して様々な教科を学ぶことで自分が興味を持てること、もっと深く知りたいことを見つけその分野に進んでいくきっかけとなるということである。

 前の段落で述べたことから自分の興味のない分野、将来役に立つとは思わない教科であってもある程度の範囲の内容の学習は当然必要となってくるということが言える。興味のない教科の授業でも受けることで将来役立つことは直接的でなくても存在すると思うし、ある教科を面白くないと感じるのもその教科をある程度学んだからこそ判断できることである。たとえ自分が興味のないことであっても、それを学ぶことは必要なことであると判断できるようになるというのも教育の1つの目的である。

 これまで教育において何を学ぶべきか、教育とはどのような存在であるべきかというのを述べてきた。それらを踏まえて英語教育について考えると、大切ではあるが英語教育の目標をどこに置くかというのが重要なように思える。英語を使うことで見ることのできる世界が広がり人生が豊かになることはあるだろうし、英語を直接的に、あるいは間接的に使用して仕事などをする分野に進む人の入り口となるためにも英語教育の存在は当然重要だろう。しかし、全員が英語を話すことができるというところに目標を置くと最低限知るべき、理解するべきという範囲を超え、入り口となるという役割においても過剰になってしまうように感じる。他の教科においてすべての内容を全員が学ぶことはできないのでここだけは押さえておきたいという内容を厳選して学び、それ以上の範囲は人それぞれ深く学びたいことを学ぶという状況にある中、英語教育のみが範囲を超えるべきではないと思う。もちろん教育の形式、授業方法などを改善してその目標が達成できるのであれば積極的にすればよいが、他に学ぶべきことを削ってまで行うようなことではないと筆者は考える。

 この論文では長い教育の過程の中でも義務教育等の初めの方の段階の教育に当てはまる内容が主であったと思うが、それぞれの段階に適した教育の形があると思うためそれに適した授業がなされていけばより多くの人々に教育の成果が見られると思う。 

 


学生による論文⑫ 「土木の偉人とこれから」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:41:54 | 教育のこと

「土木の偉人とこれから」

 日本の土木の技術は近代以降急激に発展し、素晴らしいものがたくさん作られ日本の成長に貢献してきたことは今までに学習してきた。その裏で、日本の最初の○○を作ったというような偉人たちがとてつもない苦労と努力を重ねてきたことも学んできたつもりであった。しかし、本日の講義で動画を見てその計り知れない苦難と、作り上げたものの偉大さを実感させられた。私たちと同じくらいの年齢の青年が、一から設計を行い指揮をとって人を動かし何もなかったところに巨大な構造物を創造する、その難しさを私たちは全く知らずに生きてきたことを恥じるべきとさえ思った。

 私たちは今日本を作り上げてきた土木の偉人たちとほぼ同じ年齢にある。大学に通い、小学校から学び続けているが到底彼らのような志を持っている人にあふれているとは思えない。当時は相当優秀で且つやる気と覚悟を持った人しか高等教育を受けることができなったという時代の背景もあるだろうが、大学まで進学しているのに自分の知識のなさと自覚のなさに愕然とした。彼らが日本の近代化は自分の手にかかっていると自負し日本という国を背負うために必死に勉学に励んでいたのに対して、私たちはどれだけ将来に日本を変えようという意識があるのだろうか。おそらくほとんどの人がないのだと思う。大学に進学することが当たり前と言えるくらいになってきた現代では大学で学び、研究することが特別ではなくなってしまっている。大学の教授は最先端の研究をしているのだろうなということは頭でわかっていても自分がそこに一緒になって携わろう、先生からすべてを吸収しさらに高みを目指そうという思いを持った人はなかなかいないだろう。ましてや日本の将来を切り開いていくのは自分だと自覚している人は相当珍しいと思われる。あくまでも先生は先生であり、私たちは先生の持っている知識の一部を講義として受けている。そういったスタンスである。先生を超えようと思ったことがなければ日本の最先端迄知り尽くして、その先は自分が引っ張っていくなど到底考えられていない人が大多数である。

 そうなってしまったのは、日本が豊かになってしまったからであると思う。普通にほかの人と変わりなく生きていればそれなりの生活が出来てしまう。わざわざ自分が日本という大きなものを変えなくてもそれなりに満足した一生が送れてしまう。今の日本が果たしてそれだけ本当に豊かで幸せな国なのかというとそれはまた疑問点が残るが、今すぐに変えなくてはならないという焦りというものがないのであろう。日本が今、ほかの国の勢いに比べて成長が止まってしまっているのはそういった国民による謎の余裕や、無関心さなのであると私は考える。実際はそんな余裕をこいている暇などなく、ぼうっとしていたらあっという間にほかの国に抜かされ貧しくなっていく、競争の激しい世界に生きている。私たちは早くそれに気づかなければならない。

 昔もこのように偉人として名を後世に残す人はほんの一握りであったことに変わりはない。しかし、このような並大抵の努力ではまねできないような功績を生み出すというのは、それだけ競い合い高めあっていける仲間がいたということであると思う。私たちも何かを成し遂げたいことがあるのであれば、生ぬるい世界に浸っていてはいけないのであろう。自分を高められる場所に飛び込むことが必要である。その環境が高い意識と自負をさらに育ててくれるのだと考えている。誰もがみんな頑張ったら偉人になれるわけではないと渡井は思っている。だがそれは無駄なことではない。高いレベルにいることでより新しい刺激を受けられ、つながりが生まれる。人とのつながりはいつ何時どのように絡み合ったり役に立つかわからない。人脈を持つということは刺激を受けられる以外にも人が学んでいく上で重要なことである。そういったたくさんの作用の中で後世に残るものを作りだせる人が生まれてくるのであろう。ゆえに私たちは学びを高めあい、お互いに刺激を与えられる仲間を見つけることが自分を成長させることに繋がると考えている。

 


学生による論文⑪ 『日本らしさを見失うな』(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:40:45 | 教育のこと

『日本らしさを見失うな』

 講義を聞いて如何にして日本の文明が支えられてきたのか、その大きな部分が見えた気がした。同時に日本は日本であるからこそ先進国になれたのであると感じた。これからもう一度日本が世界の先を行きたいのであれば、その日本らしさを見失ってはいけないだろう。

 今回の講義では、田辺朔郎のような日本の文明を支えた熱意と学と技術を学んだ。若干23歳で琵琶湖疏水の研究、工事主任に起用された彼の功績は、土木事業がいかに近代化に貢献し、日本の未来に影響を与えたかを知らせた。そしてその話は「他人事ではないぞ」と語りかけてくるような、私たち学生に対する焚き付けのように感じた。そうして行動を起こすことに年齢は関係なく早いも遅いもないことだ。日本の将来のために学び貢献する、そんな人材が今の日本に必要で、いま私たちが大学で偉大な先生方に教わっていることなのだろうと理解した。

 海洋運河論は日本の発展に大きく貢献した。現に、日本の主要都市が臨海部にあり、その都市機能が他の都市に移ることなく存在し続けていることがその提唱の正当性を表しているだろう。

 この海洋運河論は、欧米と同じやり方が日本には合わないのだと早い段階で見切った素晴らしい見解である。日本の地勢・国情を鑑みて、海運を生かした方策をとることで、日本の近代化に貢献した。都市や国の発展に欠かせないのは運輸だ。先に述べた田辺朔郎が着手した事業も水の運搬であり、都市にとって運輸がどれほど大切なものかは自明である。したがって、海洋運河論によって日本に合った運輸網の形成ができたことで、第二次世界大戦で敗戦した日本が先進国となりここまでの成長ができているのである。もちろん、今でもその恩恵を受けているほどである。もしここで欧米の真似をしていれば……などと考えるのは非常に恐ろしい。

 外国の真似はしなくて良い。そもそも真似をしたところでオリジナルのその国を超えることはできず、質の落ちた二番煎じにしかならないだろう。他国と比べ劣っているとこを埋めて伸ばそうとしたってそれはなんの得にもならない。伸びる見込みのある分野を特に伸ばしていくのが良い。日本をよく知り、その地形や気候、政治体制や国民性などの特色をよく理解し、日本の他の国や地域と違った特徴を長所と捉え伸ばすような政策が今の日本には必要とされている。昔からそうして発展してきたのだから、何を今更と思うようなことではあるが、昨今めまぐるしい経済成長を遂げる国々を見上げる立場になった今だからこそ忘れてはならないことであると考える。

 これからも日本が世界の先をゆくためには、ここが日本であることを認識した上で、日本らしさ、日本のオリジナリティを伸ばし、世界に発揮したいものだ。

 


学生による論文⑩ 『合意形成と結論のずれ』(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:37:50 | 教育のこと

<目次>
はじめに
結論のずれは忌むべきことか
合意形成による結論のずれ
おわりに
追記

はじめに
 授業なんかくそくらえ、と思う私がいます、しかし一方には先生や同級生たちからよく思われたい、と願う私がいます。これは等しくどちらの気持ちも私のものでしょう。確かに私の中に楽して名声を得たいという気持ちがあるだけである、という指摘はあるでしょう。もしかするとそうかもしれない、けれども、それだけでは言い切れない思いがあると思われるのです。
 私という人間は物質的には一つですが、精神的にはいくつもに分かれていると感じます。食べたくもないのにお菓子を食べていたり、知らずのうちにしている癖があったり、欲しいと思っていなかったものを買ってみたりします。
 こうした行為の他にも、私には思考の分裂もあるようです。かつてこのレポートでも述べましたが、科学技術の導入については新幹線に反対で再エネへの投資に賛成である、という内容になりました。今回、結論のずれとは科学技術や土木的な投資について新幹線と再エネという切り口から議論を始めた時の私の結論が別のところに至ったという状況指します。私の中では再エネに賛成で新幹線にだけ反対するという合理的な理由が見当たらなかったのです。
 第三回のレポートではこうした私のあり方を正しさとは何か、一つに定まらないのではないか、という観点で論じました。ただ、これだけでは不十分ではないかと感じています。確かに複数の正しさの中から、最適解を選び出すために自らの学修を積むことは大切でしょう。しかし、このことだけでは本質的には解決にならないのではないでしょうか。一つのテーマ・議題を複数の切り口から取り扱う際に、適切な理由なく求めた結論が異なってしまう事態(=結論のずれ)はあまり望ましい状況とは言えません。ただ、このことは第一回から第三回のレポートまでの議論に限ったことではなく、多くの人にも起こりうる問題である可能性があります。ですから、今回の論文では私の認知のあり方を通じて結論のずれについて考えを深めてみたいのです。


結論のずれは忌むべきことか
 そもそも結論のずれはそれ自体悪いことなのでしょうか。はじめに、で述べた結論のずれは私にとって自分の矛盾がこれだけあぶりだされたことに驚いたために何度も題材として用いてはいますが、結論のずれが許される事態は無いのでしょうか。
 以下では結論のずれが許される例、結論のずれが許されない例、結論がずれてもずれなくても困る例、結論のずれ以前の問題の四つに分けて考えていきます。
 一つ目の結論のずれが許される例についてです。結論のずれは思考の変化の結果とも言えます。結論がずれない人がいるとすれば、その人は人生をかなり生きにくいものにしていると言えるでしょう。例えば、10時の電車に乗ることにした人がいるとします。彼は自分の決定を覆すことが大嫌いです。ところが直前になって彼は腹痛になってしまいました。けれども彼は自分の決定に従って10時の電車に乗りました。結論がずれない人とは大げさに言えばこういうことです。すなわち柔軟性がないということです。行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、という言葉が私は好きですが、万物は常に変わりゆくということで、これは古典の世界では無常というものです。考えてみれば西洋と日本の文化の違いはここにも見受けられます。日本の庭園が草木の繫茂も含めて自然の模倣として作られていたのに対し、西洋の庭園は自然と庭園をきっちり峻別しています。西洋の庭園は人間の力を自然に対して誇示するように画一的に作られています。日本の庭が結論のずれを包含するものであるならば、西欧のそれは結論のずれを許さない、はじめから終わりまで庭は変わらない、ということを目指すものです。
 結局のところ、結論のずれが許されるのは柔軟な判断が求められているときでしょう。価値観が定まっていないとき、時間が経過していって考えが変化していくときなどにはかつて自らが出した答えと、現在の結論がずれていることは許容されるでしょう。思考の変化は自身の新しいものを取り入れようとする心構えであり、成長の証だという側面を考慮すれば、価値観の柔軟な変容はむしろ望ましいものだと言えます。
 とはいえ、思考の結果がコロコロ変わっては困る場合もあるでしょう。これを二つ目の結論のずれが許さない例として考えていきます。例えば配達を考えてみましょう。あるバイクが配達に出発します。このバイクはお客さんの依頼で出発していますから、他の家に届けてしまったら困ります。配達は依頼主のところまで届けなくてはいけません。約束だからです。これもつまらない例ですが、この例では結論のずれが契約不履行を引き起こしています。社会人になって結論を出すということは契約を交わすということと同義なことがあります。契約は一度結ぶと変更が難しくなるようにできています。やっぱやーめた、というような結論のずれは当然ながら許されません。結論のすれを許さないことは変化を許さないこととも同じことです。先に上げた庭園の例では西欧の庭園が変更を許さないことを目指すものであるという点でこれにあたるでしょう。結論のずれが許されない状況とは契約を媒体として成立する社会を示すものであり、近代的西欧的な物事の見方の時により多く想定されるものであるという考え方が成立します。また、短い時間での結果のずれは容認されにくいことがあるでしょう。朝令暮改という言葉がこのことを如実に示しています。
 次に述べるのが結論がずれてもずれなくても困る例です。これは一般には葛藤という言葉で用いられています。特に回避型の葛藤にはこうした例が多くあるのではないかと感じています。例えば赤ちゃんが泣いています。赤ちゃんはお菓子を買って欲しいと駄々をこねています。この時、母親は赤ちゃんに泣き止んで欲しいが、お菓子を買ってあげたくはない(健康に悪いから等の理由で)という葛藤につかまります。どちらの結論になってもいやだ、というのが今回三つ目に取り上げる例です。難しい事例で行くと諫早湾の干拓の事例が挙げられます。あるいは辺野古の基地建設の問題も同様でしょう。これらは、門を開けても閉めても望ましい結果にはならなかったり、滑走路を作っても作らなくても難しいかじ取りを迫られたりするという問題です。この三つ目の結論がずれてもずれなくても難しい問題というのは実は土木分野では多く見受けられることで、様々な利権が絡み合っていることやステイクホルダー間の情報に格差があること、またステイクホルダー間に信頼関係がないことなどを理由に生じると考えます。あいつの言っていることには賛成できない、と思われてしまうと社会では結論のずれの如何に関わらず難しいかじ取りを迫られる問題になってしまいます。これらの議論は後段の合意形成についてのところでも述べてみたいと考えています。
 さて、最後に考えるのが結論のずれ以前の問題です。結論のずれ以前の問題とは、無関心などの理由で自分に主張がない、という状況のことです。例えば、電車に乗っています。座席は混雑しておりちょうど誰も座れません。駅についてドアが開くと腰の曲がったおばあさんが乗ってきました。多くの人はこの時にこのおばあさんのことを無視するでしょう。たまたまこのおばあさんが立ったところの正面の席の人は席を譲ることがあるかもしれません。けれども譲ろうが譲るまいが彼らはそのおばあさんやその正面にすわる人間に興味を持つことは無いでしょう。したがってこの一連の出来事に対して考えを持たないでしょう。考えを持たなければ自分の中で結論が出るということもありませんから、結論がずれることもありません。したがってこうした問題は結論のずれ以前の問題と考えられるのです。端的にいって結論のずれ以前の問題は無関心についての問題を指すので無関心の問題として取り扱いますが、無関心の源泉はどこにあるのでしょうか。これについてはいろいろと考えられるものはありますが、残念ながら今回は触れずにおこうと思います。
 以上、結論のずれが許される例、そうでない例、どちらにしても厳しい例に結論のずれ以前の問題の四点を紹介しました。ここからは、主に土木分野において必要とされる合意形成時における結論のずれについて考えていきたいと思います。


合意形成における結論のずれ
 結論のずれとはある問題を多面的に論点設定した場合に、それぞれの設定によって導かれた結論が異なる状況を指しました。それでは、合意形成の時に見られる結論のずれにはどのような傾向があるのでしょうか。
 それは結論のずれを許さない、という傾向ではないでしょうか。私は地域課題実習のサコラボという団体で活動をしていますが学生と地域の人との間や学生同士での合意形成は難しいものがあります。
 私たちがもし地域で活動しようと思ったら、そんな地域の人と協力していく必要があります。協力してもらうために議論をすることもありますが、合意形成の時には上で触れた短い時間での結果のずれを認めていくことが大切だと感じています。短い時間での結果のずれを認めることは認識の変化が急速に進むということで抵抗があるということを先に述べました。自分がどこから間違っていたのかを明確にできないことで、自分を全否定されたと思ってしまうことがあるからです。こうなると、議論は紛糾します。正しい認識まで覆されたと思って別の論点で反論したり、自分の信じることを変えられないがために喧嘩のようになることもあります。こんな時に心がけるべきことに、結論は与えられた情報の量によって変化するということがあることを認識することだと感じています。私たちの判断は今ある情報をもとにしています。そして同じ会議に出ている人でも情報量は異なります。話し合いを進めている人の間で持っている情報が一致していかないと議論がまとまらないことになります。会議に出ている人が等しく同じ情報を持っているように調整していくことがファシリテーターに求められる力ではないでしょうか。
 私流に合意形成の大切な部分をまとめるとすれば、結論のずれを認めること、結論のずれを認める根拠として新しい情報が増えた際には考え方が変わることがあることを全体として認めること、最終的な決定の際には全員が同等に同質な情報をもって判断がなされていることだろうと考えます。


さいごに
 さて、ここまで自らの二本の論文の結論のずれから敷衍して考えてきました。ここまでで分かるのは結論のずれは思考の柔軟性や契約を意味するものでした。 そして合意形成には一度は結果のずれを認めて情報の共有を済ませて合意を採ることが大切であること、その中で普段からの信頼関係が力を発揮することがあること、合意をしてからは今度は結論のずれを許さない確固たる契約として機能させることが大切であることを明らかにしました。
 私の二本の例文に関しては一本目が授業を受ける前までの考え方、二本目は授業を受けて技術開発が大切だということに気づいた時点での考え方だったのではないかと思います。この二本の間での結論のずれはこの講義を通じて価値観が揺さぶられた結果にあると考えられます。授業を経て自分の考え方に変化が生じた結果、自らの考え方を深めることができていたのではないでしょうか。そうすると、私の結論のずれは悪いものではなく、思考の深化の過程にあって起こったものだと言えるでしょう。様々な知見に触れ、新しい情報に基づいて認識をずらしていくことは我々に求められる能力の内の一つなのではないでしょうか。


追記
 ミヒャエル・エンデの『モモ』は私の大好きな小説です。ですから今回先生に紹介いただけて嬉しかったです。この本は灰色の男たちによる陰謀の物語と読んでも面白いですし、少女モモの冒険譚として読んでも面白いです。それ以外にもジジやベッポの生涯や価値観に焦点を当てて読んでも面白いですし、時計の花の描写は私の心を豊かにしてくれるようです。また、この本のテーマである時間は私たちの生活そのものであるわけですが、この本を読んで自省するといろいろな考証ができる点も魅力です。ぜひまだ読んでいない人には読んでもらいたいな、と感じる小説です。

 


学生による論文➈ 「現代日本で土木偉人は育成できないのか?」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:13:07 | 教育のこと

「現代日本で土木偉人は育成できないのか?」

 授業中、多くの土木偉人が紹介された。偉人たちの功績にすごいと感心する一方で、「自分に彼らのようなことができるのか」と焦りを感じた。友人と授業後話したが、「偉人と比べてしまうと、私たちは日々エネルギーを浪費しているだけの生活」である。恥ずかしいことに人々のためにと必死に勉強するわけでもなく、3年後に国家プロジェクトに参加している姿も想像できない。

 なぜ、青山士や廣井勇など、優秀で日本に貢献する技術者が誕生していたのだろうか。彼らの時代から100年強しか経過していない、今私たちが生きる時代との違いは何だろうか。おそらく多角的な見方が必要なトピックで、かつ私は各分野の専門家ではないが、未熟者だからこそ肌で感じる「優秀な若い芽を伸ばすために必要なこと」を述べたいと思う。

 私は、人が育ち、何かを成すためには意識、目標、場が必要だと考えている。場に関しては、日本は教育制度もあり、働く場所もあるため、ある程度満たしていると考えて、他二つについて、今の日本が変化すべき点について以下で述べていく。

 まず、意識については、「自ら解決する意識」を教育機関で養うようにするべきだろう。

 物事は、動こうという人の意識がないと進まないため、火付け役として意識が大事だと考えている。

 今の日本は、昔の偉人たちのおかげで、様々な土地に住めるようになり、多くの人は普通の生活を送れていて、何も考えなくても生きていけるようになっている。そのため、日本は充足していると勘違いしそうになるが、実際は自然災害やエネルギー、地方過疎、低い自給率などいろいろな問題を未だ抱えている。そういう意味では"We are still developing"なのである。(有馬優さんのTwitterより引用)

 それでも土木偉人のような意識が持てないのは、問題意識がないからだろうか。いや、問題意識はあるだろう。自給率の話は小学校で習い、自然災害の話は都市基盤の先生から何度も教わるなど、教育機関で問題を伝える活動はされている。問題なのは、自分たちでその問題を何とかしよう、という意識がないことと、そのような意識が作られる仕組みがないことだ。小中高と、周りに合わせて生きることが求められていて、それに反し問題を見つけ周りと違う行動をしようとすると、校則やテストの点数などに縛られた。このような状況下では、問題を発見し解決する能力が身につかない。若く柔らかい頭のうちに問題解決の経験を積むことで、専門分野でも問題は自分が解決できるという意識が生まれると考えているため、この経験を積める教育プログラムに刷新してもらいたい。

 ここで、問題に取り組む意識養成が、昔行われていたかは不明であることを断っておく。不明ではあるが、偉人のような勇敢さを持つ人を増やすためには、このような教育が必要だと考える。

 次に、目標については、素晴らしいインフラに関しては、関係技術者の存在をもっと推していくべきだと考える。

 目標というのは、「自分もこんな人になりたい」と思えるような、憧れ、尊敬する人のことを指す。この目標があることで、その人の存在がエネルギーとなり、頑張る気持ちが湧いて来るため、重要な要素である。例えば、四回転ループを世界で初めて成功させたレジェンド、フィギュアスケートの羽生結弦選手もロシアのプルシェンコ選手に憧れていた。インタビューに、プルシェンコ選手に憧れて五輪を目指したと語っていることから、プルシェンコ選手への思いを胸に練習し、あの素晴らしい演技を生み出していったのだろう。これは土木界にも当然当てはまるだろう。

 しかし、現在生きている素晴らしい土木技術者には会うことができても、土木偉人には会えない。歴史の授業で淡々と信長のすごさを教えられてもピンとこない(私見)と同じように、リアルで生き様を見ることができないと、目標としづらい。そこで、アニメーションや、漫画などで実際に偉人が動いているように見せることを提案する。また、このような偉人たちの伝え方を、学校教育で行うことも大切であろう。さらに、ロイヤル・アルバート橋のように、否応なしに技術者の名前が目に入ってくる工夫もぜひ取り入れてほしい。現代の日本でも資料館などで情報発信はしているが、設計・施行者の存在をもっとアピールすべきだと思う。

 また、現代を生きる将来の偉人候補にもっと教育の場に出てきてほしいと考えている。廣井勇などは偉人自ら教鞭をとった例だが、そのような技術者が先生という身近な立場にいることで、自分も何か成し遂げたい、という気持ちになるだろう。近年そのような技術者が個人的には少ないと感じるので、ぜひ前に出てきて、自分のすごいところと、若者へのメッセージを発信してもらいたい。

 目標という点については、この土木史の授業で達成しているのだろう。このような授業がどの大学の土木専攻でも、もっと言えばどの工学分野でも行われてほしい。

 これまで改善すべき点を述べてきたが、日本には当然今も持ち合わせている良い点もある。多くの学生が勉学に励むことができる環境が整っていること、また、櫛の歯作戦に代表されるような、いざ問題が目の前に降りかかった時に立ち向かえるような使命感が残っていることだ。

 このように、現代日本にも土木偉人が生まれる基盤はあるのだから、ちょっとした制度を変革することで、改善していってもらいたい。ただし、入試改革に例を見るように、小さい変革でも、国単位の変革は大変躊躇するのが日本である。

 しかし、若い芽を育てるには、変革が必要である。変革を恐れない日本になって、世界に誇れる土木技術者を生み出してほしい。

 また、自分もそんな技術者に近づけるよう、目的意識を持ちながら、まずは目の前の勉強を頑張りたいと思う。


学生による論文⑧ 「初心忘れるべからず」飯田理紗子(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:12:20 | 教育のこと

「初心忘れるべからず」 飯田理紗子

 今を生きる我々の生活に決して取り除くことのできないものは何であるかと問われたら、おそらく「電力」や「資源」などをはじめとしたライフラインを答える人が多いのではないかと思う。これらの裏側ではいつも土木が支えている。私が都市基盤学科に所属していてちょうど土木を学んでいるから贔屓にしているというわけではなく、電気を生み出すには確かに豊かな資源が必要不可欠であるし、自然の中にあるそうした資源と上手く付き合っていったりそれを活かしていったりするためには土木の力が無くてはならないものであるはずだからである。

 日本は明治時代に、日本人外国人を問わず多くの技術者たちが日本の土木事業の礎を築き、本国の「近代化」に大きく貢献した。その偉大な技術者の一人である広井勇は、日本海の荒波に耐える強いコンクリートを持った小樽港の築港事業に携わり、近代のインフラ整備を大きく前進させた。またその後の時代である高度経済成長期には、戦後活気を取り戻しつつある日本において、欧米諸国と引けを取らないほど国内のインフラ整備は急速に進められた。このようにこれまでの日本では、日本が欧米諸国と比較して遅れていることに対して焦りや危機感を抱き強い意思を持った人々が確かにそこにいたからこそ、「先進国」として世界の先頭に立って引っ張っていく存在のようになるまで成長できたのかもしれない。しかし今の日本はどこか、先進国としてひと昔前の功績をいつまでも引きずりながら自己を過大評価し続けてしまっているように見えてならない。こういったことを踏まえ、今の日本社会の現状は何か、そして日本が世界に誇ることのできるものは何かについて、以下では論じていきたい。

 多くの人にとって電気や水などライフラインのない生活は成り立たないだろう、と冒頭で述べた。そこで、ここでは「電力」を例に挙げて考えてみる。現在、日本に限らず世界では再生可能エネルギーの開発や運用が盛んに行われているが、これについて私は、たしかに必要ではあるが、決して全面的に推し進めていくべき事業ではないと考える。再生可能エネルギーの一部である太陽光発電や風力発電は、建設に対する反対勢力も小さそうに見えるが、気候条件にかなり左右されるためエネルギー効率が良いとは言えない。その一方で、琵琶湖疎水の事業によって日本で初めて建設された水力発電は、国土が川で溢れていて水に恵まれていることから日本にとって最適であるといえるだけの地形を持っているほか、一度完成すれば多方面に莫大な益をもたらし得る。

 また、グラハム・ベルは明治31年に来日した際には、日本の地形を見て「この豊かな水資源があれば、これを利用して日本は更に成長出来る」という旨の講演をした。ここで私は、それから100年以上経った今でも彼の予言に耳を傾けようとしないのはなぜだろうか、という疑念が生まれた。日本は再生可能エネルギーの適性が高いとは言い切れないながらも、こうしてある意味時代の流行りとも捉えられかねない事業に対しては積極的に投資する姿勢があるほど、発電事業自体に関心が無いわけではない。災害などの予測不能な事態に備えて、再生可能エネルギーは確かに選択肢の一つとなり得るが、これだけに頼れば、次第に日本は「何が強みであるか」「何で世界と戦うか」を見失い、技術への自信がなくなり、国力が低下してしまう恐れがあるだろう。自分に都合の悪い情報はどうしても見えなくなってしまうのが人間であるのだろうが、自らの現状を理解して弱みや脆弱性を把握することを怠らないことが重要であるのだと考える。日々変わりゆく社会に取り残されないよう、慢心することなく「先進国を目指して近代化に勤しんでいた頃の初心」を常に心に留めておかなければならない。

 


学生による論文⑦ 「縦割り組織」と土木技術を脅かす「包括的民間委託」(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-26 09:10:35 | 教育のこと

タイトル:「縦割り組織」と土木技術を脅かす「包括的民間委託」

 縦割り組織は様々な弊害を生み出すことが知られてきているため、組織の構造を見直す事例が増えている。直近の例では今月16日、芝浦工業大学は工学部の学科を廃止する方針を示した。これまで、この大学の教育カリキュラムは、機械、材料、電気電子、土木、化学、情報、先進国際の7つの分野に明確に分かれていた。生徒は、一つの専門分野を重点的に学ぶカリキュラムとなっており、それ以外の分野に触れる機会が少なかったようだ。また各学科には15名程度の教員が所属し、一度所属した教員は定年になるまであまり移動はない。教員は、ムラ社会に近いような状態となっており、上の年代の教員の影響が強く、新しい時代に対応した教育が行われづらい環境であった。新たな教育カリキュラムでは、「学科」を「課程(コース)」という区分けに改めて、生徒が分野をまたいだ学習をできるように、環境整備がなされる。教員も学部所属という形になり、複数分野の生徒に指導を行い、自由でのびのびとした講義が行える環境となる。大学という場で、一つの分野や課題を掘り下げて学問を学ぶ姿勢はもちろん大事である一方、現実の課題は複数の分野が複雑に絡んでいることがほとんどであるから、分野をまたいだ知見や考察も非常に大切だろう。芝浦工業大学は今回、工学部内の教員を一つの組織にするようであるが、さらに法律や経済に精通した教員をこの組織に加えると、より現実に近い知見や考察につながると私は考える。組織の縦割りという状況を緩和させることで、組織の中の個人の能力はよりよくなるだろう。

 一方、土木分野においては、教育改革の流れとは反対で縦割り組織の構造を新たに生み出す事例がある。例えば、私が最近土木技術者から直接伺うことのできた例で、ダム管理が挙げられる。ダムの管理者は、政府直轄事業者、地方自治体、電気事業者、民間企業など様々である。しかしながら、水資源機構に勤めており比奈知ダムを管理されている技術者の方によると、たとえ政府直轄事業者がダムを管理していても、漏水や揚圧力などの日常点検の測定作業を民間委託している場合が、2000年代以降増えているという。ある技術者の方は、20年から30年前の若かった頃は、ダムに関わるほとんどの仕事を重労働ながらこなしていた。また2000年代の旧水資源開発公団解散や民主党政権の政策などによって、業務内容は減っていったという。そして、現在水資源機構が行っている定期検査の仕事は、民間企業が計測した値を記録することのみであるという。その技術者の方は、現在の仕事場であるダムの施工にも関わっていた経緯もあり、ダム管理の仕事に情熱的で誇りを持っておられた。しかしながら、現在のダム管理の制度は国や省庁が決めているため、与えられた仕事以上のことはできないようである。国による水資源機構と民間企業の2つの縦割り組織の形成は、土木技術者にも影響を与える。水資源機構の若手の方は、ダムの詳細な設備を経験する機会が失われているという。本来、ダムを管理する中心であるべき組織の水資源機構の職員が、日常点検の様子を知らないという非常に危険な事態になっていると私は考える。ダムの設計は、ある程度は理論的に導き出されているが、現場にある堤体、地盤の設計図との誤差、それによる臨機応変な対応といったことは、現場でなければわからない。ダムの管理についても同じである。このままの環境が続けば、将来もしダムに異常が発生した場合に、迅速に適切な対応がとれるのか疑問であると私は考える。

 このような構造を生み出したきっかけは、2002年の旧水資源開発公団解散である。それまで公団で特殊法人だった旧水資源開発公団は、免税や国から資金の補助を受けられる環境を失った。また、2001年から下水道事業において、一定の質を確保することを条件に施設の運転方法などの役務を民間企業が担うという「包括的民間委託」が推進されたこともきっかけだ。下水道施設の包括的民間委託により、民間企業は複数施設で数年単位の契約を行い、下水道施設の維持、管理を一定の質で効率的に行えるようになったと各自治体は評価している。その後は、下水道事業以外の公共事業についても、国や地方だけが管理するのではなく民間も含めて進める動きとなった。

 包括的民間委託は、受託する民間事業者がもつ技術で効率的かつ効果的に公共サービスが行われるとされている。先で述べたダム、下水道のような施設を複数同時に管理することで、確かに効率は上がるかもしれない。しかしながら、インフラの老朽化やコスト削減、技術系職員の減少、民間企業への事業提供といった表面的な効果のみを狙った包括的民間委託という考え方に私は賛同できない。

 土木技術の継承や技術系職員の育成、レジリエンスのことを考えると、包括的民間委託に頼った現在の公共事業の仕組みは、あまりふさわしいものではないからだ。土木技術者は各々、専門分野や現場の経験が異なる。仕事内容と技術者の組み合わせ次第で、技術力に差が生じることがある。そのため、若手の土木技術者は、数年おきに他分野の現場に配属されて様々な分野の技術、能力を身に着けることが多い。しかしながら、公共事業の包括的民間委託、つまり効率重視の維持管理が普及すると、国や省庁、民間問わず現場に配属されてもそこで経験できる作業は減るだろう。そして、技術者としてのノウハウが養われず、非常事態の際に発揮されるインフラ管理者の判断力が鈍り、有事の臨機応変な対応が望めなくなると私は考える。

 


国交省の品質確保の試行工事に関する講習会(オンライン)

2021-11-19 14:53:25 | 研究のこと

11月26日(金)13:30~16:30に、国土交通省技術調査課と土木学会コンクリート委員会の品質確保の研究委員会(356委員会)のコラボで、「「コンクリート構造物の品質確保の試行工事に関する講習会」をオンラインで開催します。どなたでも参加できます。

講習会の情報はこちら、です。

リアルタイムで参加できない場合、録画でも見れるようにする予定ですので、そちらもご活用ください。


学生による論文⑥ (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-19 10:00:37 | 教育のこと

2021年度の第6回目の講義「自然災害の克服」という回のレポートから、秀逸なものを2つ、セレクトしました。

その2つ目はこちら。

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タイトル「わがままな国民」

 今までずっとコンパクトシティとスマートシティについての論文を述べてきたが、今回は具体的な話題として都市基盤整備について自分の感じるところを論文にまとめる。

 私は都市基盤学科に入って都市計画や土木を幅広く学んできて、いつも疑問に思うことがあった。それはなぜこんなに都市基盤施設整備において国民と技術者の意見はマッチしないのか、という点だ。私は土木を学ぶ上で多くの過去の事例を知り、そしてその多くが国民の反対を伴っていることを学んできた。国民の安全のために発展した土木技術なのに、都市基盤の整備では多くの場合でその市区町村の市民からの反発を伴う。また、自然災害が起きた際に国民からの土木技術者もしくは政府に対するバッシングもこれに含む。これはよく考えればとても不思議なことではないのか。百歩譲って後者の自然災害の対策不足に対する怒りは理にかなっている部分もある。だが、前者の都市基盤整備に対する反発はよく考えると不思議なものだ。そこで今回は授業で何回か先生が取り上げてくださった事柄も含め自分なりに意見を論じる。

 まず一つ目の理由として圧倒的な知識不足であること。今回の授業のはじめの学生からのキーワードで、私たち日本人は基本的に政治や国の動向に関して興味がなく受け身であると言われていた。それはなぜかというと知識が足りないからだ。選挙でもなんでも、知識が足りなければ興味を持つことは難しい。それと同様に、一般的な市民は国を作り上げる土木という分野に関して知識が足りない。故に土木に関してあまり興味がないように思える。ではなぜインフラ整備の際に多くの反発が生まれるのかというと、国民は自分の不利なことに関しては興味を持つからだ。インフラというものはストックで長期的な効果が見込まれるものであるが、もちろん全てが利点なわけではない。一時的に負の効果を負うものや、表面的に見れば利点が感じられないものももちろんある。土木の技術者や知識の豊富な者は、長期的な目線で本来の効果や将来を見据えた上で判断をする事ができるが、知識のない人間は視野が狭く今のことばかり考えてインフラの重要さに気づく事ができない。これではいくら専門家がインフラのストック効果を力説しても、反対意見を持つ国民に届くわけがない。

 そして二つ目の理由として、国民は自分の生活を豊かにするものに関しては良い印象を抱くが、マイナスに備えるものに関してはあまりいい印象を抱かないこと。詳しく説明すると、国民は自分たちの生活を豊かにするもの、例えば新しいショッピングモールの建設、駅の発展などに関しては興味関心を強く持ち良い方向へと持っていこうとするが、今の生活を豊かにするわけでもなく、ただ起こる可能性のある災害に備えるためのインフラや、自分が関わる可能性が少ない社会基盤の制度の整備に関してはあまり賛成しないという事である。もちろん誰もが生活に娯楽や豊かさを求める。これは文化的な生活をする人間として正しい。だがそれだけでは私たちは生きていくことはできないだろう。プラスのことばかり見ていたらいつか足を掬われるし、足を掬われてからじゃ遅い。私たちは現実を見なければならない。

 最後の理由は、国民側でなく技術者側の理由である。その内容はデータや既存の事実に囚われ過ぎて今の状態に対応できてない、というものである。もちろん全ての技術者がそうであるとは言わない。ただデータ的にこうだからとか、同じような事例があったからこうだとか、過去に囚われて社会の基盤を形成するのではなく、私の前々回のレポート(法と社会の溝について)でも述べたように、時代の変化に敏感な国民のニーズにインフラを整備する技術者も臨機応変に、自由に対応すべきではないかと私は思う。そして柔軟な意見交換を通じて国民と技術者との距離がぐっと近くなれば、国民も現在のような大きな反発をせずとも都市基盤の整備を行う一員として参加できるのではないか。

 このように三つの理由を国民側と技術者側の二点から論じたが、最終的に私が行き着いた答えは基本的に自己中心的で国民はわがままであるということである。だが、私はわがままなのが悪いという事が言いたいのではない。国民が自己中心的なことなんてとうの昔から知っている。だからもちろん国民が知識をつけて社会基盤整備に興味を持つことも重要だが、それでも多種多様な性格で自分達が可愛くて仕方のない国民とどのようにうまく付き合っていくのか、私たちがどう変わるのかが一番重要なのだ。国民も変わる必要があるし、技術者もまた、変わる必要があるということだ。


学生による論文⑤ (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-19 09:58:20 | 教育のこと

2021年度の第6回目の講義「自然災害の克服」という回のレポートから、秀逸なものを2つ、セレクトしました。

1つ目はこちら。

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「『学び』が国家を強くする」

 人生において、「学び」の方法はいくつかある。まず、自らじっくりと学ぶこと、そして人と関わり合うことを通して学ぶことがある。前者には、どこかへ旅行へ行ったり実際に足を運んだりして知見を広げることや、日々の生活の中でちょっとした事件に巻き込まれたり災害の被害に遭ったりしたことで得られる学びが含まれるだろう。その一方で後者には、様々な考え方を持った人の話を聞いたり互いに議論を交わし合ったりすることの他に、読書をして多様な考え方に触れることも含まれると考える。どちらの「学び」も重要であるが、我々が普段学んでいることは自然災害やインフラに対する意識にどう結びついているのだろうか。それを考察した上で我々にはどのような「学び」の機会が必要であるのかについて以下では論じようと思う。

 私が初めて日本のこの社会の現状を「学ぶ」ことをしたのは、小学校の社会の時間だっただろう。学校では定期的に避難訓練が行われたり、先生の口から自然災害はどのようなものであるかについて説明を受けたりしていた(=人との関わりの中で生まれる「学び」)はずであるが、私が実際に自然災害の脅威について身をもって知ったのは、当時小学校三年生だった2011年の東日本大震災を経験(=自らの「学び」)してからであった。つまり、人がそれぞれ意識を高めていくためには、まずは多様な側面からの「学び」が必要であるといえる。現在の学校の体制は、教育の場として必要な内容を必要なだけ比較的バランスよく教えられている現状にあると個人的には感じているが、「人と関わりながら学ぶ中で、何かに強く感銘を受ける瞬間」というものが圧倒的に少ないように感じる。人が他の誰かを慕ってその背中を見ながら成長し、そして次の世代の誰かに慕われてその人を育てる、という連鎖は長期的に見て国を強くすることだろう。

 次に、人々の自然災害やインフラに対する意識について考えた事を述べる。例えば、大きめの(ここでは「通常より大きいものの、たとえそれが毎年発生しても不思議ではないほどの規模」を表すためにこの表現を用いた)台風が接近することで堤防の決壊やライフラインの断絶が起こったり、大きめの地震が発生して公共交通に影響が及んだりする場合を考える。この時、その二、三日後にこぞってメディアで扱われている内容は、コメンテーターや評論家たちによる「なぜこのような災害は起きてしまったのか」「何が悪くて被害が出てしまったのか」といった類のものが多いように感じる。確かに、本来は生活の利便性を高めるはずのインフラが自然災害の発生によってマイナスの影響を及ぼしてしまっている以上、現状やその理由を明確にして再発防止に努めようとする姿勢は重要である。しかしそれだけでは先人の成し遂げた功績が見えづらく、結果的にインフラは「あれだけ巨額の投資をしているにも関わらず何も役に立っていないのでは」というような厳しい目を世間に向けられてしまう傾向にあるのではないかと考える。1938年の神戸の土石流では695名の死者が出たものの、それ以降に砂防堰堤の整備が進んだことで2014年の豪雨では死者がゼロであった。だが例えば、この豪雨の二、三日後、メディアではちょうどいわゆる「怠け者」の犯人捜しをしているであろう頃、こうしたインフラの発揮する莫大な効果にいち早く気付いていた人は果たして何人いるであろうか。このように、今の状況だけ知っているだけでは俯瞰的に物事を見つめることができない。その結果、考えが偏ったり物事の重要性に気付かず本質を見失ったりしうるため、過去や今までの過程を「学ぶ」ことが不可欠だということだ。

 土木はいわば縁の下の力持ちのような存在で、人々にとってインフラは必ずなければならない施設であるように、インフラも必ずそこにあって当たり前でなければならない。人とインフラはそのような関係性であるだけに、一歩間違えれば人々に忘れられたり軽視されたりしてしまいがちである。いつ襲うか分からない自然災害や年を追うごとに進行していく社会問題を数多く抱える日本を強くするには、多方面からの「学び」を深め、活発な「学び」の場を創出することで過去と将来の世代を繋いでいくことが鍵であるだろう。


学生による論文④ (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-11-12 13:59:48 | 教育のこと

国土計画だけでない「くしの歯作戦」

この授業において、東日本大震災の際、津波による被災地を直接通らないメインルートをまず復旧させ、その次にメインルートから被災地に伸びる道路を啓開し、最後に被災地どうしをつなぐ道路を復活させるという、くしの歯作戦が被災地各所への物資などの輸送路の早期確保に役立ったことを学んだ。

このようなプロセスを実現させるためには、まず、確固たるメインルートを確保しておくことが重要になる。津波対策という状況下において、被害を受ける道の片側には海が迫っており、単純に別ルートを用意できるスペースが半分欠けている。それだけに、内陸側のメインルートはとても強固かつ、一刻を争う場面において有用性の高いものでなくてはならない。そう考えると、内陸部の輸送路はある意味、沿岸部の都市圏を結ぶ道路以上に、広く、かつ高速化されたものでないといけないのかもしれない。このような対応は、平時に沿岸の都市に用がない通過交通を、輸送量、速度共に優れた内陸部の別ルートに誘導し、都心部での渋滞や公害などを防ぐという意味でも合点の行く対応である。ただ人口があるような場所を通ればいいというものではない、ということがわかる。

そして、各地に技術を持った建設業者があり、すぐに道路を通せるような状態になっていることが必要になる。建設業者の経営が苦しかったり、暇を持て余していてその間なんの建設も行わず技術力が失われていたりすると、迅速な対応はできない。ある程度以上のインフラ投資を全国的に満遍なく行い、各地の事業者の活気が保たれるような状態にしておかないと、いざというときにインフラを失う期間が長くなってしまう。

ただ都市部を結ぶような整備をするだけでなく、全国的に分散されたインフラ整備を行うことが重要だと、このくしの歯作戦の話で再認識した。

このくしの歯作戦、なにも国土計画に限っていえるようなことでもないように思った。もっと小さい都市計画の視点から見ても、例えばある地区で豪雨の中河川が氾濫し、川沿いの部分が被害を受けた際、川から離れた部分にある大通りがまず強靭で、仮に豪雨被害を受けていてもすぐ復旧できる必要がある。そして、そこから川沿いの地域に向けて延びる道路も、その次に復旧しやすいような仕組みで、かつ一定間隔で緊急車両が通りやすいような道幅の広い道路を確保する必要がある。仮に川沿いの人口が多くても、川沿いだけに主要道を置かず、また川沿いと川から離れた通りを結ぶ横の道路も満遍なく整備されている必要がある。バランスのよいインフラ整備はこういったところでも鍵となってくる。

そして、この作戦は記憶や知覚に対しても言えることであると思う。人間生きていく中で様々な情報に触れ、様々な知識を得るが、すべてをしっかり覚えておくことは到底できるものではない。人間のもつ情報の記憶は、常に忘却という「災害」の「被害」を受け「寸断」されているものなのだ。こういった際、情報の記憶を、必要となった時にどのようにして復旧させるか、というのが大切になってくる。

こういった際に津波の場合における内陸部のメインルートにあたるのが、自らの実体験であるように思う。さまざまな実体験によって構成されたエピソードによってできるメインルートから、その経験を踏まえて考えたり調べたりすることによって生まれる数々の道が枝分かれし、一番もろい知識の部分とつながっていく。この場合、各地に配置される建設業者にあたるのは、思考力とリサーチ力であるように思う。いかに経験と知識を結び付け、考えたり調べたりする範囲を広げ、正しい情報を取捨選択できるかが、その分岐した道の強固さにつながる。

一方、自らの経験による記憶は、単に情報として得た記憶よりはるかに忘却の「被害」を受けにいが、このことは自らの過去の経験により、人間のもつ記憶が偏りやすくなるということを意味するのかもしれない。さまざまな情報に触れ、さまざまな経験をしたうえで、メインルートにあたるようなものも満遍なくいろいろな学問分野や、いろいろな視点から整備し、偏りのない判断を下せることを目指さなければならないだろう。