おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-07 23:06:34 | 日光例幣使街道
                               「大門宿」交差点。

 「大門宿」は「日光御成街道」の宿場町として存在していますが、ここにある「大門宿」とは?
(11:38)「大門宿」バス停。

次の「鹿沼宿」まであともう少し。「まちの駅 新・鹿沼宿 2.4㎞」の看板。

「○道」? 2ヶ所くらい目にします。 

 左手に「私の美術館」。
 
                       私の美術館
駅長の作品を中心とした、絵画の展示ギャラリーです。
場所 322-0045 栃木県鹿沼市上殿町280
電話 0289-64-3190
駅長 小林 一行
営業時間 10時から17時
定休日 不定休(駅長不在時は閉館)
こんな「まちの駅」になりたい
気軽に立ち寄れる美術館。私の作品を展示して皆さんに芸術鑑賞と憩いの空間を提供します。

(以上、「鹿沼市経済部観光交流課観光施設係」の紹介記事より)

 「駅長」というのはどういう人物? どうもこの街道歩きでは気になる(疑問符が付く。興味を引く)ものが多くあります。

「勝善神」。

「押原神社」参道。

いよいよ「鹿沼宿」に近づいてきます。
「鳥居跡(とりいど)町彫刻屋台蔵」。


「芭蕉そば餅」の看板。
 鹿沼産米粉、鹿沼産そば粉を主原料にそばの風味を大切に仕上げた生菓子で「山帰来」と言う葉で包まれています。
芭蕉が大のそば好きであったことから“芭蕉のそば餅”と命名しました。
 (HPより)

(12:11)「新鹿沼駅前」交差点。

そろそろお腹も空いてきます。駅方面に向かい、右手にある「みっちゃん蕎麦」屋さんに入ります。 


「芭蕉そば御膳Aセット」。
(「Bセット」はニラ蕎麦。)
 これに、味噌田楽が付きます。

 地酒を一合追加して、食します。新そばの香りがすばらしい。付け汁は少し甘くておとなしい感じ。それもまた、よし! 
 それにしても「みっちゃん」というネーミングが大衆食堂風で、手打ち蕎麦屋さんらしくないのが、面白い。由来は? けっこう混んでいます。

 (13:00)さて再開。その前に「鹿沼」のことをお勉強。

 北関東のほぼ中央、東京から100キロメートル圏に位置する鹿沼市は、東北縦貫自動車道を動脈とする県内物流の拠点となっています。
 江戸時代、現在の鹿沼市の基礎となった鹿沼宿も、日光への交通の要衝として整備されてきました。
 古峰ヶ原を含む前日光高原一帯は、日本古来の山岳信仰と仏教が結びついた「修験道」の道場とされてきました。奈良時代にこの地で修行を重ねた勝道上人が日光山を開きました。
 さらに江戸時代、徳川家康を祀る東照宮が造営され、江戸と日光を結ぶ道が重要性を持つようになる中で、鹿沼の歴史は日光との深い関わりを持ちながら形作られてきました。また朝廷から日光への例幣使の街道の要所として、鹿沼宿は発展を遂げました。
 日光西街道・例幣使街道を往来する人・物は、地場産業を発展させ、文化の向上をもたらしました。
 当時、鹿沼の村々で生産された麻、朝鮮人参などの特産物は、江戸・大阪・京などの大都市へ出荷され、豊かな商品経済とともに文化が鹿沼の地に根付き始めました。彫刻屋台もこの頃つくられ、その精緻な彫物は現在にまで守り継がれています。
 当時の最高学府・昌平黌(しょうへいこう)に学び、天明の大飢饉の際には宿場内の裕福な家や家庭に米や金の供出を呼びかけて貧民救済を行うなどの社会事業を施した鈴木石橋の存在なども、鹿沼宿の経済・文化の水準の高さを裏付ける一例といえるでしょう。

   
 鈴木石橋肖像                戦後の町並み

 幕末には家数800件を超したといわれる大宿にまで発展した鹿沼宿を核に、明治の廃藩置県、市・町村制の施行などを経て、鹿沼は近代的な商工都市へと歩みを進めていきました。
鹿沼の中心的な産業である木工業は明治23年の日光線開通、26年の日光電力創設により電柱の需要が急増し、丸のこを使った水力製材機の開発などによってその礎が築かれました。
 昭和23年鹿沼市は市制を施行、30年までに1市9村の合併を行い、現在の鹿沼市が誕生しました。39年の木工団地、44年の工業団地の完成などは、鹿沼市の発展の重要な基盤となっています。
 また昭和47年の東北縦貫自動車鹿沼インターチェンジ開設は、現在の‘物流拠点・鹿沼’を生み出しました。
 人が集まり、物が行き交う「にぎわいのまち・鹿沼」は、江戸時代の鹿沼宿のなごりを随所に残しながら今、21世紀の扉を開き、新しい時代への第一歩を踏み出していきます。

(以上、「教育委員会事務局 文化課 文化財係」HPより)

 「新鹿沼駅前」交差点まで戻ります。
 ここで、街道は二手に分かれます。右が「田町通り」、左が「内町通り」と呼ばれていました。その分岐点は「鳥居跡(とりいど)」と呼ばれ、小さな祠と鳥居。「旧一ノ鳥居跡」の石碑と解説板があります。 


                          
史跡)鳥居跡(とりいど)
 奈良時代に勝道上人が日光開山後、この地に4本のえのきを植えたと伝えられ、また、鎌倉時代に、源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原66郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居を建てたと言われているように、古い伝承のある地である。後年、鳥居の跡が地名になって鳥居跡になったと言う。江戸時代のはじめ、日光へ街道が整備され、鹿沼宿がつくられた際、鳥居跡から分岐造成された新道が現在の大通りであると鹿沼古記録にある。その頃、鳥居跡に植えられた4本のけやきは次第に枯れ、大きな空のあった最後の一本も、戦後まもなく姿を消してしまった。その跡に、昭和32年、日光二荒山神社から御神体を迎え、二荒山神社を建立した。鳥居跡町名は、由緒ある地名「鳥居跡」から命名されているが、町内発展の契機となったのは、昭和4年に東武日光線が開通し、東武新鹿沼駅が開業したことである。
■ガイドマップには・・・
鹿沼の由来を記録した「鹿沼町古記録」によると、日光開山の勝道上人が、日光山守護のために四天王を表す松、杉、梅、紅葉の4本を植えたとあり、また、「押原推移録」によると、源頼朝が日光山に神領66郷を寄進したとき、神領の入り口に当たる所に「遠鳥居」を建てたといわれ、その跡に大欅があったが、昭和22年9月台風で倒壊、伐採された。その後、日光二荒山神社から勧請された「二荒山神社」が建立された。(鳥居跡町)

(以上、HPより)

左の広い通りを歩きます。

 「彫刻屋台」の幟。 
 この先、「仲町屋台公園」には「屋台収蔵庫」に「仲町屋台」が展示されています。

右手に旧家らしい「中野屋酒店」さんの建物。三層風な屋根が趣あり。


(13:09)左手には「雲龍寺」。鹿沼宿本陣を勤めた鈴木家の菩提寺。

その先の交差点を過ぎると、電柱がなくなりすっきりした街並みになります。街灯もしゃれたものに。 

 
  趣のある大きなおうち。                           「こんにゃく」屋さん。   
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする