おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

清砂大橋~江戸川区球場~海岸水門。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その1。)

2013-05-30 21:16:23 | 歴史・痕跡
 江戸川区の最南端。かつての海岸線(「葛西海岸堤防」)沿いを自転車で。この道は、以前は幅広い堤防上の道。今はサイクリングロード、ジョギングコースとしてよく整備されています。清新町から左近川親水公園、旧海岸堤防を通って舞浜大橋へ向かうルート。なお、旧堤防に沿って「都道450号線」が続いています。約4.5㎞の道のり。
赤い線がかつての海岸堤防線。明治以来の海岸線に沿って堤防がつくられたようです(「左近川」河口付近を除いて)。
(1917年~24年)明治以来の海岸線にほとんど変化がない。東京湾のこの水域は浅瀬が広がっていました。
(1965年~68年)。西南側に陸地が造成されていく。
 以上の地図は、すべて「今昔マップ」より拝借しました。(この「今昔マップ」は痕跡追求者にとっては最高に利用価値があり、すばらしい。感謝します。)
 この堤防。1947(昭和22)のカスリーン台風や1949(昭和24)年のキティ台風のとき高潮で大きな被害を受けたため、水害(高潮被害)防止のために、1951(昭和26)年に着工、1957(昭和32)年に完成しました。延長4.4㌔、地面(もともと海抜0メートル地帯)からの高さ4~5㍍で堤防の幅も広く、昭和38年の航空写真でも海岸沿いには自動車も通れる立派なコンクリート道路として写っています。
旧葛西海岸堤防(昭和30年代 撮影者E.Saitou氏)「エドルネ日記」(写真で振り返る我が街の歴史~昭和30年代の写真をみながら)より拝借しました。立っている人の姿から堤防上ははかなり幅が広かったことがうかがわれます。

 その後、東京湾最北東部の埋め立て、干拓、宅地化もどんどん進み、1972(昭和47)年からは、堤防の外側の埋め立てが始まり、「海岸水門」と二カ所に堤防の一部が保存されていること、遊歩道、旧堤防に沿って続く都道が曲がりくねっていること以外、かつてここが堤防(海岸線)だったという面影はありません。

 ここで、おさらい。

 太日川(江戸川の古名)の広大な三角州だったこの地は、江戸期までに現在の旧江戸川を挟んで隣接する現・浦安地域を中心とした堀江新田の一部として開発された。
 入植した村民による私設の海岸堤防が築かれて「葛西海岸」と呼ばれるようになり、堤防の内側は田畑がつくられた。その外側には三枚洲や蜆島(しじみじま)などの干潟や湿地帯が広がり、貝類や海苔、葦などの採集が行われ、人口の流入を促していた。
 1871年(明治4年)の廃藩置県で、印旛県葛飾郡堀江村の飛地となっていたが、大字堀江のうち江戸川右岸が東京都に編入され、南葛飾郡葛西村の大字となる。
 1957年(昭和32年)には、「葛西海岸堤防」が整備されたが、江戸川の氾濫や高潮によってたびたび浸水被害を受けていた。高度経済成長期に地下水汲み上げによる地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化して農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には「黒い水事件」が発生して沿岸漁業も衰退、放棄地には産業廃棄物の処理業者が集まり、ゴミの不法投棄なども行われ公害も深刻化した。
 このため、1970年(昭和45年)、江戸川区は海岸水門で道路を封鎖して産廃業者を締め出し、1972年(昭和47年)には、東京都が葛西沖開発事業を開始した。この埋め立て事業で隣接して臨海町や清新町が誕生したが、かつての海岸堤防があった場所は都道450号線として遺され、護岸の一部も保存されている(かつて葛西海岸の岬だった「将監の鼻」付近)。
 1975年(昭和50年)7月、日本化学工業小松川工場が約8万トンの六価クロムを堀江町に不法投棄していた事が発覚し、住民主導で除染にむけた地域活動が行われた。1979年(昭和54年)11月、住居表示が実施され、従来の堀江町は南葛西一〜七丁目となり、旧江戸川河川敷が旧町名のまま住居表示未実施の無人町となって残されている。( 以上、「Wikipedia」より)
 
 と、戦後の高度経済成長にあわせ、様々な変遷・課題を体現してきたようなところでもあったのです。
 さっそくたどってみましょう。スタートは清砂大橋東詰。
「清砂大橋」。荒川・中川に架かり、江東区砂町と江戸川区清新を結ぶ橋。この地点は、首都高・中央環状線「清新町」ランプ、東京メトロ線、清砂大橋と三つの橋脚が並ぶところ(見えているのは、首都高とメトロ線の橋脚)。その橋脚の北側たもと。
北葛西・「八幡神社」前の道。このあたりが荒川河口と海岸線の接点。この神社は昔からここに位置しています。
の地点。
 なお、この地図は昭和40年代前半のものですが、注目すべきは、「堀江地区」。この地域は、それまで長く田畑としての表記があったが、何の記号もない土地(荒れ地?)になってしまっています。上述の「地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化して農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には『黒い水事件』が発生して沿岸漁業も衰退、放棄地には産業廃棄物の処理業者が集まり、ゴミの不法投棄なども行われ公害も深刻化した。このため、1970年(昭和45年)、江戸川区は海岸水門で道路を封鎖して産廃業者を締め出し・・・」という記事に関連していると思われます。
で囲った地域。
右奥に見えるのが「旧葛西海岸堤防」。
保存されている「旧葛西海岸堤防」。すぐそばにも別に一部が保存されています。
「AP5.3m S32完成」と記されています。「AP」は海水面からの高さ、「S32完成」は、昭和32年(1957年)完成したことを意味する。

 旧葛西海岸堤防については、葛西沖の埋立開発事業に伴い本来の役割を終え、清砂大橋の工事により撤去する予定でした。しかし、水害から都民を守り、かつての東京湾の海岸線をしのばせるこの堤防の一部を、葛西沖で漁をしていた地元住民等からの「高潮から守ってくれた堤防を残して」との要望をうけて、江戸川区西葛西の清砂大橋取付部の脇に保存しました。
 平成17年3月19日(土曜日)に地元住民の主催により、旧葛西海岸堤防及び江戸川区により設置された記念碑の除幕式が行われました。除幕式には、江戸川区長、東京都第五建設事務所長も参列しました。(「東京都第5建設事務所」HPより)

記念碑。

当時の堤防は現在の首都高沿いに東方向に向かっています。その先は、道路整備などで元の堤防(海岸線)の位置は定かではありません。橋脚は東京メトロ。右は、首都高。
「江戸川区球場」の西側からかつての堤防を整備した緑道が続きます。
そこから見た「江戸川区球場」。
 「江戸川区球場」。1984(昭和59)年に完成。ここでは、夏の甲子園予選東東京大会、東京都東部の高校野球各種大会など、主としてアマチュア野球の試合に頻繁に利用されています。以前は、プロ野球のイースタン・リーグ公式戦(主にヤクルトスワローズ主催)も開催されていたそうです。23区内の、都と区が管理する野球場の中で、硬式野球が可能な貴重な球場です。
スコアボールドも電光掲示板で本格的。この日は、どこかの企業内対抗戦を行っていました。
かつての堤防の西側には学校や住宅地が広がっています。埋め立てをした際、「海岸堤防」を残して、ニュータウン(清新町地域)が出来ました。
周囲より一段と小高くなった堤防跡の遊歩道。整備にもそうとうの費用がかかったようです。
「新長島川親水公園」。南に向かうと「新左近川親水公園」へ。ここは、堤防があった頃までは区内の北東から流れたきた「長島川」の河口だったところ。 
海岸堤防跡の道路から見た「新左近川親水公園」。かつては、ここは、東京湾の最奥部。現在は、入り江風になって水辺も広々として、木々に囲まれた水辺の公園らしい雰囲気。 
「中左近橋」から西を望む。かつては、このあたりは、遠浅の海。
「中左近橋」の南。今は、遠くまで市街地が続く。
東を望む。遠く奥の方に「海岸水門」(下部の鉄製のしきり扉が赤く塗られている)が見える。かつての海岸線の位置。

 本来の左近川は旧江戸川から江戸川区臨海町の海岸水門までで、周囲から中小河川の水を集めて東京湾に流れ込む一級河川でした。農業用水としてだけでなく河港としても利用され、漁業やノリ養殖業を行う「べか舟」がたくさん停泊していました。
(明治中期の頃のようす。「歴史的農業環境閲覧システム」より。)青い流れが「左近川」。現在保存されている「海岸水門」の遺構よりももっと奥深くて幅広く浅瀬が広がっていた。
 明治時代頃より、東京湾の漁業は活発になり、葛西地区でも1903年(明治36年)に「葛西浦漁業組合」が組織されました。さらに、1951年(昭和26年)には都営の第二種漁港である葛西漁港が作られ、東京湾(奥)唯一の漁業根拠地と言われました。
 しかし、1950年代の東京湾では東京ガス大森工場の重油流出や江戸川漁業被害などの海洋汚染が頻発し、「葛西海岸堤防」などの海岸堤防の建設も進められて、しだいに漁業には適さない海になってきました。結局、1964年(昭和39年)に漁業権を放棄して、葛西漁港も廃止されました。1972年(昭和47年)には東京都が葛西沖開発事業を始めて、清新町や臨海町の埋立地が造成され、左近川は荒川(西)と旧江戸川(東)を結ぶようになりました。また、海岸水門から荒川までの人工水路は新左近川(しんさこんがわ)と呼ばれ、流域は新左近川親水公園として整備されています。
 左近川の名前は、江戸幕府の舟手奉行だった向井忠勝の官位である左近衛将監(しょうげん)に由来すると言われています。左近川に近い行徳塩田は戦国時代から戦略物資の「塩」を生産する重要な土地で、江戸時代には江戸城への補給路として新川が作られました。これらを防衛するために忠勝の陣屋が下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に置かれていたようです。堀江は旧江戸川河口の右岸と左岸に広がっており、右岸は1895年(明治28年)に葛西村に編入されました。左近川周辺には忠勝の名前が残っており、例えば葛西海岸の中央の岬は「将監の鼻」と名づけられて、埋め立て後の今も地名として残っています。(以上、「Wikipedia」参照)

 べか舟(旧江戸川対岸の市川市のHPより―写真も―)
 
 海苔の養殖、貝漁などに使われるべか舟と呼ばれる木製の舟は、行徳の風物であった。山本周五郎の「青べか物語」でも、このべか舟がおもしろく描かれている。水が進入しないように、ぴったり木を張り合わせて、手作業で行うべか舟づくりは、家を建てることよりも数倍むずかしく、船大工たちの職人芸であった。
 行徳や浦安では、明治時代、主に海苔採りなどに使われる目的で、手づくりの木造船が登場し、これがその後「べか舟」と呼ばれるようになった。戦後は、貝漁、魚漁、農舟(運搬用)、釣りなどに使われ、行徳の風景のひとつとなっていた。小さいながら、帆を張ることもできる。
やがてプラスチック舟にとって変わられ、姿を消していたが、今は、市立市川歴史博物館などで、当時の姿を見ることができる。
舟溜り(昭和32年 境川)
ノリ採取 (昭和47年代)
『青べか物語』(山本周五郎)新潮文庫
 昭和35年、作家の山本周五郎は『青べか物語』を発表した。
 彼は、昭和3年から昭和4年にかけて、浦安・行徳地域に滞在し、その体験をもとに、この地域の自然・人情・風俗を生き生きと描いた。楽天的でたくましく、時にはこっけいさを持ち合わせながらも、素朴で純情に生きる当時の人々のようすが、作品の中で描写されている。
 "青べか"という小説のタイトルは、冒頭で主人公が青ペンキで塗られたくたくたのべか舟を買うところからきている。そのべか舟は、通常もよりも胴がぶっくらふくれて、不格好なしろものであった。

かつての海岸堤防跡の道から「海岸水門」を望む。「左近川」の河口に位置していました。
のところ。


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1 コメント

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江戸 (iina)
2016-05-02 08:58:00
「江戸」の地名は、入り江の戸口という意味から名づけられたといいます。

詳しく河川について調べているのですね。


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