おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-15 19:38:34 | 佐倉街道
                             満開のサクラ。

「馬出し空濠」。
 城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。
 この空濠は、明治初期より連隊造営のため埋めたてられていたもので、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認されました。
 復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さは約3mとしてあります。
          

      



サクラが咲き誇っています。その下で記念撮影のようすも。

  

(10:43)さて小休止して、成田に向け、出発です。

                      

けっこうな上り坂。「海隣寺坂」。
                         坂上にある「海隣寺」に因んだ坂。

格子がすてきなおうち。

坂上から振り返る。 

(10:50)「ヤマニ味噌」。我が家ではなじみ深いお味噌。

ヤマニ味噌のこだわり
■素材選び
お味噌の原料は米・大豆・塩・水と、大変シンプルです。
そのシンプルさゆえ、原料選びに妥協すると即味に反映されてしまいます。
「出来上がる味噌を想像し素材を見極める」経験に裏打ちされた職人にのみ出来る匠の技です。
菜の花みそ、胚芽米入りみそ、ちばの恵は、厳選された国産大豆・国産米・国産塩を100%使用しています。
仕込み水には、創業当時より使用している地下30メートルから汲み上げる清冽な地下水を利用しています。

■代々受継がれる伝統的製法
ヤマニ味噌の味噌造りに妥協はありません。
雑味のもととなる大豆の皮を研磨して使用し、最高の状態で熟成させるため、“蒸し”と“煮”の両工程を、職人の経験と勘を頼りに絶妙のタイミングで行います。
お味噌の大豆は蒸すか、煮るかのどちらか一方のみを行うのが一般的ですが、それぞれの良さを引き出すために両工程をあえて行います。
これがヤマニ味噌に代々伝わる仕込方法「半煮半蒸し製法」です。
仕込み桶には古いもので百年以上使用している四トンの杉大桶を使用し、熟成発酵を促進させるため、熟成途中で天地返し(別の木桶への味噌の移しかえ)を行います。
どれも手間のかかる作業ですが、手間を惜しんで美味しいお味噌は出来ません。
代々受継がれる伝統的製法と味噌造りに対するプライド。
全ては「昔ながらの美味しいお味噌」を造るためのこだわりです。

■ヤマニ味噌だけの味
近年のお味噌は人工的に培養した酵母を添加することが一般的になりつつあります。
そうすることで味噌の香りは際立ち、洗練された味のお味噌が出来上がります。
しかしその反面、どのお味噌も似通った風味になり、味噌蔵独自の個性(蔵ぐせ)が失われてしまうと我々は考えています。
ヤマニ味噌は洗練された味のお味噌は造りません。
人工的に培養した酵母は一切添加せず種味噌の力のみで発酵熟成させています。
他では味わえないヤマニ味噌だけの味、昔ながらの味造りを我々は目指しています。
 (「」HPより)

「吉田書店」。赤い円形ポストが懐かしい(市内ではけっこう見かけます)。

宿場特有の間口が狭く、奥行きがある敷地。

通りには歴代の城主の名前が記された幟が。

「新町」交差点を左折します。右手は「旧平井家住宅」。

角に「佐倉町道路元標」の石柱。

この付近から東が宿場の中心街。

       
旧城下町(新町)の概要

旧城下町の明治時代の様子
 佐倉市は首都圏50㎞の千葉県北部に位置し、市街は印旛沼につながる低地と、下総台地、および両者をつなぐ傾斜地からなっている。台地の高さは約30mあり、低地の中央を西流する高崎川が鹿島川に合流して印旛沼に注いでいる。
 元和3年(1617)、時の佐倉藩主であった土井利勝が城郭を完成させ、以来、江戸幕府の要職に就いた徳川氏譜代の大名が佐倉藩に封ぜられた。
 明治4年の廃藩置県に至るまでの約250年余、十家20名の藩主が城主になり、房総の雄藩として城付の所領6万石を基本に、入封する大名によっては他国に多くの飛地を持ったので、それらを合わせると大体10万石前後の中藩であった。
 佐倉城下町は、それまでの「鏑木村」の中の馬の背のような台地(鹿島山とか鹿島台地と呼んでいた)に全く新しくつくられたもので、築城後に城下町が形成されたという特徴がある。鏑木村の集落は、台地を挟んで南北に分断されることになり、鏑木という地名が商家町のある台地両側に存在する事になった。
 城下の町としては、田町、佐倉新町、弥勒町、本町、本佐倉、酒々井町を佐倉六町として町奉行支配下に置いた。これらは全て一本の街道でつながる町で、距離的にかなり離れた町まで入っている事になる。
 佐倉新町は横町、上町、二番町、仲町、肴町、間の町で構成され、その敷地割の特徴は、間口2間3尺、最大で14間3尺、多くは5間程度、奥行きは20間~30間程度の、矩形型の敷地が街道に沿って並んでいた。
 この新町のみが商工業者を住まわせるため意図的に造った町で、城下町としての中枢部分であった。「佐倉新町江戸まさり」という言葉が伝えられているが、江戸時代後期には、江戸に勝るとも劣らないほどの町屋が立ち並んでいた様子を表したものだと言われている。
 田町は元々「椎の木」という地域に住んでいた住民が、築城によって強制的に移転させられたという伝えがある通り、新町に対して本来の町はここであったとも言われている。特に職人たちの多くはこの田町に住居を構えていたようである。
 商店の種別としては、武家の需要を満たしていた衣類、文房具、小間物などは田町、海隣寺門前町、横町、上町、二番町、仲町に多く、魚商は肴町に集まっていたようである。ただ佐倉においては高級呉服などの店は少なかったようで、江戸に近いという地理的な要素もあって高級品の多くは江戸に依存していた。
(この項、「」HPより)

「上町」。

(11:03)「蔵六餅本舗木村屋」。
佐倉銘菓 蔵六餅本舗 木村屋
 明治15年、銀座木村屋の2号店として、千葉県佐倉市でパン屋として創業した佐倉木村屋。現在は、和菓子店として、今も老舗の伝統と味を守り続けています。佐倉銘菓「蔵六餅」の他、四季折々の和菓子は、地元佐倉の皆様はもちろん、全国のお客様からご好評頂いております。

蔵六餅 
 佐倉藩主堀田家には、三百年の昔から、上面に亀の甲を曝した様な五彩混ざった地肌の一奇石が、「蔵六石」と称され、伝えられています。「蔵六餅」は、この家宝にちなみ、昭和29年佐倉が六町村合併して市制開始した折に、佐倉市が亀のように末永く発展しますようにと願い込めて発売した餅入り最中です。以来、佐倉銘菓として、同じ味を守り一つ一つ手作りでお作りさせて頂いております。当店独自の粒あん、こしあん、白あんの三色三種類がございます。
              (「蔵六餅本舗木村屋」HPより)

通りをはさんでこちらにも商家。

「三谷屋呉服店」。創業:寛政年代(1789年から1801年)。

「市立美術館」。正面は、大正時代に建築された「旧川崎銀行佐倉支店」。

 川崎銀行は、江戸時代水戸藩勘定方を務めた<川崎八右衛門>が、明治13 年に設立した銀行で、明治中期頃には有力銀行の一つに数えられた。東京日本橋にあった川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調とした当時の銀行建築の代表的建物で、現在明治村に正面玄関部分の一部が復元されている。
(この項、「」HPより)

「高札場」。内容は明治初期のものか。太政官布告 「阿片煙草ハ人ノ精気を耗し命数を縮め・・・
 また、現代の掲示板的な内容も。

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