おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

南砂鉄道公園。城東電車跡。汽車製造会社跡。(越中島支線をたどる。その2。)

2013-07-08 19:29:07 | 鉄道遺跡
 まだ現役の「越中島支線」。単線のまま南に進んでいきます。
「南砂鉄道公園」。複線だったJRの線路部分を緑道公園に整備してあります。フェンス越しに目の前を通過する貨物列車が見られる絶好の場所。ただし、1日に2便(往復)なのでタイミングが肝心。
線路に並行しています。隣にある現役の線路と高さも幅も同じで、一直線なところがいい。
「清洲橋通り」を越える。この道路はかつての「境川」跡。
歩道橋の名称に「さかいがわ・・・」とある。
かつてのようす。「境川」の流れが赤い線。(「今昔マップ」より)
その後、道路となり、荒川を「葛西橋」で渡っていた。(同)
現在のようす。その先の「葛西橋」(赤い線)は廃止され、葛西橋通りが「葛西橋」を越えるようになった。(同)
「幹線27号踏切」。「葛西橋通り」を平面で通過する踏切。東側には「明治通り」があるなど交通量は多い。
亀戸方向を望む。
仙台堀川(緑道公園)を渡る鉄橋。
横十間川親水公園から続く自然豊かな親水公園。水面ギリギリの複線のままの鉄橋。

「締川踏切」。いわれは? 
亀戸方向を望む。
越中島方向を望む。

「城東電車」を鉄橋で越える。
現在は、城東電車は廃止され、緑道公園になっているが、ガード下の標識にはいまだに「城東電車」と記されている。
 この南側に広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていた。
モニュメント。
線路跡は緑豊かな遊歩道になっている。モニュメントのある場所から西を望む。かつての城東電車(のちの市電・都電)は広大な「汽車製造」の敷地をぐるっと回って東陽町(須崎)の方に向かっていた。


汽車製造
1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。

跡地には、都営住宅や公立学校などが建てられている。

工場時代。赤い線が都電。黄色い○が汽車製造東京製作所。(「今昔マップ」より)
現況。(同)


2010年代のようす。緑道公園が都電跡。

補足(2009年に投稿の「おやじのつぶやき」ブログより)
 汽車製造「平岡工場」の成立

 先月末、両国駅にほど近い、墨田区立緑図書館で興味深い資料展示があった。墨田区の交通機関の変遷のうち、機関車、電車(市電)の製造会社であった「汽車会社平岡工場」に関する展示であった。その一部を資料等で紹介する。
 なお、汽車製造株式会社は、川崎重工業への吸収合併によって、今は存在していない。
 日本の鉄道車両は、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道の開業以来、一貫して輸入で賄われてきた。客車・貨車はその後国内製造が開始されたが、当時は民間の重工業が未熟であったため、これら客貨車の製造は各鉄道事業者が自営工場で行っていた。
 工部省鉄道局新橋工場の技師であった平岡凞は、そのような状況を打開して車両のさらなる国産化を推進するには民間に鉄道車両工業を興すべきと考え、1890(明治23)年、鉄道局を辞して、東京市小石川区の陸軍東京砲兵工廠の敷地・設備を借用し、渋沢栄一や益田孝らと匿名組合平岡工場を設立した。これが、民間客貨車工場の最初であった(ただし、個人経営の会社)。
 平岡は1871(明治4)年に渡米、ボストンやフィラデルフィアの鉄道車両工場で当時最新の鉄道車両技術を学んで帰国後、伊藤博文の紹介で鉄道局新橋工場に奉職していた。
 1895(明治28)年には京都電気鉄道へ28人乗り路面電車車両の車体を納入した。これは日本初の営業運転に供された電車であり、後に京都電気鉄道が市営化されて京都市電になった後「N電」と呼ばれた、狭軌線用車両群の第1陣に当たるものであった。
 その後、1896(明治29)年、「汽車製造合資会社」を創立して、それまでの砲兵工廠の借地を返納し、翌4月より本所区の総武鉄道本所駅(現・JR総武本線錦糸町駅)の隣接地に「平岡工場」を建設した。1901(明治34)年、第1号の機関車完成。さらに、電車の製作も開始する(大阪市電)。
 この頃、錦糸町駅南口には牧場があり、その経営者でアララギ派の歌人、伊藤左千夫がその牛乳を平岡工場に配達していたという。

年表 (「汽車会社70年の歩み」による)
1890年(明治23年)3月28日 - 東京市小石川区に匿名組合平岡工場が開業。
1894年(明治27年)10月31日 - 匿名組合解散。以後、平岡凞の個人経営に移行。
1896年(明治29年)3月31日 - 小石川の工場を陸軍省に返納。
1896年(明治29年)4月1日 - 東京市本所区に平岡凞の自有工場を開設、操業開始。
1901年(明治34年)7月 - 汽車製造合資会社(汽車会社)、平岡凞より平岡工場を譲受。汽車製造東京支店となる。
1928年(昭和3年)- 南砂町に工場を建設開始。
1931年(昭和6年) - 汽車会社東京支店は東京府南葛飾郡砂町に移転。旧平岡工場をすべて南砂町に移転完了し、工場は閉鎖。
 
 閉鎖後は、「江東楽天地」がその跡地を買収し、江東劇場、本所映画館を開場。現在は、「東京楽天地」と改称し、「LIVIN」や映画館、天然温泉、フットサルコートなどのある娯楽施設になっている。
現在のようす。
駅前の一等地にある広い敷地。
当時の工場の敷地。上が現・総武線。左側が錦糸町駅方向。右に見える川は、横十間川。「汽車会社の鉄道車両製作の回顧(汽車製造株式会社大阪工場 市山一二 鉄道ピクトリアル No262,264 1972/3-4)」より拝借しました。


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3 コメント

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汽車会社 (風旅記)
2015-05-10 22:22:43
こんばんは。
記事を拝読し非常に興味深く、コメントを入れさせて頂きました。
汽車会社の工場が元は錦糸町の駅前だったとは、驚きました。
今では川崎重工は車両の輸出も行うリーディングカンパニーだと思いますが、その系譜の一部に含まれているのですね。
小名木川から越中島貨物線沿いに、昭和40年代までの面影を探して歩くのも、楽しそうです。
今度、私も行ってみたくなりました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc
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Unknown (おやじ)
2015-05-11 10:53:57
隅田川以東は見尽くして(勝手にそう思っているだけですが)、都内の坂道や東海道に行っちゃっていますが、まだまだ下町にも見落としたところがありそうです。原点に戻って探索してみます。
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はたらく街 (minamisuna)
2015-07-07 11:09:00
汽車会社、50年くらい前、同級生の父親が勤めていて、何かの記念で従業員へ配る品物の包装をアルバイトとしてその同級生と2人で錦糸町駅から南砂町の汽車会社へ軒先をかすめて走る都電に乗って行った記憶があります。当時は年上のおねえさんから包装のしかたを教えてもらいながら、暑い部屋で作業したことが懐かしい。
ズバリ汽車会社なんて総武線にまだ貨物で汽車が走っていたので汽車だけ作っていたのかと思っていました。
今は、連絡もとれない状況ですが、この記事を読んでちょっとカッコつけの同級生を思い出しました。
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