おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「増補版1★9★3★7(イクミナ)」(辺見庸)河出書房新社

2017-08-29 21:21:59 | 読書無限
 本書は、『週刊金曜日』2015年1月30日号から同年7月31日号まで連載された「1★9★3★7『時間』はなぜ消されたのか」ならびに同誌2015年10月2日号に掲載された「今の記憶の『墓をあばく』ことについて」に加筆して、さらに修正、増補したもの。
 2016年3月30日発刊。

 タイトルの「1★9★3★7」は、日中戦争で日本軍が中国人に対して行った蛮行、いわゆる南京大虐殺があった年。
 中国人の視線で南京攻略当時の日本軍による残虐な行為を描いた堀田善衛の『時間』をもとに、その虐殺風景を浮かび上がらせる。そして、辺見さん自身が何度も本の中で自問自答する。もし自分がそのときの兵士の立場であればどう行動していたのか、上官の命令を拒否することができたのだろうか、と。
 また、虐殺され人生を断ち切られた中国人。虐殺された数を云々するのではなく、「敵兵」、「あいつら」、「捕虜たち」とひとくくりにするのではなく、名を持つ一人ひとりのいのちの重さを思うことの大事さを語る。
 そこでさらに、日中戦争に将兵として従軍した、今は亡き父の実像を手紙や戦後の言動から見極めようとする。戦後、復員して地方新聞の記者となった父。母親や自身へのDV、パチンコ通いと愛人通いをしつづけた父。そうした父への想い。父が執筆した従軍記にうかがわれるあっけらかんとした自己弁護、中国人、朝鮮人への蔑視、暴行、それでいて、中国人を拷問する部下に中止を命じた体験、そうした手記を父の死後に接する。しかし、生前、南京での状況や戦中の真相を父に問い詰めることができなかった。そのわけは? 「間違いなく父は将校としてその場で部下に拷問を命令したはずだ! 」
 一方で、同じ状況下に置かされた自分はどうだったであろうか、自分自身が父親の立場であったらどうしたであろうか、と自問自答する。

 被害者であることをことさら強調し、加害者であることを捨象した戦後のニッポンジン。「これが戦争というものだ」「戦争だからしかたがない」と無責任体質が蔓延(まんえん)した戦後日本の問題性を問い詰める。「「天皇ヒロヒト」の戦争責任をうやむやにしていった戦後のニホンをこれでもか、これでもか、と。

 その自問自答は否応なく読者にも突き付けられる。「自分が日本兵の立場なら、どんな行動をとったのか」、「この残虐行為を自分はできるのか」と問い、答えを求める。この問いに、何のためらいもなく答えが出せる、究極、「自分が殺されても他者を殺さないことを選ぶ」と言い切れる人ははたしてどれほどいるであろうか。

 辺見さんは、戦後70年間、この国に真の民主主義などはなかったと見抜く。
 日本人は中国大陸、朝鮮半島など東アジアで行った過去の残虐行為を封印し、天皇の戦争責任を問わなかったことを糾弾する。日本人は自分たちに都合の悪いことは徹底的に隠し、責任をとるということを避けてきた、と。
 最近では「福島第一原発事故」という未曾有の大惨事についても、誰一人責任をとった者はいない。その上、いまだ収束の見通しすらまったくつかないのに、放射能除去が万全ではない地域の帰還を強引におし進め、さらに全国で原発の再稼働を始めた。
 このように「責任をとらない」「とことんまで責任をとらせない、追求しない」ことがあらゆる場面で当たり前になりつつあり(国会の惨状、劣化はその最たるもの)、より深刻なのは、多くのニッポンジンがそうした状況に疑問を抱かなくなっている(させられている)こと。

 辺見さんは、ニッポンジンの悪業ともいうべき、こうした「無責任主義」が2015年にまでつながっていることを指摘する。それは「全体主義」の現れだ、と。ニッポンジンは、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下の被害者ではあるが、その前の南京大虐殺では加害者であり、その後の日中戦争では大いなる加害者である。その加害者意識を忘れ、被害者意識ばかりを強調することに渾身から憤る。それがいままた繰り返されていく危険に気づかずに(気づかないふりをしている)今のニッポンジンにも。

 ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて自由なる主体となった」か。ニッポン軍国主義はほんとうに終止符がうたれたのか。超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されたのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者はつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、今、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言を控え、知らずにはすませられないはずのものを知らずにすませ、けっきょく、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか。
 おもいかえさなければならない。過去のかなり長いいち時期、このクニは「国家総力戦」をたたかった。2015年夏は、そこからの時間の川の途中にある。日中戦争が本格化した1937年7月から45年8月の敗戦にいたる8年間は、ニッポンとニッポンジンが歴史的にはじめてけいけんした「国家総力戦」の時代であった。このことはぜったいに忘れるわけにはいかない。・・・(P393)

 アベ自公政権は今年になって共謀罪法案を国会のルールを無視して強行採決し、「モノイワセヌ」「サカラワナイ」臣民づくりに邁進している。「モリ・カケ」問題で足下がぐらついているアベは、今回の北朝鮮のミサイル発射にかこつけて、敵愾心、防衛心をかき立てて、支持を取り戻そうと躍起になっている。
 民進党のていたらくをあざ笑いながら、アメリカ軍と一体化して戦争へと着々と準備を進めている。戦争へと片足を突っ込んだ、今。

 「あなたは中国人捕虜を殺さなかったのか、強姦しなかったか、虐待しなかったか」「あなたが古参兵として新兵に暴力を振るわなかったか、理不尽な暴力を止めさせたか」・・・。日本兵による殺害、略奪、強姦(ごうかん)があった戦時に立ち返り、自らにその問いを突きつける。そこが戦争と日本人を掘り下げる本書の出発点だ。そして、亡き父への思いは募る。

 いまさらに。父にあいたいとおもった。いまさらに。いまは薄暮か未明か。まだわからない。薄闇の瓦礫のむこうにやせこけた父がたたずんでいる。悄然として、悄然としたふりではない。ふりのできないひとだ、かれは。しかたがなかった。すべてしかたがなかったのだ。戦争だったのだから。そうはおもわない。わたしはそうはおもわない。もりあがった影。ああ、土手なのだ。かれに声をかけようか。土手にふたりですわってたばこでもいっぷくやりませんか。わたしはかれほどすなおでないから、いろんなふりができる。この暗がりでふざけて、軍隊式の敬礼をするふりだってできる。そうしたら、かえってかれはおびえるかもしれない。ともかく土手にならんですわる。父のにおいがする。・・・(P401)

 あわせて、辺見さんの、少し前の著書を紹介。この書も辺見さんの思い(ある意味ではやるせない思い)が重たく、切々と伝わってくる。

永遠の不服従のために」。

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