おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

下野市役所。「丸大食品」。・・・(「日光道中」をゆく。その35。)

2016-06-23 20:46:36 | 日光道中

 西側の視界が広がってきます。田んぼ、畑、森、・・・。
     

(10:14)しばらく進んで、国道から左に折れる道が旧道。

 現国道の西側を一直線に伸びています。

    
    
1880年代のようす。沼地がある。               現在のようす。但し、下野市役所はまだない。

左に折れたら、右のあぜ道のようなところを進みます。本来はもっと手前で国道から分かれていたようです。
    
                           振り返って望む。

 すぐパチンコ店と駐車場との間の舗装道路となります。電柱と建物との間が旧道?
振り返って望んだところ。

(10:18)正面にしゃれた建物が見えてきました。下野市役所。

 新しい解説板。
    

日光街道を歩く 日光街道と笹原新田
 江戸幕府は、江戸日本橋を起点とした五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)を幹線とする全国的な交通網を整備し、一定の距離をおいて宿駅(宿場)を定めました。 
 下野市役所周辺は笹原新田といわれ、小金井宿と石橋宿の間に位置しています。庁舎建設に伴う発掘調査では、側溝をもち幅約8~10mの日光街道跡が3時期確認されました。
 笹原新田は、「日光道中略記」によると「当所ハ万治2年小金井宿の民、此の地の民と戮力して開発せし故、金井村新田と呼びしが、其のはじめ笹原なりしを以て元禄の頃より笹原新田と改む。」とあり、万治2(1657)年、小金井宿の住民とこの地の住民が力をあわせて、笹の生えた原野を切り開いたことをうかがうことができます。また、「日光道中絵図」には、庁舎敷地の南側、杉並木のある日光街道を挟んだ両側に「野池」が描かれており、「日光道中略記」によると、野池の説明が「暮春のころはかきつはた見ごとなり」と書かれ、かきつばたの名所とされていました。
 この野池周辺は、土地が低かったため土橋がかかっていたのか、土橋という地名が残っており、現在も土橋公園と公園南側の土地が低く、野池の名残を見ることができます。

振り返って望む。

旧道は、市役所庁舎のほぼ中央を南北に貫いています。

 北側に回り込んで見るとドアがちょうどその道筋を示しています。閉庁していなければ、中山道・熊谷の「八木橋デパート」のように通り抜けできるようになっているのかもしれません。
    

市役所方向を望む。一直線の道を進みます。

    
          けっこう日差しが強くなってきます。まっすぐな道をひたすら進みます。

視界が開けてきました。

(10:41)  

 右側を通る国道4号線沿いにはみごとな松並木。
    

まっすぐに進むと、行き止まり。この先は、木々が生い茂って通行不能。本来はもっと進んで行きますが。

(10:49)  

来た道を振り返って望む。真夏の炎天下では大変そう。

 右に折れて国道に出ます。また国道歩きが始まります。

森の際を旧道が通っていたか?

 この辺りに、日本橋から23里目の「下石橋一里塚」があったようですが、今となっては定かではありません。

    
 (11:00)「丸大食品」関東工場の敷地ぎりぎりを旧日光街道は進んでいたようです。

 右手には大きなお店。「とんかつ合掌」。奥には合掌造りの巨大な建物。入口の門も城門のようで、立派。
    

     (11:06)「東京から91㎞」ポスト。

 「夕顔の橋」(「国道352号線」との交差点付近)の手前に10体の石仏が祀られています。「旧日光街道」は、この付近で現在の国道に合流し、「石橋宿」へ向かいます。「丸大食品」からここまでは国道の際を進んでいたようです。
 

  
  
1880年代のようす。                    現在のようす。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする