『みんなの塾』

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時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(77)

2018年10月31日 | 『弟子規』日本語解説
恩欲報 怨欲忘 報怨短 報恩長
ēn yù bào yuàn yù wàng bào yuàn duǎn bào ēn cháng
【解説】受人恩惠,要感恩在心、常記不忘,並且時時刻刻想要報答。而抱怨、怨恨之事,則要在短時間就忘掉。
【和訳】人から受けた恩には、心に銘記(めいき)し、感謝し、いつか必ず報(むく)いる願いを常に心掛けしますが、人に対する怨(うら)みを短時間で忘れるべきです。



●簡単解説:
★他者が助けを必要なときは、できるだけのことをして助けてあげるようにしましょう。これについては、『礼記』礼運篇にも「貨悪其棄於地也、不必蔵於己;力悪其不出於身也、不必為己」(貨(か)は其(そ)の地(ち)に棄(す)てられるるを悪(にく)む。必ずしも己(おのれ)に蔵(ぞう)せず。力は其(その)の身(み)に出(い)でざるを悪(にく)む。必ずしも己の為めにせず)と説かれています。つまり、物質資源には、浪費したり、むやみに捨てたりするのはよくありません。さらに、まったく貧苦な人に施しせずに、自分だけのために、たくさん蓄えておくこともよくありません。個人に能力・労力がある場合は、その力をいかせることが大事であります。さらに、その能力・労力を自分の私利私欲のために使うのではなく、世のため人のために使うべきであります。そして、人に施した恩恵は語らず、忘れるようにし、人から受けた恩義はけっして忘れることがなく、「滴水之恩、当湧泉相報」〈一滴の水のような恩義にも、湧き出る泉のような大きさでこれを報いるべし〉のことわざ通りに、いつか必ず倍以上にお返しするような気持ちを持ち続けます。これをできる人は君子であります。これは中国五千年の教育内容の一つでありました。中国人は実に、厚い義理と温かい人情を非常に重んじる民族です。堯(ぎょう)・舜(しゅん)の時にはこのような厚い義理人情がありました。孔子も同じく人々に温厚(おんこう)篤実(とくじつ)を教え諭していました。

★怨恨などがある場合については、かつて孟子が「有人於此、其待我以横逆、則君子必自反也:『我必不仁也、必無礼也、此物奚宜至哉?』」(此(ここ)に人(ひと)あり、其(そ)の我(われ)を待(ま)つに横(おう)逆(ぎゃく)を以(もっ)てすれば、則(すなわち)ち君子(くんし)は必ず自(みずか)ら反(はん)す。我(われ)必ず不仁(ふじん)ならん、必ず無礼ならん。此(こ)の物(もの)奚(なん)ぞ宜しく至(いた)るべけんやと)〈どうかして他の人が自分に対して、道に背いた乱暴な仕向けをする場合があると、君子たる者は必ず『どうもまだ自分の方に仁を施す力が足らないのであろう、あるいは、自分の方で礼を守ることが足らないのであろう。それであるから、向こうの人がそういうように乱暴な仕向けをするのであろう』と自分を反省してみます〉とおっしゃいました。凡そ、人を怒らしてしまい、つまり、人の機嫌を損なうようなことがあったときには、必ず、自省や謝りなどをして和解するように努めましょう。その際に、口先だけで「すみません」「ごめなさい」と謝るのはよくありません。しかし、今の時代になっては、口先だけでも謝らなくなってきています。
同時に、人が無理非道をもって自分を待遇した時に、君子はそれを許すように努力しています。人の恩恵を受けたら、報恩できるのは君子であって、恩知らずな人は小人ということです。儒家はこのようにして君子と小人の区別をよく論じています。仏家はいつも因果応報の事実を講じています。つまり、人の一生のすべての遭遇やできことが全部「一飲一啄、莫非前定」(いちいんいったく、さだめにあらざるなし。つまり、一口水を飲み、一口食事を食べるだけのような小さなことでさえ、すでに元から定められていることであって、すべては因果応報であります)であると説かれています。

現代の社会では「忘恩負義(ぼうおんふぎ。恩義を忘れて義理に背くこと)」の現象は至るところに見受けられます。現代人には正しい道理を分からず、心のなかにいつも不平不満や文句ばかりに充満されていて、すべての原因は外にある、他人にあると思い込み、他者を責め咎めるようなことをしています。このような現象は社会に蔓延していて、社会動乱・人心不安の根本的な原因になっています。儒教・仏教などの伝統文化を習う方であれば、ぜひ、自ら聖賢の教えを実践・実行して、よい模範となるように努めましょう。恩に報いるべきです。まさにこの「恩欲報 怨欲忘 報怨短 報恩長」を実生活のなかで踏み行なって、人々のよい見本になることです。本当にこれをできれば、これでもうすでにこの社会に貢献していることとなります。

他人がどのような人間であっても、どのような身分であっても、私たちに一つでもよいことをしてくださったことがあるのであれば、一日だけでもよく接してくださった時があるのであれば、その人のご恩を決して忘れてはいけません。このような感謝する・報恩する気持ちを常に持つようにしましょう。「その人は私に対してよくないことをしたこともあった」と思うのであれば、そのよくないことを忘れましょう。心に留めないようにしましょう。気にしないようにしましょう。いつもその人のいいところをばかり見るようにしましょう。もし、社会全員が皆このようなことをできれば、どれだけ素敵なことでありましょうか。社会もきっと平和・和睦になり、動乱・不安などがありません。

それだから、口だけで言っても、わたしたち自分自身が実際にできていないのであれば、人から「綺麗事ばかり並べて、現実の行いがまったく違うものであって、結局人騙しではないのか」と非難されでも仕方がありません。そのため、是非、わたしたち自ら行動して、聖賢の教えを実践躬行(じっせんきゅうこう)して、社会のよい見本になりましょう。
ぜひ、他人から受けたいいことばかりを覚えて、悪いことを覚えないようにしましょう。これはとても重要なことであるのです。

中国禅宗の第六祖・慧能(えのう)大師がその説法集の『六(ろく)祖壇(そだん)経(きょう)』のなかである一言を説かれていました。その一言を実践できれば、この一生で必ず念仏して極楽浄土へ行けます。その一言は「若真修道人、不見世間過」(若(も)し真の修道の人ならば、世間の過を見ず)です。つまり、いつになって、あなたが世間の人の過失を見えてこなくなり、つまり、他人にはまったく過ちがないのだと認識できるようになったら、その時のあなたの修行は成功したこととなります。商湯(しょうとう)とも呼ばれている上古の湯王は「万方有罪、罪在朕躬」(万方(ばんぽう)に罪(つみ)有(あ)らば、罪(つみ)は朕(わ)が躬(み)に在(あ)り)と仰いました。このお言葉の意味をよく吟味しましょう。「国民に罪あらば、それは国民の罪でなくて、われひとりの罪である」ことですね。つまり、すべての過ちは自分ひとりにあるということですね。なぜならば、国民に過ちがあれば、私は国王であるから、私はよく教えてあげていなかったからです。私がよい模範になっていなかったからです。国民の罪ではありません。自分の罪であるのです。これが聖人の心です。凡夫とは全然違います。今の時代のわたしたちは、すべての不善の原因が他者にあって、自分が全部善であると考えているから、世界の乱れを引き起こし、対立・不和・衝突を作り出しています。それがゆえに、世界や社会の安危・治乱は、一人一人の人間にその責任があります。わたしたちは今の社会のなかで、毎日、朝から晩まで、発した言葉、行ったことや考えていたことがいったい、この社会や人々の間の安定平和に有益であるのか、それとも、和を壊しているのであるのかを、一度冷静に考えたことがあるのでしょうか。儒教も仏教もいつも、私たちに、自省・懺悔するように教え諭しています。毎日の夜寝る前に、心を静かに落ち着かせて、今日の一日をふりかえって、反省すべきところがあるかどうかを自分自身の点検をしてみれば、必ず、なんらかの自分の不注意や不本意なことがあったでしょう。ゆえに、まったく自分に責任がないと言えることがあるのでしょうか?因果応報ではないのだと言い切れるのでしょうか。

★「恩欲報」(受けた恩義は、感謝し心に銘記し、いつかかならずこれに報いなければならないと思うべき)ですが、他人からの恩義を常に忘れずに、恩を知り、恩を報います。恩知らずの人間は禽獣同然です。人間と畜生の区別はどこにありますか。人間は教育を受けられることができ、恩を知り、恩を報いることができることです。恩を知らず、恩を報いずであれば、実際のところは、畜生よりも劣っていることになってしまいます。畜生にさえ、「烏(からす)に反哺(はんぽ)の孝あり」(烏の子が成長後,老いた親烏に食物を口移しに与えて養い、養育の恩に報いる)や「羊に跪乳(きにゅう)の恩あり」(ひつじの子は母のちちをのむときに、かならず、ひざまずいて飲み、親の恩を知るということ)などがあるからです。



報恩といえば、一番大きなご恩は、父母からの恩恵です。父母が私たちを産み育ち、計り知れない苦労・心労がありました。けっしてそのご恩を忘れてはいけません。父母の恩さえも知らずに、父母にさえも恩返しをしないような人間がほかの人の恩を知り、報恩するというのはなおさら無理でしょう。しかし、人が私利私欲のみ貪り、親に不孝なことをし、師長に不敬なことをすれば、その人には必ず災難が降りかかります。なぜならば、「孝(こう)親(しん)尊師(そんし)」(中国語の四字熟語。親に孝行し師を尊ぶこと)はすべての根本、幸福の根源であるからです。まるで樹木のようで、「孝親尊師」は木の根の部分であって、その根が腐れば、ほかのもの、つまり、枝葉・花果もすべて救えなくなり、滅亡の道のみになります。



★「怨欲忘」(抱く怨恨は、いつまでも心に留めておかずに、できるだけ早く忘れるようにするべきである)ですが、理不尽なことに遭ったり、嫌な思いをしたり、不平不満があったりするときには、できるだけ早くそのマイナスな感情を忘れるように、考えないように、捨てるようにしましょう。

晴れ渡る空を見上げて、青い空に一点の雲もなく、果てしなく高く広々としていれば、私たちの気持ちも自然と明るく広くなりますね。逆に、空はびっしりと濃い暗雲に低く覆われていれば、私たちの心もいい気はしません。

私たちの心も青空と一緒です。不平不満、文句、うらみつらみという「暗雲」が多く抱くのであれば、毎日その苦痛・苦悩のなかで生きているようなことになります。人生は儚く、短いです。泣かず、悩まず、楽しい気持ちで生きるべきです。苦しく思いながらは一日ですが、楽しく思いながらもまた一日です。同じく一日を生きるのでならば、なぜもっと早く、その自分を苦しめる苦しい気持ちや悩む気持ちをきれいさっぱり捨てないのでしょうか。それらを捨てれば、私たちの広い心が青い大空みたいになります。さわやかに、美しく、どこまでも澄み渡り、宇宙の果てまで無限に広がっていきます。実にすがすがしい気分です。

★「怨欲忘」には、寛恕(かんじょ)な心が必要です。心が広くてすべてを思いやって包容し、許すことです。中国の孔孟の精神は「仁義忠恕」です。ゆえに、中国人は復讐しません。逆に平和教育である儒家・道家・仏家の優良伝統文化を世に広め、世界平和と人々の幸福を願っています。

「仁」は他者を愛することです。本当に他者を愛していれば、害を加えるはずがありません。仁慈・仁徳な人には、私利私欲を貪る心がありません。「仁者(じんしゃ)無敵(むてき)」というように、「敵」は敵対心、対立する気持ちです。対立・敵対するような心があれば、仁慈でなくなります。仏菩薩には、宇宙と自分が一体であることに悟ったので、自分は自分と対立しません。自分と他人が一体であることに気付ければ、和睦することの大事さが分かります。和諧は道であり、自然の法則です。浩瀚の大宇宙から個人という「小宇宙」まで、完全に同じ道理です。仏教は、よく自分たちに自分の身体を観察するように教え諭しています。身体のすべての部分・器官が和諧、平等で互い尊重して、助け合い、協力し合えば、初めて健康な体を得られます。自分の舌が自分の歯に噛まれた時のように、舌が歯に復讐しますか?歯を全部抜きますか?しませんよね。また、私の目は耳を嫌いので、耳をとりますか?鼻を許せないから、鼻を捨てられます?もし、あれこれ嫌いで全部追い払ってしまえば、最後身体に目玉一つだけになったら、生きられますか?私たちは儒教・仏教・道教の教えを学び、この一体である道理を知ったのですが、その人は聖賢の教えを知らず、まだ迷っているので、ゆえに、人を傷つけるようことをしています。その人もいつかこの道理に悟れば、必ず懺悔して、過ちを認めるでしょう。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

『弟子規』日本語解説(76)

2018年10月30日 | 『弟子規』日本語解説
將加人 先問己 己不欲 即速已
jiāng jiā rén xiān wèn jǐ jǐ bú yù jí sù yǐ
【解説】將要對別人或想讓別人做一件事情,首先要問自己願不願意做。如果自己都不願意做,就不要讓別人去做。“己所不欲,勿施於人”。
【和訳】他人に何かするときは、まず自分の身に置き換えて考え、もし自分がほしくなければ、他人にしてはなりません。「己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所は人に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ」(注:『論語』顔淵第十二 2/『論語』衛霊公第十五23)。



●簡単解説:
★「己の欲せざるところ、人に施す勿れ」
(おのれのほっせざるところ、ひとにほどこすなかれ)
自分が好まないことは、きっと他人も好まないことであるから、他人に向かって実行してはいけない。 簡単に言えば、自分が好まないことは、他人に対してもしてはならない。

「子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人。」(「論語-衛霊公第十五23」子貢問いて曰く、「一言にしてもって終身これを行なうべきものありや」、子曰く、「それ恕か、己の欲せざるところは、人に施すなかれ」)
子貢が質問しました、「一言で、生涯実行していくに値する言葉はあるでしょうか。」と、孔子は仰った、「それは恕であろうか、自分がしてほしくないことは、他人に対してもしてはいけないということです」。


人からされたくないことは、自分のほうからも人にしない。それは「相手を思いやる心」を持つべきでしょう。
思いやりまで届かなくても、他人の気持ちを自分の気持ちにすると、周りの人の良い言動を手本とする意識も高まりそうです。

「これはよいことだから」と独善的になって押し付けないように注意しないといけないですね。

「恕」は許すこと・思いやりです。他人がどれほど大きな過ちをし、罪を犯していても、気にせず、恨まず、争わず、心を広くして慈悲に許してあげることです。なぜでしょうか。彼が無知であって、だれからも教えられていないからです。本当に可哀想なことです。現在、道徳倫理の教育がなくなり、その人の父母、祖父母、曽祖父母の代さえも、正しい道理が知らないのです。彼がもしきちんと教育され正しい道理を分かっていれば、きっとそのようなやり方をしなかったでしょうね。

今、彼は、一時的に、私利私欲に溺れ、染まり、迷い、堕落してしまいました。実に哀れなことです。仏経典で説かれている因果応報のように、不善を行えば、必ずその悪報を受けます。心で天国を作り、心で地獄も作ります。悪人は三途で長い間苦しみを味わうことになります。その苦しみなかで、いつか、彼はかならず反省することができ、心を改めることができます。悪人もいつか善人になれます。

仏法には「報怨以徳」(ほうえんいとく。怨みに報ゆるに徳を以ってす。怨みのある者に対して、愛情を以て接し恩恵を与えること)と教えてくださっています。たとえば、人は私に悪い態度で接しますが、私は慈悲な優しい顔で応対します。人は私に乱暴な言葉を言いますが、私は優しい丁寧な言葉で対応します。人は私の悪口を言いますが、私はその人のよいところを褒め、欠点を一言も口にしません。人は私と対立するような態度をとりますが、私はその人と対立しません。私はよく忍耐、譲歩します。けっして恨んだり、復讐したりしません。これは聖賢の教えです。聖賢の平等・慈悲な心です。幸福と智慧が溢れる心です。

仏法に三種類の悪を説かれています。
一つ目、他人が悪意・悪口・悪行をもって私に接してきて、私も同様に悪意・悪口・悪行をもって返すことは「悪」であります。
二つ目、他人が悪意・悪口・悪行をもって私に接しておらず、私が悪意・悪口・悪行をもってその人に接することは「大悪」であります。
三つ目、他人から恩恵・善意を受けているのに、私が恩知らずで、感謝せず、逆に悪意・悪口・悪行をもってその人に接することは「大悪」の中での「大悪」であると釈尊が述べられていました。


ゆえに、恩を知り、恩に報い、「報怨以徳」をすることは、本当の善であります。

★もし、怨みに恨みをもって、やり返せば、これは仏法が説く「冤冤相報」(えんえんそうほう。中国語で、お互いに恨み辛みを報い合い続けること)になり、相手とかたき同士になって、お互いやられてやり返すという繰り返しとなり、永遠に終わらず、双方とも痛い目に遭い、共に苦しむことで、生生世世互いが苦しむだけです。そのため、怨恨を解き放すべきです。だれからですか。このことを知った私からです。自分から先に、怨恨な気持ちを捨てます。この「怨恨な気持ち」は仏家が説く「執着」であって、煩悩の一つであります。

 まして、本当に因果応報の定律を信じている人であれば、分かることですが、人の一生のすべてが「一飲一啄、莫非前定(いちいんいったく、さだめにあらざるなし。つまり、一口水を飲み、一口食事を食べるだけのような小さなことでさえ、すでに元から定められていることであって、すべては因果応報であります)であります。人生には偶然はありません。すべて過去に因があったからです。本当に、善因善報、悪因悪報です。もし私たちは過去世を知ることができれば、もう天のせい、だれのせいにもしません。すべては自業自得です。過去世で善を修めていれば、今世福報を享受し、過去世で悪を造ったのであれば、今世苦しい思いします。因果応報は事実です。微塵もずれたりしません。このことについては、細心に観察すれば、私たちの毎日の変化も善悪と密接な関係があります。たとえば、今日はとても楽しい気分でいます。あなたに必ずなんらかの善行があったからです。最近悪夢ばかりみます。あなたに必ずなんらかの不善の心や行いがあったからです。今日は体調不良です。それならば、最近、必ず、なにかの不善をしたからでしょう。

聖賢はこのような道理を知っているから、智慧の教育と因果の教育をもって人々に教えています。聖賢の教育を受け、道理を知れば、小さな衝突に出遭う時に、感情という煩悩を抑えることができ、冷静理智に保ちます。それで大きな衝突に発展せずに済みます。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
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「仁、義、礼、智、信」——五常の大切さ

2018年10月29日 | 中国の伝統文化
 古人は、心が清浄で、義理人情に厚く、人を騙すことをあまりしません。古来中国で五つの徳行が提唱されています。これを「五常(ごじょう)」と言い、人として踏み行なうべき基本の道であります。「五常」の「常」は「千古不易」という意味です。必ず五常を守るようにしましょう。それができることこそ、「人間」であると言えます。五常は「仁、義、礼、智、信」です。



まず、「仁」とは何でしょうか。「夫仁者、蓋推己以及人也,故己所不欲,無施于人」(『群書治要・巻49・傳子』夫(そ)れ仁者(じんしゃ)は、己(おのれ)を推(お)して以(もっ)て人(ひと)に及(およ)ぼすなり。故に己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所(ところ)、人(ひと)に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ)と言われるように、「仁」は「推己及人(すいこきゅうじん)」(己を推して人に及ぼす)です。つまり、己の心をもって人に及ぼすことです。他人の身になって考え、相手の立場になって思いやることです。「自分が他人にしたこと・言った言葉・取った態度を、同じように他人からされたら、自分はいったいどういう気持ちであろうか」と自分自身に置き換えて考えることです。自分が嫌ならば、人にもしてはなりません。自分のことを考えると同時に相手のことも考えなければなりません。自分がしたくないことを、決して他人にもさせてはなりません。このような心が「仁」といい、「仁者愛人(仁者は人を愛し)」です。

 次は「義」です。義者循理(義者は理に循(したが)う)です。つまり、道理・倫理をわきまえ、心の考え・口から発する言葉・身が取る行動、この三つがすべて義理人情、道理・倫理、法律にかなっていることです。「子曰、君子喩於義、小人喩於利」(子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩(さと)る)〈孔子がおっしゃいました。徳のある立派な人は常に正しい道義に通じており、徳のないつまらぬ人は私利私欲ばかり通じているのです〉のように、君子は、たとえお金や利益を得ることにしても、まず自分のその欲望が道義にかなっているかどうかを考えます。道義・恩義・情義にかなわなければ、お金や利益を得るチャンスであっても、いりません。やりません。しかし、小人の場合は、そのような顧慮はまったくなく、道義などをなりふりかまわず、自分に利益があるかないかだけですべての取捨を判断していて、私利私欲しか考えられません。

 三つ目は「礼」です。人には「礼」がなくてはなりません。「人之所貴於禽獣者、以有礼也」(人の禽獣(きんじゅう)より貴(たっと)き所の者は、礼あるを以てなり)〈『晏子(あんし)春秋(しゅんじゅう)・外編』 人が禽獣よりも尊いのは、人は礼儀を守ることができるからです〉のようで、人間と禽獣の区別は人間には礼儀礼節があるということです。少しでも失礼な言動や態度がないように常日頃から自分自身を注意しましょう。そうすれば、自らを勝手気ままにふるまうことがなく、節度をわきまえ、慎み深い人間になれます。そうすることによって、自分自身の道徳を高め、養うことができます。

 四つ目の「智」ですが、今がいう「理智」「智慧」ということであって、感情的ではないということです。感情に左右されると、問題が生じやすく、ミスもしやすいです。そのため、理智を用いて、感情を用いないことです。

 五つ目は「信」です。信用をしっかり守ることです。「仁、義、礼、智、信」の中、「信」は最後の一つの道徳です。信がなければ、前面の「仁、義、礼、智」の四つも全部崩れてしまい、有名無実になります。「信」は一階であって、理智は二階、礼は三階、義は四階、仁は五階の建物のようで、一階が倒れたら、上の階も全部倒れこんでしまうようなことです。

  今、「仁、義、礼、智、信」この五つが全部無くなってしまいました。ゆえに、様々な問題が生じてきています。社会が乱れて、収拾がつかないのです。『春秋左氏伝』〈荘公十四年〉に「人棄常、則妖興」(人、常を棄(す)つれば、則ち妖興る)〈人が常をなくすと、妖が興る〉という教えがありました。その「常」はまさにこの五常です。もう必要がないと、この五常を守らず、放棄していれば、そのような社会は妖魔が充満している社会となり、人間もう人間らしくなくなり、災難も必ず現れてきます。

中国の先人たちは何千年もわたって、「五倫」・「五常」・「四維(礼、義、廉、恥)」・「八徳(孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥、または、忠、孝、仁、愛、信、義、和、平)」を教えることによって、人々の道徳をより高く、心をより善良に・正しいほうに導いていました。それだから、古人は釈迦牟尼仏の教えを信じ、聖賢の教えを信じていました。中国の古人は、釈迦仏のことを「西洋の大聖人」、孔子を「東洋の大聖人」として仰がれていて、その教えを心から信じていて、釈尊と聖賢がけっして私たちを騙しておられずと考えていました。現代の人と全然違います。今のこの社会では、無秩序になっていて、社会と人々の心が乱れています。中国の古く、悠久の伝統文化の中、「道・徳・仁・義・礼」は社会秩序でした。そのなかに最もトップレベルは「道」です。「道」がなければ、「徳」が一番上に来ます。「徳」がなければ、今度「仁」となります。「仁」もなければ、次は「義」です。この「義」もなくなければ、最後の「礼」だけになります。「礼」さえもなくなれば、天下が大きく乱れます。

 文字で記載された史料によりますと、中国遠古の三皇五帝(さんこうごてい。三皇は伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)、五帝は少昊(しょうこう)、顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん))のなかで、「三皇行道」、「無為而治(無為にして治むる)」、すなわち、三皇の時代では、三皇は道を行い、無為をもって天下を治めていました。天下泰平です。五帝の時代になったときでは、道を失い、法典、制度を定めるようになりました。そのような規制があるということは、無為で治めるのではなく、有為になり、徳を用いまして、つまり、「以徳服人」(徳をもって人を心服させる)をもって治めていました。それで、だんだんと後の時代になって、徳が無くなり、仁を用いるようになりました。仁がなくなると、義を用い、義も無くなれば、礼を講じるようにしていました。その礼も無くなれば、天下が大いに混乱します。

上での述べた「三皇行道、無為而治、天下太平」の後に、道を失い、五帝が徳をもって治めていました。五帝時代のつぎは三(さん)王(おう)の時代です。つまり、夏商周(かしょうしゅう。夏の禹(う)王、商(しょう)の湯(とう)王(おう)、周の文(ぶん)王(おう)と武(ぶ)王(おう))の時代です。この三代は、凡そ1800年の歴史があって、徳を失い、仁、つまり「仁者愛人」(仁者は人を愛し)と「推己及人」(己(おのれ)を推(お)して以(もっ)て人(ひと)に及(およ)ぼす)を用いて、世を治めていました。周朝の末年では、不幸なことに、五百年以上の乱世が続きました。それはつまり春秋戦国時代です。孔子、老子は皆この時代の人物です。その時代は、仁がなくなり、義だけが残りました。それから、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)が中国を統一した後に、義もなくなり、秦(しん)始(し)皇(こう)は覇道(はどう)(武力や強権をもって支配・統治すること)を使っていたので、僅か15年間で、亡国しました。漢朝は儒家の学説を取り入れ、それからずっと清の末年まで、礼をもって国を治めていました。「礼尚往来」でした。このように、道・徳・仁・義・礼が下降の一途をたどり、現在に至っては、礼もなくなりました。今は無秩序です。ゆえに、人々が苦しみます。

中国の古聖先(こせいせん)賢(けん)についてですが、この方たちが残してくださった著書を大乗経典と並べ合わせてみれば、発見できることがあります。それは、中国の古聖先賢は皆悟っていて、高い境地におられるということです。そのような聖賢先哲の教えを受けいれ、真面目に学び、実践していければ、いったい何を得ることができるのでしょうか。まずは、心身の健康・家庭の和楽(わらく)・仕事の順調・社会の安定・国家の富強・世界の平和を得られます。本当に実現できます。現代社会の動乱や頻繁に起こる災難の根本的な原因は、何でしょうか。倫理道徳がなくなったからです。人と人の関係が乱れ、極度に混乱した状況に陥りました。悪事を働き、法に触れることをする人は至るところで見かけられ、社会が乱れました。すべての原因は教育に問題が生じたからです。今の教育は科学・技術の教育のみです。科学・技術は物質文明に属しています。精神文明の教育は少ないです。物質文明がいくら良くても、災難から免れません。この点をぜひ知っていただきたいです。


以上は浄空法師様の説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。

『弟子規』日本語解説(75)

2018年10月29日 | 『弟子規』日本語解説
凡取與 貴分曉 與宜多 取宜少
fán qǔ yǔ guì fēn xiǎo yǔ yí duō qǔ yí shǎo
【解説】日常生活當中的人情往來要注重道義,拿人家東西和給人家東西,特別要分明清楚。給人家的東西和幫助要多一點,受人家的要少一點。
【和訳】日常生活の中で、凡そ人と物のやり取りをするとき、道義(どうぎ)を重んじ、「もらう」と「与える」をはっきりとするのが大事です。贈答(ぞうとう)やもてなし、手伝いや助けなどを人により多く与え、人からもらうのはより少なくするべきです。



●簡単解説:
 ★中国の古典『礼記』の中はこういう言葉がありました。「礼尚往来。往而不来、非礼也。来而不往、亦非礼也。人有礼則安、無礼則曰危。故曰礼者不可不学也。夫礼者。自卑而尊人。」(礼(れい)は往来(おうらい)を尚(たっと)ぶ、往(ゆ)きて来(きた)らざるは、礼(れい)に非(あら)ざるなり。来(きた)り往(ゆ)かざるも、亦た礼に非ざるなり。人(ひと)礼あれば則ち安(やす)く、礼なければ則ち危(あやう)し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなり。夫(そ)れ礼は自ら卑(ひく)くして人を尊ぶ(たっと))です。

まず、「礼尚往来」は礼の綱領であって、他者への思いやりや親切な心のあらわれです。人間関係におけるもっとも基本的なもので、行うべきことです。

たとえば、他人から恩恵やプレゼントなどを受けた場合、どれほどささやかなものであっても、真心や気持ちが込められているところが貴重であるので、丁寧に受け入れて感謝しましょう。将来機会があれば、ぜひ受けたのと同じようにまたそれ以上に、恩返しやお返ししましょう。一方的に受けてばかりでいたら、やはりよくないことです。他人からなにかをもらう、またしてもらうということは、受けたご恩であります。忘れるべきではありません。恩返しをすることを知るべきです。

古人が「施恵無念、受恩莫忘」(恵(けい)を施(ほどこ)しては念(おも)ふこと無く、恩を受けては忘(わす)ること莫(なか)れ)〈人に恩恵を施したことは、心にとめて恩に着せたることなく、人から恩を受けたことは、いつまでも忘れること無いように〉と教えてくださいました。中国には「滴水之恩、当湧泉相報」〈一滴の水のような恩義にも、湧き出る泉のような大きさでこれを報いるべし〉ということわざもあります。これは受けた恩を倍以上にお返しするという義理人情に厚い心のあらわれです。恩を知り、受けたご恩を心に銘記し、恩返しすることを念頭におくような人は福のある人であるのです。

ほかも、相手がわざわざと訪ねてきた場合は、後日、自分のほうからも返礼として同じように相手を訪問したり、何らかの形で感謝の気持ちをお伝えてしたりしたほうがよいでしょう。なかに特別なケースもあります。たとえば、自分が訪問しにいきましたが、その相手がとても親密な友人や近い親戚などのかなり親しい間柄であったり、自分より目上の人であったり、また自分が住んでいるところにかなり距離の離れている方であったりするなどの場合は、お返しとしての訪問をしなくても大丈夫でしょう。

 プレゼントを送るときは、かならず謙虚な態度で行うようにしなければなりません。目上の方にはもちろん献上、差し上げる気持ちで臨むのですが、目上ではない方にも、ぜひ謙虚な気持ちで、「ほんのつまらないものですが、ぜひどうぞお受け取りください」、「ほんの気持ちですが、どうかお納めください」「こんな物しか用意できませんでしたが…」などと、ひと言を添えましょう。

そして、古からの教えには、贈り物する際の注意点がいくつかあります。それは下記です。
一、贈り物はかならず包装したり、包んだりするようにしましょう。冠婚葬祭において金銭を贈る時には、金封に納めましょう。
二、贈り物する際に、相手に取りに来させたり、相手に「なにがほしい?」と聞いたりするのも失礼に当たります。
三、贈り物をするときには、その場に他の知人がいる場合は、その知人の目の前で贈り物を渡すのをできるだけ避けるようにしましょう。しかし、その知人の方にも同じような贈答品を用意しているのであれば、その場で一緒に渡しても大丈夫です。
四、目上から贈り物などをいただく場合は、むやみに断ってはなりません。大変失礼にあたります。素直にいただきましょう。

 
そして、「人有礼則安、無礼則曰危。故曰礼者不可不学也」ですが、礼節は天地の秩序であります。皆が礼節を守れば、社会安定、天下太平です。皆が礼を守らず、お互いに礼敬・礼譲しなければ、社会の秩序が乱れ、衝突・争乱の世となり、危うい状況になります。ゆえに、礼は皆が学ぶべきものです。

「夫礼者。自卑而尊人」これは中国古代の礼節の根本です。つまり、自分がへりくだって、相手に尊敬することです。まず自分が謙譲することからスタートします。これは中国古代の礼節の根本です。これによって、凡夫ならば誰もが持ち合わせている「傲慢さ」という煩悩を軽減・抑えることができ、自分自身の道徳を高めることができます。同時に、人に対して尊敬するような態度で接せれば、自分も他人から尊敬されたり、人からの助けを得られやすくなったり、障害がより少なくなったりします。

中国の古聖先(こせいせん)賢(けん)についてですが、この方たちが残してくださった著書を大乗経典と並べ合わせてみれば、発見できることがあります。それは、中国の古聖先賢は皆悟っていて、高い境地におられるということです。そのような聖賢先哲の教えを受けいれ、真面目に学び、実践していければ、いったい何を得ることができるのでしょうか。まずは、心身の健康・家庭の和楽(わらく)・仕事の順調・社会の安定・国家の富強・世界の平和を得られます。本当に実現できます。現代社会の動乱や頻繁に起こる災難の根本的な原因は、何でしょうか。倫理道徳がなくなったからです。人と人の関係が乱れ、極度に混乱した状況に陥りました。悪事を働き、法に触れることをする人は至るところで見かけられ、社会が乱れました。すべての原因は教育に問題が生じたからです。今の教育は科学・技術の教育のみです。科学・技術は物質文明に属しています。精神文明の教育は少ないです。物質文明がいくら良くても、災難から免れません。この点をぜひ知っていただきたいです。


参考リンク:「仁、義、礼、智、信」—— 五常の大切さ


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

トインビー博士の「文化統一・世界平和」論

2018年10月29日 | 中国の伝統文化

イギリスのアーノルド・ジョゼフ・トインビー博士は1975年に85歳でお亡くなりになられました。トインビー博士は三度も日本に渡り、会談され、多くの資料を残してくださいました。その資料から博士の晩年の言行を観察すればわかることですが、博士の一生で最も関心なさった一つのことは、いかに第三次世界大戦の勃発を防止することでした。トインビー博士ご自身は、第一次世界大戦、第二次世界大戦の時代を経験してこられました。第二次世界大戦の終わりが原子爆弾の発明によるものであったため、博士はとくにこのことを憂えて、地球上に第三次世界大戦を勃発させることは、人類が自滅の道を選んだ同然の極めて愚かな道であると考えっておられました。核兵器を使う戦争は勝負がなく、共に滅びる結果であるからです。それならば、いったいどのようにしたら、問題と衝突が解決でき、最悪の結果を避けられるのでしょうか。トインビー博士は中国のある三つの時代からヒントを得ました。その方法を学び用いることを提唱されました。トインビー博士は本当に中国歴史にかなり深い研究をされていて、中国国内の歴史学者さえも博士に及ばないほどでした。その三つの時代は夏・商・周です。夏の400年、商の600年、周の800年、合わせて1800年の歴史から何を学ぶのでしょうか。その統一する方法を学びます。その時代は軍事・政治によって統一されていたものではなく、文化によって統一されていました。



夏商周の時代では、中国は実際に一つの国に統一されていませんでした。小さな国がたくさんありました。それを諸侯(しょこう)と呼んでいました。今の言葉でいえば、一つの村、一つの区みたいなところも一つの国になっていました。これらの国は皆主権国家であって、それぞれ自分たちで自分の国を統治していました。歴史の記載によりますと、周朝のときには、800の諸侯もありましたが、周朝自身の国はけっして大きくありませんでした。百里四方(周囲100里位の範囲。その時代の里数だからもっと小さいはずです。周代に用いられた尺は短かったから)に過ぎなかったです。商の湯王の領土はさらに小さくて、七十里四方しかありませんでした。それでも、他の諸侯から敬服され、尊重されて、学ばれ、王として仰がれていました。このようにして、夏・商・周は実際に一つの国として統一されているものではなく、文化によって統一されている王朝であったのです。つまり、倫理道徳によってまとめていました。周朝の最後の時代になると、その子孫達は周文王、武王、周公のときのような高い徳行がなくなったので、ついばらばらとなり、戦国時代となりました。後に、本当に政治によって統一したのは、秦(しん)始(し)皇(こう)の時代からでした。トインビー博士はこの時期の歴史にかなり詳しかったようです。夏商周は政治による統一ではなく、軍事による統一でもなく、さらに、現代がいう経済貿易や科学技術による統一でもありませんでした。全部違います。文化で統一していました。文化でまとまっていたから、夏商周の盛世が出現しました。トインビー博士はこのことからヒントを得たので、地球にも文化の統一が必要なのだと提唱されました。

「文化の統一」となりますと、いったい誰が統一しますか?トインビー博士は一生世界文明史を研究しておられました。博士は世界の文化を20幾つの種類に分類して、そのなかで、もっとも優秀なのは東亜文化であると述べられました。さらに、東亜文化のメインは中国文化であって、日本、韓国、ベトナムの三つは中国文明の衛星文明国家であるとおっしゃいました。中国、日本、韓国、ベトナムのこの四つの国が団結し、一丸となって、必ず、世界を率いるリーダーシップを発揮できるとトインビー博士は考えておられました。

日本、韓国、ベトナムと中国の交流は戦国の時代にまで遡ることができます。孟子がおられた時代です。中国の歴史に記載されていました。その時からすでに行き来していました。この三つの国自身には、儒教・仏教・道家のような文化がありませんでした。すべて中国から文明を取り入れました。それと同時に、二次世界大戦の前までには、この三つの国は中国文字を用いていました。その時の韓国はすべて中国の漢字を使っていました。ベトナムも同じです。日本は自分の仮名を作りだしていましたが、日本語のなかに、たくさんの漢字が使われていました。そのため、わたしたち中国人は日本語を分からなくても、その漢字からある程度意味をくみ取れます。漢字の比率は日本語の半分以上でしたが、今、その比率はますます減少しています。

漢字についてですが、世界共通の文言(ぶんげん)になるように願っております。言語ではなく、言語はそのままで各自の物をつかいますが。文語文、つまり、書き言葉、文章を書くときに使う文字を是非古文の漢文にしたいと願っております。なぜならば、漢文は時間・地方が変わっても、永遠に変わらないからです。その古文を読めるようになれば、今の時代にいながら、何千年前の古人の文章を読めば、目の前で対話しているような感じができます。漢字の現代文はそれができません。時間・時代と共に変化していくからです。全世界の文章と言葉は同じものであって、中国古代だけ違っていました。中国の言語は文章と言葉が分けていて、言葉は時代・地方の変化につれて変化していきますが。文言は永遠に変わりません。その文言という方法を使って、この聖賢の智慧・方法・経験が代々伝わってくることができました。本当に素晴らしい方法です。このような文言・文語文の形式は、中国だけ完全に整っています。
たとえば、中国の『四庫全書』は世界・人類の文化宝蔵でありますが、一旦翻訳すると、どうしても、元の味わい・風味がそのまま味わえなくなる恐れがあります。しかし、もし、中国の古文を学び、自ら読めるようになれば、オリジナルそのままの文章の世界に入れて、古の聖賢が目の前に現れ自ら話してくださるような感じで、リアルに文章の味わい・真義を感じ取れるような読書ができるのでしょう。それで知り得た古人の智慧、学問、方法、経験を実践して用いれば、個人・社会・国・世界に大きな利益をもたらすことになるのは間違いありません。

現在世界中で漢文を提唱する人がますます多くなっています。ヨーロッパでは、イギリスが先頭に立って、幼稚園から、小学校、中学校、大学まで、すべて漢学の教科を設けていました。中国語を学び、漢文を学んでいます。イギリスのウェールズ・トリニティ・セント・デイビット大学(University of Wales Trinity Saint David)では、英国漢学院「Academy of Sinology」(http://www.uwtsd.ac.uk/sinology/)が開設されました。

漢字と漢文と『四庫全書』は本当に中国の国宝であり、同時に世界人類が共に分かち合える智慧宝蔵でもあるのです。中国はこの世界で何千年も繁栄できる原因も、まさにこれにあります。漢字と漢文は本当にとても重要であるので、ぜひ、多くの漢学院が設立できることを心から願っております。この分野での多くの人材が出現して頂きたいのです。漢学を教えられる教師もとても必要なのです。これは実に重要なことです。
中国のもっとも優れた所は、智慧と倫理道徳の教えであるところです。それらの聖賢の智慧・学術・方法・理念はどこにあるのでしょうか。『四庫全書』の中にあります。『大蔵経』中にあります。すべて漢文で書かれています。本当の宝物です。これらを学べば、人の一生に計り知れないほど役に立ちます。さらに、千年万年も伝わり、永遠に変わらない宝典であります。仏経典の場合は、仏教は他国の文化であって、中国のものではありませんでした。しかし、中国に異族文化が伝えられてきて、中国人の心が広くて、その文化を消滅させたのではなく、逆に大いに発揚させました。さらに、多くの人力を注ぎ、仏経典を文言文(ぶんげんぶん。漢文)に漢訳して、そのまま永遠に変わらぬ文章として、後世の人々に伝えてきていました。これは中国の広い心です。中国人の愛心です。

他の言語、たとえ梵語にしても、ラテン語にしても、表音文字であって、二、三百年でも経れば、発音が変わり、文字まで分からなくなってしまいました。中国の漢文は、十万年後も変わりません。そのような価値があるものです。そのため、世界のどの国家民族の経典でも、もし、千年万年も残したければ、後世の人々にずっと読めるようにさせたければ、ぜひ、漢訳して、漢文の形で保存しましょう。これは実に理にかなうことです。ゆえに、中国が世界を率いるリーダーシップを発揮するということは、中国文化を用いることです。すべての国の文化を漢文で書きかえ、漢文という形で永遠に保存させることができます。これは他の国ができないことであるかもしれません。他の国であれば、「私は優秀であるから、あなたたちが私に及ばないので、あなたたちを消滅させちゃう」とのようなこともありえるかもしれません。中国には絶対そのようなことがありません。中国人はそういうことをしません。これは歴史で証明できます。中国五千年の歴史のなかで、ほかの国をいじめたり、傷つけたりしたことがありませんでした。他国と往来する際に、いつも少なく受け取り、多くお返ししています。中国人には「礼尚往来」という文化を重んじていたからです。本当に「礼儀の邦」でありました。いつも受けた恩以上に恩返しするようにしています。そのような仲は温情なものであります。仏法が説かれている「福徳」の部分も、「礼尚往来」のように、施すことや恩返しすることを重視しています。施せば果報があることは福徳です。それよりもっと上のレベルの「功徳」というのは、他者に施すことばかりして、決して恩返しを求めずということです。

中国の国力は、唐の時では、世界でもっとも盛んでいる国でありました。元朝はモンゴル人のものでした。モンゴルが侵攻してきたので、中国はそれで一度滅びましたが、明朝の時に再びよみがえりました。明といえば、その時代の鄭和(てい わ)は南海へ7度の大航海もされていました。マレーシアのマラッカは鄭和の指揮する艦隊の必ず経由する道でした。その地方には、今でも多くの「鄭和廟」があります。鄭 和の率いる大艦隊は今がいう海軍ですが、当時では世界第一の規模でした。その膨大な艦隊と二万以上の人員が行く先々で、侵略しておらず、土地を奪い取らず、平和で訪問し、その地方の国王や大臣を中国へお招きして、中国でご招待してから、また本国まで送りかえして、それで多くの国と非常に友好な関係を築きました。これはなぜでしょうか。中国の教育がそうさせたのであります。中国の古代の教育では、徳行が第一に重要視されていました。つまり、倫理、道徳、因果の教育です。それの後は、ようやく、学術、技能などの教育に入ります。倫理道徳の教育はいわゆる王道であり、覇道ではありません。早年、孫文先生が提唱されていた「中国は外国の先端な機械、科学技術を学び、外国は中国のから智慧、倫理、道徳、因果の教育を学び」のように、相互補完するべきではありませんでしょうか。



以上は浄空法師様の説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。