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時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

《弟子規》日本語解説版を無料贈呈いたします。

2018年12月28日 | 弟子規

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ただいま、《弟子規》日本語解説版を無料贈呈いたします。


《弟子規》についての説明

 『弟子規(ていしき)』とは倫理道徳と基本的な礼節を教えることを主としており、中国の清代(しんだい)後期に広く使われた道徳啓蒙用(けいもうよう)の読み物です。宋代(そうだい)の朱熹(しゅき)(西暦1130年-1200年)が著した『童蒙須知(どうもうすち)』を、清代(しんだい)康煕(こうき)年間の李毓秀(りゆうしゅう)(約300年前)が『訓蒙文(くんもうぶん)』として改編し、後に清代の賈存仁(かそんじん)が修訂を加えて名前を『弟子規』としました。

 約900年前の朱熹(しゅき)は、当時の子どもたちは道徳が荒廃(こうはい)し、利益ばかりを重視して、礼節を忘れているのを憂い、今から4000年前の夏商周(かしょうしゅう)から伝わってきた優れた教育の伝統を復活させなければならないと考えて、一連の国語教材を編みました。その一つが『弟子規』の前身である『童蒙須知』です。その後、清代の李毓秀、賈存仁の改編修訂により、今の『弟子規』となりました。儒教の「孝・敬」(親孝行・尊敬)という根本的な精神を日常生活に実践するための、大人から子供までわかりやすい実用的なエッセンスです。子孫代々のために、何千年にわたり、たくさんの先人たちの智慧を凝縮(ぎょうしゅく)した宝蔵です。

 『弟子規』の「弟子」とは「生徒」、「学生」という意味で、「規」は規矩(きく)・規範(きはん)の意味です。学生は家に居るとき、外出時など、人との接し方、物の扱い方、学習上の原則や規範などを細かく示しています。

 全文には1080字で、360短句があります。すべて3字1句の韻文(いんぶん)となっています。文章の冒頭部分の「総叙(そうじょ)」は『論語・学而(がくじ)』の第6節によるもので、これは「綱要・主旨」です。次の本文部分は、「入則孝」「出則悌」「謹」「信」「汎愛衆」「親仁」「余力学文」の七つの大段落に分かれていて、全部113箇条の事を述べられています。文章の最後の「勿自暴 勿自棄 聖与賢 可馴致」との一言は、教えを実践するように勧め、励ます句であって、全文の結語でもあります。『論語』が凝縮したものであります。

 親が身を正せば、子が正します。人が心を正せば、社会は自ずと安定し、世界も和睦(わぼく)になります。「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」(《「礼記」大学から》自分の行いを正しくするには、物の道理をきわめ、自分の知識を蓄え、誠意を尽くし、心を正しく持つことです。天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきです。)の基本となります。

 人間教育の基礎として、『弟子規』の内容をきちんと理解して全部実行・実践できたら、幸せな人生を送ることができ、必ず現代社会の良い見本になり、社会的環境を導くことができます。聖賢の遺した伝統文化は民族と国家を問わず、時空を超えて、いつまでも新しさを失わない教育で、まさに全人類の宝物です。

 今この時、私たちの力はささやかなものだが、日本のご縁ある方たちも本書を勉強し、広めてくだされれば、幸いです。

 この場を借りて、本書の翻訳に携わって下さった皆様、及び本書の出版を手助けして下さった皆様、ご縁のある方々に感謝申し上げます。



お申し込みは下記のページです↓↓↓

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『弟子規』日本語解説(92)

2018年12月04日 | 『弟子規』日本語解説
房室清 牆壁淨 几案潔 筆硯正
fáng shì qīng qiáng bì jìng jī àn jié bǐ yàn zhèng
【解説】房間裡面要經常清掃,牆壁要保持乾淨。桌子要保持整潔,筆墨紙硯等文具要擺放端正。
【和訳】部屋の中は常にきれいに掃除し、壁は清潔を保ちます。テーブルや勉強机の上はいつも整理(せいり)整頓(せいとん)して、筆(ふで)や硯(すずり)などの文房具(ぶんぼうぐ)を真っすぐに並べなければなりません。



●簡単解説:
★部屋が汚く、ぐちゃぐちゃに散らかしていると、住み人の心まで影響され、心まで雑乱になってしまいます。心が乱雑であれば、勉強や読書するにしても、よい効果を得られません。

★現代はよく環境保護・保全を提唱しています。環境には住む環境と心の環境にあります。「房室清 牆壁浄 几案潔 筆硯正」は住む環境の保護・保全にあたります。そして、元々清らかな私たちの心である「清浄心」の保護・保全も一緒にするべきでしょう。

★「優秀な人はどこまでに行っても優秀になるわけです」 つまり、優秀な人はどんな小さな事でも、最善を尽くしてするということです。
 「一屋不扫,何以扫天下」(家の掃除ができない者は、どうして天下の掃除ができるのか?)ということわざがあります。成功を取るには、身近な小さな事でも真面目にしなければなりません。そうしないと、重役が頼まるはずがありません。重役を頼まれてもいい習慣が身に着けていないので、やり抜けなくなり、ほとんど円満な結果がえられません。


美文鑑賞:

掃除と仕事は同じ~
松下幸之助はなぜ掃除を勧めたのか

(渡邊祐介(PHP研究所経営理念研究本部次長)『PHP Business Review松下幸之助塾』2012年3・4月号より)

掃除を慣習として徹底させたり、あるいは生活の合理性の上で当然のことと推奨したりする経営者は、近代に限らず近世においても多々見受けられたことだろう。しかし、掃除というものを仕事観や人生観のみならず、自然・宇宙観と関連づけて考え、人間としての成長に役立つものと確信をもっていた経営者は、そうはいないのではないだろうか。松下幸之助はその数少ない一人である。松下は掃除にどのような思いを抱いていたのであろうか。

掃除の重要性を訴えた松下


松下幸之助が人材教育において、掃除を励行させていたのはよく知られている。
1980年に、「21世紀に理想の日本を実現するための基本理念の探求と、それを具現する指導者の育成」を目的として、私財70億円を投じて設立した松下政経塾においても、松下は入塾者に徹底した掃除を命じた。
 また一般的にはあまり知られていない教育機関として、滋賀県草津市に松下幸之助商学院がある。1970年に系列のショップ店の後継者教育のために設立された全寮制の学校で、ここでも教育課程の中に生活指導の基本中の基本として日に3度の掃除が組み込まれている。
 2つの教育機関に共通していえることは、専門的な知識や技術の習得の前に、一人の自立した人間になるために、また社会人としての人間的修養を積むために、全人教育を施(ほどこ)すという姿勢である。
 その全人教育の中で、掃除は松下の強い意向で重要視され、今日も実践されている。
 松下はなぜ掃除を教育の場で重要としたのであろう。それを考えるために、まず松下自身がどのような過程を経て、掃除にふれ、掃除の効用を感じ取っていったのかをみておこう。
 まず掃除をすることになったのは、九歳のときに和歌山市内で通っていた小学校を4年で中退し、大阪船場に出てきて奉公生活を始めたときからといってよいだろう。
 最初に入った宮田火鉢店では、商品の手入れとともに朝の拭き掃除、3カ月後に移った五代自転車店でも朝晩の拭き掃除や掃(は)き掃除、陳列商品の手入れは必須であった。
 伝統的な商家の習慣に準じたことであったろうが、松下はこうした商家の慣(なら)わしの中に日本のよき伝統があり、勤勉さ、忠誠心が醸成される要因があると感じていたようだ。評論家の山本七(しち)平(へい)氏との対談で次のように語っている。
 「私の若いころには、掃除1つをとっても自分の家の前だけでなく、向う三軒両隣の家の前も掃除したもので、お互いにお隣さんに負けずにやろうというところがありましたが、こうした気構えが最近あまり見かけられなくなったのは、少々残念なことです」(『松下政経塾報』1982年7月1日)
 この発言からも、当時の掃除の原点となっていたのは奉仕の心と商人の美学であったことがわかる。松下からすれば、そうした時代のエトスが失われつつあることが残念に思われたのであろう。
 経営者の立場になってから、掃除についての考え方がうかがえるのは、創業して5年、1923年の年末、29歳の青年実業家の時代である。
 仕事じまいをしている工場内を松下は見回っていた。どこもみなきれいに掃除してある。ところが、従業員の便所の掃除がなされていない。主任も古参社員も傍観しているだけで、互いに反目しあっている風さえある。しかし、どんな状況にあれ、便所は各員が使用する場所であり、互いに声をかけあってきれいにしておくべき場所である。二人に注意しようと思ったが、ゴチャゴチャと口答えや言い訳をするかもしれない。そう考えた松下はみずから箒を持ち、バケツに水をくんで汚物を流し始めた。周りの従業員はびっくりし、手伝っていいものかどうかの判断すらしかねてぽかんとしていたという。
 現場にいた後藤清一(のちの三洋電機副社長)によれば、次のようであった。
 この新工場へ移った年の暮のことである。全員が、恒例行事である年末大掃除を行なった。ひとわたり工場の掃除がすんだ。みんな、着物を着替えて帰り仕度にとりかかっていた。大将(注・松下幸之助のこと)が見回りに来られた。
「ご苦労さん、きれいになったな」と、褒めながら、便所の戸を開けられたのだ。実は便所だけは、誰も掃除をしていなかったのである。大将の顔色がみる間に変わった。
「もうお前らには掃除はまかせん」。大将自らコテを持って来て、便器にへばりついた汚物を取りはじめたのである。現在の水洗便所とは違って、当時の工場の便所は汚なかった。
(えらい悪いことをしてしもた)「大将、わしがやります!」。雑巾を手に、私は夢中で飛び出した。私に続く者が2~3人いただろうか。いっせいに便所掃除をした。汚ないとか、臭いなどという気持はまったくなかった。自分が一番尊敬している、一番大事な大将に便所掃除をさせる――。そのことだけで、私は恥ずかしくてならなかった。やっと掃除が終わった。
「ああ、ご苦労さん。汚ないのによう辛抱してやってくれたなあ」。大将のニコニコした顔があった。駄賃にたいこ焼き3つずつをもらった。
(後藤清一『叱り叱られの記』日本実業出版社、1972年)
 一方の松下はこのとき、笑顔とは裏腹に、指導精神を強化する必要性を強く感じたという。著書『私の行き方 考え方』(PHP文庫、1986年)に松下は、このときのことを、「はからずもこの便所の掃除をしたことが、私にとって得るところが実に多かったのである」と記している。
 後年、他社の工場を訪問見学したときなど、現場を見ただけで経営がうまくいっているかどうかを言い当てることができたというエピソードがある。なぜそれがわかるのか。松下は掃除の状態を見きわめることで、仕事の円滑な流れや現場の人たちの心がまえを洞察できたからかもしれない。


掃除はなぜ有効なのか


 掃除が行き届いて美しい状態であれば、だれもが清々しい気分になる。そして整理・整頓がすみずみまでなされていれば、仕事はムダなくより合理的に遂行されるはずである。ただ松下幸之助が掃除に対して認めていた効果はそれだけではなかった。掃除とはだれでもない、自分が実践するものだ。その“みずから実践する”ところに大きな意義を感じていたのである。
 松下は掃除が人の修養に役立つという信念を持っていた。ある講演で、掃除による辛抱が人を成長させることを訴えている。
 “ああ、冷たいなあ”と、寒中、氷の張るようなときに、雑巾で拭き掃除をするということは非常につらいことであります。しかし、こういうつらいことがやがて成功のもとになるんだと先輩が言うておる。こう考えると、辛抱ができるんです。辛抱できるからそのことが身につくんです。ただ、いやでいやでしようがないというだけであれば、その苦労は身につかないと思います。しかしそう言われているから辛抱する、辛抱するからその技術なり仕事が身につくんであります。そうすると苦痛が少なくなってまいります。苦労も少ないようになります。苦労が希望に変わってまいります。
 そうしてみると、1つの拭き掃除にいたしましても、拭き掃除はどうしてやるべきものであるかということが分かってくる。ただ雑巾をしぼってそして拭いたらそれでいいというんではありません。雑巾のしぼり方というもの、雑巾の水のしぼり方ということがまず第一に問題になります。ぼとぼとにしぼって拭いたほうがいいのか、からからにして拭いたほうがいいのかということが、自然に研究されると思います。やはりそこにはそこに適正な湿度というもの、しぼり方というもの、そういうものがあろうと思うんです。それによって拭くと、同じ拭き掃除でありましても、それが能率的であり、拭くものを傷めない。そして適当にほこりを取るということになるわけであります。そのコツが自然に会得される。
(1963年2月17日・大阪府技能競技大会における講演)
 ここで大切なことは、辛抱のはてに身についた技術が仕事の質の向上に繋がり、何事によらずコツをつかむヒントになっていくということである。
 今日、日常のなかで、掃除を何の目的でするのかと問う人はいない。掃除は人間が生活していく上で必要不可欠な行為である。だからこそ、いかに的確に遂行していくかが普遍的な修業となるはずだ、松下はみずからの経験を通してその意を強くし、さらに従業員にもそうした修業を課すようになった。
 大阪市北区(現在は福島区)大開〔おおひらき〕町で創業して以降、事業が順調に進み、工員たちを工場に住まわせるようになった頃のエピソードを、当時を知る社員は次のように語る。 
 毎晩、就寝前に所主(注・松下幸之助のこと)ご夫妻の寝室の前の廊下へ正座して「お先に休ませていただきます」とあいさつします。声がかれていれば「仁吉とん、かぜ引いてんのと違うか、暖うして寝えや」と注意されます。無精して立ってあいさつすると、必ず翌朝、女中さんから「昨夜、あの子無精して立ってあいさつしたと、奥さんが言うてはりましたで」と言われ、朝食もそこそこに逃げ出したものでした。
 掃除は順番にやることになっていましたが、始めて便所掃除の当番があたったときです。先輩の指示どおり四時に起床。便器の中までタワシでこすり、水洗いをして、これですんだと朝風呂に飛んで行きました。
 8時の朝礼がすんで帳簿を広げていると、所主が便所のところで呼んでおられるとのこと。行ってみると、「今朝、便所掃除はしたのか」とのお尋ねです。見ると、便所の立つところが泥で汚れています。というのは、前面の道路は舗装されてないので、水洗いしただけですと、靴や八つ割草履で持ち運んだ土が残って、泥だらけになったわけです。
 「便所の掃除も製品をつくることも同じだ。次の次のことを頭にいれて、仕事をしなければいけない」と、きびしく叱られました。
(森川仁八郎「私の思い出・きびしいが身についたしつけ」/遊津孟・監修『松下幸之助の人づかいの真髄』日本実業出版社、1977年)
 ここで松下は、具体的な説明として、掃除をうまくやるには、段取りが必要だということを指摘している。段取りが悪ければ仕事は完全にならない。この点において〝掃除と仕事は同質のものだ〟という見解を示しているのである。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
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『弟子規』日本語解説(91)

2018年12月03日 | 『弟子規』日本語解説
心有疑 隨札記 就人問 求確義
xīn yǒu yí suí zhá jì jiù rén wèn qiú què yì
【解説】讀書學習的時候,如果心中有疑問,就要隨時做筆記,謙虛向人請教,求正確的義理解答。
【和訳】勉強中に疑問が出てきたら、その都度メモを取り、謙虚(けんきょ)に知識が多い人に聞き、正確な意味を教えてもらうようにしなければなりません。



●簡単解説:
★「学問」の「学」と「問」だから、必ず質問するようしましょう。もし、質問して教えてもらわなければ、重要な所や本当の意味を聞き落としたのもあるのかもしれません。また、間違って理解したり、誤解したりするところもあるかもしれません。それだったら、ほんとうにとても悔しいことになります。

かりに間違って理解していなくても、念押しの確認をしたりするためにも、質問したほうがよいでしょう。以前、仏陀が説法しているときでも、弟子たちが講経の法会のたびに、たくさんの質問をしていました。理解した内容がすべて正しくてあっても、質問して自分の理解を確かめ釈尊に認証していただくのです。正しければ、釈尊はいつも「如是、如是」とおっしゃいます。正しくなければ、正しく修正してくださいます。

学問で成就できないのは、質問をしないからです。さらに、もし自分が間違って理解したままであれば、外でも、他人にも間違った内容を伝えてしまいます。もちろん、その本人は自分が間違っていると自覚していません。自分の間違いを自覚していれば、もう、そのように間違わないでしょう。

でも、自分が間違っていながら、人に聞かずに、教えてもらわないのです。それだったら、本当に仕方がありません。

★なおさら、「求確義」、正確の意味を求めなければなりません。自分勝手に、自分の意のままに経典の意味を解釈・理解していけません。自分が間違っていたのに、本を書く、講義を開くなどをして、他人にも間違った内容を教えます。それは、まさに、人の子弟に道を誤らせるようなことにしていることです。その結果もとても恐ろしいものです。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
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『弟子規』日本語解説(90)

2018年12月01日 | 『弟子規』日本語解説
寬為限 緊用功 工夫到 滯塞通
kuān wéi xiàn jǐn yòng gōng gōng fū dào zhì sè tōng
【解説】不妨把學習的期限安排得寬裕一些,但在學習時要抓緊時間。只要功夫到了,不懂的地方自然就通達了。
【和訳】余裕のある計画と目標を立てると同時に、時間を惜(お)しんで努力しなければなりません。根性強く、あきずに繰り返し学習を続ければ、分からなかった難所(なんしょ)の部分も自然に分かるようになります。



●簡単解説:
(下記は定弘法師のご講義内容によります。)

★学習計画と期限については、余裕があるものを設定するようにしましょう。そうすれば、心に余裕ができ、余計なプレッシャーを感じることもありません。しかしながら、余裕がある計画と同時に、毎日時間をかけて、精進して勉強に取り組まなければなりません。

このように努力し続ければ、苦手なところやできなかった部分も自然にできるようになれます。浄空和尚様は八十幾つのご高齢ですが、毎日読書されています。その時間は常に4時間以上です。ある日、私(定弘法師)は師長(浄空法師)の所へお邪魔して、本棚で『宗鏡録(すぎょうろく)』を見かけました。この書籍はとても分厚いです。ページを開いてみたら、中に、頭注(とうちゅう)が付けられていて、所々に下線やマーカーを引かれていました。さらに、ページの上下左右や行間などの余白部分に、和尚様の勉強心得がこまごまと書き記されていました。

 これほど丹念に熟読されたのを拝見して、私が師長に伺いました。「和尚様のように、これほどまでに丁寧に読書すれば、このような分厚い一冊の本を全部読み終えるのは、一体どれくらい日にちかかりそうでしょう」。「それならば、ゆっくり、じっくり読んでいけばいいだけです」と、和尚様が笑いながら答えてくださいました。

 確かにその通りです。毎日読み続けます。重要なのは、その意味を心得ることです。「いついつまで読み終わらなければならない」などと、時間や期限に気にせず、焦らず、落ち着いて、コツコツ真面目に読んでいけば、きっといい心得があります。

 「読書百遍義自ずから見る」(どくしょひゃっぺんぎおのずからあらわる)とのことわざのように、どんなに難しい書物であっても、繰り返して読んでいくうちに意味が自然とわかるようになるものです。

 そのため、根性強く、時間をかけて、じっくりと、あきずに、繰り返し読書・学習するように努めなければなりません。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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