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『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『二十四孝』・大舜・孝感動天(日本語)

2018年06月19日 | 徳育物語


 舜は中国古代の五帝の一人で、姓を姚、名を重華、号を虞氏といい、虞舜と称されました。
 四、五千年前に、舜王は普通の家庭に生まれました。舜は幼いときに母を亡くしました。両目を失明した父・瞽叟(こそう)は後妻を娶り、弟・象が生まれました。舜の父は頑固で道理をわきまえない人であり、継母は粗暴・残忍で、弟も横柄で理不尽でした。三人は舜を疎ましく思い、何とかして殺そうと考えました。
 ある日、父は舜に米蔵を修理するよう命じました。舜が蔵の屋根に上がると、父は舜を殺そうと、米蔵に火を放ったのです。舜は笠を二つ手に持ち、小鳥のように飛び降りて、難を逃れました。
 次に、父は舜に井戸を掘るように命じました。舜がかなり深くまで掘ったところで、父と弟は上から土を落として井戸を埋めました。気転を利かしてあらかじめ側道を掘っていた舜はそこから逃げ出し、今度も難を逃れました。象は今度こそ間違いなく財産を独り占めできると思っていたが、舜が帰って来たのを見て、みな大いに驚きました。
 そのような仕打ちを受けたにもかかわらず、度量の大きい舜は、あいかわらず、両親を敬い、弟をかわいがりました。
ある日、耕作しているとき、彼の孝行を感じて、大象と鳥が来て、耕作を助けました。この話は「孝感動天」として、今でも後世に語り伝えられています。
 古人は「百善の中で孝を第一とする」とはよく言ったもので、舜は20歳にして、その名が天下に知れわたりました。舜が30歳のとき、尭帝は賢才を求めました。すると、周りの者がみな舜を推薦しました。
 そこで、尭帝は舜の人徳を見極めるため、二人の娘を舜に嫁がせ、九人の子供に舜と親交を結ばせました。「徳を以って人に報いる」という舜の人徳に感化された二人の娘は、傲慢な態度が改まり、人に対して謙虚で恭しくなりました。九人の息子も、舜の感化を受け、寛大かつ慎み深くなりました。
 舜が暦山へ開墾に行くと、そこの人たちは舜の影響を受けて心が広くなり、舜に田畑を提供しました。舜が雷澤へ魚を取りに行くと、人々は競って住まいを提供しました。舜が黄河のほとりへ陶器を作りに行くと、そこから出される陶器は極めて精巧なものになりました。
 誰もが舜と一緒にいることを好んだため、舜が住んでいるところは、一年で村になり、二年で街ができ、三年で大きな都市になりました。
 この一部始終を見た尭帝は非常に満足し、帝位を舜に譲りました。帝位についた舜は、とりわけ道徳教育を重んじ、五常の教え、つまり、「父の義・母の慈・兄の友・弟の恭・子の孝」を唱え、伝統的な道徳の考えを築き上げ、人々が従うべき典範としました。
 その後数千年来、舜の打ち立てた「徳を以って第一とする」という伝統は、孔子の儒家文化に受け継がれ、その後世を教え導いてきたのです。


『二十四孝』・黄香温席(日本語)

2018年06月06日 | 徳育物語


東漢(とうかん)の時に、黄香(こうきょう)という方がいました。黄香の小さい時、家はとても貧しいです。9歳の時に、母親が病気でなくなりました。黄香はとても悲しかったです。母親が病気の間は、ずっとそばで看病していました。母親が亡くなってから、ますます父親に孝行することに心がけていました。母親の死に対する悲しさを、父親への孝行の力に変えました。まだ小さいのに、家事を積極的にやり、父親の世話も一生懸命やりました。
 夏のような暑い日には、晩御飯の後に、黄香はすぐ父親の部屋へ行って、筵(むしろ。昔の夏はむしろを敷いて寝るから)に向かってうちわを扇いで、むしろが冷たくなるようにさせます。
父親が就寝するときにも、黄香は父親が寝やすいように、右手と左手を交代に使って、うちわを扇ぎ続けました。父親が眠り込むときになると、黄香の腕もとても痛くなっていました。それでも、黄香は毎日続けてやりました。
冬のような寒い日には、夕食の後に、黄香はいつも早めに父の部屋行って、布団のなかに入って、自分の体温で父親の布団を温めます。そういうふうにして、布団が温まってから、父親に就寝するようにさせていました。
そのように、日々親孝行に励む黄香のことが、近所で評判となり、人々に感心されていました。黄香が大きくなり、その孝行も広く知られていました。当時の太守(たいしゅ。郡の長官)劉護はその親孝行を聞いて、黄香を国の官職に就くように朝廷に推薦しました。昔はこのようなことを「孝廉を挙げる」と呼んでいました。
古代では、国の官僚の業務のなかに、国家に人材を推薦する役目がありました。人材を推薦する際に、二つの基準があります。一つは、孝行の「孝」です。もうひとつは清廉の「廉」です。親孝行できる人間ならば、きっと国にも忠実にできるからと、清廉潔白(せいれんけっぱく)な人間なら、かならず汚職せずに、公務に励み、法をきちんと守れるからです。それだから、孝子である黄香が「孝廉(こうれん)」に挙げられました。
後に、黄香は国の尚書令(しょうしょれい)までに務めていました。職務中も、いつも民衆のために一生懸命仕えていました。黄香は幼くして古典を熟読し、博学で文に長けていた。彼の書く文は江夏の町にその名が広く知られ、人々は彼を「天下第一、江夏に黄香あり」と褒め称えた。ゆえに、「黄香温席(こうきょうおんせき)」として、今でもその名が後世に語り伝えられています。