『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(77)

2018年10月31日 | 『弟子規』日本語解説
恩欲報 怨欲忘 報怨短 報恩長
ēn yù bào yuàn yù wàng bào yuàn duǎn bào ēn cháng
【解説】受人恩惠,要感恩在心、常記不忘,並且時時刻刻想要報答。而抱怨、怨恨之事,則要在短時間就忘掉。
【和訳】人から受けた恩には、心に銘記(めいき)し、感謝し、いつか必ず報(むく)いる願いを常に心掛けしますが、人に対する怨(うら)みを短時間で忘れるべきです。



●簡単解説:
★他者が助けを必要なときは、できるだけのことをして助けてあげるようにしましょう。これについては、『礼記』礼運篇にも「貨悪其棄於地也、不必蔵於己;力悪其不出於身也、不必為己」(貨(か)は其(そ)の地(ち)に棄(す)てられるるを悪(にく)む。必ずしも己(おのれ)に蔵(ぞう)せず。力は其(その)の身(み)に出(い)でざるを悪(にく)む。必ずしも己の為めにせず)と説かれています。つまり、物質資源には、浪費したり、むやみに捨てたりするのはよくありません。さらに、まったく貧苦な人に施しせずに、自分だけのために、たくさん蓄えておくこともよくありません。個人に能力・労力がある場合は、その力をいかせることが大事であります。さらに、その能力・労力を自分の私利私欲のために使うのではなく、世のため人のために使うべきであります。そして、人に施した恩恵は語らず、忘れるようにし、人から受けた恩義はけっして忘れることがなく、「滴水之恩、当湧泉相報」〈一滴の水のような恩義にも、湧き出る泉のような大きさでこれを報いるべし〉のことわざ通りに、いつか必ず倍以上にお返しするような気持ちを持ち続けます。これをできる人は君子であります。これは中国五千年の教育内容の一つでありました。中国人は実に、厚い義理と温かい人情を非常に重んじる民族です。堯(ぎょう)・舜(しゅん)の時にはこのような厚い義理人情がありました。孔子も同じく人々に温厚(おんこう)篤実(とくじつ)を教え諭していました。

★怨恨などがある場合については、かつて孟子が「有人於此、其待我以横逆、則君子必自反也:『我必不仁也、必無礼也、此物奚宜至哉?』」(此(ここ)に人(ひと)あり、其(そ)の我(われ)を待(ま)つに横(おう)逆(ぎゃく)を以(もっ)てすれば、則(すなわち)ち君子(くんし)は必ず自(みずか)ら反(はん)す。我(われ)必ず不仁(ふじん)ならん、必ず無礼ならん。此(こ)の物(もの)奚(なん)ぞ宜しく至(いた)るべけんやと)〈どうかして他の人が自分に対して、道に背いた乱暴な仕向けをする場合があると、君子たる者は必ず『どうもまだ自分の方に仁を施す力が足らないのであろう、あるいは、自分の方で礼を守ることが足らないのであろう。それであるから、向こうの人がそういうように乱暴な仕向けをするのであろう』と自分を反省してみます〉とおっしゃいました。凡そ、人を怒らしてしまい、つまり、人の機嫌を損なうようなことがあったときには、必ず、自省や謝りなどをして和解するように努めましょう。その際に、口先だけで「すみません」「ごめなさい」と謝るのはよくありません。しかし、今の時代になっては、口先だけでも謝らなくなってきています。
同時に、人が無理非道をもって自分を待遇した時に、君子はそれを許すように努力しています。人の恩恵を受けたら、報恩できるのは君子であって、恩知らずな人は小人ということです。儒家はこのようにして君子と小人の区別をよく論じています。仏家はいつも因果応報の事実を講じています。つまり、人の一生のすべての遭遇やできことが全部「一飲一啄、莫非前定」(いちいんいったく、さだめにあらざるなし。つまり、一口水を飲み、一口食事を食べるだけのような小さなことでさえ、すでに元から定められていることであって、すべては因果応報であります)であると説かれています。

現代の社会では「忘恩負義(ぼうおんふぎ。恩義を忘れて義理に背くこと)」の現象は至るところに見受けられます。現代人には正しい道理を分からず、心のなかにいつも不平不満や文句ばかりに充満されていて、すべての原因は外にある、他人にあると思い込み、他者を責め咎めるようなことをしています。このような現象は社会に蔓延していて、社会動乱・人心不安の根本的な原因になっています。儒教・仏教などの伝統文化を習う方であれば、ぜひ、自ら聖賢の教えを実践・実行して、よい模範となるように努めましょう。恩に報いるべきです。まさにこの「恩欲報 怨欲忘 報怨短 報恩長」を実生活のなかで踏み行なって、人々のよい見本になることです。本当にこれをできれば、これでもうすでにこの社会に貢献していることとなります。

他人がどのような人間であっても、どのような身分であっても、私たちに一つでもよいことをしてくださったことがあるのであれば、一日だけでもよく接してくださった時があるのであれば、その人のご恩を決して忘れてはいけません。このような感謝する・報恩する気持ちを常に持つようにしましょう。「その人は私に対してよくないことをしたこともあった」と思うのであれば、そのよくないことを忘れましょう。心に留めないようにしましょう。気にしないようにしましょう。いつもその人のいいところをばかり見るようにしましょう。もし、社会全員が皆このようなことをできれば、どれだけ素敵なことでありましょうか。社会もきっと平和・和睦になり、動乱・不安などがありません。

それだから、口だけで言っても、わたしたち自分自身が実際にできていないのであれば、人から「綺麗事ばかり並べて、現実の行いがまったく違うものであって、結局人騙しではないのか」と非難されでも仕方がありません。そのため、是非、わたしたち自ら行動して、聖賢の教えを実践躬行(じっせんきゅうこう)して、社会のよい見本になりましょう。
ぜひ、他人から受けたいいことばかりを覚えて、悪いことを覚えないようにしましょう。これはとても重要なことであるのです。

中国禅宗の第六祖・慧能(えのう)大師がその説法集の『六(ろく)祖壇(そだん)経(きょう)』のなかである一言を説かれていました。その一言を実践できれば、この一生で必ず念仏して極楽浄土へ行けます。その一言は「若真修道人、不見世間過」(若(も)し真の修道の人ならば、世間の過を見ず)です。つまり、いつになって、あなたが世間の人の過失を見えてこなくなり、つまり、他人にはまったく過ちがないのだと認識できるようになったら、その時のあなたの修行は成功したこととなります。商湯(しょうとう)とも呼ばれている上古の湯王は「万方有罪、罪在朕躬」(万方(ばんぽう)に罪(つみ)有(あ)らば、罪(つみ)は朕(わ)が躬(み)に在(あ)り)と仰いました。このお言葉の意味をよく吟味しましょう。「国民に罪あらば、それは国民の罪でなくて、われひとりの罪である」ことですね。つまり、すべての過ちは自分ひとりにあるということですね。なぜならば、国民に過ちがあれば、私は国王であるから、私はよく教えてあげていなかったからです。私がよい模範になっていなかったからです。国民の罪ではありません。自分の罪であるのです。これが聖人の心です。凡夫とは全然違います。今の時代のわたしたちは、すべての不善の原因が他者にあって、自分が全部善であると考えているから、世界の乱れを引き起こし、対立・不和・衝突を作り出しています。それがゆえに、世界や社会の安危・治乱は、一人一人の人間にその責任があります。わたしたちは今の社会のなかで、毎日、朝から晩まで、発した言葉、行ったことや考えていたことがいったい、この社会や人々の間の安定平和に有益であるのか、それとも、和を壊しているのであるのかを、一度冷静に考えたことがあるのでしょうか。儒教も仏教もいつも、私たちに、自省・懺悔するように教え諭しています。毎日の夜寝る前に、心を静かに落ち着かせて、今日の一日をふりかえって、反省すべきところがあるかどうかを自分自身の点検をしてみれば、必ず、なんらかの自分の不注意や不本意なことがあったでしょう。ゆえに、まったく自分に責任がないと言えることがあるのでしょうか?因果応報ではないのだと言い切れるのでしょうか。

★「恩欲報」(受けた恩義は、感謝し心に銘記し、いつかかならずこれに報いなければならないと思うべき)ですが、他人からの恩義を常に忘れずに、恩を知り、恩を報います。恩知らずの人間は禽獣同然です。人間と畜生の区別はどこにありますか。人間は教育を受けられることができ、恩を知り、恩を報いることができることです。恩を知らず、恩を報いずであれば、実際のところは、畜生よりも劣っていることになってしまいます。畜生にさえ、「烏(からす)に反哺(はんぽ)の孝あり」(烏の子が成長後,老いた親烏に食物を口移しに与えて養い、養育の恩に報いる)や「羊に跪乳(きにゅう)の恩あり」(ひつじの子は母のちちをのむときに、かならず、ひざまずいて飲み、親の恩を知るということ)などがあるからです。



報恩といえば、一番大きなご恩は、父母からの恩恵です。父母が私たちを産み育ち、計り知れない苦労・心労がありました。けっしてそのご恩を忘れてはいけません。父母の恩さえも知らずに、父母にさえも恩返しをしないような人間がほかの人の恩を知り、報恩するというのはなおさら無理でしょう。しかし、人が私利私欲のみ貪り、親に不孝なことをし、師長に不敬なことをすれば、その人には必ず災難が降りかかります。なぜならば、「孝(こう)親(しん)尊師(そんし)」(中国語の四字熟語。親に孝行し師を尊ぶこと)はすべての根本、幸福の根源であるからです。まるで樹木のようで、「孝親尊師」は木の根の部分であって、その根が腐れば、ほかのもの、つまり、枝葉・花果もすべて救えなくなり、滅亡の道のみになります。



★「怨欲忘」(抱く怨恨は、いつまでも心に留めておかずに、できるだけ早く忘れるようにするべきである)ですが、理不尽なことに遭ったり、嫌な思いをしたり、不平不満があったりするときには、できるだけ早くそのマイナスな感情を忘れるように、考えないように、捨てるようにしましょう。

晴れ渡る空を見上げて、青い空に一点の雲もなく、果てしなく高く広々としていれば、私たちの気持ちも自然と明るく広くなりますね。逆に、空はびっしりと濃い暗雲に低く覆われていれば、私たちの心もいい気はしません。

私たちの心も青空と一緒です。不平不満、文句、うらみつらみという「暗雲」が多く抱くのであれば、毎日その苦痛・苦悩のなかで生きているようなことになります。人生は儚く、短いです。泣かず、悩まず、楽しい気持ちで生きるべきです。苦しく思いながらは一日ですが、楽しく思いながらもまた一日です。同じく一日を生きるのでならば、なぜもっと早く、その自分を苦しめる苦しい気持ちや悩む気持ちをきれいさっぱり捨てないのでしょうか。それらを捨てれば、私たちの広い心が青い大空みたいになります。さわやかに、美しく、どこまでも澄み渡り、宇宙の果てまで無限に広がっていきます。実にすがすがしい気分です。

★「怨欲忘」には、寛恕(かんじょ)な心が必要です。心が広くてすべてを思いやって包容し、許すことです。中国の孔孟の精神は「仁義忠恕」です。ゆえに、中国人は復讐しません。逆に平和教育である儒家・道家・仏家の優良伝統文化を世に広め、世界平和と人々の幸福を願っています。

「仁」は他者を愛することです。本当に他者を愛していれば、害を加えるはずがありません。仁慈・仁徳な人には、私利私欲を貪る心がありません。「仁者(じんしゃ)無敵(むてき)」というように、「敵」は敵対心、対立する気持ちです。対立・敵対するような心があれば、仁慈でなくなります。仏菩薩には、宇宙と自分が一体であることに悟ったので、自分は自分と対立しません。自分と他人が一体であることに気付ければ、和睦することの大事さが分かります。和諧は道であり、自然の法則です。浩瀚の大宇宙から個人という「小宇宙」まで、完全に同じ道理です。仏教は、よく自分たちに自分の身体を観察するように教え諭しています。身体のすべての部分・器官が和諧、平等で互い尊重して、助け合い、協力し合えば、初めて健康な体を得られます。自分の舌が自分の歯に噛まれた時のように、舌が歯に復讐しますか?歯を全部抜きますか?しませんよね。また、私の目は耳を嫌いので、耳をとりますか?鼻を許せないから、鼻を捨てられます?もし、あれこれ嫌いで全部追い払ってしまえば、最後身体に目玉一つだけになったら、生きられますか?私たちは儒教・仏教・道教の教えを学び、この一体である道理を知ったのですが、その人は聖賢の教えを知らず、まだ迷っているので、ゆえに、人を傷つけるようことをしています。その人もいつかこの道理に悟れば、必ず懺悔して、過ちを認めるでしょう。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。