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『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(3)

2018年05月31日 | 『弟子規』日本語解説
入則孝
rù zé xiào
家では、親孝行をする

【解説】這是學生主修的第一門課。“入”是在家,“孝”是善事父母親,就是在家要善事父母親。善事,一個是心,一個是侍。心即是心裡面念念不忘父母親對我們的養育之恩,侍即是念念都要照顧到父母親。作為子女,要心存“愛”與“敬”,我們能以這樣的心去做,就是善事父母親,這是做人的根本。百善孝為先。
これは学生が主として修める第一課目である。「入」とは家にいること、「孝」とは両親に親孝行をすること、つまり家庭において親孝行をすることである。「親孝行」は、一つには「心」、一つには「実践」がある。「心」とは、心の中で両親が私たちを育ててくれた恩を片時も忘れないこと。「実践」とは、いつでも両親のお世話を考えることである。子女として、心の中にいつまでも「愛」と「敬」を刻み、私たちがこのような心で行うことは親孝行であり、人間としての根本である。「あらゆる善の中で親孝行が第一である」(孝は百行のもと)。


●簡単解説:
★ここから文書の本文部分に入ります。まず、第一章の「入則孝」です。この章には24の事を述べられています。
★「入則孝」の「入」は「家の中では」との意味です。
★なぜ「孝」から始めるのでしょうか。
十三経の一つである『孝経』にこんな言葉があります。「夫孝、德之本也、教之所由生也。(「孝」は道徳の基本であり、全ての徳の源です。全ての教えはここから生まれます)。聖者が民衆に教える内容の基本的な部分でもあります。
なぜ「孝」を教えなければならないのでしょうか。
聖人たちが宇宙万物と私たちは一体であることを知っているからです。
実は、この「私」は、すべての人・物・事と分けることができない生命共同体であるのです。
聖人はこのような事実を知っています。ゆえに、聖賢はすべての人・物・事を「本当の自分」と見なしています。そのようなすべてが一体である概念は「孝道」です。
 まさしく「老」と「子」が組み合わさっている「孝」という文字で表している意味のように、父母と子女(しじょ)は一体です。更に範囲を広げて言いますと、時間的には、先代と次の世代は一体であり、はるか昔の先祖代々と未来無限に伝わる子孫の代は一体であります。空間的には、すべての宇宙、すべての方向のどこも一体であります。



このように、無限の時間と無限の空間は全部一体であることを認識して、その境地を証得した人は聖人と呼びます。
(簡単に言えば、子供の行事に参加するお母さんたちはほとんど自分の化粧や服、言葉や行動などを注意しながら参加するでしょう。子供が外で褒められた時、親も心から喜び、叱られた時、親も恥ずかしく感じるなどのこともその「一体」の表れです。)

 私たちがそのような聖賢の道を学ぶにはどこから着手すればよろしいでしょうか。まず「孝」から始めます。道徳、聖賢の道は孝の道から入るのです。
聖賢の教えの目的は私たちに「一体の愛心」を養うことです。その愛心のなかに自他の隔たりがなく、貴方と私という境界がありません。後ろの「汎愛衆」のところで、詳しく解説しましょう。
 その愛心の原点は父母と子女の間の親愛にあります。私たちの身体はどこから来たのですか。もちろん、父母から頂きました。この身体の一本の髪の毛から全身に至るまで、すべての両親から頂きました。親が私たちを産み、大きく育てくれました。
それだから、まず自分の身体を傷付けずに守る事から、両親に対する孝行な気持ちを表現します。これは「自愛」です。自愛ができてから、初めて本当に他者を愛せます。自分の品性・道徳を高め、親に心配をかけないように、恥をかかせないように、自尊自重できたからこそ、他人を尊敬することができます。
(『身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝至始也』. 「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」 『孝経』による)
 さらに、その愛心をさらに広げていきますと、父母は私と一体であるので、父母を敬い、愛し、孝行します。すべての人も私と一体であり、同じように、その人たちも敬います。そのようにして、だんだんと自分の心を広くしていき、最後は、その心の広さが、宇宙万物まで含めれば、聖人となります。つまり、「孝道」を円満に成し遂げた人は聖人であるのです。聖人の徳は「孝道」の徳です。
 したがって、儒教の教育は父母に対する愛心を中心にしています。その親孝行をさらに広げ、展開していけば、兄弟・姉妹に対しては和睦・友愛にすること、夫婦つまり配偶者に対しては道義、恩義、情義を以て接すること、上司に対しては忠誠心を以て接すること、民衆に対しては奉仕することになります。このようにして、父母に対する愛心から万民に対する愛心に延べ広げていきます。

★今の社会、多くの人は自分の妻子しか世話しません。両親の世話なんか考えもしません。両親が病気になっても知りません。死んでも知りません。それで、今は孤独死という現象が起きています。80歳、90歳の一人暮らしの老人がよくいます。よく死んでから何日、何カ月経ってやっと発見されます。その老人たちには子供がいないならともかく、子供がいるにもかかわらず、そのような状況になるのは本当に悲しいです。
お金や男女の色欲しか考えず、自己中心で、傲慢で、恩知らずで、父母さえ愛せない人は、どうやって他人を愛せますか。父母の恩も知らない人は、どうやって、他人の恩を知るのですか。このような現象は、今の社会にとても多く見かけます。
自分たちが親不孝であれば、将来の果報の一つとしては、まず自分が年取ってから、自分の子供たちも自分の世話をしてくれません。自分が親にしたことと同じようなことをしてくれます。何故というと、子供が小さいごろから親不幸の姿を見て真似しただけです。

★老人ホームという事業も、もし職員が自分の父母を孝行するような心を持って、孤独の老人をよく世話するなら、その職業は慈善的で、とても偉大な職業となります。その仕事のおかげで、職員本人がたくさんの徳を積めて、健康長寿にもなるでしょう。


簡単解説訳文の一部は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。
ありがとうございました。

《群書治要三六〇》序文および前書き

2018年05月30日 | 《群書治要》
管理人自分自身が持っている《群書治要》の本を皆さんに紹介させていただきます。
序文および前書きの文字数が多いので、写真でアップさせていただきます。
右側の日本語バージョン《群書治要三六〇》(マレーシア中華文化教育センター 編訳  台湾NGO法人西有学会 翻訳)は大阪市の図書館に所蔵されています。借りて、ご自分の目で楽しむことができます。
よろしくお願いいたします。














『弟子規』日本語解説(2)總敘

2018年05月30日 | 『弟子規』日本語解説
總 敘
zǒng xù
【解説】弟子就是學生,規是規範。《弟子規》是依據至聖先師孔子的教誨而編成的生活規範,它規定了學生主修的六門課和輔修的一門課。
「弟子」とは(儒教を学ぶ)学生のことであり、「規」とは規範である。『弟子規』は先師・孔子の教えを基にして編成された生活の規範であり、学生が主として修める六科目と補習の一科目を規定している。

弟子規 聖人訓 首孝弟 次謹信
dì zǐ guī shèng rén xùn shǒu xiào tì cì jǐn xìn

【解説】《弟子規》是古聖先賢留下給我們的寶貴教誨。首先,在日常生活當中,最重要的就是要做到孝順父母,友愛兄弟姐妹。其次,在語言行為上要小心謹慎,要講信用。
『弟子規』は聖人の教えである。まず、日常生活の中で最も重要なのは親孝行をし、兄弟姉妹と仲良くする。その次に日常生活のすべての言動を慎み深くし、信用を重んじること。

汎愛眾 而親仁 有餘力 則學文
fàn ài zhòng ér qīn rén yǒu yú lì zé xué wén

【解説】和大眾相處要能平等、博愛,並且親近有仁德之人,並向他學習。有多餘的時間精力,就應該好好學習有益於身心的學問。
人々と接する際には分け隔(へだ)てなく平等・博愛の心を持ち、仁徳のある人に親しんでその人に学ぶ。さらに、時間と余力があれば、教養を深めるためにいろんな有益な学問を学ぶべきである。

●簡単解説:
★「弟子」は学校などの生徒、学生、弟子だけではなく、学ぶ者の意味です。「生涯学習」から見ると、我々全ての人間と言えるでしょう。どなたに学ぶのでしょうか。聖賢に学びます。私たちはまさに聖賢の弟子です。「規」は規則です。
★ここの「聖人」はすなわち孔子様および残された経典です。つまり、至聖先師(しせいせんし)である孔子様からの教えです。『論語』は孔子様の日常生活の言行を記録したものです。
(聖人とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさします。宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことがあります。儒教の場合は孔子様であり、仏教の場合はお釈迦様となります。)
★「首孝弟」の「首」は「最も重要」という意味です。すなわち、最初にするべきことは「孝・弟」であります。
★「孝弟」とはなんでしょうか。「孝弟」は道徳の基本・基礎で、一人の人間が幸せになる土台です。「孝」は父母に孝行をつくし、「弟」は兄弟姉妹と仲良くすること、広義的に言えば、「年配の方や年長者を敬い、よくつかえる」ということです。
★「孝」は一体を指します。すべての道徳の根本です。「弟」は恭敬であり、「孝」の作用の一つです。「孝」の心を表しています。他人に敬意を以て接し、自分では謙虚でいます。そのような心がまえは徳であります。
★恭敬はまず父母に恭敬することから始めるべきです。それは基本です。すべての道徳の根源です。それからさらに範囲を広げて、すべての年長者、師匠に敬います。
★「謹」は責任をもって注意深く丁寧に物事を行い、慎み深く、言動に気を付けることです。
★「信」は誠実で、約束を守り、信用を重んじて、正しい信念を持つことです。ここの「正しい信念」は、聖賢に学び、聖賢になることを志すことを指します。
★「汎愛衆」の「汎(はん)」は広範囲で、平等にという意味です。「衆」は衆生、すべての人です。「汎愛」はつまり人間のみにならず、動物や植物、物まで、宇宙万有すべてを愛することです。この愛は慈愛、仁愛、博愛です。そのようなとても広い心です。
四書五経の『孟子』に「人を愛する者は、人から常に愛される」という言葉があります、人間はもちろん、小さなものでも適用されます。
例えば、ある鉛筆が大好きです、いつも落とさないように丁寧に取り扱います。その丁寧さ、心掛けこそ「愛」と言えるでしょう。そして、その鉛筆は長く使うことができ、つまり、「鉛筆」に愛され、恩返しされました。
好きな公園でお散歩の時、ゴミ拾いをする人はいつも「愛の心」できれいな環境を維持して、そしていつまでも美しい景色を楽しむことができます。
このような例は多すぎて、挙げきれないでしょう。
では、この広い心はどこから来たのでしょうか。「孝」からです。前文に述べていたように、「孝」は一体です。父母と一体であるから、親孝行ができ、博愛の精神が生まれてきます。そのような無条件の愛の心は「一体」によって生じています。
そのような愛心を養うには順序があります。どこから始めますか。父母を愛することから始めます。両親を愛してからこそ、初めて本当に他人を愛せます。
他人を愛することは「仁」であるのです。自分より年長の人を父母のように愛し、自分より年下の人を弟、妹のように、さらに、自分の子供のように愛します。
★「親仁」の「仁」とは、仁慈の心を持つ人、聖人賢者とその教えという意味です。この「親」は親近です。つまり、仁徳のある方についてその徳、教えに親しんで学ぶことです。それで自分たちの徳行を高めていきます。
この「仁」は仁徳のある方という意味だけではなく、さらに、聖賢の方たちが残してくださった伝統文化の教えも指しています。そのような教えは人類の智慧の輝かしい結晶です。
したがって、儒・釈・道との伝統文化の勉強はとても重要になります。その伝統文化を学べば、自分自身の徳行を高めることができます。それで聖賢の弟子になることができます。
★「有余力 則学文」とは、前の「孝」、「悌」、「謹」、「信」、「愛衆」、「親仁」という人間として備えるべき徳行を身につけ、実践実行できてから、さらに余力があれば、初めて「文」を学べます。
ここの「文」は技術と芸術などの知識を指しています。つまり、技術、技能、文学、音楽、絵画、演劇などの知識・技能です。(訳者注:現代社会の学校で教えられている内容はほとんどこの「文」に当てはまると思います。)



簡単解説訳文の一部は念仏人さんのブログ(http://blog.livedoor.jp/fotuo0/archives/52024175.html)によります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。
ありがとうございました。

『弟子規』日本語解説(1)

2018年05月29日 | 『弟子規』日本語解説
一緒に『弟子規』を勉強している親友のアドバイスで、正文の翻訳文をストップして、代わりに日本語で『弟子規』をもうちょっと詳しく 解説させていただきます。
翻訳文の一部は念仏人さんのブログ(http://blog.livedoor.jp/fotuo0/archives/52024175.html)によります、本当に感謝いたします。内容は浄空法師様の講経、定弘(じょうこう)法師様の「幸福成功的根基--《弟子規》学習心得」、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
皆さまとご一緒に学ばせていただきます。



中国の文化は「孝親尊師(こうしんそんし。父母によく仕え、師匠を敬うことです)」です。それはすなわち孝道(こうどう。孝行の道)と師道(しどう。師を敬い、師からの道徳や道義を重んじるなどの教えを守ること)です。
第二次世界大戦以前の中国では、兄弟などすべての家族は結婚しても分家せずに、一緒に暮らしていました。大家族は人々の強い後ろ盾と老後の保証となっていました。一つの家庭の人数は普通300人以上いました。大家族ですと、800人以上もの家族が一緒に暮らしていました。
そのような大家族は社会の基礎単位となっていました。それぞれの大家族は儒学の私塾を設けたりしていて、子孫たちに儒教道徳などの教育をきっちりしていました。さらに、各家庭に家訓を設けており、家族や宗族の生活、家業など全般を律していました。その時、『弟(てい)子規(しき)』は各家庭に共通する家訓の一部分でした。
このような昔の大家族の家庭教育で、子供たちが小さいときからしっかり教育されていました。家門の永続と繁栄は家族成員の生きる目的でした。家族の一員がなにか悪いことをすると、家族全員が人に後ろ指を指され、自分の大家族全員までに恥をかかせることになります。
さらに、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑することもあるので、悪いことをする人はあまりいませんでした。善良な人が多いので、社会は安定していました。
しかし、大変悲しいことに、二次世界大戦以後、中国がその戦争で負った一番凄惨な傷は、人々が住む場所を失い、家族が死亡や避難などでばらばらになり、古からの大家族はその侵略戦争によって消えてしまったことです。
南京大虐殺で一ヶ月くらいの間に45万人の中国人の命が無残に奪われました。それよりもっと大きな損失は中国の大家族が無くなったことです。五千年の倫理・道徳・因果を教えてきている家族という伝統がなくなりました。
昔の中国の教育の役割は、大家族のような家庭が分担していました。現在、その大家族がなくなったので、だれも儒教道徳などの優良な伝統文化を言わなくなりました。今のように、人々が道徳心を失い、社会が乱れ、地球の天変地異が激しくなっている世相になってしまいました。社会はこのようになっています。
現在の学校はたくさんありますが、教学の目標がかたよりました。古の中国の教学の趣旨は「読書志在聖賢」(学問をする者の志は、聖人・賢者に学び、聖賢になることであります)であるのです。
「聖賢」とは道徳がある善良な良い人のことです。学問をする、勉強する目的はそのような聖賢になることであって、競争、出世やお金のためではありません。
『礼記』大学篇に「徳者本也、財者末也(徳は本(もと)なり、財は末(すえ)なり)」がありました。それはすなわち、富は樹木の枝葉のようで、その根本は大地の中に深く張り巡らされた樹木の根です。その根は徳です。
徳は根本であります。徳がある人は自然に財がついてきます。徳がない人にもし財があれば、逆に身の破滅につながります。ゆえに、個人であろうが、家庭であろうが、企業であろうが、社会であろうが、国家であろうが、長期にわたる安定・興隆(こうりゅう)・発展ができる根本は道徳であるのです。
孔子の教学に四つの科目がありました。重要である順に並べられています。徳行、言語、政事(生業、民衆・社会に奉仕・仕える技術・能力)、文学(芸術)です。この孔門の四科は実に完全・健全な教育体系です。
その中に、『徳行』は第一位に置かれていました。二番目は『言語』です。すなわち、言葉遣いなどの言葉の修養・教養です。『徳行』は根本的な土台で、最も重要な科目です。徳行が備わってこそ、次の三科目へ進めるのです。
昔の中国の教育では、小さい時から、『弟子規』などで、人々に「礼儀をつくして、謙虚な態度を示して譲り合う」精神を教えていました。それは礼の核心です。
しかし、現在社会では、幼稚園の時から、人々に競争を教えています。その競争はエスカレートすれば、闘争となり、闘争が激化すればテロ・戦争に化してしまうのです。そのような教育思想は出口のない道です。
本当に、世界平和を願い、社会の安定を望み、みんなが穏やかな幸せ生活を送って欲しければ、やはり、今一度振り返って、聖賢に学ぶべきではありませんか。その聖賢の教えこそ、社会のあらゆる衝突を解決できる方法であるのです。
中国の漢字の親孝行の「孝」という文字は、上の部分は「老」、下の部分は「子」です。つまり、上の代とその次の世代は一体である意味です。これは「孝」です。上の世代と次の世代がつながっていて、上の代にさらにその先代があって、次の代にまだその次の世代があります。過去に、始まりがないときから、未来へ、終わりがないところまで、永遠に続いて、一体であります。
聖賢はまさにこのような一体である「孝」を実践・実行できた方です。聖賢は自他一体であり、すべての人々を愛します。
この親を孝行する「孝」を展開し、発展すれば、儒教の五倫(ごりん。人と人の関係を夫婦、父子、兄弟、君臣(くんしん)、朋友(ほうゆう)の五種類に分け、それぞれの道義と義務を守り、和睦に団結し、共存する、人類の自然な倫理道徳のことです。五倫があれば、調和社会になります。それがなければ、動乱な社会になります)、五常(ごじょう。仁、義、礼、智、信との五つの、人間としての基本条件です。この五つの道徳がなければ、外見は人間であっても、中身は未熟のままでしょう)、四維(しい)(管仲が提唱した「礼義廉恥、国之四維、四維不張、国乃滅亡」です。つまり、礼、義、廉(れん)、恥この四つの徳は、国家として備えるべき四つの柱のようです。この四つの柱がなければ、その国は亡びます。つまり、四維は国を治めることの一番重要な根本となります)、八徳(はっとく、国家の人民として、守るべき徳です。その内容は、二通りの説があります。一つは、古くからの説で、孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥です;もう一つは、比較的に近代の説で、忠、孝、仁、愛、信、義、和、平です。この二つの説を合わせて、重複を取り除けば、十二文字になり、孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥、仁、愛、和、平です)になります。
五倫、五常、四維、八徳は中国何千年前から代々継承されていた伝統教育です。この聖賢教育である五倫、五常、四維、八徳はみんなの自性がもともと具わっている徳です。
現在は、残念ながら、教える人がほとんどいなくなって、学ぶ人もあまりいなくなりました。これらの中国伝統文化、聖賢教育は中国の宝だけではなく、人類の至宝であるのです。大いに勉強し、継承し、教えを広めるべきです。みんなこれらの徳を備えれば、間違いなく、世界の平和と繁栄につながります。
儒家の徳行教育の礎・入門書はまさにこの『弟子規』であります。
『弟子規』とは児童に倫理(りんり)道徳(どうとく)と基本的な礼節(れいせつ)を教えることを主としており、中国の清代(しんだい)後期に広く使われた道徳啓蒙用(けいもうよう)の読み物です。宋代(そうだい)の朱熹(しゅき)(1130-1200)が著した『童蒙須知(どうもうすち)』を、清代(しんだい)康煕(こうき)年間(ねんかん)の李毓(りゆう)秀(しゅう)(1647-1729)が『訓(くん)蒙(もう)文(ぶん)』として改編(かいへん)し、後に清代(しんだい)の賈存(かそん)仁(じん)が修訂(しゅうてい)を加えて名前を『弟子規』としました。
 朱熹(しゅき)は、当時の子どもたちは道徳が荒廃(こうはい)し、利益ばかりを重視して、礼節(れいせつ)を忘れているのを憂い、今から4000年前の夏商周(かしょうしゅう)から伝わってきた優れた教育の伝統を復活させなければならないと考えて、一連の国語教材を編みました(あ)。その一つが『童蒙須(どうもうす)知(ち)』です。
『弟子規』の「弟子」とは「生徒」、「学生」という意味で、「規」は規矩(きく)・規範(きはん)の意味です。学生は家に居るとき、外出時など、人との接し方、物の扱い方、学習上の原則や規範などを細かく示しています。儒教の「孝・敬」(親孝行・尊敬)という根本的な精神を日常生活に実践するための教えで、「人間としての必須条件」とも言えます。単に子供たちに読ませて暗記させるものではなく、大人たちが自らその聖賢(せいけん)の教えを実行・実践して、よいお手本として、子供たちに示すものです。子供たちはそのような両親の姿を見て、自然に学び、身につけていきます。
全文には1080字で、360句(く)があります。すべて3字1句の韻文(いんぶん)となっています。文章(ぶんしょう)の冒頭(ぼうとう)部分(ぶぶん)の「総叙(そうじょ)」は『論語(ろんご)』学而(がくじ)6によるもので、これは「綱要(こうよう)・主旨(しゅし)」です。次の本文部分は、「入則孝」「出則弟」「謹」「信」「汎愛衆」「親仁」「余力学文」の7つの大段落に分かれていて、全部113箇条の事を述べられています。文章の最後の「勿自暴 勿自棄 聖与賢 可馴致」との一言は、教えを実践(じっせん)するように勧め(すすめ)、励(はげ)ます句(く)であって、全文(ぜんぶん)の結語(けつご)でもあります。
人間教育の基礎として、『弟子規』の内容を全部実行できた者こそ初めて聖賢の本当の弟子に言えるでしょう。『弟子規』の内容をきちんと理解して実践できたら、幸せな人生を送ることができ、まさに人類の宝物です。


《群書治要三六〇》第一册 4 壱、君道 一、修身(一)戒貪

2018年05月28日 | 《群書治要三六〇》第一册 解説(中国語・日本語)
【原文】
五色①令人目盲;(貪淫好色,則傷精失明。)五音②令人耳聾;(好聽五音,則和氣去心也。)五味③令人口爽;(爽,妄也。人嗜於五味,則口妄,言失於道。)馳騁田獵④,令人心發狂;(人精神好安靜,馳騁呼吸,精神散亡,故發狂也。)難得之貨,令人行妨⑤。(妨,傷也。難得之貨,謂金、銀、珠、玉。心貪意欲,則行傷身辱也。)(卷三十四 老子)

【註釋】①五色:原指青、赤、白、黑、黃五種顏色。此處泛指各種顏色。 ②五音:原指中國五聲音階中的宮、商、角、徵、羽五個音級。此處指音樂。 ③五味:原指酸、甜、苦、辣、鹹五種味道。此處泛指各種味道或調和眾味而成的美味食品。 ④田獵:打獵。 ⑤妨:損害。

【白話】貪戀五花八門的色彩,使人精氣神外散,視覺遲鈍;過度追求音樂的刺激,使人心中失去平和中正之氣,聽覺遲鈍;講究食物的美味,使人味覺遲鈍;沉溺於騎馬打獵的快意,使人心神狂妄暴躁;稀有難得的貨品,會使人貪心增長,而造成行為偏差。

【和訳】
彩りの多さは人の目を晦ましてしまいます。淫欲に溺れて色好みが過ぎると、人の精神は散漫し、頭脳の明晰さを失ってしまいます。音楽の刺激を求めすぎると、心の中の平和と中正の気を失わせてしまい、聴覚を鈍らせてしまいます。食事の美味しさを追求しすぎると、かえって味覚を鈍らせ、口の慎みを失わせてしまいます。乗馬して田野を駆けまわり、狩りを楽しむのは、人の心を苛立たせて狂わせてしまいます。珍しい宝物を手に入れても、安心して他のことに手を付けられないために、行動力を鈍らせてしまいます。心が貪欲さにまみれていたら、その行いは道を外れ、わが身を辱めてしまいます。



《群書治要三六〇》マレーシア中華文化教育センター 編訳
台湾NGO法人西有学会 翻訳