入則孝
rù zé xiào
家では、親孝行をする
【解説】這是學生主修的第一門課。“入”是在家,“孝”是善事父母親,就是在家要善事父母親。善事,一個是心,一個是侍。心即是心裡面念念不忘父母親對我們的養育之恩,侍即是念念都要照顧到父母親。作為子女,要心存“愛”與“敬”,我們能以這樣的心去做,就是善事父母親,這是做人的根本。百善孝為先。
これは学生が主として修める第一課目である。「入」とは家にいること、「孝」とは両親に親孝行をすること、つまり家庭において親孝行をすることである。「親孝行」は、一つには「心」、一つには「実践」がある。「心」とは、心の中で両親が私たちを育ててくれた恩を片時も忘れないこと。「実践」とは、いつでも両親のお世話を考えることである。子女として、心の中にいつまでも「愛」と「敬」を刻み、私たちがこのような心で行うことは親孝行であり、人間としての根本である。「あらゆる善の中で親孝行が第一である」(孝は百行のもと)。
●簡単解説:
★ここから文書の本文部分に入ります。まず、第一章の「入則孝」です。この章には24の事を述べられています。
★「入則孝」の「入」は「家の中では」との意味です。
★なぜ「孝」から始めるのでしょうか。
十三経の一つである『孝経』にこんな言葉があります。「夫孝、德之本也、教之所由生也。(「孝」は道徳の基本であり、全ての徳の源です。全ての教えはここから生まれます)。聖者が民衆に教える内容の基本的な部分でもあります。
なぜ「孝」を教えなければならないのでしょうか。
聖人たちが宇宙万物と私たちは一体であることを知っているからです。
実は、この「私」は、すべての人・物・事と分けることができない生命共同体であるのです。
聖人はこのような事実を知っています。ゆえに、聖賢はすべての人・物・事を「本当の自分」と見なしています。そのようなすべてが一体である概念は「孝道」です。
まさしく「老」と「子」が組み合わさっている「孝」という文字で表している意味のように、父母と子女(しじょ)は一体です。更に範囲を広げて言いますと、時間的には、先代と次の世代は一体であり、はるか昔の先祖代々と未来無限に伝わる子孫の代は一体であります。空間的には、すべての宇宙、すべての方向のどこも一体であります。

このように、無限の時間と無限の空間は全部一体であることを認識して、その境地を証得した人は聖人と呼びます。
(簡単に言えば、子供の行事に参加するお母さんたちはほとんど自分の化粧や服、言葉や行動などを注意しながら参加するでしょう。子供が外で褒められた時、親も心から喜び、叱られた時、親も恥ずかしく感じるなどのこともその「一体」の表れです。)
私たちがそのような聖賢の道を学ぶにはどこから着手すればよろしいでしょうか。まず「孝」から始めます。道徳、聖賢の道は孝の道から入るのです。
聖賢の教えの目的は私たちに「一体の愛心」を養うことです。その愛心のなかに自他の隔たりがなく、貴方と私という境界がありません。後ろの「汎愛衆」のところで、詳しく解説しましょう。
その愛心の原点は父母と子女の間の親愛にあります。私たちの身体はどこから来たのですか。もちろん、父母から頂きました。この身体の一本の髪の毛から全身に至るまで、すべての両親から頂きました。親が私たちを産み、大きく育てくれました。
それだから、まず自分の身体を傷付けずに守る事から、両親に対する孝行な気持ちを表現します。これは「自愛」です。自愛ができてから、初めて本当に他者を愛せます。自分の品性・道徳を高め、親に心配をかけないように、恥をかかせないように、自尊自重できたからこそ、他人を尊敬することができます。
(『身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝至始也』. 「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」 『孝経』による)
さらに、その愛心をさらに広げていきますと、父母は私と一体であるので、父母を敬い、愛し、孝行します。すべての人も私と一体であり、同じように、その人たちも敬います。そのようにして、だんだんと自分の心を広くしていき、最後は、その心の広さが、宇宙万物まで含めれば、聖人となります。つまり、「孝道」を円満に成し遂げた人は聖人であるのです。聖人の徳は「孝道」の徳です。
したがって、儒教の教育は父母に対する愛心を中心にしています。その親孝行をさらに広げ、展開していけば、兄弟・姉妹に対しては和睦・友愛にすること、夫婦つまり配偶者に対しては道義、恩義、情義を以て接すること、上司に対しては忠誠心を以て接すること、民衆に対しては奉仕することになります。このようにして、父母に対する愛心から万民に対する愛心に延べ広げていきます。
★今の社会、多くの人は自分の妻子しか世話しません。両親の世話なんか考えもしません。両親が病気になっても知りません。死んでも知りません。それで、今は孤独死という現象が起きています。80歳、90歳の一人暮らしの老人がよくいます。よく死んでから何日、何カ月経ってやっと発見されます。その老人たちには子供がいないならともかく、子供がいるにもかかわらず、そのような状況になるのは本当に悲しいです。
お金や男女の色欲しか考えず、自己中心で、傲慢で、恩知らずで、父母さえ愛せない人は、どうやって他人を愛せますか。父母の恩も知らない人は、どうやって、他人の恩を知るのですか。このような現象は、今の社会にとても多く見かけます。
自分たちが親不孝であれば、将来の果報の一つとしては、まず自分が年取ってから、自分の子供たちも自分の世話をしてくれません。自分が親にしたことと同じようなことをしてくれます。何故というと、子供が小さいごろから親不幸の姿を見て真似しただけです。
★老人ホームという事業も、もし職員が自分の父母を孝行するような心を持って、孤独の老人をよく世話するなら、その職業は慈善的で、とても偉大な職業となります。その仕事のおかげで、職員本人がたくさんの徳を積めて、健康長寿にもなるでしょう。
簡単解説訳文の一部は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。
ありがとうございました。
rù zé xiào
家では、親孝行をする
【解説】這是學生主修的第一門課。“入”是在家,“孝”是善事父母親,就是在家要善事父母親。善事,一個是心,一個是侍。心即是心裡面念念不忘父母親對我們的養育之恩,侍即是念念都要照顧到父母親。作為子女,要心存“愛”與“敬”,我們能以這樣的心去做,就是善事父母親,這是做人的根本。百善孝為先。
これは学生が主として修める第一課目である。「入」とは家にいること、「孝」とは両親に親孝行をすること、つまり家庭において親孝行をすることである。「親孝行」は、一つには「心」、一つには「実践」がある。「心」とは、心の中で両親が私たちを育ててくれた恩を片時も忘れないこと。「実践」とは、いつでも両親のお世話を考えることである。子女として、心の中にいつまでも「愛」と「敬」を刻み、私たちがこのような心で行うことは親孝行であり、人間としての根本である。「あらゆる善の中で親孝行が第一である」(孝は百行のもと)。
●簡単解説:
★ここから文書の本文部分に入ります。まず、第一章の「入則孝」です。この章には24の事を述べられています。
★「入則孝」の「入」は「家の中では」との意味です。
★なぜ「孝」から始めるのでしょうか。
十三経の一つである『孝経』にこんな言葉があります。「夫孝、德之本也、教之所由生也。(「孝」は道徳の基本であり、全ての徳の源です。全ての教えはここから生まれます)。聖者が民衆に教える内容の基本的な部分でもあります。
なぜ「孝」を教えなければならないのでしょうか。
聖人たちが宇宙万物と私たちは一体であることを知っているからです。
実は、この「私」は、すべての人・物・事と分けることができない生命共同体であるのです。
聖人はこのような事実を知っています。ゆえに、聖賢はすべての人・物・事を「本当の自分」と見なしています。そのようなすべてが一体である概念は「孝道」です。
まさしく「老」と「子」が組み合わさっている「孝」という文字で表している意味のように、父母と子女(しじょ)は一体です。更に範囲を広げて言いますと、時間的には、先代と次の世代は一体であり、はるか昔の先祖代々と未来無限に伝わる子孫の代は一体であります。空間的には、すべての宇宙、すべての方向のどこも一体であります。

このように、無限の時間と無限の空間は全部一体であることを認識して、その境地を証得した人は聖人と呼びます。
(簡単に言えば、子供の行事に参加するお母さんたちはほとんど自分の化粧や服、言葉や行動などを注意しながら参加するでしょう。子供が外で褒められた時、親も心から喜び、叱られた時、親も恥ずかしく感じるなどのこともその「一体」の表れです。)
私たちがそのような聖賢の道を学ぶにはどこから着手すればよろしいでしょうか。まず「孝」から始めます。道徳、聖賢の道は孝の道から入るのです。
聖賢の教えの目的は私たちに「一体の愛心」を養うことです。その愛心のなかに自他の隔たりがなく、貴方と私という境界がありません。後ろの「汎愛衆」のところで、詳しく解説しましょう。
その愛心の原点は父母と子女の間の親愛にあります。私たちの身体はどこから来たのですか。もちろん、父母から頂きました。この身体の一本の髪の毛から全身に至るまで、すべての両親から頂きました。親が私たちを産み、大きく育てくれました。
それだから、まず自分の身体を傷付けずに守る事から、両親に対する孝行な気持ちを表現します。これは「自愛」です。自愛ができてから、初めて本当に他者を愛せます。自分の品性・道徳を高め、親に心配をかけないように、恥をかかせないように、自尊自重できたからこそ、他人を尊敬することができます。
(『身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝至始也』. 「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」 『孝経』による)
さらに、その愛心をさらに広げていきますと、父母は私と一体であるので、父母を敬い、愛し、孝行します。すべての人も私と一体であり、同じように、その人たちも敬います。そのようにして、だんだんと自分の心を広くしていき、最後は、その心の広さが、宇宙万物まで含めれば、聖人となります。つまり、「孝道」を円満に成し遂げた人は聖人であるのです。聖人の徳は「孝道」の徳です。
したがって、儒教の教育は父母に対する愛心を中心にしています。その親孝行をさらに広げ、展開していけば、兄弟・姉妹に対しては和睦・友愛にすること、夫婦つまり配偶者に対しては道義、恩義、情義を以て接すること、上司に対しては忠誠心を以て接すること、民衆に対しては奉仕することになります。このようにして、父母に対する愛心から万民に対する愛心に延べ広げていきます。
★今の社会、多くの人は自分の妻子しか世話しません。両親の世話なんか考えもしません。両親が病気になっても知りません。死んでも知りません。それで、今は孤独死という現象が起きています。80歳、90歳の一人暮らしの老人がよくいます。よく死んでから何日、何カ月経ってやっと発見されます。その老人たちには子供がいないならともかく、子供がいるにもかかわらず、そのような状況になるのは本当に悲しいです。
お金や男女の色欲しか考えず、自己中心で、傲慢で、恩知らずで、父母さえ愛せない人は、どうやって他人を愛せますか。父母の恩も知らない人は、どうやって、他人の恩を知るのですか。このような現象は、今の社会にとても多く見かけます。
自分たちが親不孝であれば、将来の果報の一つとしては、まず自分が年取ってから、自分の子供たちも自分の世話をしてくれません。自分が親にしたことと同じようなことをしてくれます。何故というと、子供が小さいごろから親不幸の姿を見て真似しただけです。
★老人ホームという事業も、もし職員が自分の父母を孝行するような心を持って、孤独の老人をよく世話するなら、その職業は慈善的で、とても偉大な職業となります。その仕事のおかげで、職員本人がたくさんの徳を積めて、健康長寿にもなるでしょう。
簡単解説訳文の一部は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。
ありがとうございました。