『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(69)

2018年10月19日 | 『弟子規』日本語解説
勿諂富 勿驕貧 勿厭故 勿喜新
wù chǎn fù wù jiāo pín wù yàn gù wù xǐ xīn
【解説】不要諂媚巴結富有的人,也不要對窮人傲慢無禮。不要厭棄過去的人事物,也不要只喜歡新的人事物。
【和訳】金持ちに媚(こ)びへつらったり、貧乏(びんぼう)な人に傲慢(ごうまん)な態度をとってはなりません。新しいものばかり好み、古い物、古い教え、古い友人、長年連れ添ったつきあいを捨ててはなりません。

●簡単解説:
★「勿諂富 勿驕貧」、貧乏であっても、富や権勢のある人に対して、媚び諂う必要がありません。富や権勢があっても、貧賤な人に対して、おごり高ぶって侮ってはいけません。



『朱子家訓』にも「見富貴而生諂容者最可恥、遇貧苦而作驕態者賤莫甚」(富貴(ふっき)を見て諂(てん)容(よう)を生ずる者は、最も恥(は)ず可(べ)し。貧窮(ひんきゅう)に遇(あ)うて驕(きょう)態(たい)を作(な)す者は、賤(いや)しきこと甚(はなはだ)しきは莫(な)し)と教えていました。これはつまり、お金持ちや貴(たっと)い人に会うと、媚びへつらう態度をとる人は最も恥ずるべきことであって、貧苦な人に会うと、傲慢不遜になる人は、至極卑しい人であるということです。君子は絶対にこのようなことをしません。君子は自分の人格を重視しています。けっして自分自身の人格を汚すようなことをしません。人間の本当の貴賤というのは、けっして財産と地位で決めるものではありません。道徳・品格が高尚な人は貴い人であるのです。

人がこの世に生きていて、正々堂々に生きるべきです。氣節と礼節をもって、「素富貴行乎富貴、素貧賤行乎貧賤」(富貴(ふうき)に素(そ)しては富貴に行い、貧賤(ひんせん)に素しては貧賤に行い)というように、現在、富貴の生活を送っているならば、「その能力と力を使って、社会の貧乏・苦難の人々を助ける」という富貴の責任・本分を尽くします。現在、貧賤であっても、きちんと人の道を歩み、自分の身の程をわきまえ、おのれの分に安んじ、道徳を守り、けっして悪いことをしないように生活します。このようにして、人はどのような立ち位置であっても、自分自身の徳行を高め、成就することができます。


(下記の一部は浄空法師様の説法によります)

 まして、「風水輪流転」(風水は輪流(りんりゅう)して転ずる)という諺のように、富貴な人も永遠に富貴であるとは限らないのです。六道輪廻していけば、この一生は富貴であっても、来世はかならずしも富貴であると限りません。この一生は、貧賤であっても、来生はかならずしも貧賤であるともかぎりません。富貴の人はよく傲慢に構えているので、それがゆえに来世は貧乏になるかもしれません。貧賤な人はよく謙虚でへりくだっているので、それによって来世は富貴になるかもしれません。貧乏であっても、できる限り人を助け、人によく施せば、来世は富を得られます。お金持ちであっても、まったく他者に施せないのであれば、来世は貧乏になります。このように、運命はその人の行いと心に応じているものであって、実に平等であります。もし過去世と未来世を見ることができれば、すべての人は不平不満がなくなり、心が落ち着くでしょう。風水・運命というものは結局自分の心の善悪に従って、良い方また悪い方に転じていくだけのものです。心がよければ、風水・運命もよくなっていきます。心が悪ければ、風水・運命も悪くなっていきます。たとえば、一つの国家であれば、その半分以上の人口が善人であれば、この国家の風水もよいものですが、半分以上の人口が悪人であれば、この国家の風水も悪くなります。このような道理を知るべきです。

★「何でも新しいほうがいいからと新しいものばかり好む」、これは、現代人によくある問題です。生活のなかで、物質の浪費がたくさんあります。たとえば、衣服類などです。流行やおしゃれのために、つぎつぎと新しい服を購入しています。しかし、現在、この地球上でも、飢え、貧困にさらされ、喘ぎ苦しむ人がいることを知るべきです。けっして浪費をしてはなりません。

倹約することで、自分達の道徳を高め養うことができます。たとえば、李炳南老師は、一生質素倹約な生活を送られていました。李老師は大学の教授であると同時に、優秀な中医学の医者でもあって、政府で役職にも就いていました。そのため、高収入でした。しかし、李老師はそのお金で病院や老人ホームを設立したり、中華伝統文化(儒教、仏教などの教育)教室を開いたりして、社会福祉活動や慈善事業、教育事業にご尽力されました。

それに対しての李老師ご自身の生活では、極めて倹約しておられました。一日の食事が質素な一食だけで、衣服も外側ではいつも着用されているその人民服の一着のみです。中の服が私たちは知らなかったのですが、李老師が亡くなられた後に、その遺品を整理したときに、皆、初めて先生の肌着を見たときに、感動して思わず泣き出しました。その肌着類、靴下や下着などには、全部、継ぎがたくさんあたっていて、継(つ)ぎ接(は)ぎだらけです。李老師ご自分で縫い付けておられました。このようにして、自分の福運を節約して、惜しまずに人々に施しておられました。

★人心の険悪と世情の軽薄を嘆く「世風日下、人心不古」(世風日に下がり、人心古からず)との中国の諺のように、世の中の風紀が乱れ、現在の人の心はもう古人のように忠厚・純朴でなくなってしまいました。人々の欲望もどんどん膨らみ、新しいもののみならず、新しい友人まで、さらに浮気や不倫して新しい人まで、新しいものを好み、古いものをいとうようになってしまいました。恩義・情義知らずです。それで多くの家庭が壊されてしまいました。その一番多い原因は両親のどちらかの一方が浮気したからです。もともと一緒に暮らしている家族をばらばらにされてしまいました。離婚に際して、子供を捨てて、妻を捨てて、夫を捨てたりもしています。このようなことは、起こるべきではありません。

 夫婦の間にとても深い情義があったはずです。どのような情義ですか。考えてみましょう。結婚する前に、お互いに好きだった時があったはず、その情で、結婚までたどりついたわけです。結婚して、夫婦となって共に一つの家庭を築きました。

さらに、結婚後は互いの努力があって、住宅を購入するなり、家具を買いそろえるなりして、かりに小さくても、二人にとって穏やかな幸せな住処だったところで暮らし始め、新しい生活をスタートさせました。このように、共に努力したことがあったのは、お互いにご恩があるしるしです。これは夫婦の間の恩義と言います。

この情義と恩義を忘れていけません。そして、夫婦の間には「信義」もあることを忘れるべきではありません。結婚する前の頃や結婚式場で、または新婚の当初、お互いになんらかの言葉で、いつまでも変わらぬ愛の誓いや一生一緒にいる約束をしたはずです。今一度そのかつての誓いや約束を思い出してみましょう。今になって、態度がころりと変わってしまい、自分のすべての誓いや約束を破り捨てるのでしょうか。

夫婦の間の三つの義を全部忘れたのでしょうか。情義、恩義、信義はどこへ行ったのでしょうか。多くの離婚家庭を見ていると、心苦しく感じます。一番心痛いのは、その夫婦間の問題に関係のない子どもたちのことです。離婚に巻き込まれた子どもたちがかわいそうです。このように自分自身への傷つけのみならず、子孫の代まで危害を加えたことになりかねません。その深刻な影響を冷静に考え、自分自身を自省するべきではないでしょうか。



後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)の時代のことですが、宋 弘(そうこう)という大臣がいました。彼はとても徳行が高く、国の大司空(しくう、官名)という高い地位についていました。ちょうどその時、光武帝の姉にあたる湖陽公主(こようこうしゅ)が夫に先立たれたため、再婚先を物色していました。この公主は風采(ふうさい)・人柄・学才がともに優れた宋弘に思いを寄せていました。
ある日、光武帝は、宋弘をよんで、やんわりと切り出しました。「下世話(げせわ)にも、『富裕な身になったならば、つきあう人を変え、高い地位に昇ったならば、妻を代える』というそうだが、どう思うかね」。
「私は『貧賤之交不可忘、糟糠之妻不下堂。(貧賤(ひんせん)の交(まじ)わりは忘(わす)るべからず、糟糠(そうこう)の妻(つま)は堂(どう)より下(くだ)さず。つまり、貧しい時からの友人は忘れてはいけません。貧しいときから連れ添って苦労をともにしてきた妻を棄てたり、粗末に扱ったりしてはいけません)』と聞いております」と宋弘は答えて言いました。
宋弘の意向を確かめた光武帝は姉に伝えあきらめさせました。
気節の高いお話ですね。古代の夫婦の間にそのような道義がありました。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。