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「仁、義、礼、智、信」——五常の大切さ

2018年10月29日 | 中国の伝統文化
 古人は、心が清浄で、義理人情に厚く、人を騙すことをあまりしません。古来中国で五つの徳行が提唱されています。これを「五常(ごじょう)」と言い、人として踏み行なうべき基本の道であります。「五常」の「常」は「千古不易」という意味です。必ず五常を守るようにしましょう。それができることこそ、「人間」であると言えます。五常は「仁、義、礼、智、信」です。



まず、「仁」とは何でしょうか。「夫仁者、蓋推己以及人也,故己所不欲,無施于人」(『群書治要・巻49・傳子』夫(そ)れ仁者(じんしゃ)は、己(おのれ)を推(お)して以(もっ)て人(ひと)に及(およ)ぼすなり。故に己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所(ところ)、人(ひと)に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ)と言われるように、「仁」は「推己及人(すいこきゅうじん)」(己を推して人に及ぼす)です。つまり、己の心をもって人に及ぼすことです。他人の身になって考え、相手の立場になって思いやることです。「自分が他人にしたこと・言った言葉・取った態度を、同じように他人からされたら、自分はいったいどういう気持ちであろうか」と自分自身に置き換えて考えることです。自分が嫌ならば、人にもしてはなりません。自分のことを考えると同時に相手のことも考えなければなりません。自分がしたくないことを、決して他人にもさせてはなりません。このような心が「仁」といい、「仁者愛人(仁者は人を愛し)」です。

 次は「義」です。義者循理(義者は理に循(したが)う)です。つまり、道理・倫理をわきまえ、心の考え・口から発する言葉・身が取る行動、この三つがすべて義理人情、道理・倫理、法律にかなっていることです。「子曰、君子喩於義、小人喩於利」(子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩(さと)る)〈孔子がおっしゃいました。徳のある立派な人は常に正しい道義に通じており、徳のないつまらぬ人は私利私欲ばかり通じているのです〉のように、君子は、たとえお金や利益を得ることにしても、まず自分のその欲望が道義にかなっているかどうかを考えます。道義・恩義・情義にかなわなければ、お金や利益を得るチャンスであっても、いりません。やりません。しかし、小人の場合は、そのような顧慮はまったくなく、道義などをなりふりかまわず、自分に利益があるかないかだけですべての取捨を判断していて、私利私欲しか考えられません。

 三つ目は「礼」です。人には「礼」がなくてはなりません。「人之所貴於禽獣者、以有礼也」(人の禽獣(きんじゅう)より貴(たっと)き所の者は、礼あるを以てなり)〈『晏子(あんし)春秋(しゅんじゅう)・外編』 人が禽獣よりも尊いのは、人は礼儀を守ることができるからです〉のようで、人間と禽獣の区別は人間には礼儀礼節があるということです。少しでも失礼な言動や態度がないように常日頃から自分自身を注意しましょう。そうすれば、自らを勝手気ままにふるまうことがなく、節度をわきまえ、慎み深い人間になれます。そうすることによって、自分自身の道徳を高め、養うことができます。

 四つ目の「智」ですが、今がいう「理智」「智慧」ということであって、感情的ではないということです。感情に左右されると、問題が生じやすく、ミスもしやすいです。そのため、理智を用いて、感情を用いないことです。

 五つ目は「信」です。信用をしっかり守ることです。「仁、義、礼、智、信」の中、「信」は最後の一つの道徳です。信がなければ、前面の「仁、義、礼、智」の四つも全部崩れてしまい、有名無実になります。「信」は一階であって、理智は二階、礼は三階、義は四階、仁は五階の建物のようで、一階が倒れたら、上の階も全部倒れこんでしまうようなことです。

  今、「仁、義、礼、智、信」この五つが全部無くなってしまいました。ゆえに、様々な問題が生じてきています。社会が乱れて、収拾がつかないのです。『春秋左氏伝』〈荘公十四年〉に「人棄常、則妖興」(人、常を棄(す)つれば、則ち妖興る)〈人が常をなくすと、妖が興る〉という教えがありました。その「常」はまさにこの五常です。もう必要がないと、この五常を守らず、放棄していれば、そのような社会は妖魔が充満している社会となり、人間もう人間らしくなくなり、災難も必ず現れてきます。

中国の先人たちは何千年もわたって、「五倫」・「五常」・「四維(礼、義、廉、恥)」・「八徳(孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥、または、忠、孝、仁、愛、信、義、和、平)」を教えることによって、人々の道徳をより高く、心をより善良に・正しいほうに導いていました。それだから、古人は釈迦牟尼仏の教えを信じ、聖賢の教えを信じていました。中国の古人は、釈迦仏のことを「西洋の大聖人」、孔子を「東洋の大聖人」として仰がれていて、その教えを心から信じていて、釈尊と聖賢がけっして私たちを騙しておられずと考えていました。現代の人と全然違います。今のこの社会では、無秩序になっていて、社会と人々の心が乱れています。中国の古く、悠久の伝統文化の中、「道・徳・仁・義・礼」は社会秩序でした。そのなかに最もトップレベルは「道」です。「道」がなければ、「徳」が一番上に来ます。「徳」がなければ、今度「仁」となります。「仁」もなければ、次は「義」です。この「義」もなくなければ、最後の「礼」だけになります。「礼」さえもなくなれば、天下が大きく乱れます。

 文字で記載された史料によりますと、中国遠古の三皇五帝(さんこうごてい。三皇は伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)、五帝は少昊(しょうこう)、顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん))のなかで、「三皇行道」、「無為而治(無為にして治むる)」、すなわち、三皇の時代では、三皇は道を行い、無為をもって天下を治めていました。天下泰平です。五帝の時代になったときでは、道を失い、法典、制度を定めるようになりました。そのような規制があるということは、無為で治めるのではなく、有為になり、徳を用いまして、つまり、「以徳服人」(徳をもって人を心服させる)をもって治めていました。それで、だんだんと後の時代になって、徳が無くなり、仁を用いるようになりました。仁がなくなると、義を用い、義も無くなれば、礼を講じるようにしていました。その礼も無くなれば、天下が大いに混乱します。

上での述べた「三皇行道、無為而治、天下太平」の後に、道を失い、五帝が徳をもって治めていました。五帝時代のつぎは三(さん)王(おう)の時代です。つまり、夏商周(かしょうしゅう。夏の禹(う)王、商(しょう)の湯(とう)王(おう)、周の文(ぶん)王(おう)と武(ぶ)王(おう))の時代です。この三代は、凡そ1800年の歴史があって、徳を失い、仁、つまり「仁者愛人」(仁者は人を愛し)と「推己及人」(己(おのれ)を推(お)して以(もっ)て人(ひと)に及(およ)ぼす)を用いて、世を治めていました。周朝の末年では、不幸なことに、五百年以上の乱世が続きました。それはつまり春秋戦国時代です。孔子、老子は皆この時代の人物です。その時代は、仁がなくなり、義だけが残りました。それから、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)が中国を統一した後に、義もなくなり、秦(しん)始(し)皇(こう)は覇道(はどう)(武力や強権をもって支配・統治すること)を使っていたので、僅か15年間で、亡国しました。漢朝は儒家の学説を取り入れ、それからずっと清の末年まで、礼をもって国を治めていました。「礼尚往来」でした。このように、道・徳・仁・義・礼が下降の一途をたどり、現在に至っては、礼もなくなりました。今は無秩序です。ゆえに、人々が苦しみます。

中国の古聖先(こせいせん)賢(けん)についてですが、この方たちが残してくださった著書を大乗経典と並べ合わせてみれば、発見できることがあります。それは、中国の古聖先賢は皆悟っていて、高い境地におられるということです。そのような聖賢先哲の教えを受けいれ、真面目に学び、実践していければ、いったい何を得ることができるのでしょうか。まずは、心身の健康・家庭の和楽(わらく)・仕事の順調・社会の安定・国家の富強・世界の平和を得られます。本当に実現できます。現代社会の動乱や頻繁に起こる災難の根本的な原因は、何でしょうか。倫理道徳がなくなったからです。人と人の関係が乱れ、極度に混乱した状況に陥りました。悪事を働き、法に触れることをする人は至るところで見かけられ、社会が乱れました。すべての原因は教育に問題が生じたからです。今の教育は科学・技術の教育のみです。科学・技術は物質文明に属しています。精神文明の教育は少ないです。物質文明がいくら良くても、災難から免れません。この点をぜひ知っていただきたいです。


以上は浄空法師様の説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。

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