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『みんなの塾』

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時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

「仁、義、礼、智、信」——五常の大切さ

2018年10月29日 | 中国の伝統文化
 古人は、心が清浄で、義理人情に厚く、人を騙すことをあまりしません。古来中国で五つの徳行が提唱されています。これを「五常(ごじょう)」と言い、人として踏み行なうべき基本の道であります。「五常」の「常」は「千古不易」という意味です。必ず五常を守るようにしましょう。それができることこそ、「人間」であると言えます。五常は「仁、義、礼、智、信」です。



まず、「仁」とは何でしょうか。「夫仁者、蓋推己以及人也,故己所不欲,無施于人」(『群書治要・巻49・傳子』夫(そ)れ仁者(じんしゃ)は、己(おのれ)を推(お)して以(もっ)て人(ひと)に及(およ)ぼすなり。故に己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所(ところ)、人(ひと)に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ)と言われるように、「仁」は「推己及人(すいこきゅうじん)」(己を推して人に及ぼす)です。つまり、己の心をもって人に及ぼすことです。他人の身になって考え、相手の立場になって思いやることです。「自分が他人にしたこと・言った言葉・取った態度を、同じように他人からされたら、自分はいったいどういう気持ちであろうか」と自分自身に置き換えて考えることです。自分が嫌ならば、人にもしてはなりません。自分のことを考えると同時に相手のことも考えなければなりません。自分がしたくないことを、決して他人にもさせてはなりません。このような心が「仁」といい、「仁者愛人(仁者は人を愛し)」です。

 次は「義」です。義者循理(義者は理に循(したが)う)です。つまり、道理・倫理をわきまえ、心の考え・口から発する言葉・身が取る行動、この三つがすべて義理人情、道理・倫理、法律にかなっていることです。「子曰、君子喩於義、小人喩於利」(子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩(さと)る)〈孔子がおっしゃいました。徳のある立派な人は常に正しい道義に通じており、徳のないつまらぬ人は私利私欲ばかり通じているのです〉のように、君子は、たとえお金や利益を得ることにしても、まず自分のその欲望が道義にかなっているかどうかを考えます。道義・恩義・情義にかなわなければ、お金や利益を得るチャンスであっても、いりません。やりません。しかし、小人の場合は、そのような顧慮はまったくなく、道義などをなりふりかまわず、自分に利益があるかないかだけですべての取捨を判断していて、私利私欲しか考えられません。

 三つ目は「礼」です。人には「礼」がなくてはなりません。「人之所貴於禽獣者、以有礼也」(人の禽獣(きんじゅう)より貴(たっと)き所の者は、礼あるを以てなり)〈『晏子(あんし)春秋(しゅんじゅう)・外編』 人が禽獣よりも尊いのは、人は礼儀を守ることができるからです〉のようで、人間と禽獣の区別は人間には礼儀礼節があるということです。少しでも失礼な言動や態度がないように常日頃から自分自身を注意しましょう。そうすれば、自らを勝手気ままにふるまうことがなく、節度をわきまえ、慎み深い人間になれます。そうすることによって、自分自身の道徳を高め、養うことができます。

 四つ目の「智」ですが、今がいう「理智」「智慧」ということであって、感情的ではないということです。感情に左右されると、問題が生じやすく、ミスもしやすいです。そのため、理智を用いて、感情を用いないことです。

 五つ目は「信」です。信用をしっかり守ることです。「仁、義、礼、智、信」の中、「信」は最後の一つの道徳です。信がなければ、前面の「仁、義、礼、智」の四つも全部崩れてしまい、有名無実になります。「信」は一階であって、理智は二階、礼は三階、義は四階、仁は五階の建物のようで、一階が倒れたら、上の階も全部倒れこんでしまうようなことです。

  今、「仁、義、礼、智、信」この五つが全部無くなってしまいました。ゆえに、様々な問題が生じてきています。社会が乱れて、収拾がつかないのです。『春秋左氏伝』〈荘公十四年〉に「人棄常、則妖興」(人、常を棄(す)つれば、則ち妖興る)〈人が常をなくすと、妖が興る〉という教えがありました。その「常」はまさにこの五常です。もう必要がないと、この五常を守らず、放棄していれば、そのような社会は妖魔が充満している社会となり、人間もう人間らしくなくなり、災難も必ず現れてきます。

中国の先人たちは何千年もわたって、「五倫」・「五常」・「四維(礼、義、廉、恥)」・「八徳(孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥、または、忠、孝、仁、愛、信、義、和、平)」を教えることによって、人々の道徳をより高く、心をより善良に・正しいほうに導いていました。それだから、古人は釈迦牟尼仏の教えを信じ、聖賢の教えを信じていました。中国の古人は、釈迦仏のことを「西洋の大聖人」、孔子を「東洋の大聖人」として仰がれていて、その教えを心から信じていて、釈尊と聖賢がけっして私たちを騙しておられずと考えていました。現代の人と全然違います。今のこの社会では、無秩序になっていて、社会と人々の心が乱れています。中国の古く、悠久の伝統文化の中、「道・徳・仁・義・礼」は社会秩序でした。そのなかに最もトップレベルは「道」です。「道」がなければ、「徳」が一番上に来ます。「徳」がなければ、今度「仁」となります。「仁」もなければ、次は「義」です。この「義」もなくなければ、最後の「礼」だけになります。「礼」さえもなくなれば、天下が大きく乱れます。

 文字で記載された史料によりますと、中国遠古の三皇五帝(さんこうごてい。三皇は伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)、五帝は少昊(しょうこう)、顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん))のなかで、「三皇行道」、「無為而治(無為にして治むる)」、すなわち、三皇の時代では、三皇は道を行い、無為をもって天下を治めていました。天下泰平です。五帝の時代になったときでは、道を失い、法典、制度を定めるようになりました。そのような規制があるということは、無為で治めるのではなく、有為になり、徳を用いまして、つまり、「以徳服人」(徳をもって人を心服させる)をもって治めていました。それで、だんだんと後の時代になって、徳が無くなり、仁を用いるようになりました。仁がなくなると、義を用い、義も無くなれば、礼を講じるようにしていました。その礼も無くなれば、天下が大いに混乱します。

上での述べた「三皇行道、無為而治、天下太平」の後に、道を失い、五帝が徳をもって治めていました。五帝時代のつぎは三(さん)王(おう)の時代です。つまり、夏商周(かしょうしゅう。夏の禹(う)王、商(しょう)の湯(とう)王(おう)、周の文(ぶん)王(おう)と武(ぶ)王(おう))の時代です。この三代は、凡そ1800年の歴史があって、徳を失い、仁、つまり「仁者愛人」(仁者は人を愛し)と「推己及人」(己(おのれ)を推(お)して以(もっ)て人(ひと)に及(およ)ぼす)を用いて、世を治めていました。周朝の末年では、不幸なことに、五百年以上の乱世が続きました。それはつまり春秋戦国時代です。孔子、老子は皆この時代の人物です。その時代は、仁がなくなり、義だけが残りました。それから、秦(しん)の始(し)皇帝(こうてい)が中国を統一した後に、義もなくなり、秦(しん)始(し)皇(こう)は覇道(はどう)(武力や強権をもって支配・統治すること)を使っていたので、僅か15年間で、亡国しました。漢朝は儒家の学説を取り入れ、それからずっと清の末年まで、礼をもって国を治めていました。「礼尚往来」でした。このように、道・徳・仁・義・礼が下降の一途をたどり、現在に至っては、礼もなくなりました。今は無秩序です。ゆえに、人々が苦しみます。

中国の古聖先(こせいせん)賢(けん)についてですが、この方たちが残してくださった著書を大乗経典と並べ合わせてみれば、発見できることがあります。それは、中国の古聖先賢は皆悟っていて、高い境地におられるということです。そのような聖賢先哲の教えを受けいれ、真面目に学び、実践していければ、いったい何を得ることができるのでしょうか。まずは、心身の健康・家庭の和楽(わらく)・仕事の順調・社会の安定・国家の富強・世界の平和を得られます。本当に実現できます。現代社会の動乱や頻繁に起こる災難の根本的な原因は、何でしょうか。倫理道徳がなくなったからです。人と人の関係が乱れ、極度に混乱した状況に陥りました。悪事を働き、法に触れることをする人は至るところで見かけられ、社会が乱れました。すべての原因は教育に問題が生じたからです。今の教育は科学・技術の教育のみです。科学・技術は物質文明に属しています。精神文明の教育は少ないです。物質文明がいくら良くても、災難から免れません。この点をぜひ知っていただきたいです。


以上は浄空法師様の説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。

トインビー博士の「文化統一・世界平和」論

2018年10月29日 | 中国の伝統文化

イギリスのアーノルド・ジョゼフ・トインビー博士は1975年に85歳でお亡くなりになられました。トインビー博士は三度も日本に渡り、会談され、多くの資料を残してくださいました。その資料から博士の晩年の言行を観察すればわかることですが、博士の一生で最も関心なさった一つのことは、いかに第三次世界大戦の勃発を防止することでした。トインビー博士ご自身は、第一次世界大戦、第二次世界大戦の時代を経験してこられました。第二次世界大戦の終わりが原子爆弾の発明によるものであったため、博士はとくにこのことを憂えて、地球上に第三次世界大戦を勃発させることは、人類が自滅の道を選んだ同然の極めて愚かな道であると考えっておられました。核兵器を使う戦争は勝負がなく、共に滅びる結果であるからです。それならば、いったいどのようにしたら、問題と衝突が解決でき、最悪の結果を避けられるのでしょうか。トインビー博士は中国のある三つの時代からヒントを得ました。その方法を学び用いることを提唱されました。トインビー博士は本当に中国歴史にかなり深い研究をされていて、中国国内の歴史学者さえも博士に及ばないほどでした。その三つの時代は夏・商・周です。夏の400年、商の600年、周の800年、合わせて1800年の歴史から何を学ぶのでしょうか。その統一する方法を学びます。その時代は軍事・政治によって統一されていたものではなく、文化によって統一されていました。



夏商周の時代では、中国は実際に一つの国に統一されていませんでした。小さな国がたくさんありました。それを諸侯(しょこう)と呼んでいました。今の言葉でいえば、一つの村、一つの区みたいなところも一つの国になっていました。これらの国は皆主権国家であって、それぞれ自分たちで自分の国を統治していました。歴史の記載によりますと、周朝のときには、800の諸侯もありましたが、周朝自身の国はけっして大きくありませんでした。百里四方(周囲100里位の範囲。その時代の里数だからもっと小さいはずです。周代に用いられた尺は短かったから)に過ぎなかったです。商の湯王の領土はさらに小さくて、七十里四方しかありませんでした。それでも、他の諸侯から敬服され、尊重されて、学ばれ、王として仰がれていました。このようにして、夏・商・周は実際に一つの国として統一されているものではなく、文化によって統一されている王朝であったのです。つまり、倫理道徳によってまとめていました。周朝の最後の時代になると、その子孫達は周文王、武王、周公のときのような高い徳行がなくなったので、ついばらばらとなり、戦国時代となりました。後に、本当に政治によって統一したのは、秦(しん)始(し)皇(こう)の時代からでした。トインビー博士はこの時期の歴史にかなり詳しかったようです。夏商周は政治による統一ではなく、軍事による統一でもなく、さらに、現代がいう経済貿易や科学技術による統一でもありませんでした。全部違います。文化で統一していました。文化でまとまっていたから、夏商周の盛世が出現しました。トインビー博士はこのことからヒントを得たので、地球にも文化の統一が必要なのだと提唱されました。

「文化の統一」となりますと、いったい誰が統一しますか?トインビー博士は一生世界文明史を研究しておられました。博士は世界の文化を20幾つの種類に分類して、そのなかで、もっとも優秀なのは東亜文化であると述べられました。さらに、東亜文化のメインは中国文化であって、日本、韓国、ベトナムの三つは中国文明の衛星文明国家であるとおっしゃいました。中国、日本、韓国、ベトナムのこの四つの国が団結し、一丸となって、必ず、世界を率いるリーダーシップを発揮できるとトインビー博士は考えておられました。

日本、韓国、ベトナムと中国の交流は戦国の時代にまで遡ることができます。孟子がおられた時代です。中国の歴史に記載されていました。その時からすでに行き来していました。この三つの国自身には、儒教・仏教・道家のような文化がありませんでした。すべて中国から文明を取り入れました。それと同時に、二次世界大戦の前までには、この三つの国は中国文字を用いていました。その時の韓国はすべて中国の漢字を使っていました。ベトナムも同じです。日本は自分の仮名を作りだしていましたが、日本語のなかに、たくさんの漢字が使われていました。そのため、わたしたち中国人は日本語を分からなくても、その漢字からある程度意味をくみ取れます。漢字の比率は日本語の半分以上でしたが、今、その比率はますます減少しています。

漢字についてですが、世界共通の文言(ぶんげん)になるように願っております。言語ではなく、言語はそのままで各自の物をつかいますが。文語文、つまり、書き言葉、文章を書くときに使う文字を是非古文の漢文にしたいと願っております。なぜならば、漢文は時間・地方が変わっても、永遠に変わらないからです。その古文を読めるようになれば、今の時代にいながら、何千年前の古人の文章を読めば、目の前で対話しているような感じができます。漢字の現代文はそれができません。時間・時代と共に変化していくからです。全世界の文章と言葉は同じものであって、中国古代だけ違っていました。中国の言語は文章と言葉が分けていて、言葉は時代・地方の変化につれて変化していきますが。文言は永遠に変わりません。その文言という方法を使って、この聖賢の智慧・方法・経験が代々伝わってくることができました。本当に素晴らしい方法です。このような文言・文語文の形式は、中国だけ完全に整っています。
たとえば、中国の『四庫全書』は世界・人類の文化宝蔵でありますが、一旦翻訳すると、どうしても、元の味わい・風味がそのまま味わえなくなる恐れがあります。しかし、もし、中国の古文を学び、自ら読めるようになれば、オリジナルそのままの文章の世界に入れて、古の聖賢が目の前に現れ自ら話してくださるような感じで、リアルに文章の味わい・真義を感じ取れるような読書ができるのでしょう。それで知り得た古人の智慧、学問、方法、経験を実践して用いれば、個人・社会・国・世界に大きな利益をもたらすことになるのは間違いありません。

現在世界中で漢文を提唱する人がますます多くなっています。ヨーロッパでは、イギリスが先頭に立って、幼稚園から、小学校、中学校、大学まで、すべて漢学の教科を設けていました。中国語を学び、漢文を学んでいます。イギリスのウェールズ・トリニティ・セント・デイビット大学(University of Wales Trinity Saint David)では、英国漢学院「Academy of Sinology」(http://www.uwtsd.ac.uk/sinology/)が開設されました。

漢字と漢文と『四庫全書』は本当に中国の国宝であり、同時に世界人類が共に分かち合える智慧宝蔵でもあるのです。中国はこの世界で何千年も繁栄できる原因も、まさにこれにあります。漢字と漢文は本当にとても重要であるので、ぜひ、多くの漢学院が設立できることを心から願っております。この分野での多くの人材が出現して頂きたいのです。漢学を教えられる教師もとても必要なのです。これは実に重要なことです。
中国のもっとも優れた所は、智慧と倫理道徳の教えであるところです。それらの聖賢の智慧・学術・方法・理念はどこにあるのでしょうか。『四庫全書』の中にあります。『大蔵経』中にあります。すべて漢文で書かれています。本当の宝物です。これらを学べば、人の一生に計り知れないほど役に立ちます。さらに、千年万年も伝わり、永遠に変わらない宝典であります。仏経典の場合は、仏教は他国の文化であって、中国のものではありませんでした。しかし、中国に異族文化が伝えられてきて、中国人の心が広くて、その文化を消滅させたのではなく、逆に大いに発揚させました。さらに、多くの人力を注ぎ、仏経典を文言文(ぶんげんぶん。漢文)に漢訳して、そのまま永遠に変わらぬ文章として、後世の人々に伝えてきていました。これは中国の広い心です。中国人の愛心です。

他の言語、たとえ梵語にしても、ラテン語にしても、表音文字であって、二、三百年でも経れば、発音が変わり、文字まで分からなくなってしまいました。中国の漢文は、十万年後も変わりません。そのような価値があるものです。そのため、世界のどの国家民族の経典でも、もし、千年万年も残したければ、後世の人々にずっと読めるようにさせたければ、ぜひ、漢訳して、漢文の形で保存しましょう。これは実に理にかなうことです。ゆえに、中国が世界を率いるリーダーシップを発揮するということは、中国文化を用いることです。すべての国の文化を漢文で書きかえ、漢文という形で永遠に保存させることができます。これは他の国ができないことであるかもしれません。他の国であれば、「私は優秀であるから、あなたたちが私に及ばないので、あなたたちを消滅させちゃう」とのようなこともありえるかもしれません。中国には絶対そのようなことがありません。中国人はそういうことをしません。これは歴史で証明できます。中国五千年の歴史のなかで、ほかの国をいじめたり、傷つけたりしたことがありませんでした。他国と往来する際に、いつも少なく受け取り、多くお返ししています。中国人には「礼尚往来」という文化を重んじていたからです。本当に「礼儀の邦」でありました。いつも受けた恩以上に恩返しするようにしています。そのような仲は温情なものであります。仏法が説かれている「福徳」の部分も、「礼尚往来」のように、施すことや恩返しすることを重視しています。施せば果報があることは福徳です。それよりもっと上のレベルの「功徳」というのは、他者に施すことばかりして、決して恩返しを求めずということです。

中国の国力は、唐の時では、世界でもっとも盛んでいる国でありました。元朝はモンゴル人のものでした。モンゴルが侵攻してきたので、中国はそれで一度滅びましたが、明朝の時に再びよみがえりました。明といえば、その時代の鄭和(てい わ)は南海へ7度の大航海もされていました。マレーシアのマラッカは鄭和の指揮する艦隊の必ず経由する道でした。その地方には、今でも多くの「鄭和廟」があります。鄭 和の率いる大艦隊は今がいう海軍ですが、当時では世界第一の規模でした。その膨大な艦隊と二万以上の人員が行く先々で、侵略しておらず、土地を奪い取らず、平和で訪問し、その地方の国王や大臣を中国へお招きして、中国でご招待してから、また本国まで送りかえして、それで多くの国と非常に友好な関係を築きました。これはなぜでしょうか。中国の教育がそうさせたのであります。中国の古代の教育では、徳行が第一に重要視されていました。つまり、倫理、道徳、因果の教育です。それの後は、ようやく、学術、技能などの教育に入ります。倫理道徳の教育はいわゆる王道であり、覇道ではありません。早年、孫文先生が提唱されていた「中国は外国の先端な機械、科学技術を学び、外国は中国のから智慧、倫理、道徳、因果の教育を学び」のように、相互補完するべきではありませんでしょうか。



以上は浄空法師様の説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。

『了凡四訓』(『陰隲録(いんしつろく)』) 第二章 改過之法の編

2018年10月11日 | 中国の伝統文化
改過之法の編


春秋時代(しゅんじゅうじだい、孔子はこの時代の人物です)に、各国役人は(★その役人達は相互に頻繁に往来し、多くの人を見てきたので、人を見る学問と経験も充実していて、そのために)一人の言動を観察するだけで、すぐその人の未来の吉凶禍福(きっきょうかふく)を推測し出すことができ、当たらないことはなかったのです。そのような記載は、「左伝(さでん)」「国語(こくご)」(★他に「公羊伝(くようでん)」「穀梁伝(こくりょうでん)など」などのいろいろな種類の史実の本の中から見ることができます。大体の吉凶の前兆は、その人の心から生じていたので、自然に言動として現れてきます。例えば、温厚な感じの人は、しばしば福運を得て;逆に、酷薄(こくはく、むごくて思いやりがなく薄情な)な人は、よく災いに出遭います。一般の凡夫は、学問が深くなくて見識も狭いから、禍福に定めがなく推測することもできないと言っていますが、人はもし至誠の心を持っていて、その心が天道と一致していれば、その人の福報はもうすぐ目の前に来ます。彼の善行を見ればそのことを予見できます。同様に逆に、人にいよいよ災禍が訪れる前にも、その人の不善な言動を見ただけで、あらかじめそのことを推測することができます。
(★私の若いときは、福報がなく、かつ短命な運命でした。私の先生方、方東美先生、章嘉大師と李炳南居士、お三方とも、道徳が高く、学問が深く、人を見る能力がある方達なので、私を見ていたら、私のその運命を知っているので、とても不憫に思い、慈悲に私に「運命改造、自ら福を求める」ことを教え導いてくださいました。★人を観察する二つの原則は、心は善良で、温厚で、人に接するときも、忠実で情に厚くて、いつも人を思いやって、人のために考えられる人は、必ず、その人には将来は福報があります。逆に、それと正反対で、心が狭くて、自分のことしか考えられなくて、他人に損害を与えて自分の利益を図る事を平気にし、自分に利益がないことを絶対にしなくて、人に対しても、酷薄でいると、その人には、福報がありません。仮に、今彼に福報があるように見えても、今のその福報は、彼が過去世で修めていた、運命の中の福報です。その福報は本来多かったはずです。しかし、彼の心が不善であって、言動も不善であるので、彼のその運命中の福報もうその不善の原因で大分減ってしまったのです。それなのに、減らされてもまだ少しの余福(残された福報)があります。ですから、もし、彼は良い心を持って、よいことをすれば、彼のその福報はきっとその一生で享受しきれないほどです。さらにその余福は彼の子孫の代まで続くことができたはずです。★吉凶禍福は予測できるものです。「至誠の心が天と一致する」、私たちはこの事ができれば、もうそれで完璧です。思いや言動はすべて誠実で、天の自然の法則に合っていることです。「天道」とは自然の法則です。どんな人のいかなる意見もその中に加えていません。そのいかなる意見とは、我々がよく言う、妄想、分別です。その中に、絶対に、妄想、分別を加えなければ、我々の心も天と一致するができます。心が真誠で、清浄で、平等でいれば、我々の心は天と一致することになれます。★人に福または災いのどちらかが、すぐ訪れるのかを観察し予見することができるように、一人の人間のみならず、一つの家庭、一つの団体、一つの社会、さらに進んで、一つの国家、世界まで、そのような見方で予見できます。当たらないことはないです。この中に道理があって、学問があります。絶対に妄言ではありません。ですから、我々は自分自身を省みて、我々の言動と心が、もし至善であれば、自分でも、自分の災厄が必ず取り除かれ、福報が必ず来ると断言できます。しかし、もし我々の心は不善で、言葉も不善で、言葉巧みで人を騙したりして、行動も不善であれば、自分はそろそろ警戒するべきです。なぜなら、災難は必ず一歩一歩自分に近づいてきているからです。家庭も、社会も、国も、世界も、みんな同じ道理です。)

もし今、福を得たく、災禍を避けたいと思う心があれば、善行云々する前に、まず、過ちを改めなければなりません。(★ここはとても重要です。善行をし、徳を積むことを言う前に、まず、自分自身の過ちを改めなければなりません。なぜなら、もし過ちを徹底的に直さないと、修めている善の中に、同時に悪が混じっていて、善も完全な善でなくなるので、現れてくる善のご利益も明らかでなくなります。ですから、善を修めるより先立って、まず改過から行うべきです。)

しかし、改過するにあたって、一番目は、まず「恥を知る心」を起こさなければなりません。考えてみれば、昔の聖賢達が私と同じ人間であって、彼ら達は後世の人々に敬われて、万世の師表と仰がれているのに対して、私はなぜか、一文の値打ちもない割れた陶器のように、支離滅裂(しりめつれつ、ばらばらでまとまりがなく、筋道が立っていないさま。)で、悩みだらけで、世の七情五欲(しちじょうごよく、中にある七情のという煩悩:喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲;外にある五欲という誘惑:金欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)に耽溺(たんでき、ふけりおぼれること)していて、ひそかに不道徳なことをし、だれにも知られていないのだと思い込んで、傲慢な態度をとっていて、まったく慚愧(ざんき、自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。)の色がなく、平気でいます。そのままであれば、必ず畜生などの悪道(三悪道、つまり、地獄、畜生、餓鬼道)に堕ちてしまうことにも気づかないままです。世で、一番汗顔すべき、一番恥じるべきことは、これより大きなことはありません。孟子さまが仰っていたように、「恥之於人大矣(恥を知ることは、人間にとって、とても大切なことです)。」なぜなら、恥を知ることができれば、聖賢になれます;恥を知らないだと、畜生に入ります。これは改過するに当たって、とても肝心なところです。(★過ちを直すに当たって、了凡先生は三点を挙げました。一つ目は、恥を知る心です。儒教の教えの「知恥近乎勇(恥を知るは勇に近し、つまり、恥を知っているから勇猛精進に改過自新できます)」が言っているように、「勇」は勇気を持って、思い切り改過自新(かいかじしん 過ちを改めて心を入れかえること)することです。★人は、本当に恥を知る心があれば、一つの妄心(もうじん 煩悩にけがされた心。迷いの心。誤った心。)も起こせず、一つの悪念も起こせなくなります。常に昔の聖賢達を思い出すべきです。彼達は確かに万世の師表です。孔子は、今まで2500年以上にわたり、釈迦仏は、今まで3000年近くにもわたり、今でも、国を問わず、民族を問わず、さらに信仰を問わず、世間に伝えつづけられてきています。今でも、多くの人々に尊敬され、その教誨を受け入れられ、見習われています。彼達こそ本当の「大丈夫(だいじょうふ、儒教では、道徳が高く、人格の優れている人のこと)」と呼べます。彼達はそれができるのに、私はなぜできないのかと自分によく言い聞かせると、自然に気持ちを奮い立たせて、自ら努め励むことができます。★世の七情五欲にふけり溺れることは、つまり、世間の人は、過度に情欲の快楽に溺れていて、その情欲は本当ではないことに気付かないままなのです。その中に、確かに、楽があります。聖人もそれを否定しません。しかし、あなたはその快楽と情欲のために、大きな代償を払ったのです。つまり、得より損の方が大きいのです。そのことを、釈迦様が経典の中で、教えてくださらなければ、我々はそれを想像すらつかないのです。我々が払った代償は大きすぎます。その代償とは、まさに、六道輪廻です。その真相を本当に分かれば、とても怖くなります。世で一番恐怖なことは、実は六道輪廻です。★聖賢達は、この世にいると、七情五欲から離れていないのですが、彼達は、情欲に対してとても無欲淡泊であって、言動は礼儀にかなっていて、正しく道理や道義にも合っています。「礼」とは、節度があるものです。つまり、やり過ぎてはいけません。逆に、足りないこともいけません。足りないこととは、つまり、礼にかなっていません。過度だと、同様に、礼にかなっていないことになります。だから、「礼」には「節」があり、「節」とは、節度です。昔の聖賢達の教誨では、結婚し家庭を作り、子供を産むことにあたっては、夫婦は賓客(ひんきゃく、大事な客)に対するように互いに尊重し合うべきです。つまり、家庭のなかにも、節度があります。絶対に情欲に溺れることがありません。現在の社会と違います。だから、昔の家庭は和睦で、秩序があります。この部分の家訓は、意義が深く、我々凡夫の病根(びょうこん、悪いことの根本原因)を示してくださいました。我々凡夫は聖者になれないのは、まさに、そこに根本的な原因があります。
★一番浅い部分から話すと、人々は七情五欲の享受が好きですが、自分の命をもっと大事にします。その命さえも捨てなければといけない時になると、恐らく、七情五欲も捨てられます。それでも自分の身体と命だけ、捨てたくなくて、尚且つ、自分が長生きできるように望んでいます。それも人間としての普通の感情です。自分を長生きにさせたければ、生活の各方面を節制(せっせい、ほどよくすること)するべきです。古人が言うように「病気は口から入り、災いは口から出る」というように、災厄に遠ざけたいであれば、言葉を慎重にしなければなりません。態度を慎まなければなりません;身体健康でいたいのであれば、食事や日常生活を注意しなければなりません。沢山の人が健康長寿を願っていますが、その道理が分からなければ、中年以後になると、身体はだんだん衰弱になっていきます。養生の方法を知らないからです。私が実践している養生の方法は、26歳に仏法を習い始めて半年間経った時に、菜食のいろいろなご利益や菜食すると健康にすごく有益であることを知り、菜食主義者になることを決心しました。26歳から今まで、菜食して五十何年も経ちました。私の同級生や友達は、みんな私を見て、羨ましくなっています。なぜなら、私の顔つきが変わったのです。そして、体質も変わりました。今年私は75歳で、病気になったことがありません。私の身体はとても健康です。去年、オーストラリア政府が私に永久居住許可を贈与して下さったときに、規定に基づいて、私は健康診断しにいきました。検査が終わると、医者が私に言いました「和尚さんはとても健康で、ここに来て検査する必要が本当にないです」。私は「必要がなくても、検査していただきたいです」と言いました。なぜなら、私は検査を受けると、みなさまに、仏法を勉強するご利益を示すことができます。第一のご利益は、健康な身体です。私の今の体力は、三、四十代の人の体力と比べられるぐらいです。医者は私に何を食べていて、なんの営養品をとっていますかと聞きました。私は「私はどんな栄養品も食べていません」と答えました。なぜなら、そのようなものはみんな副作用があります。生活は簡単にすればするほどよいです。お野菜、お豆腐でいいのです。私は水を飲みます。飲料などを飲みません。飲料の中に、本当の事をいうと、今の人は衛生を言いますが、飲料は衛生とは言えません。中に沢山の化学成分が入っています。お茶でさえ、人がお茶を出してくださったときは、その方に敬意を示すために飲みますが、それ以外、私自分ではお茶を飲みません。私自分では、水を飲みます。そして、私が食べる食事の量はとても少ないのです。間食も絶対にしません。私は、毎日読書する時間がとても長いので、夜の12時位になってやっと寝ます。翌朝の六時ぐらいに起きます。特に用事がなければ、昼食の後に少し休憩します。何らかの用事があれば、休憩しなくても大丈夫です。私は気力が満ち溢れていて、仕事も正常にこなしています。それでも、菜食には栄養がないと言えますか?私はその証明ができます。沢山の出家者は菜食していても、身体はとても元気で、痩せていません。
★ですから、健康の本当の要因は、心の清浄です。心に妄想がなく、雑念がありません。その次は、食事や日常生活に正しくしていることです。秩序があって、節制があることです。絶対に、七情五欲に溺れないことです。それだと、あなたの心は初めて、清浄になれます。名聞利養(みょうもんりよう、名声と利得)、貪瞋痴慢(とんじんちまん、貪欲、瞋恚、(因果応報を信じなくて善悪の区別がつかない)愚かさ、傲慢さ)を放下しなければなりません。心が清浄でいることは、健康の本当の原因です。七情五欲に溺れていて、節制しないのだと、その結果は想像するに堪えないほどです。身体の健康はまずありません。
★畜生などの悪道(三悪道、つまり、地獄、畜生、餓鬼道)に堕ちてしまうことは、つまり、仏が経典でよく説かれているように、「人の身をとても得難く、仏法にとても出会い難い」です。我々がこの一生の人間の身体を失うと、来生はまた人間として生まれ変わることは実に難しいです。その比例はとても少ないです。大部分の人間は、次、同じように人間として生まれて来られません。なぜなら、人間として生まれて来るには条件があります。それは、仏法のみならず(仏法でしたら、親孝行して、五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫(出家者なら不淫欲)、不妄語、不飲酒)を守れば、来世はまた人間として生まれかわることができます)、中国の昔の聖賢達からも教わりました。それは、仏法の中で説く五戒と十善(不殺生、不偸盗、不邪淫(出家者なら不淫欲)、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪、不瞋、不邪見。この十戒をよく守り、さらに、慈悲な気持ちを持っていて、人の善行を喜び、布施行をよくすると、来世は天に生まれ変わります。もちろん、この五戒と十善を守り、念仏して、極楽浄土への往生を願うと、必ず、六道から脱出でき、極楽浄土へ行けて、仏になれます)を守ることと同じように、儒教でも、倫理道徳、五倫十義(「五倫」とは、身分や地位です;「十義」とは、その身分や地位に応じて果たすべき義務です。「五倫十義」は簡単にいえば、つまり、夫は道義があって、温厚仁愛で、妻は温和で優しく従順でいて、それぞれの家庭での務め(男子は家庭の収入を獲得し、妻子を思いやり守り、教育し;女子は子供を産み育て、よく子を教育し、そして夫に従い、よき相談相手になって支えることなど)を果たすべきです;父母は慈悲で子供を愛するべきで、子供は両親を敬い、親孝行するべきです;年長の兄弟は友愛で弟妹を守るべきで、年少の弟妹は年長者の兄弟を敬うべきです;年長者、上司や先輩は、年少者、部下や後輩に対して、仁義があって、守ってあげるべきで、年少者、部下や後輩は、年長者、上司や先輩に対して、忠実で責任を持って言われた仕事に努めるべきです;友達同士は信用を守り、義理人情があるべきです)を全部よく守れば、来生は必然で、また人間に生まれ変わることができます。我々は今人間として生まれて来たことができたのも、過去生で、五戒十善をよく修めたからです。この一生はその過去世の修めた果報です。しかし、この一生で、私たちは引き続き、その修めをしていますか?それは自分自身に問うべきことです。
★聖賢達は私たちと同じく人間でしたが、彼達は天人になり、聖人、賢人になり、さらに菩薩、仏になりました。それに対して、我々は今の考え、見解や言動などが共に不善であるので、我々の前途は餓鬼道、地獄、畜生です。果報には天地の差があります。本当に恥ずかしく感じるべきです。ある人が私に聞きました。「和尚さんはなぜ仏法を学びますか」?私の答えはとても簡単でした。「仏法を習うのは、聖人に習い、道理が分かる人間になるためです」。道理が分かる人間になることのみで、自分の境地を高めることができます。現在は仏菩薩と同じような生活をして、将来は仏菩薩の境地に入ります。我々仏法を習う本当の目標はそこにあります。今、この身体がまだ存在する間に、この身体から離れていない間に、この身体を道具として利用して、国、社会やみんなのためにより多くの善事をして、奉仕していくことです。この身体はそのための道具です。「了凡四訓」中から言えば、つまり、断悪修善(だんなくしゅぜん、過ちを改め、善行を修め)、積功累徳(しゃっくるいとく、功を積み、徳を重ねること)することです。人々の模範になれるように努めることです。その際にこの身体という道具を使わないといけないですが、その身体は私には全く関係なく、ただの道具です。(仏法では、この身体は仮のもので、一時的なものです。その身体を執着してはいけないと説かれています)

そして、改心するにあたって、二つ目は、「畏敬(いけい、畏れて敬う)の心」を起こさなければなりません。
(★「畏」を知ることができると、初めて、誠意をもって相手を敬うことができます。「畏」とは、かしこまる、恐れるという意味で、その中にも恭敬(くぎょう、きょうけい)な意味も入っているので、「畏敬」としてつながって使う場合は多いです。★「畏敬の心」、昔には、みんな、父母、教師、目上の人や年長者に対して、畏敬の念を持っていて、敬愛しながら、おそれる気持ちもありました。考えてみれば、もし、畏敬な心を持っていなくて、恥も知らないのであれば、そのような人はどんな悪いこともできそうですね。今の社会では、恥を知る人は少なくなってきて、畏敬の気持ちを持っている人も減りました。原因はどこにありますか?よく教えてあげていないからです。人は聖賢ではなく、仏菩薩でもありません。だから、教育は何よりも大切です。だから、「礼記(らいき)」の「学記(がっき)」編の中で「建国君民、教学為先(国を建設して、その国民を統治するに当たって、教育することは一番大切である)」と説かれています。)

私たちの上に天と地の鬼神が監察していて、彼達をごまかせません。例え私たちの陰でのわずかな過ちでも、天と地の鬼神達からみれば、鏡にはっきりと照らされているように、すべてお見通しです。私たちが犯したその過ちは重いのだと、必ず、私たちは想像がつかないほどの災難に遭うことになり;その過ちが軽いのだと、私たちの現在の福報が減ってしまいます。私たちはそれでも、まったく恐れないでいられますか?そればかりではなく、日頃の日常生活のなかでも、実は、沢山の人に見られています。私たちの言動はすべて見られているのです。私達はいくらそれを隠そうとして、巧妙な手口で過ちをごまかそうとしても、学問や道徳がある方などの他人からみれば、すぐその本心を見破ることができます。本当に自己欺瞞(じこぎまん、自分で自分の心をあざむくこと)するだけで、一文の値打もありません。それでも、恐れて謹む気持ちになれないのですか?
(★天地鬼神はいますか?絶対います。います?どこにいますか?我々の目では見えないし、耳にも聞こえず、身体で触れることもできないのです。しかし、我々が接触できないのだから、存在しないと認識してはいけません。我々が接触できないものは沢山あります。それらは存在しないと言ってはいけません。そして、現実に、鬼神に関わる言い伝えは、中国歴史に多く記載されていて、現代でも、よくテレビ、新聞や雑誌などから、いろいろ鬼神にまつわる話が報道されています。それらの報道は本当ですが、それでも、沢山の人が信じません。それも無理はありません。自らの経験でないと、いくら人から聞いても、信じられません。どの日かに、本当にご縁があって、鬼神を見かけて、そこから初めて信じるようになるでしょう。
★私が仏法を学び始めた頃に、つまり二十代の時に、朱鏡宙居士、とてもお世話になった長者で、彼から沢山の実話を聞きました。すべて彼ご自身が経験したことで、本当の話です。その時に、私たちが彼になぜ仏法を勉強し始めたのかを聞くと、彼はそのきっかけを話してくださいました。それは、1930年代頃に、朱鏡宙居士が蘇州市のある銀行の頭取をしているときのことです。ある晩、彼は友達と集まってマージャンをしていました。よく夜中の二時頃になって、ようやく帰宅していました。或る晩、彼が家に帰る途中のことです。その時は、交通機関は今のように多くなくて、彼はいつも歩いて帰りました。街灯も少なくて、すごく離れた所に少しあったぐらいです。だから、結構うす暗いのです。彼の帰宅する道は大体、歩き四、五十分の距離です。その晩、彼はいつものように、夜遅く歩いていると、彼の前方に知らない人が歩いていました。最初は、彼は特に気にしていませんでした。しかし、その前の人の後ろで歩いてから三十分位経った時に、突然、彼は考えました。前の人が女性のように見えていたので、「一人の女性はなぜこんな夜中にこんな暗い道に出てきたのでしょうか」と不審に思った途端に、突然鳥肌が立つほど怖くなりました。それで、前の女性をよくみると、なんと、上半身だけで、下半身はなかったのです!彼は背筋が凍るほど怖くなりました。彼が驚いている間に、前の人はいなくなりました。消えたのです。彼はその人と一緒に30分も歩いていたので、絶対に、目がかすんでいたわけではありません。彼は本当のお化けを見えました。その日から、彼は仏法を信じ勉強し始めました。朱鏡宙居士は、仏法を学び始めてから、そのお化けにとても感謝感激していると言いました。なぜなら、もし、その目で見ないと、彼は一生絶対に仏法を信じなかったからです。彼の岳父である章太炎は、当時の文壇で盛名を馳せていた方で、敬虔な仏教徒でもあります。沢山の実話を知っていて、よく朱鏡宙居士に話してあげていましたが、朱鏡宙居士は、それを聞いても、半信半疑でした。しかし、ずっと後になって、そのお化けを見たことを自ら経験すると、やっと、信じるようになりました。このような実話は、沢山あります。もっと話すと、何時間もかかります。とても面白くて、絶対に嘘偽りではありません。
★私たちの善行を人に知らせないほうがいいです。逆に、我々の悪事は、人に知ってもらった方がよいです。なぜなら、人に叱られると、それだけでその悪行を大分償えるようになります。人から指摘されると、本当に私たちの過ちであれば、その指摘を素直に受け入れ、悔い改めます。もし、人に指摘されたが、私にはそのような過失がまったくなかったときにも、私は喜びます。なぜなら、私は濡れ衣を着せられましたが、その無実の叱責で私の災いが消されます。それは私の業障が取り除かれることができる最高の方法です。だから、人の叱責は事実であるかどうかにかかわらず、我々は感謝の気持ちを持つべきです。古くから伝えられている「有則改之、無則嘉勉(過ちがあれば、すぐ改めて直します;なければ、今後それがないように自分を戒めます)」のように、つまり、人から叱責されたとき、特に悪意がある批評の時でも、私にはそのような過失があれば、すぐ改過自新します。私にはそのような過失がなければ、今以上に努力して、そのような過ちがないように自分を戒めます。そうすることによって、自分自身の道徳や品行を高めることができます。ですから、本当に断悪修善し、積功累徳(しゃっくるいとく 功を積み、徳を重ねること)して、自分自身を高めることができる人は、世の一般の人と違います。彼の心の中は人の良いところばかりを見ていて、人の欠点や不善を自分の心に置かないのです。人の過ちを自分の心に置くことは、もっとも無意味で価値のないことです。なぜなら、私たちの心は本来善良であって、とてもきれいなのに、人の不善をその心に置いて、気に留めると、結局自分の純善なる心を潰す羽目になります。もったいないことであり、無駄にくやしいことです。)

それに、一人の、極めて大きな罪を犯した人間は、例えばまだ最期の一息が残っている時など、どんな時であっても、その罪を懺悔し、改心することができます。また、古人の中には、一生悪事を働き、死の直前に、それを悔い改めて、一つの善なる念を起こしたので、それによって、死後の平安の兆しとして、苦痛がなく安らかな亡くなり方を果たすことができた方がいました。つまり、その一念の猛烈さによって、百年もの悪行が洗い落とされることができたのです。それはまるで、千年にわたって暗かった岩窟の中を、一つのランプだけで照らすと、その千年もの暗黒が取り除かれるかのようです。ですから、過去の過ちであろうと今の過ちであろうと、問わずに、改めることができるのは一番貴重なことです。
(★過ちは暗闇のようで、一つの灯りでその暗黒を照らし破ることができます。その灯りとは智慧です。覚醒(目が覚めること)です。本当に自覚して、過去の行為が間違っていたと悟ると、その一念の覚りで、一念の本当の智慧が表れてきて、それで罪が消されていきます。しかし、その一念の覚り、その一念の智慧はとても得難くて、貴重なものです。なぜなら、我々は長い間に情欲の中にいて、無量劫以来、情欲に迷い込んでいます。生命は恒久です。我々の肉体は短いですが、我々の精神は永遠にわたって存在します。仏教では、我々に法身慧命(ほうしんえみょう、自性とその智慧)があると説かれています。その法身慧命は恒久なものです。しかし、我々は無量劫の輪廻の中で、その本性を迷い失ってしまいました。むやみに、無知に、この肉体は自分だと執着して、五欲六塵(ごよくろくじん、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つの欲と、色・声・香・味・触・法の六塵です)の享受を貪って、無量無辺の罪業を造りました。それが原因で、この一生で、いろいろな意に適わないことに出遭い、一生で、いろいろな苦難に遭遇することになっています。ですから、我々は凶を取り除き、吉を求めるために、まず、改過をするべきです。了凡先生は、ここで、自分の経験を家訓にして教えてくださいました。特に、私たちに、最期の際にまだ一息でも残っていれば、そこで悔い改めれば、どんな大きな過ちでも取り除けることを教えてくださいました。)
(定弘法師の講義:
★「古人の中には、一生で悪事を働き、死に際に、それを悔い改めて、つまり、一つの善なる念を起こさせたので、それによって、死後の平安の兆しとして、苦痛のない、安らかな亡くなり方を果たせた方がいました。」:
経典にこのような例がありました。『観無量寿仏経』中では、ジャータシャトルは邪知邪見で、あの提婆達多(だいばだった、仏の弟子でしたが、釈迦さんを裏切って、仏法の教えを背いて、自分で仏陀になりたいからと、釈迦仏を殺害する企みし、破和合僧(はわごうそう、六和敬を修める正法僧団を仲違いさせる)をしていました)と一緒に組んで、ジャータシャトルは自分が国王になりたいから、提婆達多と密謀(みつぼう、秘密のはかりごと)をして、自分の父親を殺して、母親を監禁して害を及ぼしました。その罪はとても重くて、五逆罪(父親を殺す、母親を殺す、阿羅漢を殺す、出仏身血(すいぶつしんけつ、仏身を傷つけ出血させること)、破和合僧この五つの、無間地獄に堕ちる重い罪)と十悪業(十善に反対する事、つまり、殺生、偸盗、邪淫(出家者は淫欲)、妄語、両舌、悪口、綺語、貪、瞋、邪見(愚痴))を犯していました。それはすべて地獄の果報が待っている罪ですので、提婆達多は生きたまま、地獄に堕ちました。アジャータシャトルは、臨終のときに、地獄の火が見えて、恐怖を感じて、そこで犯した罪を心から深く懺悔しました。釈迦仏は彼に念仏して極楽浄土への往生を願うように教えてあげました。そこで、アジャータシャトルは一念の善なる念を起こして懺悔して、極楽浄土への往生を願い、一心念仏して、本当に極楽浄土へ往生できました。しかも、その往生する品位(ほんい)はとても高くて、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)でした。他の例にも、「往生伝」に記載されていた唐の時の張善和の場合ですが、その人は、牛を殺す仕事をしていて、一生、数を数えきれない程の牛を殺しました。彼の臨終のときに、ある出家者に教え悟らされ、殺生業を懺悔して、改心して、極楽浄土への往生を願い、ついには念仏して、往生できました。
ですから、上の事例のように、肝心なのは、我々が改心できるかどうかです。
★「つまり、その一念の猛烈さに、百年もの悪行が洗い落とされるのます」:
その一念は、凄まじく、真心が究極に達している至誠な心です。経典にも、至誠な心で「南無阿弥陀仏」と一回を念仏すれば、八十億劫(こう、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間と言われる)の生死重罪(しょうじの重罪、前世の善悪の業により生死を繰り返すこと)が除かれると説かれています」)


しかし、この世は無常であって、命を失いやすく、一息でも吸えないと、呼吸が停止してしまい、命がなくなります。その時に改心したくても、もう時すでに遅しなのです。そうなると、まずこの世の果報では、千年も、百年も、悪名を傳えられることになり、仮に家系に孝行な子供や賢い孫が生まれてきても、そのあなたが背負う悪名を洗い落とすことはできません。そして、死んだ後にあの世の果報では、千劫も、百劫も地獄に堕ちたままで苦を受けることになり、仮に聖賢、仏菩薩が来ても、そのあなたを助け出せることができません。そんなことを考えても、恐れずにいられるでしょうか?
(★死ぬまで改心しないで後世の人々に罵られるほどの汚名を残すことは、非常に不名誉なことです。実は、それより、更に恐ろしいことは、来世の果報を受けることです。悪業を造り過ぎて、所謂、「十悪五逆罪」です。その罪は、阿鼻地獄に堕ちる果報が待っています。地獄と言えば、本当にとても恐怖なのです。仏は「地蔵菩薩本願経」の中で、はっきりと説かれています。重い罪があれば、苦しい地獄の果報を受けることになります。地獄はどこから来たのですか?昔、私が初めて仏法を習うときに、朱鏡宙居士が私に、彼の岳父である章太炎先生の実話を教えてくださいました。章太炎先生が当時北京に住んでいて、そのとき、彼はしばらくの間に、東嶽大帝(とうがくたいてい、泰山府君(たいざんふくん)とも呼び、閻魔大王の次に高い地位の冥府の大王です)の判官(はんがん)になったことがありました。本当に鬼神がいます。東嶽大帝は中国の山東省の泰山にいます。彼は五、六個の省(日本の都道府県みたいな中国の行政単位)を管轄していて、管轄範囲はとても大きいです。その管轄地域中の人の生死、吉凶禍福を全部管理しています。判官の地位も高くて、今の事務総長に相当します。東嶽大帝は章太炎先生にその判官の仕事を担当するように招きました。章太炎先生が晩寝ているときに、輿を担いでいる二人の冥府の獄卒が来て、その輿に章太炎先生を乗せて冥府に連れて行きます。夜が明けると、彼の冥府でのその判官の仕事が終わり、また自宅に送り返されます。彼は昼間に、この世つまり人間で仕事をし、夜、冥府で仕事をしなければれならないので、昼夜休むことができません。
 章太炎先生は昼間に、冥府での見聞を友人に話していました。彼は地獄の中に炮烙(ほうらく。銅の円柱を業火で赤くなるほど熱していて、罪人がその円柱を抱くとすぐ灰になるほど焼かれ、焼き死んでしまい、そして、地獄の業風に吹かれて、生き返って、またその火の柱を抱きにいく、そうしてまた焼き死に、罪の果報が尽きるまで、その刑罰の繰り返しなのです。これは淫欲の果報で、邪淫などを犯した男性が地獄で受ける刑です。彼達は淫欲の業力で、その火柱が美女に見えるから、抱きに行くのです。焼き死んで、地獄の業風に吹かれ、生きかえった時には、先の事もうすでに忘れていて、また火柱が美女に見えてしまい、抱きにいきます。ちなみに、邪淫を犯した女性には、地獄では鉄床(鉄のベッド)の刑罰が用意されています)という刑罰があるのを見ると、とても残酷で、非人道的だと思い、その炮烙(ほうらく)の刑を廃除するように、東嶽大帝に進言しました。東嶽大帝はその進言を聞くと、うなずき、何も言わずに、二人の獄卒に章太炎先生を、炮烙の刑罰の行われている現場に連れて行くように命じました。その刑の現場に着き、獄卒が「着きました」と章太炎先生に伝えても、章太炎先生には何も見えません。そこで、彼が恍然大悟(こうぜんたいご、突然分かるようになること、ふと思い当たる、はっと悟る)しました。なるほど、なんと地獄は閻魔大王が作ったものではないのです、閻魔大王が作っていないから、もちろん、それを廃除することができません。その地獄の刑罰はどこから来たのですか?それは、罪を犯した人の自分自身の業力で自然に変化し出したものです。人が悪夢を見るように、自己自得で、他人のだれかがわざと作り出したものではありません。章太炎先生はそのことが分かり、その後そのような進言をしなくなりました。

最後に、改心するにあたって、三つ目は、「勇猛精進な心」」を起こさなければなりません。人は改過できないのは、大体は、本気になれず、ぞんざいで、いい加減に、その日暮らしをするからです。私たちは、「また今度に直すから」とぐずぐずせずに、ためらわずに、今すぐ果敢に、改過自新に勇気を持って、挑戦していく心を奮い起こさねばなりません。小さな過失だと、体に刺さった小さい棘のように、すぐに取り除いて;大きな過失だと、指先が毒蛇に噛まれて、毒が急速に体中に蔓延する前に、すぐその指を切り取らなければならないように(訳者:昔の民間療法はそのような治療法だったと思います)、少しもためらわずに、怠らず、滞りなくすぐ改めなければなりません。それはまさに「易経」の六十四卦(ろくじゅうしけ)の第42番目の風雷益(ふうらいえき)卦です。
その「恥を知る、畏敬の心、勇猛精進な心」三つの心を起こしていれば、たとえ、過ちがあっても、春の氷が太陽に当たってすぐ融けるように、勇猛で直ちに直せて、改心することができ、成功しないということはないのです。

しかし、人の過ちと言っても、「事柄上から改める」のと、「道理上から改める」のと、「心の念から改める」とのその三つがあります。修行の技量が違うので、現れる効果も異なります。例えば、以前は殺生していました。今からそれを改め、殺生しないように誓います;以前は怒って人を罵りました。今から、それを改め、怒らないように誓います。そのようなことは、みんな事柄上から改める方法です。これは自分自身を強制的に抑えていることで、かなり難しい修行です。その病根は依然として、残されていて、抑えられるときと、抑えきれない時が出てきます。それはやはり、抜本的な改善策ではありません。
本当に上手に改過できる人は、やはり、具体的な事柄を禁止する前に、なぜそれをしてはいけないのかとういう道理を知るべきです。例えば、私達には殺生という過ちがあることにします。その時は、まず、考えるべきことは、天道は全ての命を慈しみ、愛し、大事にしています。そして、すべての命があるものは、みんな自分の命を大事にして、失いたくない死にたくない心を持っていて、私達は自分を養うために、彼達を殺しています。私達は本当にそれで、安心できますか?尚且つ、彼達が殺された時の状況や、包丁に刻まれ、鍋に入れられ、煮られているときのいろいろな極めて悲惨な苦痛を考えてみたことがありますか?私たちは、自分を養うために、日常的にいろいろな豊富な珍味を食べています。しかし、食べ終わると、味がなくなります。なにもありません。それでしたら、野菜や豆などの菜食でも、十分お腹を満たるのに、なぜ、必ず、殺生の罪を犯して彼らの命を犠牲にしてまで、自分の福報を損なうことをするのでしょうか?

さらに、血がある命はみんな霊知(れいち、ここでは、知覚、知恵、仏性です)があります。霊知がある以上に、私達人間と同じく、一体です。私たちは自分自身の徳行(とっこう、徳の高い行い。道義にかなった行い)を修め高めて、彼達の尊敬を集め、親しまれることができていないのだけではなく、逆に、毎日彼達を殺して食べ、彼達に、未来に渡り、限りなく、深く憎まれ、長く恨まれ続けられることを何故平気ですることができるのでしょうか。そんなことを考えてみると、肉や魚などの命ある食べ物をみると、悲しくなり、とてもその肉が喉を通らなくなります。
そして、もし、私達は以前、「よく怒る」という過ちがあるならば、その時に、まず、考えるべきことは、人間誰にも至らない点があります。それをある程度理解してあげ、大目に見て、不憫に思い、許してあげるべきです。そして、仮にそれは、誰かが、理不尽にわざと我々を困らせるようなことをしているのであっても、それは、彼が道理をわきまえていないことだけで、彼の過失なので、我々に何ら関係ありません。怒る必要もさらにありませんと考えるべきです。
そして、もっと考えるべきことは、本当の天下の豪傑には、誰ひとり、傲慢で独りよがりな人がいないはずということです。そして、聖賢の学問も、決して、人に貪欲、傲慢、瞋恚、怨恨の気持ちを引き起こし、他人に害を及ぼすようなことを教えている学問ではありません。ですから、他人からなんらかの不適切な扱いをされたときに、我々は自分自身を省みます。すべては、我々自分が道徳学問をよく修めていない、またその修めがまだ足らなくて、我々の誠意と真心も足りなかったから、それで、その相手に感動を与えられなかった、感化することができなかったからのだと思うべきです。
そのように、すべて自分自身を点検して反省するのです。そうすれば、例え他人から誹謗中傷をされても、「玉琢かざれば器を成さず(たまみがかざればうつわをなさず、《「礼記」学記から》生まれつきすぐれた才能を有していても、学問や修養を積まなければ立派な人間になることはできない)」のように、それらの出来事は、すべて、この私の道徳と学問を高めるため、私を鍛え、磨くためのものであるのだと悟ります。私はまったく怨恨の気持ちを持たずに、喜んで、すんなり承ります。どこにも怒る必要がありません。そのようにして、誹謗中傷するような言葉を聞いても、なにもないようにまったく怒らないでいると、例えその讒言の炎は天にも昇るほどの勢いであっても、誰かが火のついたたいまつを持って虚空を燃やすようなことで、いつか、その火が自ずと燃え尽き、消えていくように、その誹謗中傷も結局自然に消えていきます。
もしその誹謗中傷を聞いて、すぐ怒り出してしまい、いろいろな理由を挙げて極力自己弁明しても、結局蚕が糸を吐きだし、繭を作り自分をくるむように、自縄自縛(じじょうじばく、自分の心がけ・言葉・行為のために、自由な動きがとれず苦しい立場になること)すると同じで、自ら厄介事に頭を突っ込み、悩む道を選ぶようなことになります。だから、怒ることは無益であるというだけではなく、さらに、実に有害であります。
同じように、殺生や怒ることの他にもいろいろな過ちがある場合も、すべて、今のように、道理上から改め、つまり道理をわきまえてよく考えることです。その道理が分かれば、自然にその過ちを改めることができます。
そして、その「心の念から改める」とはなんでしょうか。過ちは沢山ありますが、すべて我々のその心が作り出したものです。我々の心さえ不動でいれば、過ちはどこからも出てきません。本当に聖賢に学びたい、仏法を修行したい人は、例え色欲、名誉欲や物欲が深く、怒りっぽいなど、諸々の過ちがあっても、逐一探し出して、一つ一つ直していくのではなく、ただ、一心になって善を為していればよいのです。常に正念を保てていれば、自然に邪念に汚染されることがなくなります。太陽が空高く輝き、明るく照らせば、自然にもろもろの魑魅魍魎(ちみもうりょう、暗い所に隠れるのが好きな、木や石、川などの様々な化け物)、妖怪変化(ようかいへんげ、妖怪、怨霊、お化け、魔物など)が消えていくように、常に正法、正念があると、自然に邪法、邪念の居場所がなくなります。これは古来、聖賢の教えの神髄、極意です。
過ちは心より作り出されたもので、もちろん、根本的な所から、つまり心より改めなければなりません。例え毒樹を切るときも、枝を一つ一つ切ったり、葉を一枚一枚取ったりするより、直接その根を抜き取って、根こそぎにする方がよいみたいなことで、根本からの解決策を講じなければなりません。ですから、大抵の最上級の修行技量は、心念(しんねん、心の考えや思い、心に念じること)から退治することです。その効果も抜群で、すぐさま心が清浄になれます。心が動くと、すぐそれに察して、すぐさまその念を消し、無くします。もしまだそのようにして心から改めることができなければ、二の次の策として、「道理上から改心すること」で悪念、邪念などの過ちを除去します。それもできなければ、三番目の、つまり、「事柄上から、逐一に改め、対処する」しかありません。
そして、最上級の改過する方法の「心念から改める」ことができる上根(じょうこん、修行の機根(きこん、能力、素質)が優れている方)の人は、必ず同時に、下の三番目の「事柄上から改心する」の基礎も疎かにしません。つまり、心念上、道理上、事柄上から同時に修めるのはよい方法です。しかし、もし、事柄のみ直して、その道理が全く分からず、心念も依然として変わらないでいると、それは、やはり少し不器用な改過する方法となります。
しかし、改過することに発願すると、明らかに分かるところでは、常に善友からの勧誡(かんかい、善に向かうようにすすめ、悪に陥らないよういましめること)が必要です。そして、目が見えないところでは、つまり冥々中では、鬼神達の護持や感応も必要です。
昼も夜も、一心に懺悔し改過して止まないと、七日間、十四日間、一か月、二か月、三か月間になると、必ず霊験あらたかになれます。その感応としては、例えば、以前なんとなく憂鬱に感じていたに対して、改過した今は、心が広くなって、安らかで、愉悦に浸ります。または、以前よく間違った判断をするに対して、今は物事に対処するときに、智慧が湧くように、相応しい判断ができるようになります。または、以前はいつも忙しくて、よく疲れを感じ、いろいろな障礙に出遭い、なかなかうまくいかなかったのですが、今は以前と違って、すべて、順調に運べるようになって、厄介な問題や忙しい事もなんとなく、順序よくこなしていて、疲労感もありません。あるいは、以前に苦手な人や嫌いな人を見ると、何となく、苦手意識や嫌な思いをしてしまいましたが、今は、そういう人を見ても、嫌ったり、恨んだりしないだけではなく、さらに、その人達に対しても、心から善意な気持ちを持って、礼儀正しく接することができるようになります。さらに、夢の中にも、不思議な境地を見られます。例えば、夢の中で、黒いまたは汚いものを吐き出したり、仏菩薩などの聖賢にお会いできたり、その方達の説法や教誨を聞いたり、助けも頂いたりします。または、夢の中で空に飛んだりして、あるいは、夢で、天の宮殿、極楽浄土などの仏の国土を見たりして、そのようないろいろな殊勝な瑞夢(ずいむ、縁起のよい夢、吉夢(きちむ))を見ると、それらは、すべて、罪が取り除かれた吉祥な兆候(ちょうこう、きざし、しるし)です。しかし、そのような効験があっても、それで満足してしまい、その夢の境地に執着して傲慢な気持ちを起こすと、その吉兆(きっちょう)の瑞相は逆に、改過する修行のさらなる進歩の妨げになります。
昔に、蘧伯玉(きょはくぎょく、春秋時代の衛の大夫(たいふ、官職名))は、彼が二十歳の時に、既に、毎日改過自新し、断悪修善することの重要性を知ったので、とても真面目で努力して改過していました。彼は、毎日とても努力して改過して、一年が経って、二十一歳になったときに、やはりまだすべての過ちを改めることができていないと思いました。さらに、そのまま改過しつつ、二十二歳になって、二十一歳の時の事を振り返ってみると、やはりまた夢の中のようで、まだ過ちがあります。そのまま、年を追うごとに、彼が改過し続けて、五十歳になったときに、振り返って見てみると、やはり、過去の四十九年間の中にまだ何らかの過ちがありました。古人でさえそのような工夫をして絶えずに改過していました。
それに比べて、我々は唯の凡夫であって、我々の過ちや悪業は本当にハリネズミの針のように、実に数がとても多いです。過去を振り返ってみても、自分たちの過ちはどこのあるかさえ分からないことが多いです。それで、十分、我々の心は雑であって、つい、うっかりして、自分たちの過ちさえ見落としてしまうことがよく分かります。しかし、もし、過ちを改めないと、その過ちはますますひどくなるだけです。そして、罪が深く業障が重い人にも、いくつかの兆候が表れてきます。例えば、記憶力が悪くなり、頭の動きも悪くなって、愚かでよく間違ったことをして、忘れっぽくて、彼に何かを言っても、すぐ忘れられてしまう様子とか;他にも、何もないのに、まるで自分で悩み事を探しにいくような感じで、よく、くよくよしたり、イライラしたり、悩んだりする様子とか;または、公平無私で徳行が高い人を見ると、機嫌が悪くなり、または恥ずかしくて気分が悪い様子を見せているとか;あるいは、正論(せいろん、道理にかなった正しい意見や議論)や聖賢の教誨を聴くと、不愉快になる様子とか、さらに誹謗することもある様子とか;または、人に恩恵や物などを施しているのに、逆にその相手から恨まれ、感謝されない状況にあうとか;または夜によく悪夢をみるとか;精神的に元気でないとか;ひどい状況だと、精神的おかしくなり、または認知症にかかったりして、意識が混乱したり、妄言したりする様子とかです。これらの様子はすべて、悪業が多すぎ故に、現れた兆候です。ですから、我々にそのような現象が少しでも起きると、すぐに自分には過ちや悪業がかなり重くなっていたことに気付き、警戒して、すぐさまに奮発して、改過自新しなければなりません。さもないと、事態を更に悪化させ、自ら自分の将来を誤ることになります。


念仏人様のご翻訳された『了凡四訓』(『陰隲録(いんしつろく)』)の一部を整理して掲載させていただきました。
ご覧いただき、ありがとうございました。

テレビが与える子供への影響

2018年08月09日 | 中国の伝統文化
先日、ママ友に会うとき、「テレビ」についていろいろ話しましたが、ここで大好きな「hanako」さんのブログからこれに関する部分を転載させていただき、もっと多くの方に参考してもらいたいと思います。よろしくお願いいたします。

何度かブログ内で、メディアと子供について記事にましたが、子供が産まれてから特に考えるようになりました。

日本でも、2歳以下の子供にテレビを見せないようにと、医者や専門家が推奨しているそうです。

実際にテレビへの影響はどのようなものなのか、ある海外のサイトから紹介したいと思います(以下、翻訳文)。
すべてが日本人にあてはまるとは限りませんが、参考にどうぞ。


多くの子供達は、就学前にテレビを視ています。
およそ3分の2の幼児が、平均1日2時間はテレビを視ています。
6歳以下の子供は、平均2時間、テレビやDVDなどの画面を視ています。
8歳から18歳の子供は、平均4時間のテレビ視聴に加え、2時間をコンピューター(学校外)やコンピューターゲームに費やしています。

米国小児科学会(The American Academy of Pediatrics)は、2歳以下の子供にはテレビを見せないこと、2歳以上でも、1-2時間にとどめることを推奨しています。

生まれてから2年は、脳が発達する重要な時期です。テレビなどの電子メディアは、親や人との関わりや遊びを通して得られる体や心の発達を妨げます。

子供が大きくなってからは、電子メディアに時間を費やすほど、運動や読書、宿題、友人との遊び、家族との時間などの活動的な時間が減ってしまいます。

もちろんテレビにも良い面はあります。いい番組を選べば、幼稚園児は文字を覚え、小学生は自然界を学び、親は夜のニュースで日々の出来事を知ることができます。
テレビがすばらしい教師や楽しみの元になりうることは、疑いようもありません。

しかしながら、これらの良い面に比べ、長時間のテレビ視聴は多くの悪い面もあります。
1日4時間以上テレビを視ている子供は、肥満傾向にあります。
暴力的な番組を視ている子供は、暴力的な行動をする傾向があります。同時に、世の中は何か怖いことがあり、それが自分にも起こるのではないかという恐れも抱きます。
テレビのキャラクターは、喫煙や飲酒などの危険な振る舞いをしたり、その行動が性や人種にステレオタイプな考えを植えつけることもあります。

これに対する専門家の意見は分かれています。
教育番組ならよしとする意見もあれば、全くテレビを見ないのがよしとする意見もあります。
親がテレビ視聴を管理し、テレビは日常的な現実逃避ではなく、時々楽しむものだと教えればよいとする意見もあります。

ですから、親のあなたが子供のテレビ番組と時間を監督することが、とても重要になってきます。


暴力について

子供はどのくらいテレビで暴力に触れているのでしょうか?
平均すると子供は、18歳になるまでにテレビから20万回もの暴力シーンを目にしています。
子供は暴力に鈍感になり、暴力的になっていく恐れがあります。暴力が楽しく効果的な方法として放映されれば、子供が真似をする原因にもなります。

ほとんどの暴力は、子供達が憧れる「正義の味方」によって行われます。
親が「暴力はいけない」と諭しても、テレビは「正義のためなら、暴力をふるってもいい」と教えるのです。
これは、子供が善悪を考え始めた時に混乱する原因になります。また、テレビの「悪いやつ」は、必ずしもその行動に見合った罰や責任を負ったりするわけではありません。

小さな子供は特に、暴力や怖いイメージを恐れます。
単純に「これは本物じゃないんだよ」と言っても、子供の恐れはなくなりません。なぜなら、彼らはまだ空想と現実を区別することができないからです。
暴力問題や悪夢、睡眠障害は、メディアで流される暴力に関連しているかもしれません。

大きい子供も同様に、例えそれがフィクションやニュースであると分かっていても、暴力的なイメージを恐れます。
正しい情報を与え、安心させてあげることが大切です。しかしながら、子供が怖がりそうな番組は、最初から見せないようにすることも考えた方がいいでしょう。



危険行為

テレビやコマーシャルは、危険な行為(飲酒、喫煙、ドラッグ、結婚前のセックスなど)を、かっこいい、楽しい、刺激的なイメージで多く流しています。
また、それをすることの意味について、深く語られることはほとんどありません。

テレビで多くの性的描写を見ている十代の子供は、見ていない子供よりも早く性行動を始めるという研究結果もあります。

テレビのアルコール広告は、年々増え続けています。

タバコのテレビ広告は禁止されましたが、子供達はまだテレビ番組や映画で、多くの登場人物が喫煙しているのを目にしています。
子供達は、飲酒や喫煙行為は普通にしてもよいことだと感じることでしょう。
実際に、1日5時間以上テレビを見ている子供達は、推奨されている2時間テレビを見ている子供より、タバコを吸い始める時期が早いそうです。


肥満

専門家は長い間、長時間のテレビ視聴と肥満問題を訴えてきました。テレビを見ている間、子供達は動かずにおやつを欲しがります。
そして、ポテトチップスや炭酸飲料など不健康な食品のコマーシャルを見続けています。

テレビ視聴の時間を減らせば、肥満度も減るという研究結果もあります。


コマーシャル

米国小児科学会は、子供達は毎年4万回ものコマーシャルを見ていると発表しました。
漫画が放映される時間のジャンクフードやおもちゃのCMは、子供達をひきつけます。それらの商品は理想的で、持っていなければならないものだと感じさせます。
コマーシャルは、しばしば実際の物よりもよりよく見えるものです。

ほとんどの8歳以下の子供達は、コマーシャルは商品の宣伝だということを理解していません。
6歳以下の子供においては、特に、子供達が好きなキャラクターが宣伝している商品の場合、番組とコマーシャルの違いも理解できません。
大きな子供でも、コマーシャルの意味を思い出させることは必要かもしれません。

もちろん、すべてのコマーシャルを排除することはほぼ不可能でしょう。親がテレビを消したり、視聴時間を制限しても、子供達はどこかで最新の広告を目にするものです。

親ができることは、子供達にコマーシャルについて話し、いい消費者になることを教えてあげることです。子供達に質問をして、考えさせましょう。
「この商品のどこが好き?」「実際の商品とコマーシャルは同じぐらいいいと思う?」「この食品は健康にいいと思う?」と。

子供がコマーシャルやその他広告商品を欲しがった時は、コマーシャルの目的は、必ずしも必要でないものを買わせたくするものだと説明してください。。
広告の中には、その商品が手に入れば幸せになれるかのように示しているものもあると。
子供達に現実を話すことで、子供達が物事を客観的に見る手助けをすることができるでしょう。

子供を広告から守るために、米国小児科学会は以下のことを推奨しています。

-コマーシャルのない公共番組を選びましょう(NHKなど)

-ビデオやDVDを見せましょう


レイティングについて

(Hanakoより)レイティングとは、番組が何歳に適するかを示すものです。
日本ではテレビや漫画に対するレイティングはされていないようですが、国によってはテレビ番組表や番組が始まる前に表示されるところがあります。

映画のレイティングシステムは、こちらのリンク(ウィキペディア)から見られます。



よいテレビ習慣について教える

-テレビを見る時間にルールを設けましょう

-テレビの部屋には、子供達がテレビ以外にも興味が持てるように、本や子供雑誌、おもちゃ、パズル、ゲームなどをそろえておきましょう。

-テレビやパソコンは、子供部屋に置かないようにしましょう

-食事中のテレビは消しましょう

-宿題をしている時は、テレビを消しましょう

-いいことをした時、宿題が終わった時など、テレビをご褒美として見せましょう

-平日はテレビ禁止にしてみましょう。宿題やスポーツ、家事手伝いなどの家族の時間を見つけましょう

-テレビ番組は録画したり、週末のテレビ時間を減らせば、食事やゲーム、運動、読書などの家族の時間が増えるでしょう

-親もテレビはメリハリをつけて見るようにし、よい手本になりましょう

-家族で一緒に見られるテレビをチェックしておきましょう(子供の発達上適切で非暴力的なものなら、家族の質を高めてくれます)

-趣味や興味を深めるもの、教育番組(読書や科学など)を選びましょう

-子供が見る番組は、親も事前に見るようにしましょう

-毎週、家族全員で決めたテレビのスケジュールを見えるところに貼っておきましょう。そうすれば、誰が何時にどんな番組を見るのか一目で分かります。チャンネルをころころ変えず、家族で決めた番組だけ見るようにしましょう

-テレビは家族で一緒に見ましょう。親が最後まで見れない時は、少なくとも最初の数分は一緒に見てどんな番組かチェックしておきましょう

-子供と番組について話し、親のあなたの考えを伝えましょう。あなたが好まないシーンがあれば、テレビを消し、子供に質問をして考えさせましょう。
 「今、彼らが暴力で解決していたけど、それでよかったと思う?他にどんな方法があったと思う?あなたならどうする?」
 「今、十代の子がパーティでしていたことについてどう思う?間違っていると思う?」
 特定の誰かが差別されたりしていたら、どうして人は違っていても平等に扱うことが大切かどうかについて話しましょう。
 説明しにくい内容(例えば、性、愛、アルコール、喫煙、仕事、家族、礼儀)なら、逆にテレビを使って説明することもできます。

-他の親や医者、教師などにテレビについて話したり、お勧めの子供向け番組を聞いてみましょう

-テレビ以外の楽しみを教えましょう。子供がテレビを見たがっていても、あなたが消したいのなら、ボードゲームやかくれんぼ、外遊び、度苦慮、図工、ダンス、音楽などに子供を誘ってみましょう。テレビ以外の楽しみは無限にあります。テレビを消して、家族の時間を楽しみましょう。


上記以外にも、検索したところによれば、「幼児が長時間テレビを見たり、テンポの速い番組を見ると、集中力がなくなったり発達障害のような症状が出る」という説もありました。

これについては、私も子供と関わる中で、そういう子供を何度か見たことがあります。また別の記事で紹介したいと思います。


https://blog.goo.ne.jp/kodomo110/e/56d8d296da956e8c1a48f6fe6b6412be#comment-list

蔡礼旭老师解读法昭禅师的《兄弟偈》(中国語のみ)

2018年07月03日 | 中国の伝統文化
(この文は中国語のみとなります、日本語簡単解説は『弟子規』日本語解説(19)にご参照ください。)

法昭禅师有一首偈,叙述兄弟的情谊,非常深刻,大家应该比较熟悉,叫《兄弟偈》:

同气连枝各自荣,些些言语莫伤情;
一回相见一回老,能得几时为弟兄?

弟兄同居忍便安,莫因毫末起争端;
眼前生子又兄弟,留与儿孙作样看。




其实这每一句,都含有很深的情义在其中,不只是对兄弟的情义,也是对祖先、对父母的这一份孝思。
同气连枝,连到那裡啊?连到祖先,连到父母啊。所以兄弟不和,父母是最难过的;兄弟能友爱,是父母最欣慰的事情。再有钱,假如兄弟不和,父母一定无法安心。
有三对姐弟,两个姐姐一个弟弟,父母也是爱护子女,然后留了点钱,就希望给这三个孩子宽裕一点。结果就问这个大姐,这个大姐就讲了,说:爸妈,我不需要这个钱,你就给妹妹跟弟弟就好了。结果问老二,这个二女儿,二女儿说:我不需要钱,你就给姐跟弟就好了。结果问这个小弟,这个钱的事情,然后这个小弟说:爸妈我不需要这个钱,你就给我两个姐姐就好了。
当父母问过三个孩子,三个孩子的态度,都是「给我的兄弟姐妹就好」,我相信这父母会很放心,纵使他们不在了,兄弟一定会非常的互相爱护,互相照顾。
而「各自荣」,也是一体的,所以兄弟如手足,哪有说手跟足不高兴,对立打架的道理。所以兄弟姐妹吵架、记怨,这样的人生叫颠倒。假如还体会不到的话,那我们就拿手去打脚,拿脚去踢手,感受一下是不是颠倒。古人这些比喻,都是让我们好好去体悟这些人生的道理,各自发展,但是互相照顾。人这一生,陪我们最久的,就是自己的兄弟姐妹。父母大我们一倍,而兄弟很可能陪伴我们的人生,可能七八十年都有可能。有的长寿的,兄弟九十几岁还聚在一起,那是他家族的造化。 而古代这些圣贤,他们非常珍惜兄弟姐妹之情谊,甚至于在面对危难的时候,都能为兄弟姐妹付出生命,在所不辞。汉朝赵孝、赵礼,他弟弟被抓去了,盗贼要把他煮来吃,他赶到现场,赶紧就站出来,说:我弟弟病很多,我比较壮,吃我好了。兄弟两个在那裡争着要死。我们看到这样的事例,为之动容,古代连生命都可以为兄弟付出了,我们现在还为一点小事,几个月不讲话,甚至几年不讲话,那真是太惭愧了。
所以接着下一句告诉我们,「些些言语莫伤情」,不要因为一点芝麻小事,就伤害了这一份人生难得的兄弟之情。而这个在古代,兄弟相处,懂得忍让,懂得礼让,他就不会因为言语发生冲突。所以在明朝,陈世恩,他的弟弟行为不是很好,但是他也非常柔软,体恤备至,用一份诚心去感动他的弟弟,没有用言语去斥责。 我们要了解,这个兄弟之间,不要常常拿着道理去要求,讲理就伤情。坦白讲,伤情了,也不在道理当中了。所以,重点不在讲的有没有道理,重点在心态对不对。讲的都是道理,强势了、要求了、指责了,就适得其反。所以这个「些些言语莫伤情」,还是要调伏得了自己的傲慢、自己的情绪化。 尤其,假如我们是弟弟妹妹,讲话还傲慢,那铁定长辈、兄姐更受不了,这是人之常情。为什么?长辈、哥哥姐姐,从小看我们大的,都帮我们甚至一把屎一把尿都换过尿布的,这样的情境,居然我们现在大了,我们拿着权势压自己的兄姐,傲慢了,学历高了,压他们,那这个不符合人情。所以,兄弟姐妹之间相处,还是要懂得恭敬,懂得礼让,懂得不要要求对方,先把自己做好要紧。 所以就有人问他的老师说到,说我尽力已经去奉侍我的哥哥了,但是还是得不到他的欢心,怎么办?他的老师告诉他,你就用更至诚去奉侍就对了,你也不要去强调,去要表白你的心意。 这个话,很值得我们深思。当我们自己觉得,我已经很尽力了,其实很可能我们还没尽力。而那一份对兄姐的侍奉,其实还是带着条件的:我对你好,你得要对我好才行哦。这不是情义啊,这还是利害,还是自我很重。得不到想要的,情绪就起伏了,这一份恭敬就难保持了。真心啊,不会改变的。 而这个不只在言语当中要能忍,「莫伤情」,包含财物也要忍、要让,不要去争。所以《弟子规》才讲,「财物轻,怨何生」。言语能忍了,财物能让了,甚至于家裡的这些工作,能主动去承担,不去互相推诿了,那这个家庭的气氛也会好了。
「一回相见一回老,能得几时为弟兄」。我们都是成人了,这一句话读起来,就很有味道了。成年之后,可能有各自的事业家庭,兄弟姐妹聚在一起的机会相对减少,有时候一年见不到几次。所以每一次见面,感觉彼此好像这个头髮变白了,或者皱纹变多了。那我们当弟弟妹妹的,常常想到,这个成长过程当中,兄姐对我们的爱护照顾,常常放在心上,一有机会,表达这一份感恩,甚至于表达在对兄姐他孩子、后代的关心上面。 我自己感觉这一点也很深刻,因为我父亲是长子,我们小时候是跟姑姑、叔叔统统住在一起的,感觉非常和睦,和乐融融。现在回想小的时候,一家这样十口人,住在那个房子这么小,奇怪,怎么挤进去的,都觉得很怪,觉得现在想起来,觉得不大可思议,可是那时候虽然挤,觉得很温暖。我现在回自己那个老家,进我的房间,那个时候是三个姐弟一起住,那是小得不得了,可是我记忆当中,我们三个还在裡面玩捉迷藏。所以,其实家裡有温暖的时候,吃什么、用什么,都觉得很愉快。家裡假如都争来争去,都不知足了,所有最好的条件,也觉得匮乏。 而叔叔、姑姑都是后来出去成家立业,但是我们可以感觉到,每一次回到老家来,叔叔姑姑就对我们特别好,都可以感觉得到,他觉得要回报自己的哥哥跟嫂嫂。尤其是嫂嫂,为什么?嫂嫂没有血缘关係,都能够这么样照顾他们,所以这样的家风就是重情义、重恩义。 所以,我在看到唐朝「李勣焚鬚」,把鬍子烧掉,就为了帮他姐姐煮个粥,因为年龄都大了,不知道什么时候还可以帮姐姐多做一些事情。 在淮阴,淮阴是在江苏一带,有一个官员的两个儿子,从小就不和睦。结果后来,年纪大了,这个哥哥生了重病,可能也寿命不久了,他就把弟弟叫到跟前来。他感叹的跟他弟弟讲,他十九岁就结婚了,结婚之后,跟妻子的相处也不是很好;三十八岁,父母就去世了,所以也没有再有父母的爱;结果兄弟又从小就不和。所以他现在就很感慨,没有好好珍惜兄弟的情谊,悔悟了,生命却不长久了,可能就快离开了。他谈这个话的时候,旁边这些亲朋好友听了,都为之动容。 这个故事也提醒我们,「勿以小嫌疏至戚」,不要因为小小的不愉快,疏远了自己至亲、兄弟姐妹。所以「能得几时为弟兄」。 事 「弟兄同居忍便安」,居住在一起,要多包容、多体谅,要能忍住脾气,忍住要求。为什么齐家之后可以治国?因为在大家庭当中,形成了非常重要的处世态度,忍让、谦让的这些态度,他出社会当然能跟人家和睦相处。 所以唐朝的皇帝看到这个张公艺先生,他们家是九世同堂。九世住在一起,那挺不简单的,那都可能这个大家族,都延续几百年都有可能,甚至更久了。孔子的后代现在八十几世了,那他们这个大家族假如汇集在一起,可能会有十代同堂的情况。为什么?因为我见过夫子的后代,已经七十三代到八十一代,我们都见过或听说过了。我们接触到的很少,假如孔子后代全部聚集在一起,可能有超过十代了。曾经我们在南京办课程的时候,一期的学员,居然出现四个孔子的后代,然后是七十四代,七十五代、七十六代、七十七代。然后相见欢,他们一起拍照,四代同堂,而且那个七十四代,年龄最小,辈分最大。 所以这个皇帝看张公艺先生,能把自己这个大家族领导得这么和睦,就去请教他。皇帝请教了,臣子当然很慎重,结果在纸上写了一段话,进呈给皇上看。皇上一看,写了什么?写了一百个字,都是「忍」。这很有学问,很有哲理,这一百个字就回答了皇上所有的问题。假如这样了怎么办?忍。假如那样了怎么办?忍。假如又这样了怎么办?忍。人遇到一件事情,能想忍想一百次,我看也没有脾气了,是吧?还有什么好计较的呢。所以「兄弟同居忍便安」。 而其实人与人会冲突,就是觉得自己有理,要去争理了,可能就容易吵了。 所以汉朝的缪彤,这个读书人,从小父亲就去世了,四个兄弟住在一起。后来他这个兄弟吵着要分家,他自己觉得很难过,黯然神伤,进自己的房间裡,就对着上天讲,「缪彤啊,你这个修身、求学问,是为了要代圣贤人教化风俗啊」。从这个话 中,我们可以领会得到读书人的胸怀,只要读圣贤书了,就应该代古圣先贤教化人民,不管有没有当官,这是读书人的本质。「而你既然要教化风俗,居然连自己的家都齐不了,那是太愧对自己所读的学问了!」说完,就自己打自己的脸。 结果他的弟弟跟弟妇发现了这个情况,就非常的惭愧,就跪下来哀求,「大哥,您可不要这样,都是我们错了。」我们相信,他这个至诚心的流露,马上可以感动他的一家人,主要还是他长久以来,其实德行在他的家人的心目当中,都是非常崇高的。只是刚好兄弟遇到一些事情,可能一时迷惑,起了贪念,起了争夺了,而他这个至诚的反省自己,就把这一家人的良心给唤醒了。 所以这一个故事,也给我们体会到一个人生的道理:天地之间,除了「自责」,自责是自我反省,自「尽」,这个「尽」就是尽忠,尽心尽力,人不管跟自己的亲朋好友相处,以至于遇到任何的人事情况,都能守住先反省自己,先问自己有没有尽力了,不先往外去指责、要求,「自责自尽」了,就能感通啊。因为依报随着正报转,没有其他的道理可讲啦。「行有不得,反求诸己」,我有没有该反省的?我有没有还需要再提升、再尽力的?
「弟兄同居忍便安,莫因毫末起争端;眼前生子又兄弟,留与儿孙做样看。」古人可贵,在于一言一行,都想着给后代好的榜样,恩泽于后代。所以我们的民族能五千年不断,就是为人父母、长辈,有这样的胸怀。那我们现在自我重了,做什么事情,很可能都没考虑后代,所以整个社会的风气快速下滑。那其他人没学经教,「人不学,不知道」,那不能怪他,我们既已学习了,应该以天下为己任,我们要做好样子来带动风气。就像师父常讲的,「威仪住持有则德」,给这个社会一个好的样子。不管是对家庭,还是在我们自己工作的团队当中,都要这样期许自己。


资料恭摘:马来西亚中华文化教育中心
《太上感应篇》心得分享(第三十八集)
蔡礼旭老师 2010/10/29