浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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お礼

2021-08-10 | 参考資料
F様
ご指摘ありがとうございます。
仕事が忙しく更新が滞っておりますが、ご指摘いただいた個所をよく検討していきたいと思います。お気づきの点があればまた宜しくお願いします!ありがとうございました!

管理人
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中国古来の智慧と大乗仏教は、現代社会をどう解釈するのか(再掲載)

2021-07-27 | 参考資料
以下の「調和が危機を救う」第二シリーズは、
筆者が浄空法師に関心を寄せる大きなきっかけになったものです。
関心のある方は、最初から通してお読み頂ければと思います。
(記事は2013年に数ヶ月かけて翻訳したものです)

中国古来の智慧と大乗仏教は、現代社会をどう解釈するのか
調和が危機を救う 第二シリーズ

(注)小見出しは内容を把握しやすくする為に、筆者が加筆したものです。

1.人類に降りかかる災難の根源は何か
01/12 東方の聖人と仏陀の智慧
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/0f59fb4ead63477b985481354abba18a
02/12 人心と自然災害の関係
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/a3c982cdf8f9438350b6c408847233cb
03/12 因果の教育/財施の道理/護国息災法会
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/dd8149a12aead1e37ff2d816dbc673fc
04/12 
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/69e61ce19832ed1db72d7df8b8c4e3de
05/12 災難を解消するために/共業と別業/布施の効用
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/d7a66bcae88bd9b59afb31c38cb22375
06/12 菜食のすすめ
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/10af00e6640e41c4d1ddcca781766c3d
07/12 温暖化と海面上昇の問題
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/9ab8bd45ffadd48704a9dff41f61b304
08/12 意念は宇宙全体に影響する
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/7ee101776a7ab2db1777d6f3a3fe9993
09/12 「人定勝天」の真意/「仁者無敵」の真意
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/cb80ac2645a99820f7041043254b07f3
10/12 世界的な飢饉の問題
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/399090154767d7909c9e90b70671a390
11/12 災害への対処と世界の潮流
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c1c45569afc0a580d79767d5165e8a60
12/12 僧侶は何をすべきか/国は何をすべきか/業を解消する
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/1a9ad5b45fced20936f8d006241f4e24

2.天地に生きる人類が直面する最大の危機
01/10 消費社会と人の価値観/小三災と原爆/節約の美徳
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/2fbaac0844038f96ee1bfebe84fc5bfd
02/10 智慧と知識/経済に関する素朴な疑問
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/5c9b6fa0a3e9e6d30d268cb7c91f4ace
03/10 中国古来の経済観
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/332c8fd4a8052ac2543358628df432ce
04/10 福を惜しみ、福を修める
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/db4161cfbd0be27d73e30b308cb3c636
05/10 制度よりも徳育である
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/e58dd82b340a533180f2531f48111163
06/10 民を貴しと為す/因果の責任/選挙制と真の人材
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/54bd0ad81b4b01eba97ecef40c4c756e
07/10 倫理・道徳・因果の教育
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/74147fc8fef50097548d34361018bb1d
08/10 教育の第一の目的とは/真の自由とは何か/上下関係の秩序
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/706d96674824a1331bae31afddfb09f2
09/10 科学技術と倫理道徳
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/40ed2af4a98906be48eb366a5fedf300
10/10 五常の徳と天性/一つの根源
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/bb133293a77304138ccc9e55b7645a2e

3.千古不変の真理――因果の定律
01/06 因果の定律/心の波動と物質の感応
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/bf5a05e0418d16fd0cb9166ce673d848
02/06 人の意念と周辺環境/人生酬報
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c739357ced88a0f1bc9281126ee8e1ae
03/06 四種類のご縁/命の中の財源/歓喜心と美容
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/169a89b775854f1cfb4c5c3f3dce0bd5
04/06 仏教は積極的/心のエネルギーの性質
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/9b3c130e7aad4e367efaba5936419dcb
05/06 霊性こそが真の自分である/因果の原理
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/3cd5d9861fb24d26e000e7f96f552691
06/06 殺生と因果
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/034cb66a92f1ac77250783b3d6c112c0

4.両親と家族が縁起よく立ち去るために
01/05 業因の感応と家族の縁/類は友を呼ぶ
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/a793f4f9c3f72ea9768c786618421272
02/05 自殺の果報の恐ろしさ/亡くなった同胞を悼む
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/3af4a42b29362d2bda59796e98a7ac6a
03/05 因果は三世に通じる/最後の一念/位牌の意味/本当の親孝行
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/bf636a4a83ffe84d22c6403b61c168d1
04/05 自然環境と鬼神/宿世の業力
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/851a33cd96b4ac336f5252b29fec7592
05/05 飲酒について/喫煙について
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/ba73460fabea432bf59d97ba934b2e48

5.人類の知らない宇宙・人生の真相
01/10 異次元空間の衆生/鬼神を敬して之を遠ざく
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/149966d33584d478cf4cd4362da66f6d
02/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/e64ad45ce46ab5095ce87ed4344a3df4
03/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/cc15e2de3317ad93f58c855c934dccb7
04/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/27575a446ba0a3c9646dfec253ee378c
05/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/1cb3a026b6f560a07c0a80837c6d1c0f
06/10 
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/cddb25933d3adc2bd4bc2f0a6a4eec69
07/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/46049f0d4c6fa9575125c79fb384f15d
08/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/92404f93bd2b226301f51a2f157ffc5e
09/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/d8deb0d3451940078e35813752d241c3
10/10
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/0413b4c772eb198113e29942c8099612

6.欲望に従うことの代償
01/06 夫婦は賓客のように敬い合う/男女関係の乱れ
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/9008bd1443dbed257d40d836b8b0e652
02/06 家庭と婚姻の問題
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c9c5f3a01d6d5407564667a898178315
03/06
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/5c84d5d03c2ccf08e8cb2d999bb56a61
04/06 「万悪淫為首」(あらゆる悪の中で最も悪いものは淫欲である)
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/bd9b24ff34dde071cc4fbaf7361953fc
05/06 芸能人に対する警鐘
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/e29f13d3957bf278f344ba5df7887318
06/06 歓喜仏について
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/8c5441c85f153b6030fabe2e4caf762f

7.我々の子孫は如何にして心の拠り所を得るのか
01/10 児童教育と競争原理の問題/伝統教育の社会実験
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/36fb0ca4fa86e258397076da99e128eb
02/10 学生のあるべき姿とは/三つの根
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/f5900b5840dde5947194d82aff3b55fa
03/10 
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/db4a8a148060e168447106b3b91ff72d
04/10 享楽的な世相と災難/清浄心と慈悲心で健康を保つ
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/ef3b4dbfd8520ed44a19c53df771364c
05/10 礼節は最後の砦/卓越した人材を育成するには
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/009bc340bd92d565d59dab4a29ecd22f
06/10 古来の教学方法を実践する
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/5b98e9df9d6027e2723f432697014243
07/10 聖賢を育成する女子教育の重要性/家譜と家族意識の重要性
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c4a16401c86b3b3432db687bd8067a7c
08/10 三綱五常/トインビーの言葉の真意とは/社会を救う伝統文化の核心
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/4cdcef0fe1aae73ef6b00dbb08ed19b8
09/10 まず自分自身を調和させること/国連平和会議への出席と社会実験の経緯
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b4656bebf4df2ca58768e6823ba47545
10/10 各宗教の根源は一つの神である/自性から流露した倫理道徳の智慧/災難を回避するために
 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/68379abbdbbb1f0be9ca6276ff9be7d3
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『神は世人を愛す』を学ぶ 11

2021-07-15 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 11

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十一集)
2018/10/20  聯合國教科文組織淨空之友社  檔名:21-786-0011

  諸位法師、諸位同學,請坐。請看《神愛世人》這個小冊子第四十六頁,前面講到這個地方,四十六頁。前面說到一句很重要的經文,我們回顧一下,在四十六面:
法師各位、学生の皆さま、お座りください。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。前回ここまでを講じました。四十六頁です。前回とても重要な経文についてお話ししました。振り返ってみましょう。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。】

  佛給我們講的話都是事實真相,我們迷了,一無所知;佛菩薩覺悟了,什麼都知道,所以稱為一切智。自然智,不必學的,這就是自然的。為什麼?自性本來如是,我們講自覺。換句話說,真心就是這樣的,真心充滿了智慧,一切智、自然智、無礙智,沒有障礙的智慧,統統有。怎麼沒有了,完全失掉了,丟得乾乾淨淨,什麼原因?佛給我們說出來了,妄想、分別、執著障礙了。如果我們能把這些煩惱放下、障礙放下,我們自性裡面的般若智慧,跟諸佛如來沒有兩樣,跟觀音、勢至也沒有兩樣。
仏陀が説かれた話はすべて事実の真相です。私たちは迷い、何一つ知りません。仏菩薩は悟り、何でも知っています。ですから一切智と言います。自然智とは、学ぶ必要がないものです。これは正に自然なのです。なぜでしょうか?自性は本来そのようなものであり、私たちは自覚(自ずから覚る)と言います。言い換えれば、真心とは正にこのようなものです。真心は智慧に満ちています。一切智、自然智、無礙智、障礙のない智慧が、すべてあるのです。どうして無くなったのでしょうか?完全にきれいさっぱり失った原因は何でしょうか?仏陀は私たちに説いてくださいました。妄想、分別、執著が障礙になっているのです。もし私たちがそれらの煩悩を放下し、障礙を放下できれば、私たちの自性の中の般若の智慧は、諸仏如来と何も変わりません。観音菩薩や勢至菩薩と何も変わりません。

  學佛學了幾十年,還不止,還要接上前輩、再前輩,過去無始,生生世世學佛,往生極樂世界都沒有拿到,什麼原因?六根接觸六塵境界起心動念,錯了。眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味、身體的覺觸,六根接觸到六塵境界就起心動念,這是用一句話總說;要分開來說,眼在見色的時候起心動念,耳在聞聲的時候起心動念……起心動念就迷了。
仏に学んで数十年、それだけにとどまりません。前世、そのまた前世と続いて、過去に始まりがなく、生まれ変わり死に変わり仏に学んで、極楽世界に往生することさえかないません。何が原因でしょうか?六根【注1】が六塵【注2】に触れて心を起こし念を動かす、これが間違いです。眼で色(しき:物質)を見、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で接触して、六根が六塵の境界(きょうがい)に触れると、すぐに心を起こし念を動かします。これがひと言で言う総括です。分けて言うなら、眼で色を見た時に心を起こし念を動かし、耳で声を聞いた時に心を起こし念を動かし・・・・心を起こし念を動かせば迷います。
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【注1】六根(ろっこん)・・・眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のこと。
【注2】六塵(ろくじん)・・・色・声・香・味・触・法の六つの境界のこと。
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  佛菩薩比我們高明在哪裡?就是高明在他眼見色,看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念;耳聞聲、鼻嗅香,無不如是,都能做到不起心不動念、不分別不執著,所以他的一切智現前。一切智從哪裡來的?自性本來具足的,一點都不稀奇。一切諸佛如來具足,一切菩薩摩訶薩具足,一切眾生具足,我們個個人都具足,你要相信;你不相信,你學佛是白學了。
仏菩薩が私たちより優れているのはどこでしょうか?それは正に、眼で色を見て、はっきりと明瞭に見えていて、起心動念がありません。耳で声を聴き、鼻で香りを嗅ぎ、――それに及ぶものはありません――すべて心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。ですから彼の一切智は現前します。一切智はどこから来るのでしょうか?自性に本来具足(ぐそく:十分に備わっていること)しているものです。少しも奇妙なことではありません。一切の諸仏如来は具足しています。一切の菩薩摩訶薩は具足しています。一切衆生は具足しています。私たちはどの人も具足しています。あなたは信じなければなりません。信じないなら、仏に学んでも無駄です。

  相信怎麼辦?我們還是會起心動念,起心動念在我們已經養成習慣了,不是這一世,過去世中就已經養成習慣,生生世世、無量劫來,這個妄想、雜念根深蒂固,把我們降到六道眾生。人天還稍微好一點,還有一點善業,其他的四惡道(一般講三惡道,修羅我也把它說成惡道),時間久了,回不了頭,沒有福報。什麼叫沒有福報?沒有機會接觸到佛法;有機會接觸到佛法是他的福報大。
信じてどうするのでしょうか?私たちはそれでも起心動念します。起心動念することがすでに習慣になっています。この一世だけでなく、過去世の中でも習慣になっていました。生まれ変わり死に変わり、無量劫(むりょうごう:限りなく長い時間)において、この妄想、雑念が深く根を張って、私たちを六道の衆生に落としているのです。人天はまだ良いほうです。まだ少しの善業があります。その他の四悪道(一般的には三悪道と言いますが、私は修羅道も悪道としています)、長い時間を経て、改心できなくなり、福報がありません。福報がないとはどういうことでしょうか?仏法に触れる機会がないということです。仏法に触れる機会があるのは、その人の福報が大きいからなのです。

  今天得人身,在這個世間,很難得。接觸到佛法,他就能相信,他不懷疑,他很尊重,他能理解,這個難得,接著再修。修的裡面最重要的是什麼?放下;解門裡頭最重要的是看破。淨宗歷代不少大德,出家在家,主修,淨土五經一論;助修,很多人都用《金剛經》、《心經》,它不太長,很適合初學,不但適合初學,老修也適合。這個經教我們什麼?教我們看破、放下。看破跟我們講「凡所有相,皆是虛妄」、「一切有為法,如夢幻泡影」,這是真的,不是假的,與科學家所說的完全相同。既然是假的、既然是虛妄的,就不應該起心動念。
今日人身を得て、この世間にいるのは得難いことです。仏法に触れ、その人は信じることができ、疑いません。その人は(仏法を)尊重し、理解することができます。これは得難いことです。(過去世から)引き続き修めるのです。修めることの中で最も重要なことは何でしょうか?放下することです。解門の中で最も重要なのは(この世の真相を)看破することです。浄土宗の歴代の多くの大徳は、出家も在家も、浄土五経一論を専攻していました。補助として多くの人は『金剛経』、『心経』を用いました。それはあまり長くないので初学者に適しています。初学者に適しているだけでなく、長年修めた人にも適しています。この経は私たちに何を教えてくれるのでしょうか?看破、放下です。看破は「凡(およ)そ相(そう)有る所,皆(みな)是(これ)虚妄(きょもう)なり」、「一切(いっさい)有為(うい)の法、夢・幻・泡・影の如し」と説かれています。これは本当です。偽りではありません。科学者が言うことと完全に同じです。(この世のすべてが)偽りであり虚妄であるからには、心を起こし念を動かすべきではありません。

  所以,你的過失錯在哪裡?錯在六根接觸六塵境界,一接觸就起心動念,麻煩在此地。你要問這是什麼原因?我可以老實告訴你,無始劫以來的習氣所造成的。現在怎麼辦?現在這一生遇到佛法,搞清楚、搞明白了,功夫,功夫深淺、功夫大小,完全在你能夠看破多少、放下多少,這是真功夫。徹底放下,就能往生,臨命終時,一句佛號,求阿彌陀佛來接引,承如來的威德,接引往生極樂世界。多!不少,我這一生見到的就十幾個。我很感恩,他來做榜樣給我看,在我面前表演,讓我深信不疑,我們感恩戴德。
ですからあなたの間違いはどこにあるのでしょうか?間違いは六根が六塵の境界にひとたび触れると、心を起こし念を動かすことです。面倒なのはここなのです。あなたはこれは何が原因なのかと質問するでしょうか?私は真面目に答えます。これは無始劫以来の習気(じっけ)によって作られたものです。今どうすれば良いのでしょうか?今この一生で仏法と出会い、はっきりと理解しました。技量の深浅、技量の大小は、完全にどれだけ看破できるか、どれだけ放下できるかにあります。これが本当の技量です。徹底して放下すれば往生することができます。臨終の時、一句の仏号で阿弥陀仏がお迎えに来て、如来の威徳を受けて、極楽世界に往生することを求めます。たくさんいます!少なくありません。私はこの一生で十数人見ています。私は感謝しています。その人たちはお手本を見せてくれたのです。私の目の前で演じて下さり、私に信じて疑わせません。有り難いことです。

  所以《大方廣佛華嚴經》這一段,我們要常常記在心裡,句句是真話,沒有一個眾生不具有如來智慧。記住,他沒有說「沒有一個人」不具足如來智慧,他說眾生,眾生包括了所有的生物。畜生是不是眾生?是的;野外樹上、草上那些小爬蟲是不是眾生?是眾生。牠也具足如來智慧嗎?是,你可別輕視牠。所以,要愛護眾生,說不定牠成佛在我之前,很難說。畜生道裡頭有沒有佛菩薩?有,應以什麼身得度,佛菩薩就現什麼身。所以佛菩薩現餓鬼身、現畜生,大的現牛馬這些大畜生,小的,蚊蟲螞蟻,今天我們講的生物。眾生就是現在名字叫生物,統統具有如來智慧,我們要把牠看作什麼?看作如來、看作佛、看作菩薩,不能輕慢,培養我們謙卑的、禮讓的心態。對蚊蟲螞蟻都恭敬,何況對一切眾生,何況對於人類,何況對一切宗教的神聖,真誠恭敬心就生得起來。否則的話,對一切眾生來講,生起恭敬很難,對人都不容易生起,何況對一切生物,都沒有看在眼裡,這是我們的過失。
ですから『大方廣佛華厳経』のこの一段は、私たちは常に心に留めておかなければなりません。どの言葉も真実であり、いかなる衆生も如来の智慧を具えていないことはありません。覚えておいてください。彼は「いかなる人も」如来の智慧を具足していないことはないとは言っていません。彼は衆生と言っています。衆生とはあらゆる生物を含みます。畜生も衆生でしょうか?そうです。野外の樹木や草の上にいる爬虫類も衆生でしょうか?衆生です。彼らも如来の智慧を具足しているのでしょうか?そうです。あなたは彼らを軽視してはなりません。ですから衆生を愛護しなければなりません。彼らは自分より先に仏に成るかもしれません、何とも言えません。畜生道には仏菩薩がいるでしょうか?います。どの衆生を救うかによって、仏菩薩はその衆生にふさわしい姿で現れます。仏菩薩は餓鬼身、畜生として現れます。大きいものは牛馬などの大きな畜生、小さいものは蚊・虫・蟻などです。今日私たちは生物と言います。衆生とは今でいう生物です。すべて如来の智慧を具えています。私たちは彼らをどう見たらよいでしょうか?如来として、仏として、菩薩として見ます。侮ってはなりません。謙遜し、礼儀を厚くして譲る心を養うことです。蚊・虫・蟻に対して敬うのですから、ましてや一切衆生、ましてや人類に対して、一切の宗教の神聖なものに対して、真誠(しんせい)恭敬(きょうけい)の心を起こすのは尚更のことです。そうでなければ一切衆生を敬う気持ちを持つことは難しく、人を敬うことさえ容易ではありません。ましてや一切の生物など眼中にもありません。これが私たちの誤りです。

  怎麼會變成這個樣子?記住,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、執著而不能證得。這一句經文把它念熟,早晨起來念幾遍,晚上睡覺之前念幾遍,提醒自己:我今天有沒有妄想?有沒有分別執著?有,趕快丟掉;沒有,很好、很難得,繼續精進。自作還要自度,靠別人是不行的,要靠自己,一切時一切處,要把自己的虛妄顛倒妄想分別執著統統放下。
なぜこのように変わってしまったのでしょうか?覚えておいて下さい。自分の虚妄(きょもう:事実でないこと)であり顛倒(てんどう:道理にそむく考え)した妄想・分別・執著によって証得(しょうとく:真理を悟ること)できないのです。この一句の経文をよく読んで、朝起きたら数回読み、夜寝る前に数回読んで、自分に注意喚起します。自分は今日妄想したでしょうか?分別や執著はあったでしょうか?あるなら、すぐに捨て去ります。ないなら、それで良いでしょう。得難いことです。引き続き精進します。自分で取り組み、自分を救わなければなりません。人に頼っては駄目です。自分に頼ります。いつでも、どこでも、自分の虚妄・顛倒した妄想・分別・執著をすべて放下しなければなりません。

  我們把下面這個文念一遍就懂了。「當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時,他們便會完整地獲得那圓滿智慧的真實受用;而這種眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,無礙智現前,「這也是一切眾生真心本具、不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一切智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染」,這種智慧乃是本自清淨無染的,就是前面所說的一切智。這三種智慧成就了。
私たちは以下の文を一度読めば理解できます。「衆生が自分の妄念・煩悩を徹底して放下した時、彼らは完全な形で円満なる智慧の真実のご利益を獲得する。しかもこの種の衆生が本来具えている円満なる智慧は、正に宇宙万法に徹底して通達した無礙(むげ:妨げのないこと)の智慧である」。無礙智が現前します。「これも一切衆生の真心に内在し、外から得られない真実の智慧である」。これを自然智と言います。「この種の智慧は、正に如来大覚者の智慧である。ここにおける一切の智慧の中で、覚者たちが究極的に認識するに至った自己の真心は、正に本来自ずから清浄で穢れがありません」。この種の智慧は本来自ずから清浄で穢れがないもので、正に先に話した一切智です。この三種類の智慧が成就します。

  一切智、無礙智、自然智是自己本有的,並沒有丟掉,是我們被起心動念、妄想執著障礙住。怎麼辦?修行。行是行為,起心動念、言語造作叫做行,錯了、出了問題了,把它修正過來,叫修行。用什麼修?放下、看破。看破是理明白了,智慧現前;智慧現前還不夠,必須要徹底放下,放下是事上的修行,真修行;就那麼簡單的兩句話,看得破、放得下。
一切智、無礙智、自然智は自分がもともと具えているもので、失った訳ではありません。私たちの起心動念、妄想・執著に障碍を受けているのです。どうすれば良いのでしょうか?修行です。行(ぎょう)とは行為です。起心動念、言葉や行為を行というなら間違いです。問題が出てきます。それを修正するのが修行なのです。何を用いて修めるのでしょうか?放下、看破です。看破は道理が明らかになることで、智慧が現前します。智慧が現前するだけでは足りません。必ず徹底して放下しなければなりません。放下とは実際の修行、真の修行です。正にとても簡単な二句の言葉、「看破することができれば、放下することができる」です。

  我是這兩句話,二十六歲的時候,章嘉大師教給我的。我的看破是從方東美先生那裡得來的,放下是從章嘉大師這得來的。起了一點作用,這六十年來講經教學,接觸不少的朋友,各個階層,社會各階層的人都有,跟他們往來的時候,我所談的,他們所提問的都能解答。我沒讀那麼多書,能夠解答,還沒解錯,這是什麼?一切智、自然智、無礙智自然現前。
私のこの二句の言葉は、二十六歳の時に、章嘉大師が教えてくださったものです。私の看破は方東美先生から得たものです。放下は章嘉大師から得たものです。少しばかり役に立ち、この六十年来講経・教学をして、多くの友人と接しました。様々な階層、社会の様々な階層の人がいました。彼らと交流する時、私が話したことに対する彼らの質問にはすべて答えることができました。私はそれほど多くの書物を読んでいませんが、答えることができて、解釈を間違えていません。これは何でしょうか?一切智、自然智、無礙智が自然に現前したのです。

  好,今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 10

2021-06-20 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 10
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十集)
2018/10/19 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0010

  諸位法師、諸位同修,大家好。請看《神愛世人》第四十六頁,我們把文念一遍:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。文を一度読みます。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】

  這段經文把佛教圓圓滿滿的為我們講出來。佛教是宗教,為什麼是宗教?中國「宗教」兩個字,它給我們所表的這種教育,是人類。範圍再擴大一點,它包括了六道、十法界,在六道十法界裡面,它是主要的教育、重要的教育、尊崇的教育。宗教兩個字可以包括佛教,佛教確確實實符合。這段經文,《華嚴經》上的,跟給我們把這樁事情講明白了、講清楚了。
この経文は仏教を円満に語っています。仏教は宗教です。なぜ宗教なのでしょうか?中国の「宗教」の二字が表すのはそのような教育です。人類の教育です。範囲を更に拡大すれば、それは六道、十法界を含みます。六道、十法界の中で、それは主要な教育、重要な教育、尊崇な教育です。宗教の二字は仏教を包括します。仏教は間違いなく適合します。この経文は『華厳経』のものです。この事を明白に、はっきりと説いています。

  第一句說明『無一眾生不具有如來智慧』。一切眾生跟如來關係是什麼?是一體。所以如來對於虛空法界、過去未來無所不知、無所不曉,他都曉得,這是如來的智慧,圓滿的智慧。過去現在未來,此界、他方,此界他方講空間,過去未來講時間。無量無邊際的空間,這裡面無論是什麼事、是什麼理,道理,佛都知道。
第一句は「一衆生として如来の智慧を具有せざるは無し」を説明しています。一切衆生と如来とはどのような関係でしょうか?一体です。ですから如来は虚空法界、過去未来において知らないことは無く、暁(さと)らないことはありません。彼はすべて理解しています。これは如来の智慧、円満の智慧です。過去現在未来。この世界、あの世界。この世界あの世界とは空間のことです。過去未来とは時間のことです。無量無辺の空間、この中にどのような事、どのような理があろうと仏はすべて知っています。

  佛家稱「如來」,本來的意思,今佛如古佛之再來,所以稱作如來,今佛跟古佛是一不是二。這些有一些經教裡頭沒有,經教裡頭共同有的就是「神愛世人」。我們今天需要這一句,希望每位宗教的傳人、宗教的信徒、宗教的傳教師,都有正確的認識,今佛如古佛之再來。今佛的智慧跟古佛的智慧是一不是二,究竟圓滿的大智慧,佛法講開悟,明心見性、大徹大悟就成佛了。這是真的,不是假的。
仏家では「如来」と言いますが、本来の意味は「今仏は古仏の再来の如し」です。それで如来と言うのです。今仏と古仏とは一であり二ではありません。これらはある経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)にはありません。経教の中に共通してあるものは「神は世人を愛す」です。私たちは今日この言葉が必要です。どの宗教の伝承者、宗教の信徒、宗教の布教者も正しく理解することを願います。今仏は古仏の再来の如し。今仏の智慧と古仏の智慧は一であり二ではありません。究極円満の大いなる智慧です。仏法は悟りを説きます。明心見性、大徹大悟すれば仏に成ります。これは本当です。偽りではありません。

  我們現在跟佛比,佛有圓滿智慧,我們有圓滿的顛倒。這什麼原因?是因為我們有妄想,妄想讓我們顛倒了,執著讓我們不能證得。現在學了佛,佛教我們什麼?佛教給我們的,把妄想、顛倒放下,就行了。
私たちは今、仏と比べると、仏には円満な智慧がありますが、私たちは円満に顛倒(てんとう:逆行すること)しています。これは何が原因なのでしょうか?私たちには妄想があります。妄想は私たちを顛倒させます。執著は私たちを証得させません。今は仏に学んでいます。仏は私たちに何を教えるのでしょうか?仏が私たちに教えるものは、妄想・顛倒を放下することです。それで良いのです。

  所以早年間我向大師,章嘉大師請教,佛法裡面有沒有最簡單、最容易,讓我們也能夠很快契入境界,像佛陀一樣?老師告訴我兩句話:「看得破,放得下。」看得破不容易,放得下也不容易,這是關鍵。
ですから昔私は大師に質問しました。章嘉大師に教えを請いました。仏法の中には最も簡単に、最も容易に私たちを早く境界(きょうがい:境地)に入らせ、仏陀と同じようになることはできますか?大師は私に「看破することができれば、放下することができる(看得破,放得下)」と仰いました。看破するのは容易ではなく、放下するのも容易ではありません。これが鍵です。

  放下看破難!為什麼放不下?我們對於一切事物都起心動念、都想佔有,包括壽命,希望長壽,希望有大福報、有大財富,過著人間天上的生活。哪一個眾生不想這個?所以迷了。每一個眾生都有如來德相,現在我們跟如來走的是兩條路,他是圓滿大覺,生活在圓滿智慧當中;我們是妄想、分別、執著,對於境界,無論是現前、過去、未來,全迷失了!無論對人、對事、對萬物,完全迷失了,還以為自己是對的,以為自己的妄想分別執著是對的。將來壽命到了,墮落到三途,才知道錯了,後悔來不及了。
放下、看破は難しいものです!なぜ放下できないのでしょうか?私たちは一切の事物に心を起こし念を動かし、占有したいと思います。寿命も含めてです。長寿を願い、大きな福報があり多くの財産があることを願い、人間界天上界の生活を送ることを願います。どの衆生がこれらを望まないでしょうか?だから迷うのです。どの衆生も如来の徳相を具えています、今の私たちと如来が進むのとは別々の道です。如来は円満に覚っています。生活は円満な智慧の中にあります。私たちは妄想、分別、執著です。境界に対して現前、過去、未来のどれに関わらず、すべて見失っています!人に対しても、物事に対しても、万物に対しても、完全に見失っています。まだ自分が正しいと思い込んでいます。自分の妄想・分別・執著は正しいと思っています。将来寿命が来て、三途に堕落してみて、はじめて間違いを知ります。後悔しても遅いのです。

  我們的如來智慧迷了多久?過去,過去還有過去,生生世世都是迷惑顛倒,不是今天才迷。愈迷愈深,愈迷愈嚴重,這一生不開悟,來生迷得比這一生要加倍,前途一片黑暗,怎麼辦?佛給我們講真話,真話很難相信、很難接受;如果騙我們,我們反而容易接受,還認為是對的。
私たちの如来の智慧はどのくらいの期間迷っているのでしょうか?過去には更に過去があり、生まれ変わり死に変わり迷惑顛倒しています。今日になって迷い始めたのではありません。迷えば迷うほど深くなり、迷えば迷うほど深刻になっていき、この一生では悟りを開けません。来世の迷いはこの一生より倍増します。前途は一片の暗黒です。どうすれば良いのでしょうか?仏は私たちに真実の話をされました。真実の話は信じ難く、受け入れ難いものです。もし私たちを騙しているなら、私たちはかえって受け入れやすく、また正しいと思うものです。

  這一段,佛教給我們怎麼樣回歸自性,怎麼樣把跟如來一樣的智慧找回來;找回來就是要學佛,這是大事!本來有,不是本來沒有,這個要相信。你要能真相信,得到很大的鼓勵,我有機會成佛,跟釋迦如來一樣。釋迦講經四十九年,今天我們看到的佛教學的教材經典《大藏經》,分量那麼大,古時候用紙印出來字都很大,一套《大藏經》要一棟樓房去裝它才能容納得下。人一生能不能讀得完?能讀得完,學不到,它內容太豐富了,像一個完整的大學,什麼科系都有。於是我們知道,我們遇到難關,在大乘經典裡面,就像《群書治要》一樣,找到答案,知道怎麼樣應付。
この一段は、仏が私たちにどのように自性に回帰するのか、どのように如来と同じ智慧を取り戻すのかを教えています。取り戻すには仏に学ばなければなりません。これは大きな事です!もともとあるのです。もともとないのではありません。これを信じなければなりません。あなたがもし本当に信じるなら、大きな励ましを得ます。仏に成る機会があります。釈迦如来と同じようにです。釈迦牟尼仏は四十九年講経しました。今日私たちは仏教学の教材経典『大蔵経』を見ることができます。分量はあれほど多いのです。昔は紙を使って印刷したので字が大きく、『大蔵経』ひとセットは一棟の建物であればやっと収めることができるほどです。人は一生で読み終わることができるでしょうか?読み終わるとしても、学べません。その内容があまりにも豊富だからです。ちょうど総合大学がどの学科もすべてあるようなものです。そこで私たちは理解します。私たちは困難に直面した時、大乗経典の中に、ちょうど『群書治要』と同じように、答えを探し当てます。どのように対処すれば良いかが分かります。

  我們有『一切智』,無所不知,『無礙智』,沒有障礙。你講經教學,聽眾很多,有許許多多問題提出來問你,你有無礙智,你都能夠講明白、講清楚,讓這些人覺悟。『自然智』,自然智是不需要學習的,一問,本來也沒有想到,這一問問出來了,自自然然就解答了。阿羅漢、菩薩、佛陀他們都有,都有這種智慧。
私たちには『一切智』があります。知らないことはありません。『無礙智』があり、障礙(しょうがい)はありません。あなたが講経・教学して、聴衆が多くいれば様々な質問をされます。あなたには無礙智があり、明瞭にはっきりと語り、それらの人を悟らせます。『自然智』。自然智は学ぶ必要がありません。問われると、もともと思いもよらないのに、問われることによって、極々自然に答えることができます。阿羅漢、菩薩、仏陀にはすべてこのような智慧があります。

  是不是老師教的?不是;老師教你個原則,就像此地一樣,告訴你,你的智慧現在不能現前,是什麼原因,是你有妄想分別執著。所以像佛那樣圓滿的智慧,你本有的,失掉了。你現在必須重學,學的怎麼樣?學的是錯誤的,不是智慧,知識;知識解決問題有限,智慧解決問題是無限的。所以我們要牢記住,我們丟掉的,是妄想顛倒執著而不能證得;如果我們能夠離開妄想,一切智、自然智、無礙智則得現前,智慧就現前了。
老師が教えたのでしょうか?違います。老師はあなたに原則を教えます。ちょうどここでしているように。あなたに言います。あなたの智慧が現前しない原因は何でしょうか。それはあなたに妄想・分別・執著があるからです。ですから仏のような円満な智慧をあなたは本来具えていて、失ったのです。あなたは今再び学ばなければなりません。学んでどうでしょうか?学んだものは間違っています。智慧ではなく知識だったのです。知識では問題を解決するのに限界があります。智慧で問題を解決するのに限界はありません。ですから私たちはしっかりと覚えておかねばなりません。私たちが失ったのもの、妄想・分別・執著のために証得できないのです。もし私たちが妄想を離れることができれば、一切智、自然智、無礙智がすぐに現前し、智慧が現前します。

  下面有白話解釋,我們把它念一遍,「究竟圓滿的智慧是每一個眾生本來就具有的」,一定要承認,我跟佛沒有兩樣;「但是,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、以及執著等煩惱所障礙與纏縛,所以,一切眾生雖然本自具足究竟圓滿的如來智慧,但卻對其不覺不知,不能得其受用。」佛陀、菩薩、阿羅漢應用得很自在,我們望塵莫及。
次に口語の解釈があります。それを読んでみましょう。「究極円満の智慧はどの衆生も本来具えているものです」。必ず認めなければなりません。自分は仏と何も変わりません。「しかし自分の虚妄顛倒たる妄想、分別、そして執著等の煩悩により障礙となり縛られています。ですから一切衆生は本来究極円満の如来の智慧を具えていますが、それを覚らず知らず、それを活用することができません」。仏陀、菩薩、阿羅漢は自在に応用できます。私たちは足元にも及びません。

  所以下面我們就要記住,修行修這個,「然而,當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時」,這話是真話,一點都不錯,徹底放下時,「他們」,他們就是講的這些智慧,一切智、自然智、無礙智,無量無邊的智慧,你就完整的獲得,那是圓滿智慧的真實受用。佛法是完全講平等,佛所有的我們都有。
ですから次のことを覚えておかなければなりません。修行はこれを修めるのです。「しかし衆生が自分の妄念・煩悩を徹底的に放下した時」。この話は本当です。少しの誤りもありません。徹底的に放下する時、「彼ら」、彼らとはこれらの智慧のことです。一切智、自然智、無碍智、無量無辺の智慧をあなたは完全な形で獲得します。それが円満なる智慧の真実のご利益です。仏法は完全に平等を講じています。仏にあるものは私たちにすべてあるのです。

  智慧怎麼能得到?我在這裡再補充一點,告訴大家。睜開眼睛我們要不要看?看到些什麼?看了以後起了什麼作用?起了妄想;起了妄想,佛法裡面叫做起心,這是妄心,不是真心。起心動念就把我們的真心變成了妄心,本來知道的、完全了解的真實智慧,這一起心動念,智慧就變成了煩惱習氣。煩惱是什麼?分別、執著,麻煩就是此地。你有沒有聽懂?你要真聽懂了,我問你,什麼叫修行?你答不出來,或者你答錯了,這是自然的現象,不足以奇怪。起心動念、分別執著起來了,全迷了。應該要跟佛學習,學習什麼?不起心、不動念。眼睛睜著,看到一切山河大地、樹木花草,沒有起心動念,對了,你這個就是如來知見。要一直保下去,念念都保下去,不能是一閃讓它過去了,不能起心動念,又起心動念了。
智慧はどのように得られるのでしょうか?私はここでもう一度補足して皆さんにお話しします。目を見開いて私たちは見たいのでしょうか?何が見えるのでしょうか?見た後でどのような作用が起こるのでしょうか?妄想が起こります。妄想が起こることを仏法では「起心」(心を起こすこと)と言います。これは妄心であり、真心ではありません。起心動念(心を起こし念を動かすこと)で私たちの真心は妄心に変わります。本来知っている、完全に理解している真実の智慧は、一たび起心動念すれば智慧が煩悩の習気(じっけ)に変わります。煩悩とは何でしょうか?分別、執著、面倒なのはここです。あなたは聞いて理解できるでしょうか?あなたが本当に聞いて理解できるなら、私があなたに「修行とは何か」と問えば、あなたは答えられないか或いは答えを誤るでしょう。これは自然な現象です。怪しむほどのことではありません。起心動念、分別、執著が起これば、すべて迷いなのです。仏に学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか?心を起こさず、念を動かさないことです。目を見開いて、一切の山河大地、樹木や草花を見て、起心動念を起こさない。それで良いのです。それこそが如来の知見です。ずっと維持し続けなければなりません。絶えず保ち続けます。それをさっとやり過ごすことができず、起心動念してはいけないのに、また起心動念してしまいます。

  修行,在見色,一切眼所見到的,你要問問,釋迦如來他是怎麼對應的?他是看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念。菩薩呢?菩薩比佛差一等,有起心動念,沒有分別執著。所以他起心動念是有限制的,一剎那之間,馬上掉過頭來不分別不執著,他守住這一點。我們凡夫,起心動念之後,馬上分別執著就現前,愈陷愈深;菩薩陷進去一點點,他就明白了,他就跳出來。我們不但起心動念、分別執著,執著來了,跟著的貪瞋痴慢疑全出來了,愈迷愈深。這是凡夫,你怎麼迷的。
修行は(例えば)色(しき:物質)を見ます。一切の目で見えるところのものを見ます。あなたは釈迦如来はどのように対処していたのかと質問するでしょうか。彼ははっきりと見えていて、心を起こさず念を動かしません。菩薩はどうでしょうか?菩薩は仏より少し劣ります。心を起こし念を動かしますが、分別と執著はありません。ですから菩薩の起心動念には制限があります。刹那の間に転じて分別せず執著しません。菩薩はこの一点を守ります。私たち凡夫は、起心動念した後、すぐに分別と執著が現前します。ますます深く陥ります。菩薩は少しばかり陥ると、彼はすぐに理解してすぐに飛び出します。私たちは起心動念するばかりか、分別・執著します。執著すれば貪瞋痴慢疑(貪り・怒り・無知・傲慢・真理に対する疑い)がすべて出てきます。ますます深く迷います。これが凡夫です。あなたはなぜ迷っているのでしょうか。

  佛是怎麼成的?他就是覺。為什麼?自性清淨心裡面,講照見,沒有說起心動念見;他沒起心動念,像鏡子照外面,他就是能照,照得很清楚,他就不起心不動念。我們要學這個本事,學這個本事的人沒煩惱。煩惱從哪裡來的?從妄想分別執著來。他沒有妄想、他沒有分別、他沒有執著,用真心不用妄心,這就對了。
仏はなぜ成就したのでしょうか?仏は覚りました。自性・清浄心の中に、照見を重んじました。心を起こし念を動かして見るとは言っていません。仏に起心動念はありません。鏡が外界を映すように、仏は映すことができます。はっきりと映して、心を起こさず念を動かしません。私たちはこの技量を学ばなければなりません。この技量を学んだ者に煩悩はありません。煩悩はどこから来るのでしょうか?妄想・分別・執著から来るのです。仏には妄想が無く、分別が無く、執著がありません。真心を用いて妄心を用いません。これで良いのです。

  這段文,第四十七面還有一大片,講到究竟圓滿的智慧,是每一個眾生本來就具有的。「眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,叫無礙智。下面跟著起來的,一切智、自然智統統能現前。「這也是一切眾生真心本具,不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染的」,返妄歸真。
この文章は四十九頁にまだたくさん続きます。究極円満の智慧を講じています。どの衆生にももともと具わっているものです。「衆生がもともと具えている円満なる智慧、つまり宇宙万法に徹底して通達する無礙の智慧」のことを、無礙智と言います。その次に続いて起こる一切智・自然智はすべて現前します。「これは一切衆生の真心が本来具えているものでもあり、外から得られない真実の智慧」、これを自然智と言います。「この種の智慧は、如来大覚者の智慧である。ここでの一つの智慧の中で、覚者たちは自己の真心はもともと清浄にして穢れのないことを究極的に認識します」。妄を転じて真に帰ります。

  所以修行人搞錯了,什麼叫真修行?看破、放下叫真修行。看破就是統統明白了、明瞭了,眼見色不迷,不起心不動念,耳聞聲不迷、鼻嗅香不迷、舌嘗味不迷,六根對六塵境界完全沒有迷失;就是說你用六根對六塵境界,沒有起心動念、沒有分別執著,樣樣清楚、樣樣明瞭,這就對了,這真會修。
ですから修行者は思い違いをしています。何を修行と言うのでしょうか?看破、放下を真の修行と言います。看破とはすべて明らかに、明瞭になることです。目で色を見て迷わず、心を起こさず念を動かさず、耳で音を聞いて迷わず、鼻で香りを嗅いで迷わず、舌で味わって迷わず、六根は六塵の境界(きょうがい)に対して完全に迷うことがありません。つまりあなたは六根を用いて六塵の境界に接しても、起心動念は無く、分別・執著は無く、すべてが明瞭です。これで良いのです。これなら真に修めることができています。

  總的來說,宗門常說的,總的來講,修行是六根對六塵境界不起心不動念而已。起心動念有幅度的,佛是圓滿證得,菩薩是多分證得,阿羅漢是少分證得。證得叫真心,沒有證得不能說真心。
総じて言えば、宗門がよく説いているように、修行は六根が六塵の境界に触れて心を起こさず念を動かさないことに尽きます。起心動念には幅があります。仏は円満に証得しています。菩薩は多く証得しています。阿羅漢は少しだけ証得しています。証得は真心と言います。証得していなければ真心と言うことはできません。

  好,今天我們就學習到此地。學會了真管用,進步很快。好,謝謝大家。
今日の学習はここまでにします。学んで身につければ本当に役に立ちます。進歩も早いでしょう。皆さまありがとうございました。
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因果教育は人心を救う――二〇一六年清明祭祖法会談話(日本語字幕)

2021-06-15 | 日本語字幕付き☆NEW☆

因果教育は人心を救う――二〇一六年清明祭祖法会談話

翻訳記事
1.因果教育は人心を救う1/3
・因果を信じないことは社会動乱の根源である
・因果法則を明瞭にする
一.因果は同時ではなく、因から果に至るまで一定の時間の経過を要する
二.因果は三世に通じる

2.因果教育は人心を救う2/3
・報いが生じる時間により、果報は四つの種類に分けられる
 (一)現報
 (二)生報
 (三)後報
 (四)不定報
三.因小果大(因は小さく果は大きい)

3.因果教育は人心を救う3/3
四.善悪は相殺できない
五.因果不空(因果は空ならず)
結論:因果教育は人心を救う
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教育は危機を救う(日本語字幕)

2021-04-26 | 日本語字幕付き☆NEW☆

教育拯救危機 / 教育は危機を救う
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二五一集)2011/1/24 

佛教是教育,我們必須要肯定。它是宗教,但不是現在一般人心目當中的宗教,它是中國古聖先賢所說的宗教。中國古人說的宗是什麼意思?宗是主要的、重要的、尊崇的;教是教育、教學、教化。宗教合起來,是一切眾生最主要的教育、最重要的教學、最尊崇的教化。它能叫天下國泰民安,它能叫每個家庭幸福圓滿,能叫一切眾生個個都能夠忠孝仁愛,都能做到聖人君子,這是主要的教育。
仏教は教育だということを、私たちは肯定しなければなりません。それは宗教ですが、今の一般の人が考えている宗教ではなく、中国の古代聖賢の言う宗教です。「」とは主要な、重要な、尊崇の、という意味があります。「」とは教育、教学、教化という意味です。合わせて「宗教」とすれば、一切の衆生にとって最も主要な教育、最も重要な教学、最も尊崇される教化ということです。天下泰平と暮らしの平安を説くことができ、すべての家庭の幸せと円満を説くことができ、一切の衆生が忠孝仁愛の聖人君子になることができると説く、これが主要な教育です。

佛陀的教育,終極的目標是讓一切眾生成菩薩、成佛,就是中國人講成聖成賢,一個意思,你說這個教育多重要!這個教育要是沒有,問題出來了,那就是家不像家、國不像國,這就是今天社會的亂象。今天社會亂象,真正的原因是我們把教育喪失掉,今天不是疏忽,今天是喪失了。我們要救自己,要救自己的家,要救國,要救民族,要救這個世界,沒有別的,就是把聖賢傳統教育找回來。
仏陀の教育は、最終的な目標は一切の衆生を菩薩にさせ、成仏させることです。これは中国人が言う「成聖成賢」(聖人賢者になる)と同じ意味です。この教育はどれほど重要なことでしょう!この教育がなくなれば問題が出てきます。家は家らしくなくなり、国は国らしくなくなり、つまり今日の社会の乱れそのものです。今日の社会の乱れ、その真の原因は私たちが教育を失ったからです。今日では疎かにしたというどころではなく、喪失したといえます。私たちは自分を救い、自分の家を救い、国を救い、民族を救い、この世界を救おうとすなら、それは他でもなく、聖賢の伝統教育を取り戻すことです。

這個月的月初,我在馬來西亞,也是講四十八願,遇到陳大惠先生,他也在馬來西亞。應當地同修的邀請,我們做了一個訪問,「和諧拯救危機」第三集。我們邀了馬哈迪長老,他剛從國外回來,也是身體很疲勞,年歲也大了,我們不忍心邀請他出來,他說以後有機會,他也想一起談談這些問題。
今月の月初、私はマレーシアで、やはり「四十八願」【注1】を説法していました。そこで陳大恵さんと会いました。彼もマレーシアにいたのです。現地の同門の人からの招待に応じて、私たちは一席を設けました。「調和が危機を救う」【注2】の第三集のためです。私たちはマハティール長老【注3を招待しました。彼は海外から戻ったばかりで疲れていました。またご高齢でもあります。私たちは長老を招待したことを申し訳なく思いました。長老は今後また機会があるでしょうと言い、一緒にこれらの問題について話し合いたいと言いました。

他把我們這個名詞改了兩個字,我們本來是「和諧拯救危機」,他說用「教育拯救危機」比「和諧」要好,這是他建議的。用教育,我就想教育唯恐混淆,現在教育很發達,到處學校林立,不都是教育嗎?所以想教育上還要加兩個字,「聖賢教育」。聖賢這兩個字好,通一切傳統教育,也通一切宗教教育。所以我們這一集將來正式要流通的話,就用「聖賢教育拯救危機」,這馬哈迪長老建議的。
長老はこのタイトルの二字を改めました。もともとは「調和が危機を救う」でしたが、彼は「教育が危機を救う」の方が「調和」よりも良いと言いました。これは彼の提案です。しかし「教育」を用いるとなると、私たちは教育の意味を混同されることが心配になりました。現在教育は発達しており、どこでも学校が建っています。それらは教育ではないのでしょうか?ですから教育の前に更に二字を加えて、「聖賢教育」としました。聖賢、この二文字なら、すべての伝統教育に通じ、すべての宗教教育にも通じるからです。ですから私たちはこの特集番組が将来正式に放映されることになったら、「聖賢教育は危機を救う」というタイトルにします。これはマハティール長老が提案したものです。

平等的身語意三業,我們今天就介紹到此地,剛好現在時間到了。
平等の身・語・意の三業については、今日はここまでとします。ちょうど時間になりました。(合掌)

<注>
1.「四十八願」
・・・・『仏説無量寿経』に説かれる、法蔵菩薩が立てた仏に成る修行のための48の願のこと。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98

2.「調和が危機を救う」・・・・中国語で「和谐拯救危机」。CCTV中国中央テレビが撮影・放映した特集番組。(2006年~2008年)浄空法師と陳大会氏が、儒教・仏教・道教の思想を中心に、今の世界的な環境破壊や社会秩序の乱れの根源について分析し、教育によって人類の危機と災難を解消する道を対話形式で語り合う。家庭教育、学校教育、社会教育、宗教の団結、衝突の解消など、さまざまな角度から語らている。(筆者)

3.マハティール長老・・・・マハティール・ビン・モハマド(Mahathir bin Mohamad)1925年生まれ。マレーシア元首相。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%89

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どのように汚染されずにいるか(日本語字幕)

2021-04-21 | 日本語字幕付き☆NEW☆
怎樣保持不被染污 / どのように汚染されずにいるか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二五三集)2011/1/26 

今天地球是個大染缸,種種不善它統統具足,在這個染缸裡能不被染污那是聖人,那是佛菩薩,那不叫凡夫。我們很幸運,年輕的時候遇到真正善知識,把事實真相告訴我們,我們能夠這一生保持而不被染污,只是一個方法:每天不離開經教。我現在學了六十年,如果我一個星期離開經教,我自己感覺得我沒有把握,我會被染污。
今日の地球は大きな汚物の甕(かめ)のように、あらゆる不善なるものがすべて揃っています。この汚物の甕の中にあって汚染されずにいられるならその人は聖人です。その人は仏菩薩(ほとけぼさつ)です。凡夫ではありません。私たちは幸運であれば、若い頃に本当の善智識【注1】と出会い、事実の真相を告げられ、一生を汚染されずに過ごすことができます。その唯一の方法は、毎日経典から離れないことです。私は六十年学んできましたが、もし一週間でも経典を離れれば、私は知らず知らずのうちに汚染されているように感じます。

你就知道這環境染污的力量有多大,有多可怕,中國古人所謂「三日不讀聖賢書,面目可憎」,這變樣子了。聖賢書要天天讀,一個星期不讀真的靠不住!於是我們就了解了,不要去責怪別人,本來學佛學得不錯,學了十幾二十多年,忽然變了,背離佛法,墮落到三途了。有些人看到這奇怪,這佛法不靈。不是的,不是佛法不靈,他前面一段時間他認真學習,天天讀經,天天念佛。
この環境の汚染の力がどれだけ大きなものかが分かるでしょう。恐ろしいものです。中国の古人は、「三日聖賢の書を読まざれば、面目憎かるべし」(三日聖賢の書を読まなければ、顔つきが憎々しくなる)と言います。様子が変わってしまいます。聖賢の書物は毎日読み、一週間でも読まなければ本当に(人は)頼りないものです。そこから私たちは、人を責める事はできないことが分かります。もともと仏法をよく学んでいた人が、十数年、二十数年学んで突然変わってしまい、仏法に背いて三途【注2】に堕ちてしまう。ある人はそれを見て、仏法に効果がないのかと不思議に思いますが、そうではありません。仏法に効果がないのではありません。彼は以前は真面目に学んでいて、毎日経典を読み、念仏していました。

以後遇到緣,他去操作現前的行業,現前行業為什麼?賺錢。從前是把佛放在頭頂上,現在是把鈔票放在頭頂上,不一樣了,他就變心,就這麼回事情。我們要了解,我們要認清楚。他有沒有做錯?不能說他做錯,現在的世界確實是把金錢擺在第一位,佛法擺在最末後,有沒有無所謂,只顧眼前,不顧身後。
しかしその後縁に遭って、彼は以前の業界の運営に戻ってしまいました。以前の業界とは、金を儲けることです。以前は仏法を頭の上に置いていましたが、今では金銭が上になってしまい、変わってしまいました。このような事なのです。私たちはよく認識しなければなりません。彼は間違ったのでしょうか?彼は間違えたとは言えません。今の世界では確かに金銭が第一にあり、仏法は一番最後に並んでいます。(仏法が)あろうとなかろうと気にも留めず、ただ目の前を見て、後ろを振り返りません。

真正契入佛法,真正嘗到法味,這個人有前後眼,他能看到過去,也能看到未來,清清楚楚、明明白白,一天都不能離開佛法,誰教我們的?十方諸佛如來。你看看釋迦牟尼佛當年在世,哪一天不講學,哪一天不念佛!阿彌陀佛在極樂世界他哪一天不接引眾生,哪一天不講經說法!
本当に仏法を学び、本当に法味【注3】を味わっていれば、その人は前後に眼があり、過去を見ることができ、未来も見ることができます。はっきりと、明瞭に分かります。一日たりとも仏法から離れることはできません。誰が私たちを教えてくれるのでしょうか?十方諸仏如来です。釈迦牟尼仏は在世のとき、いつ講義をせず、いつ念仏しなかったでしょうか!阿弥陀仏は極楽世界でいつ衆生を導かず、いつ説法をしなかったでしょうか!

他們為我們示現的,真的,「道也者,須臾不可離也」,一分一秒都沒有離開,這叫如來,這叫妙覺。他做出來讓我們看,讓我們體會,讓我們學習。
彼らは私たちに、本当の「道の人はわずかな時間も(道を)離れることがない【注4】ということを示して下さいました。一分一秒でも離れない、これを如来と言い、妙覚と言います。それを実践して私たちに見せて下さり、理解させ、学ばせて下さったのです。

<注>
1.善智識
(ぜんちしき)・・・・人々を仏の道へ誘い導く人。特に高徳の僧のこと。

2.三途(さんず)・・・・地獄道、畜生道、餓鬼道。三悪道の迷いと苦しみの世界。

3.法味(ほうみ)・・・・仏法の深い味わいを、食物の美味にたとえていう語。

4.「道也者,須臾不可離也」・・・・『中庸』の一節。以下に引用する。

 道也者、不可須臾離也。可離非道也。
 道なる者は、須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。
 道の人はわずかな時間も(道を)離れることがない。離れているなら道の人ではない。

 是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。
 是の故に君子は其の睹(み)えざる所に戒慎(かいしん)し、其の聞えざる所に恐懼(きょうく)す。
 そのため君子は人に見られない所を戒め慎み、人に聞かれない所を恐れかしこまる。

 莫見乎隱、莫顯乎微。
 隠れたるより見(あら)わるるは莫(な)く、微(かす)かなるより顕(あきら)かなるは莫し。
 隠れたところから現れないものはなく、僅かなことから明らかにならないものはない。

 故君子愼其獨也。
 故に君子は其の独りを慎むなり。
 そのため君子は独りで過ごすときに慎しむのである。


(注)これは2011年9月29日に訳したものです。当時は染汚(せんお)という言葉を知らず汚染(おせん)と訳していました。ただ「汚染」も「染汚」も意味はほぼ同じですので、今回もそのまま記載します。
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蕅益大師開示 2017.08.08

2021-04-10 | 浄空老法師を知る


淨空老法師對極樂寺同修講解《蕅益大師開示文》2017.08.08
2017/8/8 台南極樂寺 檔名:32-243-0001

  諸位法師、諸位同學,大家晚上好。

  同學們要我跟大家講幾句話,我聽到也很歡喜。總算是我們有緣,沒有緣聽不到。跟大家講什麼?現在在這個地球上,宗教沒落了,儒釋道都衰了,佛法也不例外。講經教學不容易,要三寶加持,最重要的是要我們這一代人有福報,沒有福報,三寶加持加不上。所以關鍵還是在自己,就像讀書一樣。

  我在六十六年前,剛剛聽到佛法。我親近方東美教授,跟他學哲學。那一年我二十六歲,對於宗教基本上來說都不能接受,總以為宗教是迷信,宗教是騙人的。方老師給我講了一部《哲學概論》,最後一個單元「佛經哲學」,我感到非常驚訝,我說佛是宗教、是迷信,它怎麼會有哲學?老師告訴我,「你還年輕,你不懂得,釋迦牟尼是世界上最偉大的哲學家,大乘經典是全世界哲學的最高峰」,又告訴我,「學佛是人生最高的享受。」我是這樣入佛門來的,不是出家人講經教學,不是的,是因為哲學界很著名的一位大德,他給我講哲學概論的時候,說出佛經哲學,我就從這入門,所以入門是從學術。

  那個時代,六十六年前,我相信諸位都能體會到,社會風氣還算不錯。這些年來一年不如一年了,我們必須知道。什麼原因?老師也講了兩句話。我們年輕,總想多學一點東西,希望能夠到學校裡去聽老師的課。他在台灣大學教書。老師告訴我,「現代的學校」,是六十六年前的,不是現在的,六十六年前,他說「先生不像先生,學生不像學生,你要到學校去聽課,你會大失所望。」我聽到老師這幾句話,完全拒絕了,沒指望了,所以表情一定是很難過。大概過了五、六分鐘,老師說了,「你真想學,到我家裡來。」這是我從來沒想到過的,跟我約了每個星期天,上午九點半到十一點半兩個小時,每個星期上一堂課,兩個小時,我的哲學是在他家裡學的。哲學講到最後講到佛經哲學,我們才真正了解,佛法不是迷信。那近代,這六十六年過去了,我們借鑑了西方的科學,特別是量子力學,很時髦的話,我也可以告訴諸位,大乘佛教是量子科學的最高峰,科學跟哲學都在大乘經裡,認真好好去學,確實能幫助我們解決問題。

  佛當年在世,說了八萬四千法門,八萬四千法門是形容,是講究竟圓滿。佛有沒有說這麼多?沒有,沒有那麼多時間,佛講經教學四十九年。但是要知道佛陀那個時代,出家人日中一食,樹下一宿。每天上午都要出去托缽,吃飯不能過中,一定是十一點半左右,太陽日中的時候,晚上睡覺樹下一宿,過這樣的生活。佛陀講經的時間就不是很長,應該是吃完飯之後,這個空檔是佛講經,我們估計應該有三個小時到四個小時。講經三百餘會,說法四十九年。他老人家是三十歲開悟的,開悟之後就講經,七十九歲圓寂的,我們中國人說八十歲,虛歲,外國人講實足年齡,七十九歲圓寂。對於佛陀一生的歷史,我們要知道,才不會迷失方向,才不會走錯路。

  我學佛之後,緣分很殊勝,親近了章嘉大師,我的佛學基礎,章嘉大師給我奠定的,我跟他三年,他往生了。以後我跟李炳南老居士學經教,跟他十年,這個十年前面七年是聽他老人家講經,後面三年是親近老人家,我也開始講經了。我出家是三十三歲,第二天白聖法師就請我到他辦的十普寺的三藏學院去教學。所以我出家第二天就上佛學院去上課,講經,一直沒有空過,到今年五十八年。但是今年體力差了,畢竟是九十一歲了,中氣不足,話說多了很累。從前沒有過的,最盛的時候,我是每天講經九個小時,上午三個小時,下午三個小時,晚上三個小時,那段時期在美國。

  美國的緣也很盛。美國學佛比較上困難,工作太忙,空閒的時間很少,他每個星期兩天放假,星期六跟星期天都放假,工作五天,所以一個星期只有兩天可以學習經教,不是每天都能講經。只有星期五的晚上,星期六的一天。星期天雖然他不上班,他要整理家庭,要清潔環境,足足要一天的時間。居住的環境好,房子很大,有院子,要請別人來給你做,工資是論小時算的,一個小時多少錢,這樣算的,不是一天,他是論小時算的。所以大家為了節省一點錢,都留著自己做。星期天這一天工作,整理一下家園。

  佛陀講的八萬四千法門不是誇張的話,是真的。但是佛在我們這個世界上住世四十九年,這一開悟之後就講經,有沒有講這麼多?沒有。那八萬四千怎麼來的?八萬四千是個圓滿的數字。佛說法是應機說法,你是什麼樣的根機,你能接受哪些佛法他就教你,因人而異,應機而異,不相同的。而且所有的經典只講一次,沒有講過第二次的。

  但是有例外,唯獨淨土宗的不止一次。淨土宗的經典無論是小本《彌陀經》,大本的《無量壽經》,都是多次宣講,很特殊。《彌陀經》究竟講多少次,我們可以看到翻譯的版本不一樣。就知道《無量壽經》最多,在中國有十二種譯本,換句話說,至少釋迦牟尼佛《無量壽經》講了十二遍,十二遍全結集下來了,留傳到後世。中文《大藏經》裡面這十二種裡面有七種失傳了,找不到了,經題有,能找得到經題,但是經找不到了。這證明多次宣講。蒙古《大藏經》裡面,蒙文也是直接從梵文翻譯的,有十幾種;日本《大藏經》裡頭有,有這些經題,但是內容也找不到了,所以多次宣講。

  為什麼多次宣講?今天晚上我給諸位介紹這一張,大家都有了。這是蕅益大師的開示。這是一個非常特殊的法門,末法時期,只有這個法門一生決定得度,千萬不能錯過。如果你錯過這樁事情,你就大錯了。這個法門說的人不一樣,意見不相同,我們到底跟誰學?中國人懂得教學,會學,應該怎麼學?一個老師,你走的是一條路;兩個老師,你走岔路了,到底哪一條好不知道;三條路三岔路口,四條路十字街頭,愈來愈麻煩,你很難有成就。為什麼?你的思惟是亂的,你心不定。學佛必須要知道,佛法的教學始終離不開戒定慧,戒是方法,因戒得定,因定開慧,慧是大徹大悟、明心見性、見性成佛。淨土宗方法好在哪裡?它就在信願行。我們把這個文跟諸位簡單念一遍。

  蕅益大師說,「念佛法門別無奇特」,沒有奇怪也沒有特殊,「只深信力行為要」。這一句話講完了,深信,你對於西方極樂世界沒有懷疑。怎麼樣不懷疑?希望《無量壽經》,最好是淨土五經都讀過。最重要的是《無量壽經》,介紹西方極樂世界。要知道這個經決定是真的,釋迦牟尼佛多次宣講,就這一部經,沒有聽說另外有一部經是講過二遍、三遍的,沒有。佛為什麼多次宣講?目的就是普度眾生,希望大家遇到這個法門,依教奉行,你就決定得度,一個都不空過,萬修萬人去。問題就是你對它信心動搖,這極樂世界到底是有還是沒有?這個麻煩就大了,信心不具足的去不了。第二個是願心,我願意去。極樂世界真有,這第一個信心具足,我一點都不懷疑。《阿彌陀經》我講了十幾遍,《無量壽經》也講了十幾遍,愈講愈歡喜,信心具足。力行就是念佛,執持名號,這一句南無阿彌陀佛。

  我今天把海賢老和尚的照片,在這本書裡頭,《若要佛法興,唯有僧讚僧》。這裡頭有一張照片,海賢老和尚的照片。在這個時代,最慈悲、最難得的為我們做榜樣。老和尚不認識字,沒有念過書,二十歲出家,家裡非常清寒,一生過苦日子。他的師父傳戒法師,了不起的人,我們看到他的傳記,就知道那是個再來人,不是普通人。給賢公老和尚剃度,他二十歲出家剃度,只教他一句話,南無阿彌陀佛,囑咐他,一直念下去。又告訴他,明白了,不能亂說,不能說。

  海賢老和尚的成就,得力於他一生老實、聽話、真幹,這個條件就成功了。謹記住自己師父一句話,一句佛號念到底。他一百一十二歲往生,一三年,二O一三年,今年是二O一七年,四年前往生的,距離我們很近。他的弟子替老和尚寫了一個紀念冊,很值得看,記載老和尚一生修行。我看到他這些報告,這個老和尚應該是三十歲之前念佛功夫成片,也就是講應該在二十五歲前後,因為一般得功夫成片的,三年。他二十歲出家,應該在二十三、四歲,得功夫成片;三十歲,我相信不超過三十歲,得事一心不亂;四十歲得理一心不亂。事一心不亂,相當於阿羅漢;理一心不亂,相當於法身菩薩,跟禪宗六祖惠能大師是平等的階級,《華嚴經》上初住以上,不容易。

  他的師父叮嚀他一句話,「明白了,不能亂說,不能說」。這話什麼意思?開悟了,他開悟了之後,一切法門教理全通了,但是怎麼樣?不能說,真的不能說。所以一生,你看他平平常常,沒有話說,人家問他佛法,就念阿彌陀佛,沒有第二句話好說。真的大徹大悟,明心見性,不是簡單的人物。是因為生在這個時代,不許說,說的時候有災難,不說,明哲保身。這個我們要能體會得到,要能看得出來,這是我們今天學佛最好的榜樣。可是佛法要承傳,不承傳,在這個世間就斷了,傳什麼?只有傳淨宗法門,保證你這一生念佛往生極樂世界,好!一了百了,往生到極樂世界,等於成佛,你在一生當中成佛,你要不要?要。

  蕅益大師今天這一份開示,諸位好好的依教奉行,恭喜你,你是極樂世界彌陀弟子,你不是凡人。如果你對它有懷疑,對這個世界還有留戀,還不想走,那就錯了,大錯特錯了。這個法門就簡單這一張,可以說釋迦牟尼佛四十九年所說的精華就在此地,希望大家千萬不要空過。

  下面蕅益大師用佛的話來說,「佛云:若人但念彌陀佛,是名無上深妙禪」。念佛比參禪殊勝,參禪,一百個參禪的,難得有一個開悟的。念佛的,一千人念,一萬人念,個個往生,一個都不漏。你說哪個法門好?我們應該學哪個法門?念佛是無上深妙禪。人家要勸你修禪,我這阿彌陀佛是無上深妙禪,比你那個禪高。不能見到別人就起心動念,心就動搖了,學學那個法門不錯。沒有一個法門能保證你成就,只有念佛往生這個法門,這個法門是保證你成就,這一張就是保證書。

  「天台云」,天台大師,唐朝智者大師,這天台宗的祖師,他說:「四種三昧,同名念佛,念佛三昧,三昧中王」。這是天台家修止觀,跟念佛來比,天台大師也說念佛三昧,三昧中王。這都是真話,如果你要是真的明白了,在佛的經教之下,你就能如如不動。要不要學經教?要,為什麼要學經教?不能把佛法斷了。但是這不是第一樁大事。第一樁大事,我們怎樣脫離六道輪迴?那就是念佛往生極樂世界,第一樁大事。弘法利生是第二樁事情,有緣就做,沒有緣老實念佛,像海賢老和尚,最後現身說法。你看他的成就,就對淨宗增長信心,他用這個方法來度化眾生,表演,真去了。

  雲棲是蓮池大師,蓮池大師說:「一句阿彌陀佛,該羅八教」。這八教是大乘八個宗。賢首是學《華嚴》,賢首宗,賢首大師是開山祖師,智者大師法華宗(天台山天台宗),窺基大師法相宗,還有從印度傳過來的,達摩祖師傳過來禪宗。在中國,還有密宗,密宗跟律宗,律宗,淨土。大乘八個宗派,八教,一句阿彌陀佛全包括了。該羅就是包括。「圓攝五宗」,五宗是講禪宗。禪宗六祖以後,一花五葉,它分五個宗派。那就是說教、禪都在一句佛號當中,圓圓滿滿。你要記得,這一句佛號統統包括,大乘、小乘全在裡頭,顯教、密教。

  這個法門遇到了大福報,你怎麼會遇到這個法門?不僅是釋迦牟尼佛度眾生的第一法門,一切諸佛如來普度十方諸佛剎土眾生,都是這一句佛號,沒有例外的,這是說你福報太大。但是你如果是迷了,還想學這個學那個,那就太可惜了。

  下面蕅益大師感嘆的說:「可惜今人,將念佛看作淺近勾當」。要修高深的,這是老太婆學的,不認識字的人學的。自己不甘心學這個,看海賢老和尚不認識字,我們讀的書比他多,所以我們可以學經教。殊不知道,他最後的表演是圓滿成功。我們最後一招能不能跟他相比?這個大問題。他老人家的祕訣,一天到晚二十四小時就是一句佛號。真的是「都攝六根,淨念相繼」。

  所以將念佛看作淺近勾當,「謂愚夫愚婦工夫。所以信既不深,行亦不力,終日悠悠,淨功莫剋。設有巧設方便,欲深明此三昧者,動以參究誰字為向上」。以為參禪,禪是高,不錯。「殊不知現前一念能念之心,本自離過絕非,不消作意離絕。即現前一句所念之佛,亦本自超情離計,何勞說妙談玄」,這是蕅益大師慈悲,把念佛法門跟教下、宗門做個簡單的比較。不認識的人,以為念佛淺,沒有什麼稀奇,禪高妙,教妙,談玄說妙,玄是指的禪宗,妙是指的教下。教下四個宗派,我們不能不知道。

  下面說:「只貴信得及」。淨宗信是第一要緊,信有極樂世界,信有六道輪迴,我們如果不能往生極樂世界,肯定是六道輪迴。六道輪迴是業力變現的,我們起心動念、言語造作有善有惡,善感的三善道,惡則感三惡道,出不了六道輪迴,很可怕,不能不知道。所以這個法門「信得及,守得穩」,穩是什麼?決定不改變,我就一句佛號念到底。「直下念去,或晝夜十萬,或五萬、三萬,以決定不缺為準。畢此一生,誓無改變,若不得往生者,三世諸佛便為誑語」。你們想想佛會騙人嗎?佛不會騙人,祖師大德不會騙人。這裡面所提到的這些祖師大德,賢首、智者、蕅益、蓮池,都是大徹大悟、明心見性的大善知識,這不是假的。他們來到這個世間,示現一個普通人,為我們表法,給我們做榜樣,你看他一生,最後往生的境界就不一樣了。「一得往生,永無退轉,種種法門,咸得現前」。這就是你生到西方極樂世界,得到阿彌陀佛四十八願的加持,諸佛菩薩所說的一切經全都通了,到極樂世界自然通達,親近阿彌陀佛,彌陀一音而說法,眾生隨類各得解。不能小看了淨宗,淨宗太偉大了,真能幫助我們解決問題,而且保證解決,決定沒有妄語。

  下面警告我們,「切忌今日張三,明日李四」。就是你有信心,但是你的心不專,你的欲望還很多。看到經想學經教,看到戒就想穿袍搭衣,著重這些形式,這樣就錯了。所以「遇教下人,又思尋章摘句」,想學講經教學;「遇宗門人」,遇到參禪的人,「又思參究問答;遇持律人(持戒的),又思搭衣用缽。此則頭頭不了,帳帳不清」。錯了,大錯特錯了。但是這種人很多,我們看到很多。

  我過去講了大概大小經典有一百多種,我在八十五歲那一年徹底放下了,《華嚴經》放下。《華嚴》我講了四千多個小時,講了多少?五分之一。用我的方法一直講下去,《華嚴經》講完需要兩萬個小時。我想到什麼問題?生死沒有把握。放下,不講了,專講《無量壽經》,專念阿彌陀佛,我求生淨土要緊。所以要真的想到生死事大,其他是假的,沒有一樣是真的。自己要想到自己未來怎麼辦,這一口氣不來之後我到哪裡去?這才叫大事。

  下面勉勵我們,也都是真話。「豈知念得阿彌陀佛熟」,這句佛號念熟,像海賢老和尚一樣,念熟了。「三藏十二部極則教理,都在裡許」,這講教下,這一部《大藏經》你全通了。我們要問海賢老和尚通不通?通。為什麼他不講?他的師父教他,明白了不能亂說,不能說。守住師父的教誨。他不是不會,他很內行,你念什麼經他都知道,你不懂意思他懂。下面,「千七百公案(禪宗的),向上機關」,怎麼開悟?也在這一句佛號裡頭,「亦在裡許;三千威儀,八萬細行,三聚淨戒,亦在裡許」。

  下面大乘菩薩修的六波羅蜜,這一句佛號六度圓滿。「真能念佛,放下身心世界,即大布施」,六波羅蜜裡頭第一個大布施;「真能念佛,不復起貪瞋痴,即大持戒」,貪瞋痴慢疑斷了,就是戒律圓滿。放下身心世界,大布施,布施、持戒。「真能念佛,不計是非人我,即大忍辱;真能念佛,不稍間斷夾雜,即大精進;真能念佛,不復妄想馳逐,即大禪定;真能念佛,不為他岐所惑,即大智慧」,這菩薩所修的。天台、法華菩薩所修的六波羅蜜,這一句佛號就圓滿了,多簡單,何必找那麼多麻煩?

  你們年輕有的是時間,可以去找,我不敢找了。我這樣的年齡隨時可以往生,現在阿彌陀佛還沒有來接,還有工作沒幹完。這個工作在我想來就是漢學院、宗教學院,目的是想辦宗教大學,幫助全世界的宗教都能夠通達教義,都能夠講經教學,要不然搞迷信。所以那就要辦個世界宗教大學,幫助全世界。在英國,我們這個問題已經正式提出來討論,而且有行動,英國在今年下半年要開辦一個博士班,和諧博士。辦這個班什麼意思?就是希望每一個宗教能夠推選兩個學生,博士生,幹什麼?講經教學,培養教師,把整個世界佛教回歸教育。

  我們肯定宗教是教育,依照中國文字來說,中國宗有三個意思:第一個主要的,第二個重要的,第三個尊崇的,尊重、崇高;教也有三個意思:教育、教學、教化。宗教兩個字連起來,主要的教育、重要的教學、尊崇的教化,這兩個字定義如是。現在在宗教裡頭、佛教裡找不到這三條,所以要恢復,不但佛教要恢復,所有宗教都要恢復。每一個宗教都好,眾生的根性不一樣,像大家口味不一樣,有人喜歡佛,有人喜歡道,有人喜歡基督,有人喜歡安拉,不一樣,各隨所好,都好。眾神一體,宗教一家,平等對待,和睦相處。我們希望宗教教育能夠帶給社會安定、世界和平,走這條路。西方人已經開始了,我們要追上。

  現在第一個階段培養師資,英國人帶頭幹,下半年招生,大概十幾個宗教,每個宗教兩個學生,還要派一個指導教授。三年,他們畢業了,個個都能講,個個都通達,學習自己的宗教,也要學習別人的宗教,宗教與宗教之間的矛盾要化解。戒律,譬如說佛教講的五戒十善,每一個宗教經典裡頭都有;換句話說,五戒十善是所有宗教共同的戒條,沒有一個宗教不提倡的,這是好事情。

  舊的宗教我們也有個想法,不能廢除,不能不要。為什麼?它是歷史,從舊的寺院庵堂、教堂可以看到宗教的歷史。舊的宗教一律歸宗教歷史文物館,用這個名義把它保留。而且一樣把它建築得很好,這裡面可以做佛事,可以做禮拜的,這個可以,那是舊的,你看古老的宗教是那樣。新的是教育、是學校,大學、中學、小學,這是辦學。活動是宗教有宗教活動中心,所有宗教辦活動都在一起,大家都看到,互相學習、互相幫助,好!希望宗教變成一家人。一家人吃東西口味不一樣,有人喜歡吃甜的,有人喜歡吃辣的,所以所有宗教我們都要保留,都要尊重,他是我們的老前輩,要這樣去想。我們的終極目標是希望世界和平,希望宗教帶給我們安定和諧,幫助我們化解衝突。

  菩薩六波羅蜜也在這裡頭,我把這底下念完。「試自簡點,若身心世界猶未放下,貪瞋痴念猶自現起,是非人我猶自掛懷,間斷夾雜猶未除盡,妄想馳逐猶未永滅,種種他岐猶能惑志(迷惑),便不為真念佛也」。這是蕅益大師這兩行半告訴我們真念佛是什麼樣子。這些煩惱習氣還在,這是假念佛,這不是真念佛,真念佛的這統統放下了。下面再告訴我們,這很重要,「要到一心不亂境界,亦無他術」,想念到一心不亂,也沒有別的方法。「最初下手,須用念珠,記得分明,刻定課程,決定無缺」。這就是最初下手還要用念珠計數,計數你的心不會有胡思亂想,慢慢習氣把它念掉。念到熟了,純熟了,「不念自念」,這個時候計數行,不計數也行,就沒有拘束了。

  底下這最後的兩行半給我們警惕,「若初心(初發心)便要說好看話,要不著相,要學圓融自在,總是信不深,行不力。饒你講得十二分教」,你經講得再好,沒用處,「下得千七百轉語」,這是講參禪,「皆是生死岸邊事」。不能成就,成就太難了,不是給你講開玩笑的話,禪宗是上上根人修的。我學佛的時候,我的三個老師,方東美先生、章嘉大師、李炳南老居士都警告我,禪不能碰,密不能碰,為什麼?你不是這個根性。只許可教下探討經典,增長信心,對佛法認識,最後歸淨土,一心念佛,求願往生。

  今天我們的緣非常殊勝,我把蕅益大師這段開示介紹給大家,這一張紙就可以保證我們往生極樂世界。如果你要不願意念經、念咒,要不願意的話,就這一張紙就行,它代表整個淨土宗。祖師的話要記住,沒有一個不成就的,決定不能夠見異思遷。別人學這樣、學那樣,我們點頭,好,很好,叫我學,我不學,我比不上你,你有本事學,我沒有本事學,我只有念佛求生淨土。你說我不如你,我是不如你,我不跟你爭,我對你尊重,我老實念佛求生淨土,知道這是保證書,決定有成就。

  希望我們大家信願持名,求生淨土,學海賢老和尚。這是我們末法時期最好的導師,一句佛號念到底,最後的成就不可思議,給我們做出榜樣,距離我們四年前走的。千萬不要忘記,天天看著老和尚的像,向老和尚學習,就對了。我們今天晚上就說到此地,謝謝大家。


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対立は矛盾を生み出す根源(日本語字幕)

2021-04-07 | 日本語字幕付き☆NEW☆

對立是矛盾產生的根源 / 対立は矛盾を生み出す根源
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二五一集)2011/1/24

「平等者,淺言之,則為離諸高下、深淺、大小、親疏、智愚、迷悟種種差別,曰平等」,換句話說,我們念這麼多全是相對的。這是舉幾個例子,只要我們心裡有對立這個念頭就不平等,見惑裡叫邊見,二邊,有我就有人,就對立。有邊見的人永遠不平等,有我見的人永遠不清淨;或者我們用覺正淨來說,有我見的人永遠迷惑、不覺悟,有邊見的人永遠不平等,有成見的人永遠有煩惱。
「平等とは、分かり易く言えば、すべて高低、大小、親疎、賢愚、迷いと悟り、あらゆる区別を離れること、それを平等と言うのである。」 これは言い換えれば、私たちはたくさん念仏するのもすべて相対的なものだということです。これはいくつかの例を挙げています。ただ私たちの心に対立する心があれば平等ではなく、「見惑」の中の「辺見」、「二辺」、自分に我があれば他人と区別する意識が生じて、対立します。「辺見」がある人は永遠に不平等であり、「我見」のある人は永遠に清浄ではありません。或いは、「覚正浄」で言えば、「我見」のある人は永遠に迷い・悟らず、「辺見」のある人は永遠に不平等であり、「成身」(定見・先入観)のある人は永遠に煩悩があります。

這是佛門入道最基本的條件,怎麼樣破我執,不再執著身是我;破邊見,不再與一切人事物對立,我不跟人家對立,別人跟我對立沒關係,我不跟他對立。一般人不肯做,那我不就吃虧了,不是到處都吃虧上當?沒錯,吃虧是福,你要不願意吃虧上當,你跟別人對立,就免不了要結冤仇,在六道裡頭生生世世搞冤冤相報,太苦了,這太可憐了,何必!
これは仏門入道の基本的な条件です。どのように我執を破り、二度と身体が自分であると執着せず、二度と一切の人や物事と対立しないか。自分は人と対立せず、他人が自分と対立しても構わずに、自分は他人と対立しないことです。一般の人はそうしようとしません。それでは自分が損をして、どこでもすべて損して騙されるのではないのでしょうか?そのとおりです。損することは福です。損することを望まず、人と対立していれば、仇になることは免れません。六道の中で何度生まれ変わっても互いに恨みを報い合う、これはなんと苦しく、哀れなことでしょうか。その必要はありません!

所以,對立這個錯誤的念頭,惹來的禍患無窮無盡。對立升級就是矛盾,矛盾升級就是鬥爭,鬥爭升級就是戰爭,這還得了嗎?化解衝突、化解戰爭,從哪裡開始?化解對立,從這裡下手可以做得到,不從這裡下手做不到。所以,清淨平等能救世界,清淨,放下自私自利,平等,放下對立衝突,這世界就有救了。

ですから、対立するのは誤った考えであり、引き起こすものは尽きる事のない災いです。対立が進めば矛盾となり、矛盾が進めば争いとなり、争いが進めば戦争となり、大変なことです。衝突を解消し、戦争を解消するには、どこから始めれば良いでしょうか?対立を解消することから着手すれば、実現することができます。ここから着手するのでなければ実現できません。ですから清浄、平等は世界を救うことができ、心が清浄で私利私欲を捨て去り、平等で、対立や衝突をやめれば、この世界には救いがあります。

第一回更新2011-10-05
第一回訂正2021-04-07(一部意訳を加えました)
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どのように文語文を学ぶか(日本語字幕)

2021-04-03 | 日本語字幕付き☆NEW☆

如何學習文言文 / どのように文語文を学ぶか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二五五集)2011/1/28

從哪裡下手?我們也曾經研究過,過去李老師指導我們這批學生,教我們續佛慧命、住持正法要兩個條件,第一個條件要通達佛法,第二個條件要通達世間法,世間法他老人家就舉一個例子《四庫全書》。通達佛法,你自行化他契理,通達世間法你就契機,這多重要!我們需要兩個根,一個根是徳行,就是《弟子規》、《感應篇》、《十善業道》是行,這是一個根;第二個根是文字,文言文。
どこから着手すればよいでしょうか?私たちもかつて研究したことがあります。昔、李老師【注1】は私たち数人の学生に、「継仏慧命」「住持正法」の二つの条件を(実行するように)指導されました。第一の条件は仏法に通じること、第二の条件は世間の法に通じることです。世間の法について李老師は例として『四庫全書』【注2】を挙げていました。仏法に通じるきっかけを作り、世間に通じるきっかけを作る、これは重要です!私たちは二つの根が必要です。一つの根は徳行、つまり『弟子規』、『感応篇』、『十善業道』の徳行です。もう一つの根は文字、文語文です。

告訴我們至少要熟讀五十篇古文,你就有能力閱讀文言文,也就是說三藏跟《四庫》,你文字障礙就沒有了;如果能夠熟讀一百篇,你就有能力寫文言文。告訴我們,這兩個根本需要兩年的時間可以完成,兩年一百個星期,一個星期就熟讀一篇古文,兩年你就能熟讀一百篇。
(老師は)「最低五十篇の古文を熟読すれば、文語文を読む力がついてくる。三蔵【注3】と『四庫』を読めば、文語文を読むのに障害がなくなり、もし百篇熟読すれば、文語文を書く能力がついてくる。この二つの根本は二年で完成することできる」と仰いました。二年とは百週間ですから、一週間で一篇の古文を熟読すれば、二年で百篇読むことができます。

兩年同時把《弟子規》、《感應篇》、《十善業》,這三個根,如果出家人紮四個根,《沙彌律儀》。統統能做到,你就是佛菩薩的根基,聖賢君子的根基。換句話說,你有資格、有條件、有能力成聖、成賢、成佛、成菩薩。你有多大的成就,全在你自己真誠恭敬心的程度,決定是成正比例。
二年の間に同時に『弟子規』、『感応篇』、『十善業道』この三つの根、もし出家しているなら『沙彌律儀』を合わせて四つの根を育てるべきです。それらをすべて実行できれば、あなたには仏や菩薩の基礎があり、聖賢君子の基礎があるということです。言い換えれば、あなたには聖人、賢者、仏、菩薩になる資格があり、条件を備えているということです。あなたがどれだけ成就するかは、すべてあなた自身の偽りない恭敬心(きょうけいしん:慎み敬う心)の程度によります。(成就と恭敬心とは)必ず正比例するものです。

<注>
1.李老師
・・・・李炳南居士(1889~1986)のこと。山東省済南の人。名を艶、字を炳南、号を雪庐という。印光大師に帰依して浄土宗を修めた。抗日戦争期間は、孔徳成について重慶に行き、太虚大師の布教活動を補佐した。中医学にも造詣が深い。孔奉祀官府の秘書長。中国医薬学院、中興大学教授を兼任。台中にて経典の説法を数十年に渡って行い、仏法の普及に尽力した。台中仏教蓮社、菩提樹雑誌社、慈光図書館、菩提医院、菩提救済院など布教活動を行いつつ慈善機関を設立した。(百度より抜粋して翻訳)

2.四庫全書(しこぜんしょ)・・・・清の乾隆帝の勅命で編纂された中国最大の叢書。1781年完成。古今の書物を集めて筆写した7万9070巻を経・史・子・集の四部に分類されている。

3.三蔵(さんぞう)・・・・仏教の聖典を経蔵・律蔵・論蔵の三種に分類したもの。
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