奸巧語 穢污詞 市井氣 切戒之
jiān qiǎo yǔ huì wū cí shì jǐng qì qiè jiè zhī
【解説】奸詐虛偽、尖酸刻薄、花言巧語、下流骯髒的話,千萬不能說。粗俗市儈的習氣,都要徹底戒掉。
【和訳】ずるくて巧(たく)みな言葉、下品な言葉や暴言など、よくない言葉遣いをするような悪習(あくしゅう)に染(そ)まらないように、くれぐれも自戒(じかい)しなければなりません。

●簡単解説:
★「市井」はちまたです。「市井気」は俗世間の良くない風習、低俗的なことで、凡夫には犯しやすいことです。
聖賢には高尚な品行があります。倫理道徳と因果の教育を受けていくうちに、自然に品行方正になってくるものです。仏教では「荘厳(しょうごん)」という言葉で徳行の高さを表現しています。聖賢の教えのなかでは、上品や高い品位というのは、モラルの高さを指していて、決して物質的なもの、世間の富貴・享受を指しているのではありません。いくら華麗な高級な服装を着ていて、宝石などの装飾品で身にまとっていても、豪邸に住んで、高級車に乗っていても、顔に出ている俗っぽさを消せません。化粧しても隠し切れないのです。それは本当の荘厳、つまり、本当の上品ではありません。
本当の上品、本当の荘厳というのは、心の善良・慈悲・清浄・真誠であるのです。仏法の教えでは、善と美しさの最低基準は、「五戒と十善」を守っていることです。そのような徳行こそは本当の美しさであって、品位があるということです。そのような徳行がある方は、質素な服を着ていても、かりに継ぎ接ぎだらけの服を着ていたとしても、その容貌は清秀(せいしゅう)かつ温良(おんりょう)で、慈悲深くあたたかみのある顔つきで、物静かで穏やかに落ち着いていて、智慧に満ちています。それこそは本当の荘厳、上品、品位があるということです。
「読書志在聖賢」(学問をするには、志は聖賢になること)とのお言葉のように、読書する目的は聖賢に学び、自分の心と行いを良い方に変えていくことです。読書で気質を変えさせることです。悪なところを善に変えていき、愚かなところを智恵があるに変えていき、低俗なところを高尚に変えていきます。そういうふうにして、だんだんと凡夫から聖賢と化(か)していきます。
それがゆえに古くから「万般皆下品、唯有読書高(万般皆下品であり、ただ読書のみ高きなり)」と言い伝え、社会の多くの階級・業種なかで、とりわけ道徳と学問がある「読書人」である教員が一番尊敬されていました。昔では、着席するときの席順では、読書人にはいつも上座に座って頂くようにしていました。
古代の読書人には道徳の修養があって、古の聖賢の智慧もありました。読書人が学問をする目的は名利・富貴・地位を得るためではありませんでした。聖賢の教えを学び、正しい道理を知り、実行して聖賢になることを目標にしていました。
昔には官僚を選抜する科挙制度がありました。読書人はその試験に通れば、国や地方の官僚になれます。官僚になれば、国家、民衆のために、自分の力を貢献・奉仕できます。しかし、実際のところには、やはり、試験を受かって官僚になれる人よりも、なれない人のほうが多かったのです。そのため、昔、多くの読書人はとてもご自重(じちょう)なさっていて、官僚になれず国に尽くせなくても、田舎で、子供たちに学問を教える貧しい教員となり、世間の人々に、「温・良・恭・倹・譲(おんりょうきょうけんじょう。温(温厚篤実)・良(善良)・恭(慎み深く恭敬なさま)・倹(質素倹約)・譲(謙虚でよく忍耐して、他人に譲ること)」との五つの美徳を備わる人間の見本となっておられました。
聖賢者のなかの代表的な模範はやはり孔子と孟子でした。お二方の職業は共に貧しい教育者である「教員」でした。聖賢の教えを実際に踏み行い、身をもって範を示しておられました。
簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
jiān qiǎo yǔ huì wū cí shì jǐng qì qiè jiè zhī
【解説】奸詐虛偽、尖酸刻薄、花言巧語、下流骯髒的話,千萬不能說。粗俗市儈的習氣,都要徹底戒掉。
【和訳】ずるくて巧(たく)みな言葉、下品な言葉や暴言など、よくない言葉遣いをするような悪習(あくしゅう)に染(そ)まらないように、くれぐれも自戒(じかい)しなければなりません。

●簡単解説:
★「市井」はちまたです。「市井気」は俗世間の良くない風習、低俗的なことで、凡夫には犯しやすいことです。
聖賢には高尚な品行があります。倫理道徳と因果の教育を受けていくうちに、自然に品行方正になってくるものです。仏教では「荘厳(しょうごん)」という言葉で徳行の高さを表現しています。聖賢の教えのなかでは、上品や高い品位というのは、モラルの高さを指していて、決して物質的なもの、世間の富貴・享受を指しているのではありません。いくら華麗な高級な服装を着ていて、宝石などの装飾品で身にまとっていても、豪邸に住んで、高級車に乗っていても、顔に出ている俗っぽさを消せません。化粧しても隠し切れないのです。それは本当の荘厳、つまり、本当の上品ではありません。
本当の上品、本当の荘厳というのは、心の善良・慈悲・清浄・真誠であるのです。仏法の教えでは、善と美しさの最低基準は、「五戒と十善」を守っていることです。そのような徳行こそは本当の美しさであって、品位があるということです。そのような徳行がある方は、質素な服を着ていても、かりに継ぎ接ぎだらけの服を着ていたとしても、その容貌は清秀(せいしゅう)かつ温良(おんりょう)で、慈悲深くあたたかみのある顔つきで、物静かで穏やかに落ち着いていて、智慧に満ちています。それこそは本当の荘厳、上品、品位があるということです。
「読書志在聖賢」(学問をするには、志は聖賢になること)とのお言葉のように、読書する目的は聖賢に学び、自分の心と行いを良い方に変えていくことです。読書で気質を変えさせることです。悪なところを善に変えていき、愚かなところを智恵があるに変えていき、低俗なところを高尚に変えていきます。そういうふうにして、だんだんと凡夫から聖賢と化(か)していきます。
それがゆえに古くから「万般皆下品、唯有読書高(万般皆下品であり、ただ読書のみ高きなり)」と言い伝え、社会の多くの階級・業種なかで、とりわけ道徳と学問がある「読書人」である教員が一番尊敬されていました。昔では、着席するときの席順では、読書人にはいつも上座に座って頂くようにしていました。
古代の読書人には道徳の修養があって、古の聖賢の智慧もありました。読書人が学問をする目的は名利・富貴・地位を得るためではありませんでした。聖賢の教えを学び、正しい道理を知り、実行して聖賢になることを目標にしていました。
昔には官僚を選抜する科挙制度がありました。読書人はその試験に通れば、国や地方の官僚になれます。官僚になれば、国家、民衆のために、自分の力を貢献・奉仕できます。しかし、実際のところには、やはり、試験を受かって官僚になれる人よりも、なれない人のほうが多かったのです。そのため、昔、多くの読書人はとてもご自重(じちょう)なさっていて、官僚になれず国に尽くせなくても、田舎で、子供たちに学問を教える貧しい教員となり、世間の人々に、「温・良・恭・倹・譲(おんりょうきょうけんじょう。温(温厚篤実)・良(善良)・恭(慎み深く恭敬なさま)・倹(質素倹約)・譲(謙虚でよく忍耐して、他人に譲ること)」との五つの美徳を備わる人間の見本となっておられました。
聖賢者のなかの代表的な模範はやはり孔子と孟子でした。お二方の職業は共に貧しい教育者である「教員」でした。聖賢の教えを実際に踏み行い、身をもって範を示しておられました。
簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
親として、子ども達の環境に気を配りたいと思う所です。
田舎に住んでおり、赴任してきた、正当な考えを持つ担当教師は尊敬を集めておられます。礼節や知性は人の重んじるところで、子ども達にとって近くにいる立派な存在です。
ところで、一週間程前に、メールを送らせて頂きました。ooofal...から始まるメールアドレスです。
もしかして、受信拒否や迷惑メールに入ってしまったかもしれません。
大変お手数ですが、ooofalundafaooo★yahoo.co.jpの受信許可を何とぞ、よろしくお願い致します。(@を★に替えています)