『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(56)

2018年09月28日 | 『弟子規』日本語解説
見人善 即思齊 縱去遠 以漸躋
jiàn rén shàn jí sī qí zòng qù yuǎn yǐ jiàn jī
【解説】看到了別人的善行,就要想到自己也應該努力去做到。即便和他差距很遠,只要肯努力,漸漸也就能趕上的。
【和訳】人のすぐれた徳(とく)や善行(ぜんこう)を見たときには、自分もそうでありたいように心がけます。自分はその人に遠く及ばないと思っても、努力すれば、少しずつ追いつけるものです。



●簡単解説:
★孔子の高弟(こうてい)の顔回(がんかい)は実に学び上手な方です。孔子にもっとも讃嘆されていた方でした。孔子は顔回のことを「得一善、則拳拳服膺、而弗失之矣」(一善を得(う)れば、すなわち拳(けん)拳(けん)服膺(ふくよう)して、之(これ)を失わず)と述べ、褒めていました。つまり、顔回は他人の一つの善行でも見れば、すぐそれを心に銘記(めいき)し、見習うようにしていたということです。顔回はそのようにして、いつも善を追い求めてやまないのです。「善」は私たちの本性の表しです。「善」への追求は私たちが自分の本性・道に戻ることを助けてくれています。

★人間は、「見賢思斉焉、見不賢而内自省也」(〈『論語』〉賢を見てはひとしからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり)のお言葉の通りにできれば、傲慢、嫉妬、貪欲この三つの煩悩を取り除くことができ、他人の善事を見ても嫉妬せずにできます。
人の善行を見たときに、嫉妬せず、逆に何を思うべきでしょうか。自分もそのような徳と善行ができるように願うことです。この私もそのいいところを見習いますと思うことです。「斉」は等しいことです。自分も見習って同じようになるということです。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

『弟子規』日本語解説(55)

2018年09月27日 | 『弟子規』日本語解説
彼說長 此說短 不關己 莫閒管
bǐ shuō cháng cǐ shuō duǎn bù guān jǐ mò xián guǎn
【解説】東家說長,西家說短,別人的是非很難弄清楚。與自己的正事沒有關係,所以不要去多管。否則,不但攪亂了別人,也有損自己的德行。
【和訳】世間のうわさや人の是非(ぜひ)・長短(ちょうたん)の批評(ひひょう)などの話は、自分とは何ら関係のないことであったら、関(かか)わってはなりません。



●簡単解説:
 ★世の人が会う時には、しばしば、他の話ではなく、必ずその雑談・世間話のなかに、他人の良いことと悪いこと、うわさ話などがあります。人が集まって井戸端会議をしているのをみれば、絶対にその中に入ってはいけません。「よくない声を一切聞くべからず」なのです。心の安らかさも保てます。
考えてみましょう。もしその噂の相手は自分や自分の家族、友人だったら、どれほどつらいことでしょう。それを思うと、絶対に、噂を流したり、伝えたりするようなことをしてはいけません。
 人のうわさや是非・長短・好悪(こうお)を聞かなければ、私たちの一生もより楽しく過ごせます。なぜならば、うわさ話やデマはしばしば人の心を傷つけ、苦しめます。とくに、酷く人の心を傷つけるような言葉はその一例です。皆が世間話やおしゃべりが好きだから、人伝(ひとづて)に話が広まっていくと、だんだん変形していき、自分の耳にはいってきた時には、もうとても聞き苦しい内容となってしまっています。そのような話を聞いても心が辛くなるだけです。それがゆえに、自分と関係ないことに決して頭を突っ込みません。
 さらに、暇さえあれば、すぐ電話を取り出して友達やだれかに電話したり、チャットしたりするようなことはあまりしないほうが賢明でしょう。あなたのその雑談のなかの何となく話した一言二言を、友達がさらに他人に言ってしまい、それでだんだん変な噂になっていくこともあるかもしれません。
 それだから、時間があるときには、読書をしたり、なんらかの才芸を学んだりしましょう。たとえば、野菜を植えるのを学んだり、料理を勉強したり、筆で書画などを書いたりしましょう。くれぐれも自分たちの貴重な時間を、雑談や世間話に無駄に浪費しないようにしましょう。

(ここからは浄空法師の説法によります。)
★「不関己」とは、自分に関係がないということです。私のこの一生は、この「自分とは何ら関係のないことであり、決して関わってはなりません」をよくできています。決して他人の良い・悪いの批評や世間のうわさ話などを聞きません。小さい時からそのようなことをしませんでした。絶対に他人のプライベートを探りません。誰かが私の所へ来て、人の是非・長短を教えてくれる場合であっても、私は全く聞きません。聞かされても気に留めずに聞き流します。もちろん、絶対に他者に伝達しません。
人のうわさを言いません。伝えません。このような習慣はとてもよい習慣であって、自分の心を清らかに保つことに、実に有益であるのです。
  
  ★中国には「来説是非者、便是是」(来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人)という諺があります。故意や故意でないにもかかわらず、面と面向かってまたは裏で人を批判する人間は、本当の徳の高い人からみれば、取るに足らない人物となります。
  人の是非・善悪・長短を話しに来る人を本当に慎重に接するべきです。なぜならば、今彼は私たちの前で他人の是非を言えるのだから、将来、彼は必ず他人の前で私たちの是非も言えるはずです。このような人と距離を保つべきです。尊敬をしますが、親しみません。
まして、本当に心が優しく、忠厚な人であれば、決して人のうわさや悪口を言いません。意見が多く、不平不満が多い人はしばしば敬遠され、警戒され、なにも得することがありません。
組織中では、本当に智慧があるリーダーであれば、部下の長所も短所もしっかりと分かっています。まずその長所を活かします。だんだんと、短所の部分も正させていきます。
 現在の社会には、このようにいざこざを引き起こし、混乱を招き、和を壊すようなことをする人がとても多いです。その中に、私たちが入っているかどうかを省察するべきです。
 皮肉なことに、噂やデマを聞くのが好きな人が多くいます。それがゆえに、人の長所やよいことを見ても、だれもあまり褒め称えず、逆に、人の短所や悪いことをすぐに新聞・テレビに取り上げて、ニュースとなり、悪人・悪事が有名になりやすい世間です。それで、世の中の風潮がおかしくなりました。社会は大衆の行為の累積です。自分たちの一言一行の積み重ねです。
しかし、本当に智慧がある人であれば、一人の人間を見るとき、その人が言った話の内容をみれば簡単に分かります。決して人の是非・善悪のうわさ話を聞きません。信じません。騙されません。
 孔孟は「反求諸己」(諸(こ)れ己に反求(はんきゅう)す)と述べ、すべて自分自身に求めて反省しなさいと教え諭しています。他人の不善を見れば、気に留めず、批判もしません。すぐさま自分自身を振り返って、自分にはそのよう不善があったかどうかを点検します。これは儒教の修身のコツ・技量です。自分を省みることができれば、自分の徳行を成就できます。逆に、他人の過失をばかり見ていて、決して自分自身の過失を自覚しないことは魔の思想です。
 儒教の「三人行、必有我師(三人行けば、必ず我師有る)」の「三人」は「私、善人たち、悪人たち」です。すべての人と接していく中に、善人・善事をみれば、それを見本として、真似し、見習います。悪人・悪事をみれば、それを反面教師として、自分自身を省みて、自分にもあれば、改めます。自分にはなければ、今後もずっとないように保ちます。ゆえに、世の善人・悪人皆この私の師匠であって、私自分自身の道徳を高めてくださる善知識であるのです。
 他人には本当に過失があっても、必ずその報いを受けます。堕落の道を歩むのはその本人です。私たちが言い散らす必要はありません。もしそれで私たちがその人の悪口を言えば、自分たちもその人の道連れとなって一緒に堕落の道に落ちてしまいます。実に愚かなことです。
  仏門の中でも、大衆が互いに批評できるのは、一年の中に一日だけです。いつでもどこでもできることではありません。夏安居(げあんご、インドでは毎年雨期にあたる4月から7月の約100日間、布施行や托鉢ができないために、僧が一箇所に定住して修行に励むこと)の最後の日の自恣(じし)法会で僧たちが安居(あんご)中の罪過(ざいか)の有無を問い、反省懺悔しあいます。つまり、この日だけ、互いに批評できます。この自恣日(じしにち)以外の日では互いを批判することを決して許されません。
  このようにして、儒教も、仏教も、他人に善を勧め、悪を戒める原点というのは、誠実な愛心であることです。その勧めと戒めを言う時には、決して第三者に聞かせないように注意します。さらに、相手を仔細に観察して、聞き入れようであれば、是正するように助けます。相手が忠告を受け入れず、または改めたくないようであれば、仕方ないのでそのままにしておきましょう。
  すべての個人それぞれが因を作り、必ずそれぞれがその報いを受けます。しかし、もし、私たちは人を批判したり、誹謗したり、デマを流したりすれば、悪因を造ったことになるので、その責任をとって、後にその悪い報いを受けなければなりません。ゆえに、人の過失を考えてはいけません。自分自身の過ちを直していきましょう。


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『弟子規』日本語解説(54)

2018年09月26日 | 『弟子規』日本語解説
凡道字 重且舒 勿急疾 勿模糊
fán dào zì zhòng qiě shū wù jí jí wù mó hú
【解説】說話的時候,咬字要清晰、緩慢,讓別人聽起來舒服流暢。不能著急,不能講得太快,也不能講得含糊不清,使人家聽不明白。
【和訳】凡そ話をするときは、慎重に、はっきりとした発音で流暢(りゅうちょう)に話すべきです。焦(あせ)ったり、速すぎたり、または曖昧な言葉づかいをしないほうが良いでしょう。



●簡単解説:
 ★話をする時には、重要なところを明瞭にしなければなりません。だらだらと要点が分かりづらい話し方は良くありません。とくに団体組織のなかで上司や部下に情報を伝えるときは、重要な事項を明確に示し、分かりやすく話しましょう。一方、聞く方も、重要な部分の聞き間違いに注意しながら、復唱して確認するようにしましょう。

★話をする時は、焦ってはいけません。焦れば、つい大事なことを言い漏らしたり、肝心な部分の語彙を言い間違ったりします。
 話のスピードも速すぎてはいけません。とくに、学校の先生が授業する際に、早口で話せば、生徒ははっきりと聞き取れず、授業内容を分からなくなります。逆に、話しスピードが遅過ぎでも、生徒が眠くなるかもしれません。
 また、早口で話す人の電話を受け取ることもありますが、聞き取れなくても、決して緊張せず、焦らずに応対しましょう。ゆるやかな口調で改めて丁寧に聞き返しましょう。

 
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『弟子規』日本語解説(53)

2018年09月25日 | 『弟子規』日本語解説
事非宜 勿輕諾 苟輕諾 進退錯
shì fēi yí wù qīng nuò gǒu qīng nuò jìn tuì cuò
【解説】對於自己認為不妥當的事情,比如,不合情理或者自己能力無法完成的事情,不能隨便地答應別人。假如你輕易許諾,就會進退兩難,這是不對的。
【和訳】妥当(だとう)だと思えないこと、道理でないこと、自分にできないことは、軽々(かるがる)しく承諾(しょうだく)してはなりません。このようなことを承諾(しょうだく)すれば、やってもやらなくても間違いになるからです。



●簡単解説:
★出来ないことは、きちんと理由を説明して断ることによって、もっと信頼されると思います。

人と人の間には、互いの気持ちを知り、互いが信頼することは、実に大切かつ貴重なことです。しかし、残念ながらも、現実中、とくに友人関係においては、軽く承諾したり、なんらかの噂を聞かされたことによって、仲たがいをしたりいさかいが起きたりしています。

やはり、言葉の不注意はトラブルの発端になりやすいものです。最初から慎重に考えなかったことや、うっかりして、すぐ他人に言ってしまったことから、後の、いろいろな問題を引き起こし、波風を立てることまでに、発展してしまいます。

そのため、人間関係においては、言葉をとくに慎重に使うべきです。


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『弟子規』日本語解説(52)

2018年09月14日 | 『弟子規』日本語解説
見未真 勿輕言 知未的 勿輕傳
jiàn wèi zhēn wù qīng yán zhī wèi dì wù qīng chuán
【解説】看到的事情沒有弄清楚,不要隨便亂說,或輕易發表意見。聽來的事情沒有根據,不要隨便亂傳,以免造成不良後果。
【和訳】見た事について、真相がはっきりとする前に、軽々しく発言してはなりません。聞いた事は、事実が明確でなければ、むやみに人に言いふらしてはなりません。



●簡単解説:
★「目で見たことであっても、見間違いや思い違いするときがあって、必ずしも真実であるとは限らないので、軽率に口に出してはいけません」との部分ですが、『孔子家語』のなかにある話が記載されていました。それは、諸国歴遊の旅を続けていた孔子とその弟子の一行が楚国に入るのを阻止するために、陳(ちん)国と蔡(さい)国が兵隊を使って楚(そ)の国境にある陳と蔡の間の道中で孔子たちを包囲したので、孔子たちが7日間も食糧をきらして飢えていた時のできことです。
子貢は、自分のお金を使ってひそかに融通を利かしてもらい、やっとのことで包囲を抜けてお米を調達することができて、顔回にお粥を作るように依頼しました。土で作った家の屋根の下でお粥を作っていたので、粥の水蒸気が屋根まで上がって、屋根の土が湿気(しけ)てホコリとなって落ちてきて、お粥の中に入ってしまいました。お玉でそのホコリをお粥からすくいあげた顔回は、ホコリに僅かについている粥の汁がもったいないと思い、そのホコリと汁を一緒に食べました。
しかし、それを遠くから見ていた子貢は、顔回がお粥を盗み食いしたように見えていて、不愉快に感じ、孔子の所へ行って、質問しました。「仁人(じんじん)廉士(れんし)といわれる人でも、挫折や困難に直面してくると節を改めるものでありましょうか」。孔子は「節を改める(変節(へんせつ)する)ような者は仁人廉士と言えるでしょうか」と答えました。子貢は「顔回は仁人廉士でしょうか」とふたたび質問しました。「その通りです」と孔子が答えました。
それから、子貢はさっき顔回が粥を盗み食いしたのを見たことを孔子に報告しました。それを聞いた孔子は「私は長い間顔回を見てきたので、彼は仁義な人であることに確信していて、今の話を聞いても、少しも疑いません。ほかになにかわけがあったはずなので、すこし待ってください。私が聞きに行きます」と言い、すぐ顔回を呼びました。
孔子は顔回に「昨夜、私は先祖様の夢を見ました。もしかして先祖が私を今の困難から救い出すかもしれません。それで、今作ったお粥を持って来て、私は、先に先祖にお供えしてお祭りしたいと思います」と言いました。
それを聞いた顔回は「先ほど、ホコリがお粥のなかに入ってしまい、そのままでは不衛生なのですくいあげたのですが、捨てるのはもったいないから食べました。私は先に食べてしまったから、もうお供えとして使えません」と恭しく答えました。
〈注:仏、祖先への敬意を示すために、お供え物を先に食べたり、味見をしたりしてはいけません〉
そこで、孔子は「そうですか。そのような場合では、私でも食べていたでしょう」と答えました。

★日常生活のなかで、私たちに多くの、身にしみついた習慣があります。たとえば、おしゃべりが好きだったり、冗談を言うのが好きだったりすることです。このような習慣は決してよいとは言えません。『弟子規』には、「話説多 不如少(言葉数が多いよりも少ない方が良い)」や「見未真 勿軽言(目で見たことであっても、見間違いや思い違いするときがあって、必ずしも真実であるとは限らないので、軽率に口に出してはいけません)」と教えてくださいましたね。人から聞いた話やいろいろな噂はいったい本当なのでしょうか。とくに、他人を中傷し、害するような言葉を本当に信じていいのでしょうか。
やはり、他人に対して常に温厚篤実(おんこうとくじつ)であるように心掛けるべきです。古の大徳たちがしばしば私たちに「隠悪揚善(いんあくようぜん〈出典『中庸』「六」〉)」をするようにと教えてくださいました。つまり、人の善いところを褒めて、人の不善なところを言わずに、さらに気にもせずにいることです。これはとてもよいことです。
そのようにして、常に他人を包容すれば、相手が善根の深い人であれば、短い間で感動されます。あなたの広い心に感動されます。善根の浅い人であれば、あなたの包容に得意になってにやにやしながら、あなたのことを「たいしたことない人物であって、この私には逆らえないのだ」と言うのかもしれませんが、そのまま、もしかして、10年、20年、30年でも経てば、彼はあなたのことを思い出せば、「あのときのあの人はやはりいい人だったな、私は申し訳ないことをしたね」と、いつかあなたのことを分かってくれて、あなたに感謝し、懺悔する気持ちが湧くのかもしれません。
そして、「見未真 勿軽言 知未的 勿軽伝」はもう一つの問題を招きます。それは、無責任に社会を騒がせることです。たとえば、むやみにデマを信じてネットなどで拡散させる行為は社会に損害を与える行為です。それで、火種や対立を作り出したり、不和を引き起こしたりしてしまいます。
私たちは毎日自らの言動を省察(せいさつ)して、私がそのようなことをしたかどうか、このようなミスを犯したかどうかを考えるべきです。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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