事勿忙 忙多錯 勿畏難 勿輕略
shì wù máng máng duō cuò wù wèi nán wù qīng lüè
【解説】做事情不能太匆促,匆促之時最容易出現差錯。不要害怕困難,應該知難而進,也不要馬虎草率,即使是小事,也要認真對待。
【和訳】物事は慌(あわ)ただしくしてはなりません。慌(あわ)ただしくすると間違いが起こりやすいです。困難な事を恐れてはならず、簡単なことでも軽んじてはなりません。

●簡単解説:
★「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣」
(<『大学』>物に本末有り、事に終始有り。先後(せんごう)する所を知れば、則ち道に近し。つまり、物には本末があり、事には終始(始まりと終わり)があります。物事の先と後にすべき所を知れば、大学の「道」は近いのであります。)
〔説明:
本末:根本と枝葉です。植物でたとえると、「本」は木の根の部分に当たり、「末」は木の枝葉・花果の部分に当たります。『大学』の「自天子以至於庶人、壱是皆以修身為本。其本乱而末治者否矣」(天子より庶民に至るまで、第一に身を修めることを基本とする。身(本)が修まらないで、家・国・天下が治まるようなことは決してあり得ないことである)により、この「本末」の本は「修身(しゅうしん)(格物(かくぶつ)、致(ち)知(ち)、誠意(せいい)、正心(せいしん)を以て自分自身の道徳を高め、行いを正しくする)」です;末は斉家(せいか)(家庭の中から倫理道徳の教育を行い、家族が和睦するようにととのえる)・治国(ちこく)(社外に貢献し、地域や国をよく治める)・平(へい)天下(てんか)(天下を平等・公平・平和にする)です)
大学の「道」:『大学』の冒頭の文の主旨を明らかにする文の「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」(大学のみちは明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善(しぜん)に止まるにあり)により、大学の道は「明明徳、親民、止於至善」であるのです。
『大学』の「大」は「大人(うし)(師や学者または先人を尊敬していう語)」です。儒家の「大人」はすなわち聖人です。仏法の「大人」は仏菩薩です。
『大学』の「学」は学問です。仏法の「学」は覚悟、悟りです。
「親民」は大衆に仁慈・慈悲・慈愛・博愛で接することです。仏法の「親民」は「四摂(ししょう)・六度」を以て大慈大悲に衆生を教化することです。
「明明徳」の一つ目の「明(めい)」は動詞で、「明らかにする」、「回復させる」ことです。
次の「明徳(めいとく)」は名詞で、「本善」という意味です。つまり、「人之初、性本善(全ての人の生まれたときの性は、元々善である)」で述べられている人々の本性に元々具わる善のことです。この本善は「光明、清浄なる智慧・徳行」です。
つまり、儒教の「明明徳」は本善を回復させ、明らかにすることです。
仏法では、「明徳」の明は智慧、徳は徳行で、つまり智慧徳相を本具する自性(仏性・真如)です。「明明徳」は自性に回帰して、元々具わっていう智慧徳相を回復させ、「明心見性する」とのことです。
「至善」は「もっとも円満な善」です。儒家の至善は聖人になることです。ちなみに、仏教の至善は「成仏(仏果を証得すること)」することです。〕
「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣」で述べられているように、物事には最重要な部分と枝葉末節(しようまっせつ)があり、始めと終わりの順番もあります。物事をする前に、何が重要で何が先で何が後かの優先順位を考えてから、手順よく取りかかれば、より早く成果に近づけるので、慌ただしく行ってはいけません。
人生も同じく、「人貴立志(人は志を立つるを貴(たっと)ぶ)」との言葉あるように、何よりもまず志を立てることが大切であります。立志すれば、進むべき人生の方向が明確になります。この人生の志とあまり関係のないことであれば、放下しましょう。やる必要がありません。これで無駄を省けて、よりはやく目標に近づけます。
逆に、もし人生に志や目標がなければ、毎日行き当たりばったりで、いろいろな物事・人・チャンスに出あえ、あれこれと悩み迷い、やみくもに動き回っていることになるだけです。結局何一つも成功したと言えることがないかもしれません。
それで、多くの人は、自分のこの一生はいったい何しに来たのかと疑問を感じることもしばしばです。何十年も生きてきて、その意義・意味が分らずにいます。
小さい頃には、大人を羨ましがって、人にいじめられずに早く大きくなりたいと思うばかりで、だんだん大きくなって、中学校、高校に入り、今度人が大学に入るのを見て、自分もはやく大学に入りたいと思い、いざ大学に入学したら、人が就職したいい仕事に羨ましく思い、自分も今度早く卒業して、いい仕事につきたいと考えています。
忙しく就職活動して、やっと就職できたら、人が結婚しているのをみて、自分も結婚したくなり、本当に結婚したら、次は子供を育てます。
仕事・家事・育児のしんどさから、子供が早く大きくなってほしいと願います。だんだんと子が大きくなってきて、育児が少し楽になったと思ったばかりのところで、今度、子どもはなかなか言うことを聞かないことに気付きます。
反抗期と口答え、子どもの教育や学校の進路などで、いろいろと悩みが増え、人生の辛さを覚えます。早く定年退職して、自分の第二の人生を悠々自在(ゆうゆうじざい)に楽しみたいと想像します。
結局リタイア後も、悠々自在できずに、子どもを結婚させてしばらくしたら、生まれてくる孫の世話を頻繁に任されるようになります。
自分も年取ったなと自覚するようになって、本当に老けました。老けると病気が多くなります。病気になって、今度はいよいよ死に直面します。死ぬ前に、ようやくこの慌ただしい人生の儚さ・虚しさに嘆き、初めて自分の人生の真義を真剣に考えますが、時すでに遅いです。
古の聖賢は私たちに、この一生で、聖賢になることを志すべきと勧め導いています。どの仕事でも、どの業種でも聖賢になれます。
その方法としては、まず聖賢の書籍を読み、聖賢の教えを学ぶことからです。心で聖賢の教えを銘記し、自分の人生言動の指針にします。そうすれば、自分の人生道路をどのようにして歩めばいいのかをはっきりと分かることができます。
それが分かれば、心が急がず焦らず、悠々自在になれます。困難なことを怯(おび)えず、恐れず、簡単なことも軽んじず、疎かにせず、ただ目の前にあるやるべきことを一つ一つ丁寧にこなすのみです。
簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
shì wù máng máng duō cuò wù wèi nán wù qīng lüè
【解説】做事情不能太匆促,匆促之時最容易出現差錯。不要害怕困難,應該知難而進,也不要馬虎草率,即使是小事,也要認真對待。
【和訳】物事は慌(あわ)ただしくしてはなりません。慌(あわ)ただしくすると間違いが起こりやすいです。困難な事を恐れてはならず、簡単なことでも軽んじてはなりません。

●簡単解説:
★「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣」
(<『大学』>物に本末有り、事に終始有り。先後(せんごう)する所を知れば、則ち道に近し。つまり、物には本末があり、事には終始(始まりと終わり)があります。物事の先と後にすべき所を知れば、大学の「道」は近いのであります。)
〔説明:
本末:根本と枝葉です。植物でたとえると、「本」は木の根の部分に当たり、「末」は木の枝葉・花果の部分に当たります。『大学』の「自天子以至於庶人、壱是皆以修身為本。其本乱而末治者否矣」(天子より庶民に至るまで、第一に身を修めることを基本とする。身(本)が修まらないで、家・国・天下が治まるようなことは決してあり得ないことである)により、この「本末」の本は「修身(しゅうしん)(格物(かくぶつ)、致(ち)知(ち)、誠意(せいい)、正心(せいしん)を以て自分自身の道徳を高め、行いを正しくする)」です;末は斉家(せいか)(家庭の中から倫理道徳の教育を行い、家族が和睦するようにととのえる)・治国(ちこく)(社外に貢献し、地域や国をよく治める)・平(へい)天下(てんか)(天下を平等・公平・平和にする)です)
大学の「道」:『大学』の冒頭の文の主旨を明らかにする文の「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」(大学のみちは明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善(しぜん)に止まるにあり)により、大学の道は「明明徳、親民、止於至善」であるのです。
『大学』の「大」は「大人(うし)(師や学者または先人を尊敬していう語)」です。儒家の「大人」はすなわち聖人です。仏法の「大人」は仏菩薩です。
『大学』の「学」は学問です。仏法の「学」は覚悟、悟りです。
「親民」は大衆に仁慈・慈悲・慈愛・博愛で接することです。仏法の「親民」は「四摂(ししょう)・六度」を以て大慈大悲に衆生を教化することです。
「明明徳」の一つ目の「明(めい)」は動詞で、「明らかにする」、「回復させる」ことです。
次の「明徳(めいとく)」は名詞で、「本善」という意味です。つまり、「人之初、性本善(全ての人の生まれたときの性は、元々善である)」で述べられている人々の本性に元々具わる善のことです。この本善は「光明、清浄なる智慧・徳行」です。
つまり、儒教の「明明徳」は本善を回復させ、明らかにすることです。
仏法では、「明徳」の明は智慧、徳は徳行で、つまり智慧徳相を本具する自性(仏性・真如)です。「明明徳」は自性に回帰して、元々具わっていう智慧徳相を回復させ、「明心見性する」とのことです。
「至善」は「もっとも円満な善」です。儒家の至善は聖人になることです。ちなみに、仏教の至善は「成仏(仏果を証得すること)」することです。〕
「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣」で述べられているように、物事には最重要な部分と枝葉末節(しようまっせつ)があり、始めと終わりの順番もあります。物事をする前に、何が重要で何が先で何が後かの優先順位を考えてから、手順よく取りかかれば、より早く成果に近づけるので、慌ただしく行ってはいけません。
人生も同じく、「人貴立志(人は志を立つるを貴(たっと)ぶ)」との言葉あるように、何よりもまず志を立てることが大切であります。立志すれば、進むべき人生の方向が明確になります。この人生の志とあまり関係のないことであれば、放下しましょう。やる必要がありません。これで無駄を省けて、よりはやく目標に近づけます。
逆に、もし人生に志や目標がなければ、毎日行き当たりばったりで、いろいろな物事・人・チャンスに出あえ、あれこれと悩み迷い、やみくもに動き回っていることになるだけです。結局何一つも成功したと言えることがないかもしれません。
それで、多くの人は、自分のこの一生はいったい何しに来たのかと疑問を感じることもしばしばです。何十年も生きてきて、その意義・意味が分らずにいます。
小さい頃には、大人を羨ましがって、人にいじめられずに早く大きくなりたいと思うばかりで、だんだん大きくなって、中学校、高校に入り、今度人が大学に入るのを見て、自分もはやく大学に入りたいと思い、いざ大学に入学したら、人が就職したいい仕事に羨ましく思い、自分も今度早く卒業して、いい仕事につきたいと考えています。
忙しく就職活動して、やっと就職できたら、人が結婚しているのをみて、自分も結婚したくなり、本当に結婚したら、次は子供を育てます。
仕事・家事・育児のしんどさから、子供が早く大きくなってほしいと願います。だんだんと子が大きくなってきて、育児が少し楽になったと思ったばかりのところで、今度、子どもはなかなか言うことを聞かないことに気付きます。
反抗期と口答え、子どもの教育や学校の進路などで、いろいろと悩みが増え、人生の辛さを覚えます。早く定年退職して、自分の第二の人生を悠々自在(ゆうゆうじざい)に楽しみたいと想像します。
結局リタイア後も、悠々自在できずに、子どもを結婚させてしばらくしたら、生まれてくる孫の世話を頻繁に任されるようになります。
自分も年取ったなと自覚するようになって、本当に老けました。老けると病気が多くなります。病気になって、今度はいよいよ死に直面します。死ぬ前に、ようやくこの慌ただしい人生の儚さ・虚しさに嘆き、初めて自分の人生の真義を真剣に考えますが、時すでに遅いです。
古の聖賢は私たちに、この一生で、聖賢になることを志すべきと勧め導いています。どの仕事でも、どの業種でも聖賢になれます。
その方法としては、まず聖賢の書籍を読み、聖賢の教えを学ぶことからです。心で聖賢の教えを銘記し、自分の人生言動の指針にします。そうすれば、自分の人生道路をどのようにして歩めばいいのかをはっきりと分かることができます。
それが分かれば、心が急がず焦らず、悠々自在になれます。困難なことを怯(おび)えず、恐れず、簡単なことも軽んじず、疎かにせず、ただ目の前にあるやるべきことを一つ一つ丁寧にこなすのみです。
簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。