早年、台北(たいぺい)で説法していたときに、毎日聞きに来ていた鄔(お)居士から聞いた話です。鄔居士は寧波(ニンポー)市(中国浙江(せっこう)省)のご出身で、以前上海で商売をしたことがあって、商売繁盛で、晩年が仏法を学ぶようになりました。私にあるできことを教えてくれました。これは本当にあったことです。鄔居士のある友人は同じく商売をする人で、大儲けしていました。
あれは、上海で発生したできことで、その友人が誕生日祝いをしていたときのことでした。おそらく友人の50歳の誕生日祝いで、たくさんの来客を招きました。
どのようにしてそれほど大儲けした訳を話しますと、それはまだ第二次世界大戦の前のときでした。この友人はあるドイツ商人の雑用係でしたが、とても誠実で、おとなしく、信用をよく守り、働きぶりもとても勤勉でした。その、彼のご主人であるドイツ人商人がとても彼のことを気に入っていたので、戦争が爆発してから、ドイツ人は本国に帰国することにし、残された中国での会社を彼に一時的に預けて、経営を任せることにしました。彼もとても上手に経営できたので、かなり儲かりました。しかし、それから、抗戦になっても、そのドイツ人は二度と中国に帰ってくることはありませんでした。後に、亡くなったことも人から聞きました。これで、そのドイツ人の財産はすっかりその鄔居士の友人の物になりました。もちろん、これは悪意をもって他人の財産を横取りしたことではなく、委託された会社であって、そのご主人が亡くなり、連絡が取れなくなり、そのまま鄔居士の友人の会社となったものです。
その会社はもともと一隻の船しかない船会社だったですが、鄔居士の友人はうまく経営し、後に、さらに、いく隻かの船も購入し、ますます大きな会社になりました。その友人は結婚をし、息子一人が生まれました。
この息子は、可愛いのですが、親の言う事をあまり聞かない子で、浪費する癖がありました。物を大事に扱わないし、金遣いも荒いです。ある日、その息子が十元のお金を落としました。その時代の十元は大きい金額であって、普通の四人家族のやく半月分の生活費にはなります。父親のある友人は地面に落ちたそのお金を拾って、その息子に「そこのお友達、私のことを『おじさま』と一声を呼びなさい。そうしたら、このお金を返すよ」と冗談めかして言うと、なんと、この息子はその父親の友人を一瞥(いちべつ)して、「あなたがわたしのことを『おじさま』とひと言を呼べば、さらに、十元あげますよ」とあっさり返したのでありました。なかなか手に負えない子どもでした。
その息子が十二、三歳ぐらいになったとき、ある日、この鄔居士の友人が50歳の誕生日会を開きました。鄔居士もその宴会に出席しました。その誕生日会のなかで、たまたま息子の顔を見たとき、一瞬、以前の社長であるそのドイツ人の顔が見えてきたのです。突然のできことに、驚きました。これは、おそらく、そのドイツ人がドイツに帰国して間もなく、亡くなったことでしょう。つまり、ドイツの商人が亡くなってからすぐ鄔居士の友人の家に息子として生まれ変わったので、あの会社の財産は結局まだそのドイツ人のものに戻るということです。もちろん、おそらく、そのドイツ人が善良な人であって、悪い人ではなかったことが分かります。なぜならば、悪い人であれば、すぐ人間として生まれて来ないものだからです。再び人間として生まれることができる条件は、五戒と中品の十善を守ったことです。
鄔居士の友人も仏法を学ぶ人なので、輪廻や因果応報のことを信じる人でした。息子の顔が瞬間的にドイツ人社長の顔に変化したことを見たとたんに、すぐ、そこで、その誕生日会の中で、皆の前で、自分のすべての財産を全部その息子の名義にしますと公表しました。これは賢いやり方です。その友人は誠実・信用のある方でした。ドイツ人の社長が自分の息子として生まれて来たことを知ったとたん、すぐ、きちんと、全財産を返すことにしました。そうしたら、これからその息子も金遣い荒いのを少しひかえめにするでしょう。
それだから、仏経典で説かれた人と人の関係には「報恩、報怨(ほうえん、うらみをはらすこと。仕返し)、債権者、債務者」の四つがあることは本当なのです。
家族も同じく、この四種類の関係がなければ、同じ家庭に生まれてきません。報恩の子どもであれば、親孝行のよい子です。親を敬い、愛します。報怨に来た子どもであれば、あなたの家を滅ぼすまでやらないと気が済まないのです。債権者が子どもとして生まれて来た場合は、このような子どもが意外ととても可愛くて、親に可愛がられることが多いです。その債権が少なければ、生まれて、三、四歳で夭折しますが、債権の金額が多ければ、十代、二十代で早世します。親が多くの心労や体力、金銭を費やし、その子を育ちましたが、やっと、自立できたと思った頃に、突然、世を去ります。これは、債務を回収しにきた子どもです。
債務者が子どもとして生まれて来た場合は、その債務の金額にもよるのですが、多ければ、父母にお金などの物質的なものを多く与えますが、親に対するよく仕える心と敬う心はありません。あくまでも、親に物質的なことのみ提供します。もし、その債務が少なければ、親の生活に物質的なものもあまり提供しません。親を軽んじて、大事にしません。親をお手伝いさんのように扱う子どももよく見かけます。
このような四つの縁(関係)は、すべての人間関係に当てはまります。友人関係も同じです。父子、母子のような家族は一番その縁が深いです。少し浅ければ、親戚や友人になったりします。この四つの縁がなければ、面と面を向かっても、互いが知りません。全く知らない人となります。道で偶然出会った人などこの一生で遇うのが一度限りであっても、縁がある人です。道を歩いて、たまに、知らない人に微笑みをかけられたり、挨拶されたりしますね。時には、知らない人に睨まれたり、怖い顔で見られたりすることもあるでしょう。過去生の縁が違うからです。善縁があって、悪縁もあります。このような道理を分かるべきです。
しかし、どのようなご縁であっても、この一生で出会っただから、よい縁に転換させたいものです。この一生で絶対に人と悪縁を結ばないように注意しましょう。他人から不当な扱いをされても、気にしないことです。これができれば、借りを返したことになります。やり返してはいけません。なぜならば、もし、ここで私たちが復讐すれば、相手も、将来同じように、復讐し返します。お互い、苦しめ、苦しめられてやまないのです。だれも幸せになりません。それだから、他人から悪くされても「全部過去世で自分がその人に悪いことをしたことがあったから、それが因となり、今のこの果があるからです」や「なぜ他の人ではなく、この私ですか?必ず、過去に私は同じようなことをその人にしたからに間違いありません」と因果応報の道理を思い出しましょう。そう思えば、今日遭ったすべてのことを淡々と受け入れ、耐えられます。このような心持ちで、過去世の怨恨を解けていきます。怨恨をやはり解けるべきです。エスカレートさせるべきではありません。
現代社会の弱肉強食を正当化する理論は実にとても異常な現象です。弱肉強食は「冤冤相報」(えんえんそうほう。中国語で、お互いに恨み辛みを報い合い続けること)する罪深い悪縁であるのです。このような復讐しあいは惨烈を極めることであります。なぜならば、ちょうど良い程度で止められないからです。少しでも多めに仕返ししようと、少しでも得しようとする気持ちがそのなかにあるからです。人には皆そのような心理があります。ゆえに、報い合いがますます無残になります。このことは、ぜひ知っておいていただきたいことです。
仏家は「誰かの肉を500グラム食べれば、将来輪廻の中で、自分の肉800グラムを返さなければなりません」と戒めていて、さらに、経典の『楞厳経』に「以人食羊、羊死為人、人死為羊、如是乃至十生之類。死死生生互来相噉、悪業倶生、窮未来際」(人(ひと)の羊(ひつじ)を食(くら)うを以(もっ)て、羊死(ひつじし)して人(ひと)と為(な)り、人死(ひとし)して羊(ひつじ)と為(な)る。是(かく)の如(ごと)く乃至(ないし)十生(しょう)の類(るい)、死死(しし)生生(しょうしょう)、互(たがい)に来(きた)りて相噉(あいくら)い、悪業倶(あくごうとも)に生(しょう)じて、未来(みらい)際(さい)を窮(きわ)む)とも説かれています。人が羊を殺し食べました。この人が死んで羊として生まれ変わり、殺され羊が人間として転生しました。今度、羊だった人間は人間だった羊を殺して食べます。このようにして、因果応報の現象が次から次と起こり、因が果となり、果がまた因となり、六道輪廻の中で、永遠に循環していき、お互いやられたらやり返していき、やまずに、さらにますますエスカレートしていくだけで、非常に残酷なものです。このことをぜひ知っていただきです。ゆえに、釈尊は経典のなかで、世間に「刀兵劫(とうひょうこう)」があると説かれています。刀兵劫はすなわち戦争のことです。戦争の起源はどこにありますか。殺生と肉食です。ゆえに、この世で戦争を永遠になくしたければ、釈尊が教えてくださった「衆生が肉を食べなければ」の一つの御言葉のみです。すべての衆生が殺生をやめ、肉(訳者注:もちろん魚肉も含まれる)を食べるのをやめたら、この世から戦争がなくなります。
もし、そのまま、殺生をして、肉を食べれば、殺され、食べられた衆生は、怨恨の気持ちを抱くままで、将来チャンスがあれば、復讐します。人間道に生まれて来たときは、あなたの敵となります。「冤冤相報」です。その報復の中で最も残酷なものは戦争となります。
以上は浄空法師様の因果応報に関する説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。
あれは、上海で発生したできことで、その友人が誕生日祝いをしていたときのことでした。おそらく友人の50歳の誕生日祝いで、たくさんの来客を招きました。
どのようにしてそれほど大儲けした訳を話しますと、それはまだ第二次世界大戦の前のときでした。この友人はあるドイツ商人の雑用係でしたが、とても誠実で、おとなしく、信用をよく守り、働きぶりもとても勤勉でした。その、彼のご主人であるドイツ人商人がとても彼のことを気に入っていたので、戦争が爆発してから、ドイツ人は本国に帰国することにし、残された中国での会社を彼に一時的に預けて、経営を任せることにしました。彼もとても上手に経営できたので、かなり儲かりました。しかし、それから、抗戦になっても、そのドイツ人は二度と中国に帰ってくることはありませんでした。後に、亡くなったことも人から聞きました。これで、そのドイツ人の財産はすっかりその鄔居士の友人の物になりました。もちろん、これは悪意をもって他人の財産を横取りしたことではなく、委託された会社であって、そのご主人が亡くなり、連絡が取れなくなり、そのまま鄔居士の友人の会社となったものです。
その会社はもともと一隻の船しかない船会社だったですが、鄔居士の友人はうまく経営し、後に、さらに、いく隻かの船も購入し、ますます大きな会社になりました。その友人は結婚をし、息子一人が生まれました。
この息子は、可愛いのですが、親の言う事をあまり聞かない子で、浪費する癖がありました。物を大事に扱わないし、金遣いも荒いです。ある日、その息子が十元のお金を落としました。その時代の十元は大きい金額であって、普通の四人家族のやく半月分の生活費にはなります。父親のある友人は地面に落ちたそのお金を拾って、その息子に「そこのお友達、私のことを『おじさま』と一声を呼びなさい。そうしたら、このお金を返すよ」と冗談めかして言うと、なんと、この息子はその父親の友人を一瞥(いちべつ)して、「あなたがわたしのことを『おじさま』とひと言を呼べば、さらに、十元あげますよ」とあっさり返したのでありました。なかなか手に負えない子どもでした。
その息子が十二、三歳ぐらいになったとき、ある日、この鄔居士の友人が50歳の誕生日会を開きました。鄔居士もその宴会に出席しました。その誕生日会のなかで、たまたま息子の顔を見たとき、一瞬、以前の社長であるそのドイツ人の顔が見えてきたのです。突然のできことに、驚きました。これは、おそらく、そのドイツ人がドイツに帰国して間もなく、亡くなったことでしょう。つまり、ドイツの商人が亡くなってからすぐ鄔居士の友人の家に息子として生まれ変わったので、あの会社の財産は結局まだそのドイツ人のものに戻るということです。もちろん、おそらく、そのドイツ人が善良な人であって、悪い人ではなかったことが分かります。なぜならば、悪い人であれば、すぐ人間として生まれて来ないものだからです。再び人間として生まれることができる条件は、五戒と中品の十善を守ったことです。
鄔居士の友人も仏法を学ぶ人なので、輪廻や因果応報のことを信じる人でした。息子の顔が瞬間的にドイツ人社長の顔に変化したことを見たとたんに、すぐ、そこで、その誕生日会の中で、皆の前で、自分のすべての財産を全部その息子の名義にしますと公表しました。これは賢いやり方です。その友人は誠実・信用のある方でした。ドイツ人の社長が自分の息子として生まれて来たことを知ったとたん、すぐ、きちんと、全財産を返すことにしました。そうしたら、これからその息子も金遣い荒いのを少しひかえめにするでしょう。
それだから、仏経典で説かれた人と人の関係には「報恩、報怨(ほうえん、うらみをはらすこと。仕返し)、債権者、債務者」の四つがあることは本当なのです。
家族も同じく、この四種類の関係がなければ、同じ家庭に生まれてきません。報恩の子どもであれば、親孝行のよい子です。親を敬い、愛します。報怨に来た子どもであれば、あなたの家を滅ぼすまでやらないと気が済まないのです。債権者が子どもとして生まれて来た場合は、このような子どもが意外ととても可愛くて、親に可愛がられることが多いです。その債権が少なければ、生まれて、三、四歳で夭折しますが、債権の金額が多ければ、十代、二十代で早世します。親が多くの心労や体力、金銭を費やし、その子を育ちましたが、やっと、自立できたと思った頃に、突然、世を去ります。これは、債務を回収しにきた子どもです。
債務者が子どもとして生まれて来た場合は、その債務の金額にもよるのですが、多ければ、父母にお金などの物質的なものを多く与えますが、親に対するよく仕える心と敬う心はありません。あくまでも、親に物質的なことのみ提供します。もし、その債務が少なければ、親の生活に物質的なものもあまり提供しません。親を軽んじて、大事にしません。親をお手伝いさんのように扱う子どももよく見かけます。
このような四つの縁(関係)は、すべての人間関係に当てはまります。友人関係も同じです。父子、母子のような家族は一番その縁が深いです。少し浅ければ、親戚や友人になったりします。この四つの縁がなければ、面と面を向かっても、互いが知りません。全く知らない人となります。道で偶然出会った人などこの一生で遇うのが一度限りであっても、縁がある人です。道を歩いて、たまに、知らない人に微笑みをかけられたり、挨拶されたりしますね。時には、知らない人に睨まれたり、怖い顔で見られたりすることもあるでしょう。過去生の縁が違うからです。善縁があって、悪縁もあります。このような道理を分かるべきです。
しかし、どのようなご縁であっても、この一生で出会っただから、よい縁に転換させたいものです。この一生で絶対に人と悪縁を結ばないように注意しましょう。他人から不当な扱いをされても、気にしないことです。これができれば、借りを返したことになります。やり返してはいけません。なぜならば、もし、ここで私たちが復讐すれば、相手も、将来同じように、復讐し返します。お互い、苦しめ、苦しめられてやまないのです。だれも幸せになりません。それだから、他人から悪くされても「全部過去世で自分がその人に悪いことをしたことがあったから、それが因となり、今のこの果があるからです」や「なぜ他の人ではなく、この私ですか?必ず、過去に私は同じようなことをその人にしたからに間違いありません」と因果応報の道理を思い出しましょう。そう思えば、今日遭ったすべてのことを淡々と受け入れ、耐えられます。このような心持ちで、過去世の怨恨を解けていきます。怨恨をやはり解けるべきです。エスカレートさせるべきではありません。
現代社会の弱肉強食を正当化する理論は実にとても異常な現象です。弱肉強食は「冤冤相報」(えんえんそうほう。中国語で、お互いに恨み辛みを報い合い続けること)する罪深い悪縁であるのです。このような復讐しあいは惨烈を極めることであります。なぜならば、ちょうど良い程度で止められないからです。少しでも多めに仕返ししようと、少しでも得しようとする気持ちがそのなかにあるからです。人には皆そのような心理があります。ゆえに、報い合いがますます無残になります。このことは、ぜひ知っておいていただきたいことです。
仏家は「誰かの肉を500グラム食べれば、将来輪廻の中で、自分の肉800グラムを返さなければなりません」と戒めていて、さらに、経典の『楞厳経』に「以人食羊、羊死為人、人死為羊、如是乃至十生之類。死死生生互来相噉、悪業倶生、窮未来際」(人(ひと)の羊(ひつじ)を食(くら)うを以(もっ)て、羊死(ひつじし)して人(ひと)と為(な)り、人死(ひとし)して羊(ひつじ)と為(な)る。是(かく)の如(ごと)く乃至(ないし)十生(しょう)の類(るい)、死死(しし)生生(しょうしょう)、互(たがい)に来(きた)りて相噉(あいくら)い、悪業倶(あくごうとも)に生(しょう)じて、未来(みらい)際(さい)を窮(きわ)む)とも説かれています。人が羊を殺し食べました。この人が死んで羊として生まれ変わり、殺され羊が人間として転生しました。今度、羊だった人間は人間だった羊を殺して食べます。このようにして、因果応報の現象が次から次と起こり、因が果となり、果がまた因となり、六道輪廻の中で、永遠に循環していき、お互いやられたらやり返していき、やまずに、さらにますますエスカレートしていくだけで、非常に残酷なものです。このことをぜひ知っていただきです。ゆえに、釈尊は経典のなかで、世間に「刀兵劫(とうひょうこう)」があると説かれています。刀兵劫はすなわち戦争のことです。戦争の起源はどこにありますか。殺生と肉食です。ゆえに、この世で戦争を永遠になくしたければ、釈尊が教えてくださった「衆生が肉を食べなければ」の一つの御言葉のみです。すべての衆生が殺生をやめ、肉(訳者注:もちろん魚肉も含まれる)を食べるのをやめたら、この世から戦争がなくなります。
もし、そのまま、殺生をして、肉を食べれば、殺され、食べられた衆生は、怨恨の気持ちを抱くままで、将来チャンスがあれば、復讐します。人間道に生まれて来たときは、あなたの敵となります。「冤冤相報」です。その報復の中で最も残酷なものは戦争となります。
以上は浄空法師様の因果応報に関する説法によります。
念仏人様のご翻訳に心からお礼を申し上げます。