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『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(89)

2018年11月30日 | 『弟子規』日本語解説
方讀此 勿慕彼 此未終 彼勿起
fāng dú cǐ wù mù bǐ cǐ wèi zhōng bǐ wù qǐ
【解説】正在讀這本書之時,不要去想著另外一本書。正在做這件事(或事業),就不要中途換做另外一件事(或事業)。讀書學習也好,做事也好,都要用心專一,才會有成就。
【和訳】一冊目を読んでいるとき、別の本を思ってはなりません。やっていることが終わっていなければ、別のことは始めてはなりません。読書や勉強、日常物事や事業、集中して一歩ずつ着実に進むことによって、成功につながります。



●簡単解説:
★学問を勉強する方法としては、一つのことに集中して、根性強く、長い時間をかけて学び続け深入りする勉強方法が非常に大事なことです。いくつかの事を同時に学ぶのはよろしくありません。

★物欲的な条件にばかりこだわるのも、個人だけの自由さ、気ままさに執着するのも、物欲主義の現代が作った精神的に未成熟な人間の特徴でしょう。長く仕事物事を続けることができずに悩んでいる人がたくさんいます。

私たちは確かに世間の色んなことに左右されやすく、何か困難な状況が出たり、もしくはもっと興味のあることに惹かれたりとしたら、すぐあきらめてしまいます。

目的は何でしょうか?目標は何でしょうか?それらを設定する時、ちゃんと善い方向に向いているかどうか、長い目でを確かめてください。人間とする価値のあることが見つかりましたら、心に決めた瞬間を忘れなく、容易に変わらずあきらめず、根気強く、続くことを自分自身に励ましましょう。



『弟子規』日本語解説(88)

2018年11月29日 | 『弟子規』日本語解説
讀書法 有三到 心眼口 信皆要
dú shū fǎ yǒu sān dào xīn yǎn kǒu xìn jiē yào
【解説】讀書的方法有三到,心到、眼到、口到。即心要專,眼要看,口要讀,這三點非常重要。對聖賢的教誨要有信心,並且相信自己一定能夠做好。
【和訳】読書には三つの注意があり、「心」を集中させ、「目」でよく見ながら、「口」に声を出して読むことであり、この三つのことを徹底的(てっていてき)に行う必要があります。さらに、聖賢の教えを信じ、自分にもできると、自信をもって取り組まなければなりません。



●簡単解説:
★ここで、本を読むときの注意点を三つあげました、「心眼口」の順番の通りに、「心」が一番大事です。つまり、集中して読むことによって、その経典がだんだん心に入り、自分の一部になります。事業でも、仕事でも、勉強でも、集中できる者は、必ずいい成果が出せます。

★因みに、「読経」(経典の読誦)は、本来、経典の意義を理解し実践するためです。この言葉が日本に渡って、仏教の経典だけを読誦することになりました。しかし、現代中国では、「読経」に対しては、昔の聖賢たちから残された「経典」を読むことで、広い意味を持ったままです。

毎日継続的に読むことによって、経典への理解が深くなり、自然に身に着け、普段の生活に応用しやすくなると思います。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
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『弟子規』日本語解説(87)

2018年11月27日 | 『弟子規』日本語解説
但力行 不學文 任己見 昧理真
dàn lì xíng bù xué wén rèn jǐ jiàn mèilǐzhēn
【解説】如果只是賣力去做,卻不肯學習以提升自己的智慧,就會固執於自己的見解,而無法正確判斷事物的真偽,理解真正的道理。這也是不對的。
【和訳】ただ盲目的(もうもくてき)に物事を頑張ってやるだけで、上を目指して学問を学ばなければ、自分の見解に固執(こしつ)して、正確に物事を判断できず、正しい道理は理解できなくなってしまいます。
●簡単解説:
★『朱子治家格言』に「子孫雖愚。経書不可不読」(子孫愚(ぐ)と雖(いえど)も、経書(けいしょ)読(よ)まざる可(べ)からず)と述べられているように、これは、子孫たる者は、智慧がなくでも、人の道を書いたほんを読まなければならないということです。智慧がなくても、経書を読んで、人の道を知って、その教えの通りに身をもって実行しなければならないことです。


(作者:朱柏庐(1617~1698))

 ★明代の顔元(えんげん)がこんな言葉が言いました。「為學為教,用力於講讀一二,加功於行者八九」(学ぶ者も、教える者も、講義や読書などの学びだけに力に入れたら、一かニ割の利益しかもらえない、実践実行に努力する者は、八か九割の利益がもらえます。)その言葉の通りに、学びと実践は共に重要です。学ばなければ、どっちがよい方向、どれが善いやり方が分からず、大きな過ちをしてしまうかもしれません。善い教えに出会い、しっかり学び、そして学んだ知恵を使って自分自身の人生を指導して実行するこそ、幸せな人生が送れます。



(颜元(1635年—1704年),明朝末年儒家、思想家、教育家,颜李学派创始人)


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(86)

2018年11月26日 | 『弟子規』日本語解説
不力行 但學文 長浮華 成何人
bú lì xíng dàn xué wén zhǎng fú huá chéng hé rén
【解説】如果所學的倫理道德不能實踐力行,只一味讀死書,容易養成華而不實的習性,不能成為一個真正有用之人。
【和訳】倫理(りんり)道徳を実践せず、知識だけを学ぶならば、実際の学問が伴(ともな)わず、うわべだけを飾(かざ)った、世に役に立たない人間になってしまいます。



●簡単解説:
★今の学校はほとんど、成績だけを重視していて、子どもの道徳教育を重視していません。それで、ある現象が生まれてきました。それは、勉強の成績、学歴さえよければよくて、人間的には、だんだんと浮かれて、傲慢になり、品行のほうがますます下落していく現象です。
「聖賢教育の倫理道徳を実践せず、書物の知識だけを学ぶならば、実際の学問が伴わず、邪知、邪見がいっぱいで、うわべだけを飾った、傲慢な人間」を、古代では「偽君子」と呼ばれています。
★ここで、「餘力学文」、「但学文」の「文」の意味を勉強してみましょう。『論語』に、「子貢問曰。孔文子。何以謂之文也。子曰。敏而好学。不恥下問。是以謂之文也。」(〈公冶(こうや)長(ちょう)第五〉。子(し)貢(こう)問(と)いて曰(いわ)く、孔(こう)文子(ぶんし)は何(なに)を以て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うや。子曰く、敏(びん)にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以て之を文と謂ふなり。)という文がありました。つまり、かつて、子貢が孔子にたずねたことがありました。「孔文子はどうして文というりっぱなおくり名をされたのでしょうか」。孔子は「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかった。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ」とお答えになりました。
つまり、学文の文は「敏而好学。不恥下問」であることです。「敏」は聡明です。聡明な人はよくおごり高ぶって、なかなか人の教えを聞きたくありません。自分のほうが一番偉いのだと思い込んでいます。このような人を「文」と言えません。
聡明でありながら、謙虚・勤勉で学問を好む者を「文」と言います。さらに、学んだものを身にもって実行し、自分自身の誤りを改めることができれば、これは聖賢の学問となります。
孔子様はかつて「子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。」(子曰く、十室(じっしつ)の邑(ゆう)、必ず忠信(ちゅうしん)丘(きゅう)の如(ごと)き者有(あ)らん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。)と仰いました。孔子は聖人です。聖人と凡人の違いはどこにあるのでしょうか。
孔子は、十戸ほどの小村にも、忠実で信用があるという徳行だけのことならば、孔子と同じくらいの人はきっといるでしょう。しかし、学問を好み愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにないのだと答えられました。
つまり、忠信の品行は孔子様と同じように実行できていても、孔子様のように好学しなければ、聖人にはなりません。そのために、聖賢になるにはかならず「学文」をしなければなりません。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(85)

2018年11月24日 | 『弟子規』日本語解説
餘力學文
yú lì xué wén
【解説】通過學習如上課程,將孝、悌、謹、信、汎愛眾、親仁等六種德行銘記於心,力行實踐,還有多餘的時間精力,就要好好的學習知識、技能等其它有益的學問。文以載道。
【和訳】前章の「孝、悌、謹、信、汎愛衆、親仁」という人間として備(そな)えるべき六つの徳行(とっこう)を身につけ、実践実行できてから、さらに時間と余力があれば、初めて技術や芸術などの知識・技能、有益な学問を学ぶべきです。「文を以(もっ)て道を載せる」であります。



●簡単解説:
★「孝」、「悌」、「謹」、「信」、「愛衆」、「親仁」を行い、最後は「学文」(文学・文芸を学ぶ)をします。仏教では、「学文」はほかではなく、経典を勉強することを指しています。経典に通じれば、自然に「文学」を通じます。

 しかし、この「学文」を最後の位置に置かれています。徳行である「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」を先に置かれています。徳行はすべての基礎です。このような基礎がなければ、「学文」、文芸(ぶんげい)(学問と芸術)を学んでも、メリットがあまりなく、真実な功徳やご利益を得ることもできません。しかし、もし、徳行があれば、さらに、最後にこの「学文」をすれば、自分が享受できる充実な精神的な生活を得られます。同時に、学んだ文芸を利用して、人々を教化でき、仏法や倫理道徳を押し広めることができます。このようにして、自利である同時に利他ができます。そして、利他が本当の自利にも繋がります。

★「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」は実際に聖賢の教えを努力して行うことです。その実践・実行することによって、自分自身を高めていきます。聖賢の教育では、「学文」は、聖賢の経典を学んで聖賢の教えを実践・実行できるように、導き助けることができます。経典を学べば、道徳倫理の実行することに、正しい方向を与えてくれます。

 そのため、聖賢経典の勉強は実に重要なことであります。「余力があれば」という文言があるからといって、「わたしにはそのような余力がないから、聖賢の経典を学ばなくてもいいのだ」と思うのは違います。

 ここの「さらに余力があれば」との言葉は、「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」を実行することを強調するためのものであります。やはり、「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」の実行を助けることができる聖賢の経典も学ぶべきです。

 このように、「学文」と「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」の実行は相互に補完しあっていて、どちらも欠かせないものであります。実行は日常生活のなかで実際に教えを守り、行うことです。「学文」は行うべき道を理解、知ることです。共に大事なことであります。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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