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《南京事件》湖山村の虐殺

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2019.09.02



この記事は、次の記事のNo.22湖山村の事件についての考察であるが、場所の特定を誤っていたので訂正し、別記事として独立させた。

《南京事件》“南京大屠杀”遇难同胞纪念碑
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/231d3f251ec4a413608c7c6baa8e4e90


《要点》

・碑に記された事件日は1937年12月6日。
・村民64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた、とのこと。
・戦闘詳報で確認すると、6日の日没時点では日本軍は湖山村に進入していない。
・夜間は火を使えば敵の標的にされるので火気厳禁。
・撤退する中国兵が集落から略奪し、放火し、防ごうとした住民を惨殺する報告多し。
・となれば、誰の犯行であるかは自ずと明らか。




《湖山村の碑》

22、湖山村“以史为鉴”碑(本条信息来源于网络)

概要:1937年12月6日、湖山村に日本軍が侵入し、不完全な統計によると64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた。


碑址:
江宁区湖山村内

碑文:
民国二十六年冬日初四(一九三七年十二月六日),日军侵入湖山,村民流离失所,生灵涂炭,家破人亡,痛不欲生。
据不完全统计,先后有六十四人遇难,(大多死于南京沦陷前后),十五家绝户,二百多间房屋被焚。
中国军队曾在棒槌山,岘山等地抗击入侵,许多官兵阵亡,沦陷后,新四军在此依靠人民,坚持敌后抗战,直到胜利。
前事不忘,后事之师,为纪念遇难和阵亡的同胞,坛强爱国情怀,立志振兴中华,呼吁制止侵略战争,保卫世界和平特立此碑。





《地図》

碑の場所が「碑址:江宁区湖山村内」とある。これをGoogleマップで調べると、南京市 江寧区 湖山という場所がヒットする。
中山門から直線距離で17km付近。




日本軍の戦闘経過要図によると第9連隊の進路に当たる。湯水鎮のすぐ北。


(この図はWikiから借用)




戦闘詳報で確認すると、第9連隊がその付近で戦闘している。

12月6日の戦闘要図


12月7日の戦闘要図


12月8日の戦闘要図





《場所の特定》

特定した該当地点付近の拡大地図がこれ。左半分が8日の戦闘要図、右側が6日の戦闘要図に対応している。
以下に、どのように特定したかを示す。




まず先に、8日の戦闘要図を元に場所の特定をする。

(1)戦闘要図のタイトルと、図の中心に「大胡山」とある。これを碑の場所である「江宁区湖山村」と比定する。
(2)「大胡山」の南に「孔山」とある。Googleでもそこにヒットするし、周囲の地形が一致している。
(3)「大胡山」の東北東に「盛村」とある。Googleでもそこにある。
(4)「大胡山」の西に「復興橋」とある。Googleでもそこに橋がある。
(5)「大胡山」から復興橋を抜けると「東流鎮」に至るとある。Googleでもその先に東流村がある。

よって、「大胡山」=「江宁区湖山村」とする。Googleマップへのリンクはこちら



次に、6日の戦闘要図を元に場所の特定をする。

(1)中心に「孟埠」とある。これをGoogleマップ上での「孟塘」と比定する。
「埠」は埠頭の埠であり、船着場とか水辺を意味する。「塘」は堤とか土手を意味する。Googleマップ上でもまさにそこの東に湖がある。
(2)前項の8日の戦闘要図で東に行くと「孟埠」に至るとある。だから、6日の戦闘要図は8日の要図の東隣である。「孟塘」は「大胡山」の東5kmの地点。

これだけでは確信を持てないだろうが、先を続ける。



続いて、7日の戦闘要図を元に場所の特定をする。

(1)「孟埠」の北に「上鮑亭」さらに行くと「下鮑亭」とある。Googleマップでも「孟塘」から北に道を行くと「上鮑亭」に至る。さらに北に行くと「鮑亭村」がある。
(2)「孟埠」から「下鮑亭」に至る道が、Googleでの「孟塘」から「鮑亭村」に至る道と同じ形をしている。



これだけ揃えばもう間違いない。よって、場所の特定は次の通り。

(戦闘要図)(現在の地名)

「大胡山」=「江宁区湖山村」=碑のある場所
「孟埠」=「孟塘」




《第9連隊の戦闘経過》

この記事の末尾に第9連隊戦闘詳報を掲載したが、そこから「大胡山」に関連する部分だけを時系列で並べてみる。

十二月六日

★A:連隊主力が孟埠付近に前進した。
★B:日没は午後五時三十分。
★C:敵の兵力は「六日夜より」の情報として「大胡山付近約三、四千名」としている。つまり、中国側の勢力下にある。
★D:十二月六日午後五時四十分の片桐部隊命令で「大胡山付近」を占領しろと命じている。命令が出た時点で日没時刻を過ぎている。
★E:十二月六日午後七時四十分の児玉隊命令で、屋外で絶対に火を使うな、付近の住民らが火を灯すことや放火に用心しろ、火災予防、敵陣地に見つかるようなマッチや懐中電灯は使うな、としつこく指示している。夜間に火を使えば敵の標的にされるから当然の措置であろう。

十二月七日

★F:十二月七日午前四時三十分の片桐部隊命令で「大胡山西南側高地にも敵あるもの如し…」とあるが、敵の情報に過ぎないから「大胡山」その場所の状況は不明。
★G:「午前十時四十分頃在大胡山第七中隊と連携する目的を以って…」とあるから、この時点では既に「大胡山」に日本軍(第七中隊)が進出している。
★H:続いてその夜に連隊主力が「午後九時五十分大胡山に到り」とのこと。

十二月八日(省略)

十二月九日

★J:「大胡山付近に於いて敗退せし敵は…」とあるから、この時点で「大胡山」付近が日本軍の支配下に入ったことが確定してる様子。




《結論》

「湖山村“以史为鉴”碑」に戻ると、「12月6日、湖山村に日本軍が侵入し、不完全な統計によると64人が死亡し、200以上の家屋が焼かれた」とある。

前項で明らかなように、その12月6日の日没時点では、湖山村に日本軍は進入していない。
翌日の7日午前10時40分の時点では、第七中隊が湖山村に進入している。

夜襲をかけたとも書いていないから、順当に考えれば夜明けとともに第七中隊が湖山村に進入したと思われる。また、湖山村は小山や丘に囲まれた低地の村であって特に守備に適した地形でもないので、その後の戦闘詳報での展開を見ても中国側も湖山村でさほど抵抗することもなく、周囲の高地に散って抵抗を続けることにしたのではないか。


碑に「200以上の家屋が焼かれた」とあるが、夜間に日本軍が火を付けるはずはない。
★Eでも再三注意されてるように、屋外火気厳禁である。火を灯せば敵の標的にされるだけ。それは中国側にとっても同じだろう。

そして、次の記事でも紹介しているが、撤退する中国兵は往々にしてこういうことをする。

《南京事件》残虐な中国兵
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/87915078145230ed66431b34f00c5568
「私がある部落、ある町を占領するというと、そこが既に破壊されており略奪されており、焼き払われているのはおろか、甚だしきは住民が惨殺さえされているのです。何故そういうことが起こるかというと、逃げる支那兵が略奪を働き、それを防ごうとした住民が支那兵に殺されておるのです。支那兵は退却する時に『清野空室』と言って、焼き払い、略奪しつくして、追撃する敵軍に利用させまいとする、そんな残虐なことを平気でやっておるのです」(第二十聯隊大隊長代理・森王琢)


そういう中国兵の犯行癖を知れば「湖山村“以史为鉴”碑」が12月6日と示しているのだから、その日の日没前に湖山村の集落に火を放ち、村民を虐殺したのが誰なのかは自ずと明らか。

そして、そういう中国兵の行動パターンからすると、集落に火をつけるというのはその場所を放棄するという意味だから、第七中隊が7日の夜明けであるかどうかは別にして、特に交戦するでもなく湖山村に進入できたと考えるのは妥当。


ちなみに、「湖山村“以史为鉴”碑」を訳すと「湖山村『歴史から教訓を学ぶ』碑」だそうだ。
教訓云々の前に、まずは正確な事実を知って欲しいところ。




《第9連隊戦闘詳報》

以下の出典は、国立公文書館・アジア歴史資料センター。

件名標題(日本語)
湯水鎮附近戦闘詳報 自昭和12年12月6日至昭和12年12月8日 歩兵第9連隊第2大隊
レファレンスコード
C11111974100



歩兵第九連隊第二大隊 湯水鎮付近戦闘詳報 第八号

十二月六日

第一 戦闘前彼我形勢の概要

一、十二月五日夜より固江口を占領し前面の敵情地形を偵察しありし第七中隊は東國付近には既設陣地あるも敵兵見ずとの報告あり尚敵の一部は西巷付近に進入し其一部は第四中隊により撃退せられたりとの情況を知る連隊は直ちに攻撃の目的を以って一部を西巷南巷の線に進出し敵と接触せしめまず第七中隊を孟埠付近に前進せしめ次いで主力を以って東國を経て孟埠付近に前進す。★A

二、右(上)企図に基づき左記(以下)命令を下達し捜索警戒のため派遣しありし兵力を集結す同時までに敵情に関し新報を得ず。

児玉隊命令 十二月六日午後〇時四十分 於 □石潤村南方六〇〇米無名部落
1. 敵情は不明なるも湯山および湯水鎮付近には敵陣地ありまた敵の一部は西巷付近に進入し第四中隊により撃退せられたり尚東国付近には敵の「トーチカ」陣地あるも守兵なし第七中隊は午前十時頃東国に到着せり連隊は攻撃の目的を以って敵情地形を偵察するため一部(第一大隊長の率いる第四中隊 I MG)を以って湯水鎮の敵と接触せしめ主力は固江口、東国を経て孟埠付近に進出す。
2. 大隊は連隊主力の先頭を孟埠付近に向かい前進せんとす。
3. 略

第二 戦闘に影響すを及ぼしたる地形、天候、気象および住民地の状態

一、天気晴朗にして星影明るく戦闘に影響なし
日出時刻 午前七時三十分
日没時刻 午後五時三十分★B

二、地形
三、住民地の状態
一般木造および瓦もしくは石壁家屋西て囲壁なし

第三 彼我の兵力交戦せし敵の□隊号将帥の氏名、編成、装備、素質および戦法

一、敵の兵力
逐次退却しあるいは陣地占領中の敵にして其の数明らかならざるも六日夜より八日に亘る孟埠付近三、四百、下鮑亭付近約三、四百、大胡山付近約三、四千名なり★C

二、敵の□隊号

三、編成および装備

四、素質および戦法

五、我兵力

第四 各時機における戦闘経過の概要

十二月六日 晴

一、行軍中、急に敵の□制射撃を蒙りたる大隊は直ちに地形地物を利用し遮蔽前進に努むると共に機関銃中隊(1小隊)をして陣地進入せしめ之に応射す。

二、硝煙盛んなる射撃を受けしも距離千米以上にして損害なく集結を終る尚第一中隊を指揮下に入らしめる時に夕陽は西山に汲せんとす。

三、午後五時三十分大隊長は左の(以下の)要旨命令を下達すると共に副官をして連隊本部に現在までの件を報告せしむ

左記(以下)

1. 敵情友軍の情況は諸官の知るが如し…略
2.
3.
4.
5.
6.
7.
8.

四、略

五、日没時に至るも敵の射撃は断続せしも損害なし然し共湯水鎮−上鮑亭道は敵の縦射を受ける公算多きを以って第七中隊の全兵力を用い遮障を作為せしめ損害なく部隊を誘導し別紙要図第二の如く夜間配備をなす。

六、同時頃左記(下記)連隊命令を受領す

片桐部隊命令要旨 十二月六日午後五時四十分 於孟埠
1.
2.
3. 7(1/4 II MG)は大胡山付近を占領し孔山および華野方向の敵情地形また本道上の湯山鎮憤頭付近の敵情を捜索すべし★D
4.
5.

七、午後七時三十分夜間配備完了同時同要図の如き敵情を知る午後七時四十分頃敵の射撃は悄衰へ來たり左記(下記)大隊命令を下達し敵前至近なる警戒をなす

児玉隊命令 十二月六日午後七時四十分 於孟埠
1.
2.
3. 戦備の度左の如く定む
(イ)予備隊は1/2の兵力を仮眠せしむることを得
(ロ)本部事務室の外隠蔽下に入るを禁ず
(ハ)屋外の焚火は絶対に之を禁ず屋内に於いても厳に最小限に止むべし★E
(ニ)各中隊毎に付近空家を警戒し土民等の火を灯しまたは放火を戒むべし(=用心せよ)★E
(ホ)
4. 左の諸件を特に注意すべし
(イ)火災予防★E
(ロ)敵陣地に暴露して「マッチ」懐中電灯の使用を禁ず★E
(ハ)静粛にすべし
5.
6.
7.
8.

八、
九、
一〇、
一一、


十二月七日 晴

一、
二、午前四時三十分左記(下記)連隊命令(要旨のみ)を受領す

片桐部隊命令 十二月七日午前四時三十分 於孟埠
1. 孟埠南方高地線の敵は逐次兵力を増加中なるが如し孔山および大胡山西南側高地にも敵あるもの如し鎮江付近の敵は鎮江−南京道を自動車により退却するものが如く夜間自動車の通行盛んなり★F
2.
3.
4.
5.

三、
四、
五、
六、
七、
八、午前十時四十分頃在大胡山第七中隊と連携する目的を以って盛村東北方高地稜線に進出するを可とするとの意見具申をなし許可を得て…略★G
九、
一〇、
一一、
一二、
一三、午後八時連隊主力は盛村に到着しその北側無名寺高地の敵も後退せしを以って午後九時五十分大胡山に到り第七中隊を指揮下に入れ状況を聴取し左記(下記)将校斥候を派遣敵情地形を捜索せしむ★H
1. 川端少尉…
2. 山本少尉…

一四、
一五、


十二月八日 晴

(主戦場は復興橋付近あるいは大胡山を挟む南北の山間部に移った様子)


十二月九日 晴

一、大胡山付近に於いて敗退せし敵は西方あるいは西南方に退却中なるが如く第八中隊正面高地の敵は尚頑強に抵抗しありしも午前三時前方の高所を夜襲占領し次て払暁後逐次西方に戦果を拡張せり★J


(ここまで戦闘詳報)




(追記)
日本軍が上述のように湖山村に侵入した際に、セメント工場の警備員だったデンマーク人のシンドバーグ氏が避難民を救ったという。

BBCニュース - 南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰 2019.9.2
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357
シンドバーグ氏は、1937年に旧日本軍が中国東部の南京に侵攻した際に起こした虐殺から、何千人もの中国人を救った。ただ、デンマークではやっといま、国民的英雄の待遇を受ける。彼の銅像が建てられ、8月31日に除幕式を迎えた。シンドバーグ氏の死から36年近くたっての式典だった。

南京大虐殺の生存者112人に=蘇国宝さん死去、2年前にデンマーク女王と対面―中国メディア 2016年9月7日
https://www.recordchina.co.jp/b149705-s0-c30-d35.html
南京大虐殺当時10歳だった蘇さんは、旧日本軍が南京の湖山村に侵入した際、家族を含む多くの難民と、デンマーク人のベルンハルト・シンドバーグ氏らが設置した難民キャンプに身を寄せたといい、マルグレーテ2世女王に感謝の気持ちを伝えた。





以上。





改版履歴:
2019.09.02 デンマーク人のシンドバーグ氏の関連記事を追記。



 


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