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《南京事件》揚子江上の5万

2021年02月12日 | 南京大虐殺
2021.03.03 燕子磯関係を別記事「燕子磯の5万」に分離独立、併せて関連の記述を修正


南京陥落後に「揚子江を覆い尽くす5万の遺体を見た」というような話がある。中国が建立している侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑にもそれらしいものがある。
漠然と信じがたい話にも感じるが、断片的にはある種の事実を含んでいるようなので、考察する。

結論を先に書けば、陥落日に下関付近から揚子江を渡河脱出しようとした多数の敗走兵を日本陸海軍が挟撃した事実、さらに陥落日から時間差で下関付近から下流の燕子磯に多数の遺体が漂着したであろう事実、に端を発して似て非なる複数種類の大量殺戮物語が派生したように見える。





《論旨》


1. 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑
・中国が建立した「燕子矶江滩遇难同胞纪念碑」に、「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子磯に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。
・しかし、日本側は陸軍も海軍も燕子磯付近では特に大きな軍事行動をした形跡がない。燕子磯事案の真相は、上流の下関周辺から燕子磯に漂着した大量の遺体と、周辺地域でのエピソードの断片を組み合わせた虚構の殺戮事案であると結論。

2. 赤星義雄氏の「5万」
・『揚子江が哭いている』(創価学会青年部反戦出版委員会/1979.9出版)に、赤星義雄氏(第六師団歩兵第十三連隊)が陥落翌日に揚子江を埋め尽くす5万の遺体を目撃した話と、聞いた話として8km先の下関から渡河脱出しようとした軍民を日本軍が攻撃した話が載っている。
・しかし、当時の日本が製作した『南京(戦線後方記録映画)』の陥落直後の揚子江の映像には揚子江を埋め尽くす遺体や浮遊物は何も写っていない。
・医学論文を参照すれば、冬の12月に水死体が翌日に浮くのは早すぎる。
・ただし、燕子磯は下関の下流約8km。つまり、聞いた話とは燕子磯に流れ着いた遺体について当時現地で語られていた実話の可能性。

3. 小説『生きている兵隊』
・小説『生きている兵隊』(石川達三)には、下関から対岸の浦口に渡河脱出しようとする敗走兵の描写として「その人数凡そ五万」と書かれている。石川達三氏は、陥落2週間後の正月に南京入りしたという。
・その一方で、石川達三氏は亡くなる前に「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」と、阿羅健一氏に返信している。

4. 翌月の目撃談
・揚子江上の死体については、満鉄社員・長沢武夫氏も目撃証言を書いている。
・ただ、その時期は陥落翌月の昭和13年1月下旬であるとし、また「これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたり」と記述している。

5. 揚子江は「感潮河川」
・揚子江は「感潮河川」であり、潮汐の影響で水位が上下動する。南京においては、冬季には短時間の逆流もあるという。

6. 流体工学からわかること
・流体工学によれば、連続して曲がる川においては、曲がりの内側下流部分に堆積するという。
・すなわち、南京戦で揚子江に流れた大量の遺体が、潮汐の影響と地形的な理由から、燕子磯などの河岸付近を往復しながら長期間滞留していたと推測。
・紅卍字会の埋葬記録のうち、特務機関員の丸山進氏が“水増し”とした部分は、私の考察では水辺の遺体を河に押し流したものと判定したが、それらの地点は今回の地形的な考察と一致。

7. 「5万」の正体
・「揚子江を渡河脱出しようとした敗走兵が5万」、「揚子江上に浮かぶ遺体数が5万」、あるいは「燕子磯で殺害された軍民が5万」というような複数の異なる種類の「5万」という話が流布されているが、全て同一の事案から戦時下の混乱の中で派生した似て非なるバージョンであると判断できる。
・本件に関して南京戦で確認できる事実とは、(1) 陥落日に下関付近から渡河脱出しようとする多数の敗走兵を日本陸海軍が挟撃した事実、(2) 陥落日から時間差で下関付近から燕子磯に多数の遺体が漂着したであろう事実、である。
・「5万」という数字自体は戦乱の渦中で正確に数えられるわけはなく、また日本軍から出た数字でもなさそうだから、これは目撃談からのイメージに由来していると思われる。


8. 「10万」の正体
・安全区国際委員会のラーベは、陥落翌年の1938年6月8日付け『ヒットラー宛の上申書』にて、《中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。》と書いている。当時の南京市民の間で流布されていた話として「揚子江上に浮かぶ遺体数が5万」あるいはその変形として「燕子磯に漂着した遺体が5万」であれば、紅卍字会の埋葬記録4.3万と合わせて約10万であり、話が整合する。




《1. 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑》


以下の No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑に「武装解除した兵士3万と市民2万が揚子江の北岸に逃れようとして燕子矶に避難したところを日本船に阻まれ、日本軍に包囲されて殺害された」とある。燕子磯(燕子矶)という場所は幕府山の峰の北端にあたる。日付は明記されていないが、日本船に渡河を阻まれたという話になっているので、陥落日(12月13日)の出来事と思われる。

No.7 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

碑文:一九三七年十二月,侵华日军陷城之初,南京难民如潮,相继出逃,内有三万余解除武装之士兵暨两万多平民,避聚于燕子矶江滩,求渡北逃。讵料遭日舰封锁所阻,旋受大队日军之包围,继之以机枪横扫,悉被杀害,总数达五万余人。悲夫!其时,尸横荒滩,血染江流,罹难之众,情状之惨,乃世所罕见,追念及此,岂不痛哉?!爰立此碑,永志不忘。庶使昔之死者,藉慰九泉;后之生者,汲鉴既往,奋发图强,振兴中华,维护世界之和平。

訳文:1937年12月、日本軍の侵攻が始まると南京の難民は潮のように次々と逃げていった。武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。何という悲劇か! 当時、荒れ果てた岸辺には死体が散乱し、河は血に染まり、犠牲者の数と悲惨な状況は世界でも類を見ないものでした。私はここにこの記念碑を建立します、決して忘れないように。この記念碑を建立して、過去に亡くなった人たちの記憶を慰め、未来に生きる人たちが過去から学び、自らを強くし、中国を活性化させ、世界平和を維持するために努力したいと思います。

侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632



この件については次の記事に分割して独立させたのでここでは簡単に示す。

《南京事件》燕子磯の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d17befeb295e05b4539da909d8e1c503

・燕子磯という場所で日本軍が“5万人殺戮”というような規模の軍事行動をした形跡がない。
・本件は、上流の下関周辺から燕子磯に漂着した大量の遺体と、周辺地域でのエピソードの断片を組み合わせた虚構の殺戮事案であると結論。





《2. 赤星義雄氏の「5万」》


『揚子江が哭いている』(創価学会青年部反戦出版委員会/1979.9出版)に、赤星義雄氏(第六師団歩兵第十三連隊)が揚子江を埋め尽くす5万の遺体を目撃した話と、聞いた話として8km先の下関から渡河脱出しようとした軍民を日本軍が攻撃した話が載っている。

すでに城内は、赤十字難民区を除いて、ゲリラ隊や敵兵らしい姿は、誰一人として見なかった。今まさに、南京城は日本軍の手に陥ちたのであった。私たちは、市内の掃討を繰り返したが、その時は、抵抗などはほとんどなく、そして、その晩、すなわち十三日の晩は、城内の一角で警備についた。

明けて十二月十四日、私たちは城内を通り、揚子江岸に向かって進んで行った。ちょうど、中華門の反対側になるが、重砲陣地のある獅子山へ行った。山の岩盤をくり抜き、車一台が通れるような道路をつくり、約五十メートルごとに巨大な砲が据えつけてあった。日本海軍を阻止するために作られたと聞いていた。もちろん、敵の姿はなかった。

その砲台から眼下を流れる揚子江を見ると、おびただしい数の木の棒みたいなものが、流れているのが遠望された。

私たちは獅子山から降りて、揚子江岸へと向かって行った。途中、中国軍兵士の死体が転がり、頭がないものや、上半身だけしかないものなど、攻撃のすさまじさを物語っていた。

揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そこに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられないような光景が広がっていた。

二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた“イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の“山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。

少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は“屍の河”と化していたのだ。

このことについて私が聞いたのは、次のようなことであった。

前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。

南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。

私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも…」と思い、後でこれが、“南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。

南京城で二日間の休養をとった後、五、六十台のトラックに分乗し出発、夕方には蕪湖に到着した。

(赤星義雄/揚子江を埋めた屍/『揚子江が哭いている 熊本第六師団大陸出兵の記録』/創価学会青年部反戦出版委員会)




(下関の遺体)

第十軍参謀・谷田勇大佐が、同じ14日に下関を見ているので引用する。

「軍司令部が南京城内に入ったのは十四日のお昼直前、十一時三十分でした。中華門から入ったが、付近に死体はほとんどなかった。
三時頃になり、私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵一個分隊を伴い乗用車で城内一帯を廻った。下関に行った時、揚子江には軍艦も碇泊しており艦長と会見した。この埠頭の岸辺には相当数の死体があった。千人といったが、正確に数えれば千人以上あったと思う。二千人か三千人位か。軍服を着たのが半分以上で、普通の住民もあった」

(第十軍参謀・谷田勇大佐/『「南京事件」日本人48人の証言』/阿羅健一)


同種の証言は複数あるから、これについては事実と思われる。

しかし、その同じ場所で赤星義雄氏のように『その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していた』のを見たという日本軍将兵の話は他で見た覚えがない。事実なら複数の将兵からも証言がありそうなものである。



(映像では浮遊物は写っていない)

陥落後に日本側が撮影した『南京 戦線後方記録映画』を見る限り、揚子江上にそのような浮遊物は何も見えない。撮影地点は情景からみて下関と思われる。



この場面のナレーションは次のように言っている。

『今、ランチを連ね、トラックを載せていくのは、我が軍がさらに対岸に進撃せんとするを語るものであります。沖合に停泊するは、我が艦隊。敵の機雷、および妨害の危険を犯しつつ、東岸各地の敵港を制圧しつつ、13日午後5時、ここに来ったもの。対岸に渡らんとする敵をここに待ち受けて撃滅したのであります。』

(南京 戦線後方記録映画)


上の場面では、右に進むランチに合わせてカメラを左から右にパンする際に、砲艦2隻、駆逐艦2隻の合計4隻写っているように見える。その状況からすると陥落直後と思われるから、赤星義雄氏の記述とは矛盾することになる。



(遺体が浮くには早すぎる)

一般に死体は水に沈むが、腐敗が始まると浮いてくるという。

次の論文によれば、「東京都内の河川(感潮区域)および港湾(沿岸部)における水死体浮揚発見月別日数」としては、12月であれば最小浮揚発見日数が14日、最大浮揚発見日数が29.5日、平均浮揚発見日数は21.44日であるという。平均気温で見ると、東京も南京もほとんど同じ。

昭和医学会雑誌第21巻第1号 水死体の淨揚に関する研究
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsma1939/21/1/21_1_56/_pdf





従って、赤星義雄氏は陥落翌日14日の目撃談として『その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ』と書いているが、これはウソではないか。浮遊する大量の遺体を見たにしては時期が早すぎる。

14日の時点では、谷田勇大佐と同様に地上または岸辺での遺体しか見ることができなかったはずである。

なお、水死体ではなく地上での遺体を水葬にした場合は肺に残った空気の関係ですぐに浮くという指摘がある。しかし、南京戦においては陥落日(12月13日)に地上で生じた遺体を翌日までに数千あるいは数万の単位で揚子江に投げ込んだ事実はない。




(聞いた話の奇妙さ)

この赤星義雄氏の記述にはさらにおかしなところがある。獅子山は南京城内の北端であり、そこから最寄りの挹江門を出て最短距離の揚子江岸に行けば、そこが下関である。船の発着場と書いているから、下関埠頭のことと思われる。



その下関埠頭に立って自分が見た光景について、聞いた話として「八キロほど先の揚子江流域の下関という港から…」と書いているのは奇妙である。

少なくとも「聞いた話」の話者は、下関から8km離れた地点の視点で語っている。

「聞いた話」を完全再現することは不可能だが、その話者は下関から8km下流の燕子磯の岸辺に立ち「ここにある遺体は、8kmほど先の揚子江流域の下関という港から対岸に渡河脱出しようとした人たちが日本軍に攻撃され、ここに流れ着いたものである」と語った、というように理解した方が辻褄が合う。

「揚子江流域の下関という港」という言い回しも、それを補強する。というのも、南京戦当時の燕子磯が面している河は揚子江本流ではなく八卦洲を挟んだ支流である。中国の言い方だと、「夾江」(意味としては、狭い川)となる。

1933年当時の地図を見てもわかる。



下関は今も昔も揚子江に面しているが、当時の燕子磯は揚子江に面していないのである。だから、燕子磯の岸辺に立てば、ここにある遺体はこの河とは別の河である揚子江流域の下関の港から流れ着いた、という言い回しになったものと推察できる。



(第六師団歩兵第十三連隊の行動)

ところで、赤星義雄氏の所属は第六師団歩兵第十三連隊とのことだが、第十三連隊の戦闘詳報は見つからなかったものの、第六師団の戦時旬報はあった。

戦時旬報(第13、14号) 自昭和12年12月1日至昭和12年12月20日 第6師団司令部(2)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111026100


これを見ると、第十三連隊第二大隊が陥落日(12月13日)に中華門付近から入城して清涼山まで進出し、翌14日に南京城北端の獅子山まで進んでいるように見える。



従って、赤星義雄氏は所属を第六師団歩兵第十三連隊とまでしか書いていないが、第二大隊であるとすれば、概ね行動に矛盾はなさそうである。


ただし、その続きの戦時旬報を見ると、第13連隊を含む第11旅団は蕪湖の警備を命ぜられ、16日に南京を出発、19日に蕪湖到着となっている。

戦時旬報(第15号) 自昭和12年12月21日至昭和12年12月31日 第6師団司令部
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111026300


つまり、赤星義雄氏の南京における直接の見聞は、基本的には16日まででなければならない。赤星義雄氏自身も引用箇所末尾でそう書いている。その後、南京に立ち寄った形跡はない。その意味からも、大量の浮遊遺体は見ていないはずである。



(伝聞情報からの創作か)

以上の要素を鑑みると、赤星義雄氏が第六師団歩兵第十三連隊に所属し、14日に獅子山まで行ったことまでは否定しないが、そこからの目撃談は、すべて後日どこからか聞いた話の一部を自身の目撃談に作り変えた創作ではないかと疑われる。

ただし、聞いた話の内容は、概ね事実に沿っているように見える。




《3. 小説『生きている兵隊』》


1938年3月号の『中央公論』に発表された小説『生きている兵隊』(石川達三)には、下関から対岸の浦口に渡河脱出しようとする敗走兵の描写として「その人数凡そ五万」と書かれている。

挹江門は最後まで日本軍の攻撃をうけなかった。城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた。前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。彼等はテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。そして対岸について見たとき、そこには既に日本軍が先廻りして待っていた! 機銃が火蓋を切って鳴る、水面は雨に打たれたようにささくれ立ってくる。帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機銃陣である、――こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった。

(『生きている兵隊』/石川達三)


この『生きている兵隊』について阿羅健一氏は次のように書いている。石川達三氏は陥落2週間後に南京入りしたというから、上の文面が事実に基づくとしても、それは取材や伝聞情報からの再構成ということになる。

石川達三氏は昭和十年『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞、昭和十二年、陥落直後の南京に中央公論社から特派された。十二月二十一日東京を発って、上海、蘇州、南京をまわり、一月下旬に東京に戻った。この時、主に第十六師団の兵士に会い、これをもとに『生きてゐる兵隊』を書き、二月十八日発売の『中央公論』に発表した。ところが『中央公論』は即日、新聞紙法により発売禁止になり、石川氏は起訴され、九月に禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決がおりた。
戦後になり、『生きてゐる兵隊』は南京事件を扱った小説と言われるようになった。
昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことはできなかった。 理由は後でわかったが、それから三ヵ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。
「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。
何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

(『「南京事件」日本人48人の証言』/阿羅健一)



引用した本文の記述はまさに陥落日の下関付近で渡河脱出しようとする敗走兵を日本の陸海軍が挟撃した事案についてであり、「5万」という数字はさておき、事案の実在には疑いはない。

むしろ、事後的に見てもわりと正確である。「城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた」とあるように、「敗残兵」という認識は日本軍の認識と一致している。市民とは書いていない。

陥落日には、下関対岸の浦口には国崎支隊が回り込んでいたが、それを「そして対岸について見たとき、そこには既に日本軍が先廻りして待っていた!」と描写している。

その国崎支隊の陥落日(12月13日)の戦闘詳報から抜粋する。

午後四時半頃に至り揚子江を遡江せる我が駆逐艦および掃海艇六隻また南京付近江上に進入す、当時我が第一線は既に津浦線に進出せしにより午後五時第二大隊(第五、第六、第八、機関銃二小隊欠)を浦口碼頭に前進せしめ同地を占領し海軍と協力し南京より退却する敵の撃滅を命じ同隊は直ちに予備隊の位置たりし馬王○を出発す。

建平-浦口附近戦闘詳報 (第10号) 自昭和12年12月3日至昭和12年12月16日 國崎支隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111135300



また、下関側からは33連隊や38連隊が攻撃している。それが、「帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機銃陣である」という描写になっている。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す

南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111198100


南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門その他に於いて頑強に抵抗せしも各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方向に退却を開始せしも前衛は先独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる追撃を行い午前(午後が正解と思われる)一時四十分頃渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ次いで主力を以って午後三時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも五百名を掃蕩し竭せり

江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400



また、下関埠頭付近に進出した陸軍は33/38連隊のみではなく、他にも45連隊が北上する形で下関まで進撃している。

さらに、「こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった」という描写も、言い回しの演出はともかく内容的には概ね事実に沿っている。

次の記事に各艦の航泊日誌を出しているが、前衛部隊の砲艦・保津/勢多は13時半に進撃開始し、ほぼ最短所要時間の15時半に下関埠頭に強行接岸しているのに対して、同じ前衛部隊の駆逐艦・山風/涼風の下関接岸は17時半である。その間、敗残兵の乗ったジャンク船への攻撃および敵陣地への砲撃をしている。




石川達三氏が南京に入ったのは入城式から2週間後の正月というが、取材を通して概ね正確に陥落日の状況を把握した上で作文しているように見える。

だからこそ、余計に「5万」の出所が気になるが、日本の陸海軍将兵からは「5万」という数字は出てこない。

上述の33連隊戦闘詳報で見れば「揚子江を逃走中の敵は千名を下らざるべし」「殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」であり、38連隊戦闘詳報で見れば「渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ」である。

海軍で見れば以下のように1万あるいは2万という数字が出てくる。ただし、上の記事でも考察したように、対象となる水域は八卦洲の東側、烏龍山砲台付近から八卦洲北回りで下関付近まで(航路にして約40km)であり、下関〜浦口間の水域だけではない。しかも、江上だけではなく、江岸付近の陸上も含む。

12月19日、快晴寒さ烈し
午前9時抜錨。江を下る。南京は江上より眺めたるに、今は全く死の街と化す。聞くならく。最後まで南京を守りし支那兵は、その数約十万にして、その中八万人は剿滅せられ、江を渡り浦口に逃げのびたる者約二万人あり。 下関に追ひつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗って逃げんとする敵を、第十一艦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万に達せりと云ふ。

(泰山弘道氏の従軍日記/証言による『南京戦史』(10))


(12月13日)
1323前衛部隊出港北岸利子江陣地を砲撃○○しつつ閉塞線を突破沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏等による敗走中の敵を猛攻撃殲滅せるもの約1万に達し尚天河口硫安工場付近の陣地を撃破し1530頃下関付近に達し折から城外進出の陸軍部隊に協力江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子洲付近まで進出し掃海索を揚収す

1.実施経過/田村(劉)中佐(一掃) 南京遡江作戦経過概要
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120621400



ともかく、日本陸海軍からは江上の「5万」という数字は出てこないはずである。




《4. 翌月の目撃談》


揚子江上の死体については、満鉄社員・長沢武夫氏も目撃証言を書いている。

興味深いのは次の2点。

1)目撃談が、陥落から約1ヶ月後の昭和13年1月下旬という時期。
2)「これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたりしており…」という記述。

昭和十二年十二月南京陥落後、南京の図書収集の仕事を命ぜられ、十三年一月下旬、物資輸送の軍用列車にゆられて南京へ行った。

(中略)

その頃の南京は、獅子山の砲台の下あたりに、まだ中国兵の死体が放置されているのをよく見かけたし、南京下関と浦口の間の揚子江上には、南京を逃げ出す時の軍民の死体や、南京大虐殺の後始末の死体などで、あの広い揚子江がびっしり埋めつくされていた。

これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたりしており、その光景を見たやり切れない気持を、スウェン・ヘデンの探険記に没入することによって、僅かに癒すとともに、ヘデンの渇死寸前の不撓不屈の精神に鼓舞されながら読み進んだものである。

(長沢武夫/『長江の流れと共に 上海満鉄回想録』/上海満鉄会 1980年11月)


なお、この項と3項の赤星義雄氏の文章は、次の「ゆう氏」の記事を参考にさせていただき、原著の文面を別途確認および適宜修正した上で引用掲載している。

「揚子江が哭いている」より
http://yu77799.g1.xrea.com/souka.html





《5. 揚子江は「感潮河川」》


前項の長沢武夫氏がヒントをくれたので、史料の探求は一旦脇に置いて別の観点から見てみる。

「感潮河川」という言葉がある。手元の辞書によれば意味は次の通り。

【感潮河川】
潮の干満の影響を受ける河川。満潮時には,海水が遡上する。水位・流速の変化は,潮入りの区域よりもはるか上流にまで及ぶ。緩勾配の大河に多い。
(スーパー大辞林)



この現象に関する論文があった。

揚子江汽水河道の脈動的土砂移動とその季節特性について
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00906/2013/19-0199.pdf


その中で論じられている最上流地点は『江陰』で、河口の上海からは200kmくらい上流。南京は河口から300kmくらい上流になる。

この論文のP201《図-6 洪水期と乾季の計算条件》を見ると、乾季には江陰流量が潮汐の影響で脈動的に流速がマイナスになるとある。つまり、揚子江が逆流している。





また、別の論文によれば(著者は一部重複している)、次のように書いてある。洪水期においても南京まで潮汐による水位変動が及ぶなら、乾季ならなおさら大きな水位変動があるものと思われる。

大潮における潮位差は3.5mに達する. このため非洪水期には約300KPの南京まで塩水が遡上し,洪水期においても100KPの滸浦まで遡上する.(中略)ただし潮汐による水位変動は洪水期でも南京付近まで達し,本研究の対象領域の上流端である江陰(175KP)では図-4に示すように大きな水位変動が観測される.

揚子江洪水期における感潮域の流れに対する潮汐の非定常効果
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhe/68/1/68_1_67/_pdf/-char/ja


KP:キロポスト=河口からの距離 km


この論文のP69《図-4 江陰における水位(2003年7月)》を見ると、潮汐に合わせて水位が上下動し、大潮時には最大2m程度変動していることがわかる。




上の2つの論文の図も参考にしながら感潮河川で何が起きているかを簡単なイメージ図にした。



実際には、これに太陽の位置関係も加わる。太陽−地球−月の順で直列になれば満月、太陽−月−地球の順で直列になれば新月となり、その時期に大潮となって、河川水位の変動も最大になる。



また、次の資料にも「冬季間江流の短時間上流に向かうことあり」との記述がある。

揚子江水路誌. 第1巻(水路部 編/大正5年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10304429/95





整理するとこうなる。

1)月の動き(正確には地球の自転)に合わせて12時間おきに揚子江の水位が上下動する。
2)満月と新月で潮汐が最大になる。
3)水位が下がる冬季には南京でも短時間の逆流が起きることがある。




なお、あるサイトのデータを借りると南京戦当時の月齢は下図のようになる。





南京戦の時期で、揚子江に逆流またはそれに近い状態が生じるのは次の日の頃。

1937年12月
03日 新月
13日(陥落日)
18日 満月

1938年1月
02日 新月
16日 満月
31日 新月





《6. 流体工学からわかること》


別の要素として川の流れを流体工学の観点からおさえておきたい。

一般社団法人日本機械工学会・流体工学部門の解説によると、連続して曲がる川の流れというのは次のようになるそうである。

・細かく切った紙を水面に浮かべると、曲がり部では外側で遅く、内側で速く流れていることがわかります。また、外側に移動することもわかります。
・外側と内側でどちらが速く流れているかは関係なく、流れが曲がれば二次流れが発生して底に沈んでいるものは内側に集まってきます。そのため、実際の川でも砂や土は曲がりの内側に堆積する傾向があります。

一般社団法人日本機械工学会・流体工学部門
https://www.jsme-fed.org/experiment/2019_4/005.html
アーカイブ



上のサイトにある動画も見た上で、掲載の図を模写しつつカスタマイズしたのが下図である。



一般に死体は水に沈むが、腐敗が始まると浮いてくるという。人体の比重は体脂肪にもよるが1.02〜1.05付近のようだから、肺から空気が抜ければ沈む。とはいえ、金属や岩石のように重くはないから、水流があれば動く。

前項の論文に基づけば、干潮時に河川の流速が上がると上図でのa→bへの横断方向の巻き上げが増え、満潮時に河川の流速が止まると(あるいは逆流が始まると)内側のb付近では逆向きの流量が生じるようである。

従って、一旦水底に沈んだ遺体は上図のbの位置に打ち上げられる。そして、日数が経てば腐敗が進んでガスが発生して浮き上がり、満潮時にはb付近から浮遊遺体が上流方向に拡散漂流する。



冒頭の図を再掲する。



八卦洲の南側を流れる支流は、まさに上述の『連続して曲がる川』そのものである。

地形を俯瞰的に見れば、順方向の流れならA(煤炭港〜魚雷営付近)とC(燕子磯)に滞留しそうに見える。また、一時的に逆流すれば、B(下関)とD方向に拡散漂流しそうである。

3項に挙げた「水死体の淨揚に関する研究」からすれば、陥落2週間後つまり正月前後から浮遊遺体が多く見られるようになったのではないか。

そうすると、4項の長沢武夫氏の証言も理解できる。

さらに言えば、紅卍字会の埋葬記録のうち特務機関員の丸山進氏が“水増し”とした部分は、私の考察では水辺の遺体を河に押し流したものと判定したが、その中でも特に大きい数字を記録している2地点(下図の X、Y )は今回の地形的な考察(上図の A、B )と一致している。そこに堆積する理由があったということになる。

陥落から2ヶ月以上経った時期にも魚雷営埠頭(上図のA、下図のX付近)に5,000体以上の遺体が(おそらく水辺に)あったのなら、それが満潮時には逆流方向に拡散漂流していたと考えられる。

4項の長沢武夫氏が見た第一の候補は、満月である1938年1月16日前後の正午頃。

また、陥落2週間後から浮遊遺体が増えたはず、という目で紅卍字会の埋葬記録を見ると、下図のY「12月28日 6,468体 下関江辺推下江内(=下関の岸辺にあったのを河の中に押し流した)」というのが目に付く。その頃から浮遊漂着遺体が目立つようになったものと思われる。




《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b





《7. 「5万」の正体》


話を戻して、以下の複数の「5万」について考察する。

(A) 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑

武装解除された兵士3万人以上、民間人2万人以上が燕子磯の浜辺に集まり、彼らは川を渡り北へ逃げようとしたが、日本の船に阻まれてしまった。日本軍の大部隊に囲まれてしまったのだ。続いて機銃掃射が行われ、全員が殺された。犠牲者の総数は5万人を超えていた。

(燕子矶江滩遇难同胞纪念碑/1985年8月建立)


(B) 赤星義雄氏

(下関埠頭からの目撃談として)
少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。

(『揚子江が哭いている』/創価学会青年部反戦出版委員会 編/第三文明社/1979.9)


(C) 石川達三氏

(下関付近の敗走兵の描写として)

彼等はテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。

(『生きている兵隊』/1938年2月18日発売の『中央公論』に発表)



以上に加えて、さらに類似の以下も並べてみる。

(D) ヴォートリン日記

五時から六時の間にY・G・厳さんが訪ねてきた。彼は殺害されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三汊河で一万人が、燕子磯では二万人ないし三万人が、下関ではおよそ一万人が殺害されたと聞いたそうだ。

(1938年2月16日付記述/『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』/ ミニー ヴォートリン)


(E) 陳万禄氏の証言(南京法廷での証言)

燕子磯の砂洲でわが無幸の一般民と武装を解いた兵士五万人以上が虐殺されました。

(『証言・南京大虐殺―戦争とはなにか』 / 南京市文史資料研究会)




分類すると次のようになる。

「5万」下関燕子磯
犠牲者数(B) 赤星義雄氏(1979年)(A) 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑(1985年)
(D) ヴォートリン日記(1938年2月)
(E) 陳万禄氏の証言(1946年)
脱出者数(C) 石川達三氏(1938年2月)



(C) 石川達三氏の描写だけは明らかに渡河脱出しようとする人々の人数であるが、下関付近を日本陸海軍が挟撃したことは事実なので、ほぼ全数死亡と仮定すると、(B) 赤星義雄氏の話と等価である。

その (B) 赤星義雄氏は、揚子江を漂う「5万」の屍を陥落翌日の自身の目撃談として書いているが、2項で論じたように映像には写っていないし、他の類似証言者もいないし、遺体が浮遊し始める時期としてはあまりにウソくさいし、現実的には埠頭に立って水面の浮遊物を「5万」と数えることは不可能でもある。
さらに、赤星義雄氏は聞いた話として浮遊する5万の屍と関連付けて「八キロほど先の揚子江流域の下関という港から」渡河脱出しようとした軍民の話を書いているが、下関から8km下流の燕子磯に大量の遺体が漂着するには陥落から相応の時間がかかり、ヴォートリン日記に又聞きの話として登場するのは翌年2月である。
しかも、赤星義雄氏は陥落から3日後の12月16日には南京を去っていて、その後の経歴としては南京に戻っていない。つまり、赤星義雄氏については、彼自身の参戦は事実としても、「5万」の目撃談も「聞いた話」も、12月16日までの南京滞在期間中ではなく1979年9月の出版までのどこかの時点で聞いた話に過ぎないと思われる。

(B) 赤星義雄氏の「5万」が実は陥落翌日の話ではないなら、(A)〜(E)の中で最も古いのは、(C) 石川達三氏(1938年2月)と、(D) ヴォートリン日記(1938年2月)である。

石川達三氏は紙面発表は2月だが、南京には年末から1月中旬くらいまで滞在していたようである。前項に挙げた紅卍字会の埋葬記録「12月28日 6,468体 下関江辺推下江内(=下関の岸辺にあったのを河の中に押し流した)」と併せれば、石川達三氏は下関付近の揚子江岸における大量の漂着遺体を見聞きできたはず。

ヴォートリン日記の2月というのは、陥落日頃に下関付近から大量の遺体が流され、時間差で下流の燕子磯に多数の遺体が漂着し、それを見た人々が憶測も交えて多様な噂話をし始めたであろう時期としてはちょうど良い。

なお、ヴォートリン日記のみは数字的には「2 or 3」であって「2 + 3 = 5」ではないから異なるが、これもまた現地で当時流れていた多種多様な噂のバリエーションのひとつであろうから、本質的に大した差はない。

事実としては日本軍は燕子磯では特に大きな軍事行動をしていないから、燕子磯で目撃されたであろう大量の遺体は下関周辺から漂着したもの以外には考えられない。(別記事「燕子磯の5万」参照)

また、これも別記事「燕子磯の5万」に書いたが、(E) 陳万禄氏の証言に関連した話として出てくるのは、周辺地域での断片情報の寄せ集めである。燕子磯に大量の遺体があったという以外にはなんら事実がない。

そして、(A) 燕子矶江滩遇难同胞纪念碑(1985年)の碑文については、(E) 陳万禄氏の証言(1946年)に関連した話に準じている。



そうすると、これら(A)〜(E)は結局のところ、全て同じ事案を語った似て非なるバージョンと判断できる。



同じ事案を語った似て非なるバージョンが流布されるのは、善意に解釈すれば戦時下で確かな情報がないまま噂として情報が錯綜するからであろう。
悪く解釈すれば、戦後に政権を取った中国共産党が真相解明する気がないからであり、同じ事案を語った似て非なるバージョンを別事案として固定化することで犠牲者数を水増しできるからであろう。


いずれにせよ、ここから当時の噂話の全てのバリエーションを再現することは不可能だが、(1) 陥落日に下関付近から渡河脱出しようとする多数の敗走兵を日本陸海軍が挟撃した事実、(2) 陥落日から時間差で下関付近から燕子磯に多数の遺体が漂着したであろう事実、に付随して現地ではどうやら「5万」という数字が流布されていたであろうことはわかる。

ただ、「5万」という数字自体は戦乱の渦中で正確に数えられるわけはなく、また日本軍から出た数字でもなさそうだから、これは目撃談からのイメージに由来していると思われる。




《8. 「10万」の正体》


話が少し飛ぶが、南京城内の「安全区」で避難民を保護していた安全区国際委員会のジョン・ラーべ(ドイツ人)は、陥落翌年の1938年6月8日付けでヒトラー総統宛に次のように書いている。

中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。

(「ヒトラーへの上申書」/『南京の真実』/ジョン・ラーべ)


南京戦を終えた日本軍の認識も「敵の損害(死傷者)は約8万、うち遺棄屍体は約5万3,874」(戦史叢書)なので、「民間人」はさておき、数字的には整合している。

ここで論じたいのは、「中国側の申し立てによりますと、十万人の…」の部分である。

1938年6月時点では南京には国民党軍はもはや存在しないから、「中国側の」というのは南京市民を指しているものと思われる。

一方で、紅卍字会の埋葬記録を見ると、1938年6月時点で4.3万である。

紅卍字会の埋葬記録がその当時に実在していたことは、ヴォートリン日記(1938年4月15日付)や、昭和13年4月16日付大阪朝日新聞などで確認できている。

前項のように、「揚子江を渡河脱出しようとした敗走兵が5万」、それらがほぼ全て死亡したと解釈して「揚子江上に浮かぶ遺体数が5万」、それらが流されて「燕子磯に漂着した遺体数が5万」、さらにその変形で「燕子磯で殺害された軍民が5万」というような複数のバリエーションの未確認情報が当時の南京市民の間に出回っていたとして、その「5万」に紅卍字会の埋葬記録4.3万を加えると、合計約10万である。

これが、ラーべが「ヒトラーへの上申書」に記した「十万」という南京市民の認識ではないか。

少なくとも、数字的には整合している。


(蛇足的推測)
ヴォートリンが書いた「2 or 3」の話が、後日「2 + 3 = 5」に化けた可能性も考えられる。別記事『《南京事件》燕子磯の5万』の5項に書いたが、燕子磯に漂着し得る上流からの遺体数は2万を超えるから、話を少し盛ったとしても目撃された燕子磯漂着遺体数が「2 or 3(万)」なら割と妥当である。したがって、ラーべが書いた「十万」の内訳が、「4.3万(紅卍字会の埋葬記録)+5万(揚子江上で生じた遺体数)」ならば、「2 or 3」の話が「2 + 3 = 5」に化けたのは、ヴォートリン日記(1938年2月)と「ヒトラーへの上申書」(ラーべ/1938年6月)の間の時期かもしれない。





《改版履歴》


2021.02.12 新規
2021.02.22 5項に揚子江水路誌を追記
2021.03.03 燕子磯関係を別記事「燕子磯の5万」に分離独立、併せて関連の記述を修正




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6

《南京事件》燕子磯の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d17befeb295e05b4539da909d8e1c503




以上。






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