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《南京事件》南京遡江艦隊の航路

2021年01月26日 | 南京大虐殺
2021.02.12 烏龍山砲台空爆追記


この記事では、南京陥落日(1937年12月13日)に揚子江を遡江し南京に突入した日本海軍艦艇が、南京手前の八卦洲(草鞋洲とも言う)の北側を回る航路をとったはずである、ということを論証する。
併せて、揚子江を渡河脱出する敗走兵およびその掃討作戦についても考察する。

1. 砲艦 保津/勢多 の位置関係概説
2. 八卦洲の北を回ったと考える理由その1 保津の航泊日誌から
3. 八卦洲の北を回ったと考える理由その2 二見の航泊日誌から
4. 八卦洲の北を回ったと考える理由その3 南京遡江作戦経過概要から
5. 八卦洲の北を回ったと考える理由その4 支流側の状況
6. 駆逐艦・山風、涼風
7. 第四水雷戦隊
8. 敗走兵の渡河脱出ルートおよび掃討水域
9. 烏龍山砲台空爆




《1. 砲艦 保津/勢多 の位置関係概説》


砲艦「保津」「勢多」の南京陥落日(12月13日)の位置と行動概略を示す。
南京に遡江突入する際に、先頭が保津、続いて勢多の順に前進した。論拠は両艦の航泊日誌などから。

砲艦 保津 昭和12年12月1日~12月31日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082945800

砲艦 勢多 昭和12年12月1日~12月31日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082965200



(クリックで拡大)



その当時の状況については、次の通り。

七、海軍第十一戦隊の南京突入

作戦経過の概要
揚子江の水路を啓開し、陸軍と協力して敵首都を攻略すべき任務を有する第十一戦隊(司令官、近藤英次郎少将、旗艦安宅)は、12月11日夕刻、鎮江に突入し、南京に向かう遡航作戦を準備した。当時、烏龍山付近下流までの北岸は、陸軍の天谷支隊(11D)の一部が進出して残敵を掃蕩中であったが、南岸一帯は敵陣地であり、遡航部隊の進撃を極力阻止せんとする模様であった。第十一戦隊は12日〇八三〇、前衛部隊 (二見ほか五隻)、主力部隊(安宅ほか五隻)の順で進撃を開始し、左岸一帯の敵を制圧しつつ前進し、一二三〇ごろ、烏龍山閉塞線付近に到着し啓開作業を開始した。北岸の劉子口付近から野砲、機銃、小銃の猛射をうけて一時掃海作業を中断したが、一五三〇ごろ、主力部隊が到着し、海軍航空機も烏龍山砲台および北岸陣地を砲爆撃した。 同夜二三〇〇ごろ、諸岡少佐指揮の工作隊が、閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し、箱舟やジャンクを取り除き、約三時間後に船三百メートルの可航水路を啓開した。

南京突入(12月13日)
烏龍山砲台の守備兵は13日未明、第十三師団山田支隊の進出及び海軍部隊の砲爆撃により、敗走した模様であり、南京においては陸軍部隊は城内に突入し始めた。
近藤司令官は、急速に閉塞線を突破して南京に進出するに決し、一二○○ごろ各隊に進撃を下令した。これより先、保津・勢多は霧の晴れるのを待って一〇三〇抜錨、閉塞線を突破して劉子口陣地からの猛射を反撃しつつ、烏龍山砲台及び水路を偵察し、命によりいったん引き返した。
一三三〇、前衛隊(保津、勢多ほか四隻)、 一五一五主力隊(江風、涼風ほか三隻)、の順で泊地を発進、単縦陣で閉塞線を突破し、南京に向け進撃した。さらに主力隊の後に第一水雷隊がこれを追った。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇、伐で充満していた。各艦はこれに猛攻撃を加え、さらに天河口、硫安工場付近の野砲陣地その他の抵抗を排除しつつ前進し、先頭の保津・勢多は一五四〇、主力隊は一七〇〇、南京に突入した。第一掃海隊は南京到着後、ただちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。陸軍部隊は同日夕刻、南京城を完全に占領した。

(畝本正己/証言による『南京戦史』(10))



続いて、畝本氏の説明と重複するが、砲艦「保津/勢多」の航泊日誌から状況を見ていく。

陥落前々日(12月11日)は、両艦ともに鎮江(南京の東60km、揚子江の下流方向)で行動。

前日(12月12日)は、航泊日誌では「龍澤水道(保津)」「利子口(勢多)」となっている。場所は、後述する 4項の南京遡江作戦経過概要によれば「龍澤水道」も「利子口」(正確には「划子口」)も棲霞山の対岸である。上の畝本氏の文面では「劉子口」となっているのが、利子口を指していると思われる。(以下、この記事の文面では「利子口」と表記する)

12日は、ここで利子口の敵陣地などと交戦しつつ、閉塞線の手前で掃海作業を行なっていたようである。

ちなみに、Googleマップで見ると棲霞山の対岸にそれらしき地名がある。「划子口村」または「劃子口村」とある。これだと当時の日本人の書き写し地名がまちまちになるのも仕方ないかもしれない。場所はここ


陥落日(12月13日)は、未明に閉塞線の啓開、13:33に利子口付近敵陣地に射撃開始(保津)なので、その時点はまだ棲霞山付近にいたと思われる。午前中は、試運転、烏龍山砲台への強行偵察、利子口付近の敵野砲陣地への砲撃などで時間を費やしたようである。

13時半過ぎに両艦ともに南京に進撃開始。

棲霞山付近から八卦洲の北を回って南京付近に行くと、水路で約40km。
15時半過ぎに南京に到着しているから、所要時間およそ2時間。
航泊日誌からは、その間に概ね「原速(12kt = 22km/h)」で航行しているから、整合している。

保津は、16時頃に南京の桟橋に横付けした後に、すぐパネー号の救助活動のため上流に向かった。

パナイ号事件は、日中戦争初期の1937年12月12日、揚子江上において、日本海軍機がアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を攻撃して沈没させ、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件。パネー号事件とも表記される。同日にレディバード号事件も発生している。


なお、砲艦「保津」に乗艦していた橋本以行氏によれば、南京に遡江突入したのは次の艦艇である。

午後1時に旗艦「安宅」以下が一列単縦陣となって、南京に向かって進撃を開始した。 航行序列は保津、勢多、「掃六」「掃三」、山風、涼風が前衛隊となり、二見、熱海、「掃四」、「掃一」、 江風、海風、安宅が主隊となって続き、少し遅れて別個に鵲、鴻、さらにやや離れて「掃二」、「掃五」がこれを追った。 各艦艇は一斉に抜錨し、保津は最先頭を切って突進した。
(橋本以行/証言による『南京戦史』(10))


艦種は次の通り。

砲艦 :保津、勢多、二見、熱海、安宅(旗艦)
駆逐艦:山風、涼風、江風、海風
水雷艇:鵲(カササギ)、鴻(オオトリ)
掃海艇:掃1、掃2、掃3、掃4、掃5、掃6


ちなみに、橋本以行氏は後の太平洋戦争末期に原爆をテニアン島まで輸送した帰路のアメリカ海軍重巡洋艦『インディアナポリス』を撃沈した潜水艦『伊58』の艦長である。




《2. 八卦洲の北を回ったと考える理由その1 保津の航泊日誌から》


保津の航泊日誌と、「証言による『南京戦史』(10)」にある橋本以行氏(保津に乗艦)の証言を並べてみる。南京到着の30分前くらいの時点である。距離を時間比例で見れば、おそらく南京まで約10kmの地点。

・1510:禁家山を右に見て通過(保津)
・1512:敵弾飛来、1名負傷す(保津)
・「このようにして午後3時すぎ、南京城獅子山砲台を遥かに望む崔家山近くまで来た。その時、いずこともなく飛んできた小銃弾で、 大西一等水兵が負傷した。左側の背丈より高く芦が生い茂っている草鞋洲に、多数の中国兵が見える。」(橋本以行氏)


保津の航泊日誌の「禁家山」の「禁」の字に印がしてあって、誤字では?と言ってるようにも見える。したがって、情景から見ると航泊日誌の「禁家山」と、橋本以行氏のいう「崔家山」は同じ山を指しているのではないか。



ただ、橋本以行氏が書いた「崔家山」なる山については、私はまだ地図上では確認できていない。

とはいえ、航泊日誌に「禁家山を右に見て通過」と書いてあるようだから、八卦洲の北回りでないと話が合わない。南の支流を通ったら右側は八卦洲になるが、八卦洲には山はない。

また、橋本以行氏は発砲を受けたのは左側の草鞋洲からと書いているから、これも八卦洲の北回りであることを示している。



(余談)

航泊日誌に登場するこれらの漢字は一体何か? 海軍の独自の表記? 調べてもわからなかった。
もっとも、文脈から意味はわかる。「舟右」=右舷。「舟両」=これ単独または「舟両 械」で機関(=船舶のエンジン)。






《3. 八卦洲の北を回ったと考える理由その2 二見の航泊日誌から》


南京に遡江突入した日本海軍の艦艇が、八卦洲の北側を回ったと考える理由は他にもある。「証言による『南京戦史』(10)」に掲載された図と、畝本正己氏による説明を引用する。



上図の右側は畝本氏がまとめた文章であるが、陥落翌日の14日として《二見、熱海は草鞋峡水路を啓開》とある。二見、熱海も砲艦である。

では、その草鞋峡水路とはどこかというと、上図では見づらいので、やはり畝本氏がまとめた偕行の南京戦史資料集Iから図を引用すると、八卦洲(草鞋洲)の南側の支流(当時)を示している。



ちなみに、「夾江」というのは、他の地図なども見ると中州を挟んで本流と支流がある場合の支流側を指すようである。「夾」には「狭い」という意味があるので、「夾江」なら「狭い川」という意味になる。

また、念のために書くと、南京戦当時は八卦洲(草鞋洲)の北側が本流で南側が支流だが、戦後に入れ替え工事をしたようであり、現在は北側が支流で本流は南側になっている。


話を畝本氏がいう《二見、熱海は草鞋峡水路を啓開》に戻して、砲艦「二見」の当時の航泊日誌を以下に示す。
なお、砲艦「熱海」についてはこの時期の航泊日誌は見つからなかった。

砲艦 二見 昭和12年12月1日~13年2月28日(1)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11083006600



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上記の航泊日誌から、特に目についた点を以下に記す。

(12月13日/陥落日)
・前衛隊の約2時間後、15時半頃に烏龍山閉塞線を超えて南京に向けて前進
・前衛隊の保津/勢多に比べて戦闘の様子が少ない
・1700 南京入港後に草鞋洲の敗残兵討伐を命じられてまた戻っている
・南京下流十浬(≒18km)まで行って帰ってきたというから、八卦洲の北側付近と思われる

(12月14日)
・0800「草鞋峡の敗残兵掃蕩および水路探求のため」出港
・0805「草鞋洲の残敵掃蕩のため」陸戦隊用意
・0850「陸戦隊(内火艇にて)出航」
・0925 陸戦隊、帰艦(実質30分程度)
・0935「草鞋洲ビーコン付近にて敵敗残兵多数を認め砲銃撃○滅す」(○はカタカナらしき判読不能文字)
・1000「漂流中の敵兵1名を本艦に救助す」
・1550「草鞋峡の掃海のため下江す」(機雷掃海と思われる)
・1800「掃海作業終了」

(12月15日)
・1355 草鞋峡掃海のため出港
・1437 掃海作業開始
・1550 掃海作業終了
・1630 陸戦隊の一部を派遣し、陸岸の浮舟を臨検
・1641「昨日救助せし捕虜を草鞋洲に解放す」


以上からわかることは、12/14-15の両日に草鞋峡の掃海作業を行なっているし、14日に「草鞋峡の…水路探求のため」とも書いているから、やはり前日の13日には日本海軍艦艇はここを通過していない、ということである。

あと、漂流中の敵兵を救助して、(翌日)八卦洲に解放している点も興味深い。




《4. 八卦洲の北を回ったと考える理由その3 南京遡江作戦経過概要から》


「南京遡江作戦経過概要」という史料に各艦艇の航泊日誌より詳しい情報があったので、以下に抜粋引用する。

陥落前日(12月12日)には、遡江艦隊は龍澤水道(棲霞山付近)にいた。龍澤水道それ自体は棲霞山の対岸側に揚子江に沿って存在した水路のようである。

そのすぐ左手に「利子口」があり、しかも「利」ではなく「划」であると修正が入っている。

また、閉塞線は烏龍山と利子口の中間くらいにあり、その手前で掃海作業をしつつ、利子口の敵陣地などと戦闘をしていた様子がわかる。


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次に、陥落日(12月13日)の記述を抜粋引用する。


烏龍山水道より南京下関迄(12月13日第7日)

形勢
閉塞線は昨夜一部を破壊幅300米○○の可航水路を啓開さる烏龍山砲台は13日未明陸軍の進出および海軍部隊の砲爆撃により守備兵敗走せるものの如し

南京はいまだ攻略激戦中
1000頃前記形勢の通り烏龍山砲台沈黙の情報により司令官は○速閉塞線を突破して南京に進出を決意され1200頃進撃を令せらる

隊形次の通り(省略)

1323前衛部隊出港北岸利子江陣地を砲撃○○しつつ閉塞線を突破沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏等による敗走中の敵を猛攻撃殲滅せるもの約1万に達し尚天河口硫安工場付近の陣地を撃破し1530頃下関付近に達し折から城外進出の陸軍部隊に協力江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子洲付近まで進出し掃海索を揚収す
1700頃主隊の進出し来たるを認め掃六之れが○導に任じ更に命により掃六は南京側掃三は浦口側鉄道桟橋の占領確保および掃一、掃四は夜間中山碼頭前面を三號掃海を実施し併せて終夜江上江岸の敗残兵の掃蕩を行いたり

1.実施経過/田村(劉)中佐(一掃) 南京遡江作戦経過概要
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120621400



上の続きにあった略図のひとつがこれである。


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上記文面に「硫安工場付近の陣地を撃破」とあるが、その硫安工場が上図の八卦洲(草鞋洲)の西側対岸にあるから、やはり陥落日の遡江艦隊は八卦洲北側の本流を通ったものと判断できる。

ちなみに、上図左側にある前衛隊最後尾の「海風」と主隊最後尾の「涼風」は逆ではないか。というのも、6項で後述するが、「涼風」が漂流中の日本陸軍兵を救助したことについて「山風」の航泊日誌に「陸軍兵准尉1名兵3名計4名 涼風にて救助す」と書いているからである。視認できる距離にいたとしか思えない。上図を参照したであろう冒頭の畝本氏の説明も同様である。




《5. 八卦洲の北を回ったと考える理由その4 支流側の状況》


さらに言えば、遡江艦隊の中で最も大型なのは白露型駆逐艦(全長111m、2,000tクラス)の山風、涼風、江風、海風であり、浅く狭い(幅300m程度、冬の乾季ならもっと狭いはず)支流側を通れるとは思えない。少なくとも、Uターンはできない。


江風 (白露型駆逐艦) https://ja.wikipedia.org/?curid=1087981



なお、これが1944年頃にヘッダ・モリソン氏が撮影した八卦洲の南端部の写真である。手前が支流、奥が本流、方角は正面が真北になる。渡し船なのか、小型の帆船が3艘写っている。また、八卦洲には山などなさそうなことがわかる。

また、一連の別の写真に田植え風景が写っているから、これは春の雪解け水が多い時期と思われる。南京戦があった12月は乾季だから、これよりずっと水量が少なく水位が低いはずである。


(撮影:ヘッダ・モリソン)



そして、日本側の次の史料では夏の増水期と冬の減水期とでは水深に10m以上の差があると書いている。


支那事変報国美談. 第6輯 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255315/6


従って、遡江艦隊の主力である白露型駆逐艦などは特に八卦洲(草鞋洲)南側の支流である草鞋峡水路を選んで通るはずがないと考える。




《6. 駆逐艦・山風、涼風》


前衛隊最後尾にいた駆逐艦「山風」および「涼風」の航泊日誌からも陥落日の戦闘状況がわかるので、かいつまんで抜粋する。


(駆逐艦 山風/12月13日/陥落日)

1040:左岸敵野砲陣地発砲
1045:打方始む 右27°敵野砲陣地を砲撃
1052:敵弾右 9.5 500mに落下
1053:砲艦隊閉塞線に就く
1112:味方攻撃機○艦首の山中腹を爆撃
1116:打方始む 陸岸の野砲陣地および敗兵
1121:敵内火艇火災を起し沈没す(中華民国海○軍)
1126:敵野砲陣地を撃滅 敵兵逃げ出す
1144:打方始む(敗残兵浮流物に乗り下江するを機銃にて射撃す)
1355:打方始む 左岸に発見せし野砲2門
1424:陸軍兵准尉1名兵3名計4名 涼風にて救助す
1427:打方始む 左は筏上の敗兵、右は陸上の敗兵を機銃に打○
1446:左側水道あり敵の敗残兵数百筏にて逃亡するを見る我之を撃攘せり
1514:打方始む(左岸のトーチカ撃攘)
1528:打方始む 右岸の密集部隊 右岸は敗残兵多数見受けらる 左岸はトーチカ多し
1623:左奥地に敵野砲陣地を発見す○○○
1628:打方始む 右岸市街敵密集部隊
1659:打方始む 敵野砲陣地を撃攘
1723:入港用意(南京入港)
1813:陸戦隊出艦(泊地付近掃蕩のため)
1906:下関市街の火災増々大になる
1910:陸岸の敗残兵○○を射撃○○之に応戦撃攘す
2230:上流より流れくる敗残兵を機銃に射撃開始
表紙「駆逐艦 山風 昭和12年12月1日~12月31日」
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082522200



(駆逐艦 涼風/12月13日/陥落日)

1042:右警戒 敵の砲および機銃の射撃を受く
1043:打方始む(目標利子口野砲陣地)
1150:敵兵の下流するを機銃に射つ
1319:出港用意(南京に向け)
1345:打方始む(目標利子口)
1428:陸軍兵乗れるジャンクに舫索を渡す(ロープ?)
1432:○○○付近江上に於いて○○○○小砲准尉一名兵三名救助す
1440:支流より敵敗残兵多数流れ来るを認む
1513:右岸に敵兵三名を認め機銃にて射撃す
1519:打方始め(目標右岸トーチカ)
1528:打方始む(目標右岸の大なる家屋)
1530:左砲戦 右岸山頂のザンゴウの敵兵に対機銃
1536:左53°敵の密集部隊
1548:右砲戦打方始む(自動搭載セル大型ジャンク船)(エンジン搭載?)
1553:右砲戦始む(敵兵○○大型ジャンク船)
1715:打方始む(山腹の砲台)(幕府山砲台ではないか? 65iの占領は翌朝)
1724:入港用意(南京入港)
表紙「駆逐艦 涼風 昭和12年12月1日~12月31日」
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11082530800


特筆すべきは、前衛隊の砲艦「保津/勢多」は13時半に進撃開始し、ほぼ最短所要時間の15時半に下関埠頭に強行接岸しているのに対して、同じ前衛隊の駆逐艦「山風/涼風」の下関接岸は17時半である。その間、敗残兵の乗ったジャンク船への攻撃および敵陣地への砲撃をしている。

また、「涼風」の「1440:支流より敵敗残兵多数流れ来るを認む」は、烏龍山付近で草鞋峡側から揚子江へ合流する流れを見たものと思われるが、これも興味深い。



なお、8項で紹介するが、橋本以行氏が「陸軍の兵隊が一人や二人、避難民と一緒に渡江するとは考えられない」としていた小舟に乗った日本陸軍兵らしき人物が、上の航泊日誌で救助された「陸軍兵准尉1名+兵3名」ではなかったか。

先頭を行く砲艦「保津」に乗艦する橋本以行氏が後続の諸艦に信号で「射撃しないように」と注意し、後ろから2番目を行く駆逐艦「山風」が救助を試みるも失敗し、最後尾の駆逐艦「涼風」がやっとその小舟にロープを渡すことに成功し、救助した。という展開に見える。

というのも、直接的には救助活動に関与していないはずの駆逐艦「山風」の航泊日誌にわざわざ「陸軍兵准尉1名兵3名計4名 涼風にて救助す」と書いているからである。この事案に思い入れがあったとしか思えない。




《7. 第四水雷戦隊》


南京遡江作戦に一部の艦が参加していた第四水雷戦隊の日誌があったので、南京戦に関する部分のみ抜粋する。


自 昭和12年12月1日
至 昭和12年12月31日
第四水雷戦隊司令部事変日誌(作戦および一般の部)
所属 第三艦隊
役務 中支部隊第二警戒部隊


鴻機密第13番電 13日2010
天河口付近に錨泊 浮流物に乗り陸續流下し来り敵敗残正規兵を悉く銃撃射殺しつつあり今までに刺止たるもの約200 なお続々流下し来る

鴻機密第14番電 13日2150
その後の情況左の如し
1、浮流物と見せ掛け之に搭乗流下する敵正規兵は計画的に兵力を移動なりと認む
2、探照灯にて精査するに正規兵なること確実にして幹部は明らかに判別し得
  中には小銃を以って筏上より反撃し来るものあり
  今までに約500名射殺
3、なお流下しつつあり

1tg機密第135番電 13日2300
第一水雷隊(隼、鵯欠)戦闘概報
当隊本日南京進撃の途次午後3時30分南岸より 天河口 宝塔水道 七里洲沖に至る間揚子江岸○江上に於て有力なる残敵ならびに敗残兵に対し極めて有効なる砲撃を加え敵に多大の損害を與へたり
この間敵より屢々(=しばしば)銃砲撃を受けたるも我に被害なし

隼機密第58番電 17日1730
午後5時20分草鞋洲北東岸に於て敵敗残兵約1小隊を発見銃撃壊滅せしめたり

第4水雷戦隊司令部事変日誌(作戦及一般の部) 所属 第3艦隊 役務 中支部隊第2警戒部隊 自昭和12年12月1日至昭和12年12月31日/中表紙
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120574000



なお、上の文面は通信文の日時順に並べ直してある。下の画像は、史料の記述順の通り。
水雷艇「鴻」の2つの順番が入れ替わってる。


(クリックで拡大)



特筆すべき点は次の通り。

・1tg機密第135番電に「午後3時30分南岸より 天河口 宝塔水道 七里洲沖に至る」とあるから、南京遡江艦隊の主隊は八卦洲(草鞋洲)の北回り航路をとったことがわかる。4項の南京遡江作戦経過概要の地図参照。

・上記の江岸および江上において、多数の残敵あるいは敗残兵がいたことがわかる。

・3項に示したように砲艦「二見」は南京入港後に再び八卦洲北側付近まで戻って敗走兵の掃討を行っていたが、水雷艇「鴻」は天河口(八卦洲の東側)まで戻って錨泊し、夜通し敗走兵の掃討を行っていたことがわかる。天河口は揚子江本流と八卦洲南側の草鞋峡支流の合流地点だから、敗走兵がどちらを流下してきても一網打尽にできるという作戦に見える。

・鴻機密第14番電を見ると、「流下する敵正規兵は計画的に兵力を移動なり」「探照灯にて精査するに正規兵なること確実」「幹部は明らかに判別し得(る)」とあり、相手の素性を見定めた上での戦闘行動であったことがわかる。




《8. 敗走兵の渡河脱出ルートおよび掃討水域》


以上の情報も踏まえて、陥落日(12月13日)における敗走兵の渡河脱出ルートを考えると、南京城からだけでなく、周辺全域から揚子江北岸への渡河脱出が試みられていた様子が伝わってくる。


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(A:烏龍山砲台付近)

4項の「南京遡江作戦経過概要」の文面を見ると「殲滅せるもの約1万」が主に指している場所は、八卦洲(草鞋洲)より東側に見える。なぜなら、続く文面が八卦洲の南側支流の出口、揚子江との合流口である天河口だから。

1323前衛部隊出港北岸利子江陣地を砲撃○○しつつ閉塞線を突破沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏等による敗走中の敵を猛攻撃殲滅せるもの約1万に達し尚天河口硫安工場付近の陣地を撃破し…
(南京遡江作戦経過概要)



すなわち、烏龍山砲台前の閉塞線より先で、天河口までであれば、それは主に烏龍山砲台からの脱出兵ではないか。
山田支隊が烏龍山砲台を占領したのが陥落日の16時過ぎというから、前衛隊の進撃開始13時半から主隊の進撃開始15時半頃がちょうど烏龍山砲台からの守備兵脱出時間帯にぶつかったように見える。


掃海艇4の航泊日誌を見ても、天河口で敗残兵が多かったように書いている。

1517 警戒天河口○○敵敗残兵充満しその数○○○○○○○○…機銃掃射多数を射殺す 主隊前路掃海終了
表紙「掃海艇4 昭和12年12月1日~12月31日」
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11083023300


上記の「南京遡江作戦経過概要」の文面だと、天河口にも陣地があったようだから、それも合わせてのものかもしれない。


また、6項にあるように駆逐艦「涼風」の「1440:支流より敵敗残兵多数流れ来るを認む」は、烏龍山付近で草鞋峡側から揚子江へ合流する流れを見たものと思われるが、これも含まれる。

さらに、7項にあるように水雷艇「鴻」は、20時頃に「天河口付近に錨泊」し、22時頃までに「今までに約500名射殺」と報告しているから、敗走兵の渡河脱出が夜になっても続いていたことがわかる。



(B:八卦洲の北側)

砲艦「保津/勢多」の航泊日誌などを見ても、烏龍山付近から南京までの途中の14時台にも筏などの敗残兵に発砲しているようだから、これは八卦洲の北側の水域であると思われる。ただ、数に関しては不明。文面から察すると、他よりは少なかったかもしれない。

橋本以行氏のこの記述も、時刻や獅子山砲台が見えるという状況からすると八卦洲の西側水域と思われる。

このようにして午後3時すぎ、南京城獅子山砲台を遥かに望む崔家山近くまで来た。その時、いずこともなく飛んできた小銃弾で、 大西一等水兵が負傷した。左側の背丈より高く芦が生い茂っている草鞋洲に、多数の中国兵が見える。
(橋本以行/証言による『南京戦史』(10))




(C:下関〜浦口)

ここは海軍の記録に頼らずとも、南京から渡河脱出する敗走兵が多かったことはわかっている。各種の逸話も多い。

33連隊が煤炭港から射撃したのもこの水域である。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す

南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111198100


38連隊も陥落日に下関に突入し、揚子江を渡河脱出する敗走兵を攻撃している。

南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門その他に於いて頑強に抵抗せしも各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方向に退却を開始せしも前衛は先独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる追撃を行い午前(午後が正解と思われる)一時四十分頃渡江中の敵五六千徹底的大損害を与えて之を江岸および江中に殲滅せしめ次いで主力を以って午後三時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも五百名を掃蕩し竭せり

江蘇省南京市 十字街及興衛和平門及下關附近戦闘詳報 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111200400



駆逐艦「山風/涼風」の15時台からの戦闘も、この水域での江上敗残兵掃討および付近の地上陣地への攻撃と思われる。



(D:新河鎮)

これは海軍とは関係ないが、南京城から脱出した敗走兵約1.5万の集団が南西方向に逃れようとしたところ、北上してきた第6師団45連隊と衝突し、敗走兵は向きを変えて揚子江を渡河脱出しようとしたものである。渡河脱出の時間帯は陥落日の正午前後。詳細は次の記事。



なお、海軍の掃討水域として見ても、新河鎮の近くの梅子洲までである。

1530頃下関付近に達し折から城外進出の陸軍部隊に協力江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子洲付近まで進出し掃海索を揚収す
(南京遡江作戦経過概要)




(橋本以行氏の証言から江上敗走兵の状況を探る)

南京遡江各艦艇の航泊日誌なども見た上で、改めて「証言による『南京戦史』(10)」の橋本以行氏の証言を注意深く読むと、江上敗走兵の状況も見えてくる。

下図の(A)〜(C)は上述のそれに対応している。

遡江艦隊の目線では、(A:烏龍山砲台付近)での江上敗走兵が相当多かったのではないか。しかも、午前中の烏龍山砲台への強行偵察時にはそれほど掃討できずに多数を見逃しているように見える。そもそも、午前中の強行偵察は保津と勢多の2艦のみである。江上敗走兵への掃討が多いのは、13時半に前衛隊が烏龍山閉塞線を超えて進撃開始してからと思われる。


(クリックで拡大)


なお、橋本以行氏の次の言い回しからすると、避難民は撃たないように注意しつつも、服装で敗残兵なのか避難民なのかを識別することは困難だったようである。これは城内掃討でも同様であった。

最初に出会った小舟の群れは、難民のようであったので射ち払わずに進んだが…(中略)…双眼鏡で艦側近くを流れる戸板の上に横たわっている中風兵をみると、顔をシャベルでかくして背後にチェコ機銃を横たえ、死んだようにしている。このように小銃や機銃を大事に携帯していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない。
(橋本以行/証言による『南京戦史』(10))





《9. 烏龍山砲台空爆》


海軍航空隊による烏龍山砲台空爆の戦闘詳報があったので引用する。

昭和12年12月13日
烏龍山砲台攻撃戦闘詳報
第1連合航空隊上海派遣隊

爆撃時刻:自1115、至1140
爆撃目標:烏龍山砲台
効果:殆ど全弾砲台施設に命中之を破壊 倉庫らしき建物数棟火災を生じ焼失 効果大

烏龍山砲台攻撃戦闘詳報 第1連合航空隊上海派遣隊 昭和12年12月13日
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C14120282500



(クリックで拡大)



空爆の時間帯は陥落日(12月13日)の11:15〜11:40というから、砲艦「保津/勢多」が烏龍山砲台を強行偵察していた時間帯と重なる。砲艦「保津/勢多」の航泊日誌には特に書いていなかったが、作戦としては空爆の成果を間近で確認することだったのかもしれない。

6項の駆逐艦「山風」の航泊日誌には、《1112:味方攻撃機○艦首の山中腹を爆撃》と記述がある。

どうやら、この空爆を境に中国側は無力化された烏龍山砲台を放棄あるいは敗走が始まり、日本の遡江艦隊は南京突入を決断した、という展開のようである。

ただし、4項の南京遡江作戦経過概要には、《1000頃前記形勢の通り烏龍山砲台沈黙の情報により司令官は○速閉塞線を突破して南京に進出を決意され1200頃進撃を令せらる》とあり、細かい時系列はよくわからない。ちなみに、『ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』(福島民友新聞社)の文面を見ると歩兵65連隊第1大隊が烏龍山砲台を占領したのは午後になってからである。





《改版履歴》


2021.01.26 新規
2021.01.27 砲艦二見追記
2021.01.27 駆逐艦 涼風/山風追記
2021.02.04 タイトル変更、南京遡江作戦経過概要追記、その他
2021.02.07 第四水雷戦隊追記
2021.02.12 烏龍山砲台空爆追記




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》揚子江上の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/90096bf70becf60c0b713aa40a2ee52c

《南京事件》燕子磯の5万
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/d17befeb295e05b4539da909d8e1c503




以上。






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