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《南京事件》“太平門虐殺”の真相

2015年07月21日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.03.07



太平門で市民らの虐殺があったとされているようだが、調べると極めて怪しい。


《“太平門虐殺”の概要》

・12月14日、太平門で老若男女400人を鉄条網で囲み、地雷で爆破、射撃、ガソリンかけて焼殺。
・第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊の亀田徳一または徳田一太郎が虐殺を証言。
・中国にある「侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑」では13日とされている。


日本軍南京大虐殺太平門犠牲同胞記念碑 南京に完成(中国通信社)
http://www.china-news.co.jp/node/6240
日本軍第16師団第33連隊第6中隊は、武器を捨てた中国人兵士と罪のない平民1300人余りを南京の太平門付近に集め、有刺鉄線で周りを囲み、事前に埋設した地雷を爆発させ、機銃掃射を浴びせ、ガソリンをかけて死体を燃やした。日本軍は翌日、死体を確認、生きていた者を刺殺した。太平門の集団虐殺で生き残った中国人は1人もいない。これは日本の友好人士で、日本銘心会友好訪中団団長の松岡環氏が元日本兵を訪ね、太平門の集団虐殺に参加した元日本兵6人から聞きだしたもの。





《要点》

・亀田徳一または徳田一太郎は12月14日とするが、第三十三連隊第二大隊は14日には太平門にいない。
・「地雷」と「鉄条網」を使っているのは中国側。
・12日の夜、太平門の防御物を爆破、人は先を争って飛び出し、下敷きになった者は自爆したと據83軍參謀處處長・劉紹武。
・13日朝9時過ぎ、33連隊が太平門を占領し、第6中隊が残留して太平門を守備。
・13日昼間、「城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山…死体が何十何百と増えていく」(古山一等兵)
・13日19時頃、堀曹長が500名の投降兵を太平門に連行。
・13日20時過ぎ、投降兵が3発の手榴弾を投げ、太平門を守備する古山一等兵らが負傷。
・門の外に千に足らない遺体(石松政敏)、太平門を出て直ぐ左の沼地に三百人くらい(宮本四郎)
・門の正面で城壁の屈折部の下方には100近い死体、これは爆弾を投げられたよう(石松政敏)
・13日の戦闘詳報にある敵の遺棄死骸5,500から、江上撃滅2,000と処断3,096を引くと残り404。
・紅卍字会の埋葬記録によれば、太平門外城壁下に500体埋葬。
・以上ですべての爆発と遺体数の整合が取れている。亀田徳一または徳田一太郎の話の方が整合性がない。
・結論として、“太平門虐殺”なるものは実態がなく、すべて戦闘行為による戦死者。




《怪しい証言》

怪しい様子を以下に記す。最初の文献。

元兵士・亀田徳一の証言 第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊 12月14日「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人ぐらい捕まえてきたんですわ。太平門の外から言うと、門の右の一角に工兵が杭を打って、それから鉄条網を張っていて、そこへこれらの支那人を入れて囲ってしまいました。その下には地雷が埋めてありましたんや。日本兵が踏まないように白い紙に『地雷』と書いてありました。そこへ捕まえてきた人を集めてきて地雷を引いてドンと爆発させましたんや」(『戦場の街南京 松村伍長の手紙と程瑞芳日記』松岡環)


そして、中国網日本語版の記事にはこうある。

三重県北部に住む元中国侵略日本軍第六中隊の徳田一太郎氏は、事件発生日や当時の詳細をよく覚えており、はっきりした口調でそれを話すことができる。彼によれば、「午前8時、第六中隊は最初に太平門に到着、付近には多くの捕虜がおり、300~400名の老若男女が一気に集められた。工兵が、太平門を出た右側の一角に杭を打ち、金網を張り巡らせ、それらの中国人を中に入れ、地下には地雷が埋められていた。我々は捕らえた者たちをそこに集め、導火線を引っ張ると、ボンと地雷が爆発、後には山ほどの死体が残った。人数が多く、歩兵銃では追いつかないため、地雷を使ったのだと聞いた。それから、城壁に上り、上からガソリンを撒いて焼いた。多くの死体が積み重なった山は燃えるのにとても時間がかかった。上にいた者は殆どが死んだが、下の方にはまだ生きている者が多くいた」

日本作家、証言を求めて南京大虐殺生存者を探訪
http://japanese1.china.org.cn/jp/txt/2011-03/09/content_22094144.htm


上の記事はさらにこう続ける。

太平門大虐殺 未だ見つからない生存者

松岡氏の調査には一つの原則がある。それは細かな事実を大切にし、全ての虐殺地点において、できるだけ加害者と被害者自身の両方から証言を得ることを通して実証することである。
そして今、南京大虐殺において松岡氏が唯一生存者を発見できていない場所がこの太平門一帯なのである。記者は南京大虐殺記念館(以下「記念館」)で、目下300名あまりの生存者の中に、太平門集団虐殺の生存者は一人もいないことを知った。記念館では、中国侵略日本軍が南京太平門で行った集団虐殺について、日本兵士の証言や写真は収集できているが、生存者の証言が唯一欠けている。



この件は極めて怪しい。

(1)証言した兵士の氏名

亀田徳一 第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊
↓(変化)
徳田一太郎 日本軍第六中隊


明らかに、部隊名と氏名を誤摩化している。

(2)部隊行動
第十六師団歩兵第三十三連隊第二大隊なら、13日夜に城外北西の下関で露営し、翌14日は朝に挹江門外側の土嚢撤去作業を行って開門してから入城し、城内北西側のエリアで掃蕩を実施している。太平門は第二大隊の担当地区ではないし、通り道でもない。

(3)そもそも「地雷」なら中国人も読める*だろうし、踏めば爆発するのだから「地雷を引いて」とか「導火線を引っ張る」という説明になるはずがない。最初の誰かをそこに入れた時点で金網に押し込んだ日本兵もろとも吹っ飛ぶ。証言者に軍隊の経験があるのか疑問に感じるレベル。
*:地雷=Landmineを中国語に翻訳しても「地雷」とそのまま出る。

(4)記事の中で「太平門集団虐殺の生存者は一人もいない」と自白している。

よって、上記証言は極めてウソ臭い。




《太平门遇难同胞纪念碑》

しかし、中国が設置している「侵华日军南京大屠杀太平门遇难同胞纪念碑」の碑文によると事件は12月13日である。

碑文概要:12月13日、「第十六师团三十三联队六中队等」の日本軍が、太平門付近において、武器を捨てた兵士と市民の1,300余人を、有刺鉄線で囲み、地雷を炸裂させ、機関銃で撃ち、ガソリンで燃やし、殺害。

1937年12月13日,第十六师团三十三联队六中队等侵华日军部队在南京太平门附近,将约1300名放下武器的中国官兵及无辜的市民集中起来,周围用铁丝网围住,用事先埋好的地雷炸、机枪扫射,再浇上汽油焚烧,次日,日军复对尸体检查,对濒死者用刺刀补戳致死,太平门集体屠杀中无一中国人幸存。


従って、12月14日には第33連隊は太平門にはいない、というアリバイだけでは説明できなくなった。よって、以下に検証を続ける。




《太平門の地形》

検証を進める前に、当時の詳細地図を使って太平門付近の地形を確認しておく。



太平門を出ると道はすぐ一旦左に曲がるが、そこからは3方向に道がある。
・東に向かう道
・北に向かう道(=もっと行くと玄武湖に沿って西進する)
・城壁に沿って西に向かう

太平門を出てすぐのところ小さな沼がある。太平門からの視点で言えば左側、北進の道を行けば右側。(沼は今もある)

は後述するが、城壁の屈折部。

紫金山の天文台から玄武湖の先端、あるいは太平門付近までは約1km。

12月12日夜に第33連隊が紫金山を占領し、翌13日朝にかけて太平門の方向に進軍してきている。




《地雷と鉄条網》

亀田徳一または徳田一太郎の証言に地雷と鉄条網が出てくるので、南京戦ではどうであったのか確認しておく。


まず、地雷について。

中国軍は城内各所に鉄条網を張り、地雷を埋め、機関銃を据えて徹底抗戦の構えを見せたため、日本軍は激しい市街戦は避けられないと予測していたが、中国軍の抵抗は弱く、城内では市街戦はなかった。このため、13日午後10時、上海派遣軍司令部は「南京完全占領」の声明を出した。

「手榴弾や小銃弾は至るところに投げ捨てられている。加うるに、要所には地雷が埋設されているので危険この上もない」(12月14日/『佐々木到一少将の私記抄』)

「十二中隊の将校斥候は西山下の三叉路に於いて敵の地雷にひっかかり三名即死、六名負傷したと言う話も有った。道々には地雷の堀おこした穴が幾つものぞいて居る。又敵が敵の地雷にひっかかって無惨にも手足はとびて真黒になり四名死んで居た」(歩兵第20連隊・牧原信夫上等兵・十二月十三日)


さらに、第9連隊が紫金山付近での戦闘での、下麒麟門(紫金山より東)で地雷による死傷者を出している。



よって、中国側が地雷を使っていたのは間違いない。南京城を防衛する側だから当然とも言える。


次は、紫金山を占領し、続いて太平門を占領した第33連隊戦闘詳報の武器弾薬損耗表。



見てわかる通り、「地雷」はない。
あるのは、銃弾(小銃、機関銃、拳銃)、擲弾筒(=迫撃砲)、手榴弾、榴弾・徹甲弾など(=大砲)のみ。

上海から急追して南京まで突入してきた日本軍なので、地雷は使う場面がない。
そんなものを仕掛けても後続の友軍に被害が出てしまう。



次は、鉄条網について。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希濂麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、挹江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、挹江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、挹江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、挹江門内は大惨事となった」 (中国軍第八七師二六一旅長・譚道平 著『南京衛戍戦』による12月12日夕刻以後の情景) 

「漸く門を潜り抜けて南京側に出づれば、敵の屍々累々たるが黒焦となり、鉄兜も銃剣も黒く燻りて、鉄条網に用ひたりし針金と絡まり、門柱の焼け落ちたる木片と相重なり、堆く積める土嚢も黒く焼けて、その混乱と酸鼻の景は譬へん方なし」(第三艦隊司令部・海軍軍医大佐・泰山弘道)16日の挹江門。


よって、挹江門に鉄条網があったのは間違いない。


そして、戦闘詳報から。



備考にあるように、ギザギザの折れ線が鉄条網を示す記号とのこと。
なお、砲の弾着地点は「レ」またはチェックマークのような記号とのこと。後ろの方で出てくる。


さらに別の戦闘詳報。



これによると、水濠に囲まれた光華門への通路は鉄条網で塞がれていた様子がわかる。
挹江門の場合は、門の外から土嚢を積み上げて、城内からは開かないようにしていた(=守備兵の脱出を防ぐため)とのことなので、光華門も同様に土嚢+鉄条網での封鎖だったかもしれない。

従って、現存する戦闘詳報の戦闘要図にちらほらと鉄条網が登場することと、少なくとも挹江門と光華門には鉄条網があったことから、太平門にも中国側が仕掛けた鉄条網があったと考える方が自然だろうと思う。




《太平門での混乱》

次は太平門に関する証言。

「(12日)午後9時、太平門の防御物を爆破、通路が開かれると、人は先を争って飛び出し、弱者は踏みつけられて命を落とし、強者はその上を通って命を永らえた。下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆した。先頭部隊は日本軍と戦闘になった」(據83軍參謀處處長・劉紹武)


この劉紹武の話は、上述の鉄条網のところで出てきた『南京衛戍戦』にある挹江門の混乱と時間帯的に同じ。12日の夕刻以降。
南京城南面の中華門の一角が12日の16時頃に日本軍に占領されたので、これをきっかけに防衛体制の崩壊と脱出が始まったものと思われる。

「私の踏査経路では虐殺の跡らしいものなどは見受けず、ただ城内に通ずる道路付近で地雷の爆発により、人および馬の死体が散乱しているのを見た」(19日頃、戦闘詳報の資料作成のため中山陵・紫金山中腹玄武湖の南側を経て城内に帰還した第一大隊本部先任書記・佐藤増次)玄武湖の南側を経て城内に帰還なら、そこが太平門。

「またある時、アメリカの武官が視察に来るから、死体を片付けておけという通知があったが、各部隊はそんなことには動じない。私は太平門を出て直ぐ左に沼地があり、道路から四・五米低いところに、中国兵の死体が道路の高さまで積み重ねてあるのを見た。三百人くらいはあったと思う。土をかぶせたかと見に行ったが、全然そのままである。日本兵にして見れば、敵を殺して何が悪い。戦争じゃないか、という考え方であったろう。」(第十六師団副官・宮本四郎)中国兵の死体はあったが、アメリカ軍の武官に見られても困ることなどない、という証言。

「『二千の虐殺死体』とか言われておりますが、門の外側で見ましたのは千にも足らなかったと思います。一部の死体は人に踏みつけられて、気の毒な状態でしたが、この人たちは紫金山の戦闘に破れて城内に逃げ込もうとしたか、あるいは城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来てやられたのではありますまいか。ここには門外に深い大きな濠があり、この濠の中に死体が入れられて、土で覆われていました。門の正面で城壁の屈折部の下方には、一〇〇近い死体が土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたようでした。この状況から見まして、戦闘行為による死者であると思います」(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏/証言による『南京戦史』9)


つまり、挹江門で発生したのと同様の混乱による犠牲者が太平門でも発生している。


もう少し細かく見ると複数の要素がある。まずは爆発について。

(A)太平門の防御物を爆破(劉紹武)
(B)下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆(劉紹武)
(C)城内に通ずる道路付近で地雷の爆発(佐藤増次)
(D)門の正面で城壁の屈折部の下方…これは爆弾を投げられたよう(石松政敏)

Aは、城内から太平門の門扉を爆破したのだと思われる。脱走防止のために外に土嚢が積み上げてあればそういう手段になるだろう。
ただ、意図的にやってることだから、それほどの犠牲者が出たとは思えない。

続いて、Bの手榴弾での自爆。これは場所を特定できないが、上述の破壊口が狭いとすれば、圧迫されて下敷きになるのは城内側だろう。

そして、CとDは同じものを指してるように思える。地図にで示した場所である。
ここなら唯一、「城内に通ずる道路付近」(佐藤増次)と「門の正面で城壁の屈折部」(石松政敏)に合致しそう。

つまり、爆発は3種類。
(1)太平門の防御物を爆破(劉紹武)
(2)下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆(劉紹武)
(3)城内に通ずる道路付近、門の正面で城壁の屈折部の下方で地雷または爆弾



次は死体の場所。

(H)城内に通ずる道路付近…人および馬の死体が散乱(佐藤増次)
(J)太平門を出て直ぐ左に沼地…三百人くらい(宮本四郎)
(K)門の外側で見ましたのは千にも足らなかった(石松政敏)
(L)城壁の屈折部の下方には、一〇〇近い死体(石松政敏)

上述のように、HとLは同じものを指しているように思える。地図にで示した場所。そこに約100近く。

そして、JとKも同じものではないか。場所は太平門を出て左に見える小さな沼。300以上くらい。目撃日時によってはまだ沼に入れられてなかったかもしれない。

そうすると、城内側の「手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆」での死体の目撃証言がない。
ただ、これは戦闘終了後にただちに工兵などが戦場掃除で遺体をある程度片付けているので、太平門から最寄りの小さい沼に投げ入れてしまったかもしれない。従って、小沼の300以上の遺体に含まれている。

同様に、「下敷きになった者」(劉紹武)についても、「一部の死体は人に踏みつけられて、気の毒な状態」(石松政敏)と、門の外で目撃されている。下敷が門内なら、既に門外に搬出された後の目撃だったかもしれない。

ちなみに、紅卍字会の埋葬記録を調べると、「太平門外城壁下」に500とある。
小沼に300以上で、城壁の屈折部に100近く、を合計するとかなり近い数字。

よって、死体の数を整理すると次の通り。
(1)城壁の屈折部に100
(2)太平門を出て左に見える小さな沼に300以上




《第33連隊の行動》

問題になっている第33連隊の12日夕方から13日にかけての部隊行動は次の通り。



「紫金山は歩兵第三十三連隊が、12月12日午後3時頃占領した。この紫金山の攻撃には直協砲兵大隊はもちろん、軍直砲兵も集中砲火を浴びせ、敵の紫金山維持を不可能とした。我が歩兵は敵前百メートルまで近接して、実によく戦った」(第十六師団司令部副官・宮本四郎)

「わが重火器部隊の掩護射撃と他部隊の支援を得て一斉に突入し、主峯の争奪戦が行われた。かくて十二日十八時、三日三晩の死闘の末、首都南京の要害・紫金山はついに日本軍の手に落ちた」(第三十三連隊島田部隊の羽田武夫氏)

「十二日夕紫金山第一峰を攻略せし連隊は追撃前進に転移し十三日午前七時半頃第二第三大隊は相呼応して天文台高地を占領し同九時十分第二大隊の一部(第六中隊機関銃1小隊工兵1小隊)太平門を占領して日章旗を城門高く掲揚せり」(第33連隊戦闘詳報)

「連隊は午前九時三十分十六師作命甲第一七一号を受領し一部を以って太平門を守備せしめ主力は下関方面に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け午前十時半出発第二大隊(二中隊欠)を前衛とし太平門−和平門−下関道を下関に向かい前進す而して進路の両側部落には敵敗残兵無数あり之を掃討しつつ前進を継続せり」(第33連隊戦闘詳報)

「(12月13日午前中)『第三十三連隊は速やかに下関に進出し、敵の退路を遮断すべし』との師団命令を受領した。この命令に基づき、連隊は午後2時30分、その先頭を持って下関に到達し、連隊本部は獅子山砲台北側の城外濠の路上に達した。この時、中国兵の揚子江上を浮遊物に取りすがって逃走中の姿が望見されたので、連隊命令をもって重火器の火力を集中して、一時間余。私も江岸に行ってこの状況を見た。この頃、海軍の揚子江艦隊が遡航してきて、艦砲をもって射撃を始めたので、連隊は海軍艦艇に危害を与えることを考え、射撃を中止した。この江上を逃走した敵中に一般住民の混入など、とても考えられない。その数は千〜二千ぐらいであったろうか」(第三十三連隊本部通信班長・平井秋雄氏/証言による『南京戦史』9)

「午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」(第33連隊戦闘詳報)




整理すると次のようになる。

12月12日 18:00 紫金山占領
12月13日 07:30 天文台占領
12月13日 09:10 太平門占領(第6中隊)
12月13日 10:30 33連隊主力、太平門出発(2中隊は太平門守備)
12月13日 14:30 33連隊、下関到着。江上の敵を攻撃。



なお、上記の第33連隊戦闘詳報にある戦闘要図の大平門付近を拡大すると次のようになっている。



一部判読できない文字があるが、13日の態勢として天文台から太平門をMG(=機関銃)で射撃したとある。
直線の点線が弾道、着弾点が「レ」またはチェックマークのような記号で示されている。

天文台占領は記録上は7:30だが、太平門への遠距離射撃はもっと早い時間帯から始まっていたのではないか。というのも、劉紹武が12日21時に太平門の防御物を爆破し、先頭部隊は日本軍と戦闘になったと書いているから。
爆破による太平門の開口部が狭く、城内からの脱出が長時間にわたって続いた可能性もある。
参考情報としては、日出時刻が午前七時三十分頃。

(さらに参考情報)
月出没時刻を計算するサイトに、南京の緯度経度、1937年12月の年月を入れると次の結果になった。
 月の出:12日 12:37(正午過ぎ)
 月の入:13日 01:37(深夜)
 月齢:半月
つまり、劉紹武がいう「太平門の防御物を爆破」が12日21時なら月明かりがある。
13日未明には月明かりがない。
なお、同じサイトで日出没を計算すると次の結果になった。
 日の出:12日 06:57
 日の入:12日 17:06


ちなみに、天文台と太平門の距離は約1km。機関銃で射撃するにはギリギリくらいの遠距離。
ただ、天文台は標高約220m、太平門は20mくらいなので、標高差が200mくらいある。よって、戦闘詳報にある通りに遠距離射撃できたのだろうと理解する。

さらに、射撃地点の天文台の部分をよく見ると、「II」を分母として、「6+1/4MG」と記載されている。
つまり、第二大隊の第六中隊と1/4の機関銃中隊が天文台から射撃した、ということを意味していると思われる。
そして、武器弾薬損耗表には10日〜14日の分として、第二大隊は機関銃弾810発消費とある。(表を再掲)



10日〜12日が激戦で、13日朝のこの天文台射撃以降は機関銃はほとんど撃っていないはず。となれば、天文台からの射撃はせいぜい数十発程度ではないのか。
仮に天文台射撃で100発撃ったとして、1,000m先の太平門で中国兵が何人戦死しただろうか。10%当たったとしても10人、1%なら1人。たぶん、ほとんど当たってないと思う。

なお、第六中隊も天文台射撃に参加しているから小銃でも撃っていると思われるが、表での消費弾丸数が多すぎて弾数の推測はできない。ただ、1,000mの距離だから命中精度は期待できなさそう。(三八式歩兵銃の最大射程は2400m、有効射程460mとのこと。)

ある解説によるならば、銃弾が1,000m飛ぶ間に鉛直方向に5m落下し、緯度と撃つ方角によってはコリオリの力により0.8mくらい横にずれ、弾着まで1.33秒かかるとのこと。ただし、これは三八式歩兵銃を想定したものではない。弾丸初速の比率でいえば、三八式歩兵銃なら1.5秒くらいかかるのかも。人は歩行速度でも、1.5秒あれば1.7m進む。


そして、太平門からの脱出兵は城壁沿いではなく、北上する道をたどったとある。玄武湖の北側を回って揚子江方向に向かう道。




《堀曹長と古山義則一等兵》

続いて、第16師団通信隊・堀曹長と、第三十三連隊第六中隊・古山義則一等兵が重要な証言を残しているので確認する。


まず、第16師団通信隊・堀曹長の手記から。

「紫金山から太平門めざし降りだすと、各所に敗残兵と遭遇し、一緒に行動する予定だった野田部隊(歩33)の14、5名は危険を感じて引き返してしまう。残る通信隊の1コ分隊7名は、いやがる苦力(6名)を督励してさらに進んで、紫金山頂北西2キロの地点で白旗を掲げた一団の敗残兵と遭遇する。さらに後方から一団また一団と続々と続く状況から、師団本部にこの状況を通信するとともに、全員を武装解除し、その場に座らせて命令をまつことにした。捕虜の数は500を越えている。

『直ちに救援隊を送るから、その位置におれ』とのことで、夕方まで待ったが救援隊は到着しない。捕虜は動揺し始め、必死に静めることに努力したが、日本兵にも恐怖感が漂いだした。

やむなく伝令を太平門に走らせ、増援を依頼したが、門の守備兵力(第6中隊)は僅少(200名以下か)で、守備の中隊長からは『君等が此所迄引張ってくれば引受ける』とのこと。鹵獲した武器弾薬は後に残し、兵3名が手真似足真似で捕虜を引き連れ、残りが警戒と通信機材を担ぐ苦力を監督しつつ歩き、やっと守備隊長に引き渡したという」

(第16師団通信隊の堀曹長の手記『想出集』(込山繁上等兵編、戦前の手記集と思われる)から抜粋/「本当はこうだった南京事件」板倉由明)


続けて著者の板倉由明はこう書いている。

「堀曹長は、この約1時間後、この敗敵は数発の手榴弾を投げ、警備兵に損害を与え、約200名は遁走した、と記す」


この記述には日付がないが、紫金山から太平門に日本兵が降りられるのは13日としか考えられないのでそう解釈することにする。

なお、「紫金山頂北西2キロの地点」となると、太平門からは約3kmの地点になる。



続いて、古山義則一等兵の証言。

東中野修道氏『再現 南京戦』第4章から、古山義則一等兵の証言を拾っていく。原著は『 魁 ― 郷土人物戦記』〈第一巻〉。

「三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます。このことが南京虐殺と宣伝されているのではなかったのでしょうか。…戦争ですから反抗してきた部隊には攻撃しました。それでないと私たちが虐殺されますから」


上記は述懐だが、同じく古山一等兵の次の証言は現場の様子を説明している。

「西方面の城壁付近で、パンパン、ドドドドと銃声が聞こえてくる。われわれも太平門城壁によじ登ったとき、城壁づたいに中国兵が七、八人必死に抵抗しながら玄武湖方面に逃げ去ろうとしている姿を発見した。いち早く銃を構え、応戦の姿勢をとった時、中隊長の『撃つな!この場は見逃してやれ』という大声で銃をおろしたことがあったが、各城壁とも敵の敗残兵がウヨウヨしていた」

「城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山。バリバリと銃声、機銃の音がすれば、死体が何十何百と増えていく。凄惨!これが戦場である」

「こうして夜に入り八時過ぎ、敗残兵の死骸整理中、突然三発の手榴弾に見舞われて、六名の死傷者が出た。その一人が私で、明けて十四日早朝、城内飛行場に開設された野戦病院に入院した」


銃声を聞いてさっと太平門の城壁に登れるというのは、13日09:10の太平門占領以降で、おそらくは第33連隊が出発した10:30以降の描写と思われる。



さらに、これはネットからの拾いものだが、こういう記述もある。原著は上と同じようだ。

第六中隊の古山義規一等兵は次のように証言する。
(中略)
わが六中隊の全員が城門を開き、城頭にだれが作って来たのか大日章旗を掲げ、故郷の日本へも聞こえよ、と叫んだ感激は忘れることの出来ないことです。ところがその時、八列縦隊を整え、隊長が馬に乗り、延々と続く堂々たる隊列で、敵が退却して来たのです。すわッと攻撃態勢、機銃を据えて構えました。日の丸も一旦下ろしまして、敵を迎撃しようとしたのですが、白旗を掲げて降伏して来ましたから事なきを得ましたが、わずか三、四十人の友軍で一撃されればひとたまりもなかったことで、実のところ身震いしました。
この退却部隊を大平門から入れませんでした。入城させれば城内はまだ日本軍が占領しておりませんし、光華門の占領はこの十三日の夕方ですから大変なことになります。これを下関方面に誘導したのでしたが、戦争というものはこんなこともあります。わが大隊長、連隊長の判断は誤りがなかったのです。
この降伏軍の後、三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ大変な被害が出たと思われます。このことが南京虐殺と宣伝されているのではなかったのでしょうか。(「魁 郷土人物戦記」P529)


人数は定かではないが、太平門の第六中隊に直接投降してきた「降伏軍」がいたとのこと。「わずか三、四十人の友軍で一撃されればひとたまりもなかった」とのことなので、数百人以上の規模だろう。

ただ、「これを下関方面に誘導した」とあるから、太平門の第六中隊としては降伏を受け付けず、第33連隊の主力その他がいる下関で改めて降伏せよ、として追い払ったということではないか。

そうであれば、この「降伏軍」は太平門の遺体にカウントする必要はなくなる。



時系列的に整理すると、次のようになるだろう。

12月13日昼間    八列縦隊で隊長が馬に乗った退却部隊が降伏、これを下関方面に誘導。
12月13日夕方以降  堀曹長の部隊が500名の投降兵を太平門に連行開始。(移動距離約3km)
12月13日19:00頃   堀曹長、500名の投降兵を守備隊長(=第六中隊長)に引き渡す。
12月13日20:00過ぎ  投降兵が3発の手榴弾を投げ、敗残兵の死骸整理中の古山一等兵が負傷、投降兵200名遁走。

「敗残兵の死骸」とは、同じく古山一等兵がいう「城門外には、そこかしこに敗残兵の死骸の山」のことであろう。「死体が何十何百と増えていく」とも言っている。

それで、古山一等兵がいう「三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た」と、堀曹長が連行した500名の投降兵は同じものだろうか。同じように思える。
そして、「三百人ぐらいの敗残兵が投降して来た。この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり…」の「反抗」とは、古山一等兵自身が負傷した「三発の手榴弾」を言い換えたものではないか。

一部には「この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます」の言い回しから、古山一等兵自身の体験ではないとの批判があるようだが、手榴弾の爆発を浴びて負傷した直後のことは正確に把握できてなくても仕方ないだろう。




《考察》

以上で、検証の材料は揃ったように思う。


まず、冒頭の方で、爆発は3種類と書いた。

(1)太平門の防御物を爆破(劉紹武)
(2)下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆(劉紹武)
(3)城内に通ずる道路付近、門の正面で城壁の屈折部の下方で地雷または爆弾

これに、古山一等兵が負傷した原因となる敗残兵が投げつけた三発の手榴弾が加わる。

古山一等兵はこういう言い方もしている。封殺、同士討ち。

「この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます」


これらを全て並べて素直に解釈すると、次のようになるのではないか。

(a)堀曹長が連行した500名の投降兵が、
(b)太平門脇の城壁の屈折部付近に留め置かれて(19:00以降)、
(c)古山一等兵が付近の敗残兵の死骸整理中に、
(d)500名の投降兵から三発の手榴弾が投げられ、
(e)日本兵に六名の死傷者が出て、古山一等兵も負傷し、
(f)投げた手榴弾によって投降兵にも死傷者が発生し(同士討ち)、
(g)守備の日本兵が当然反撃をし(封殺)、
(h)城壁の屈折部の下方には、100近い死体が残り、
(j)逃げ出した投降兵400のうち200が周辺で射殺され、
(k)残りの投降兵200名が遁走した。

(b)の「留め置かれて」の理由は、昼間に八列縦隊で隊長が馬に乗った退却部隊が降伏してきたときに、「この退却部隊を大平門から入れませんでした」とあるから。ただ、堀曹長が連行してきたからには放逐するわけにもいかず、かといって城内の占領が完了していないので城内に入れるわけにもいかず、結局その付近に留め置いたであろうという推測。
それに、地図で見ると留め置くにはの城壁の屈折部付近が手頃に見える。

(f)の同士討ちも500名の投降兵の中から手榴弾を投げたならあり得る。1兵士1平方メートル占有して座らせるなら、例えば10m×50mの面積を必要とする。実際にはもう少し狭いだろうが、それに準じた面積が要る。500名を捕虜にした堀曹長も、まずその場で座らせて待たせている。手榴弾の投擲距離は40~60メートル程度だそうだが、着座姿勢など不利な条件ならもっと短いかもしれない。よって、投擲した兵士の位置関係によっては、爆発地点にかなり近い者がいた可能性がある。ましてや、とっさに隠れる凹地もなかったであろうし。

また、(g)の反撃には日本兵からの手榴弾投擲も含まれるかもしれない。

(j)の射殺とは、500の投降兵が手榴弾を投げて反乱した時に、その場で(自らの手榴弾の被害で、あるいは日本兵からの銃撃や手榴弾で)戦死した投降兵が100いたとして、残りの400全員が逃げられるとは思えないということ。
時刻は20時、日没は17:30。戦闘詳報によれば星明かりはあり。
ただ、夜であっても玄武湖があるから、逃げられる方向は限定されている。例えば、城壁の上から機銃を撃たれれば相当な犠牲が出るだろう。半分が射殺されたとしたら、200。残り200が遁走という計算。

そうすると、古山一等兵が昼間に見た「バリバリと銃声、機銃の音がすれば、死体が何十何百と増えていく」は100〜200くらいになる。

よって、遺体数についてまとめると次の通り。合計400〜500程度。

(1)城壁の屈折部に100
(2)太平門を出て左に見える小さな沼に300以上
  (2a) 13日の昼間までに太平門周辺で生じた遺体が100〜200
  (2b) 20時の手榴弾による反乱での射殺が200



これで、複数の爆発と、残された遺体について説明できている。

よって、亀田徳一または徳田一太郎がいう「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人ぐらい捕まえてきたんですわ云々」の出る幕はない。古山一等兵の証言を見ても、そんな余裕がある日ではなかったと思われる。

逆に、紅卍字会の埋葬記録では「太平門外城壁下」に500とあるから、亀田徳一または徳田一太郎の「年寄りも男も女も子供もいっしょくたにして3,4百人」虐殺がウソであると解釈する方が、遺体数的にも整合が取れている。

紅卍字会は埋葬遺体数に応じて労賃を得ているから、埋葬記録を水増しする動機はあっても、減らす動機はない。
さらに「太平門を出て直ぐ左に沼地」については私は小さい沼と書いたが、玄武湖に比べれば小さいという意味であって、スケール的には100m×50mくらいの大きさがあったように見える。つまり、「500以上の遺体は入らなかったので、よそに運んだ」という可能性は考えにくいということである。



あと些細な点としては、「馬」が気になる。

第33連隊の戦闘詳報を見ると、戦闘参加人馬として139頭の馬がいる。うち、10日〜14日の戦闘で1頭が戦死している。
ひょっとするとこれが「城内に通ずる道路付近…人および馬の死体が散乱」(佐藤増次)なのかもしれないし、13日昼間の「八列縦隊で隊長が馬に乗った退却部隊が降伏」の時の馬を取り上げて確保しておいたら、結果的に「投降兵から三発の手榴弾」で死んだのかもしれない。

どちらにしても「馬の死体が散乱」についても不自然な点はなさそう。



あとこれは余談だが、当初の私の漠然とした見通しでは、「城壁の屈折部に100の死体」は中国側が仕掛けた地雷による自爆(劉紹武がいう12日21時の脱出時の混乱で)ではないかと思っていたが、結果的には地雷の出番はなくてもすべての説明ができたということになる。



それから、一説によれば「太平门遇难同胞纪念碑」にある1,300の犠牲者とは、「中島今朝吾中将の日記」にある「太平門に於ける守備の1中隊長が処理せしもの約1300」に由来してるらしい。

ただ、繰り返しになるが、紅卍字会の埋葬記録では「太平門外城壁下」に500であり、彼らには埋葬記録を水増しする動機はあっても、減らす動機はない。
そして、『戦闘詳報』に現れる数字の水増しは、将兵の間では常識であったらしく、概ね「3倍くらいかな」(功績担当の下士官)という話と照らし合わせると、約400の3倍くらいで1,300になるので、それで話の整合性は取れている。



つまり、遺体数としては再整理すると次の通り。

(1)城壁の屈折部に100。
(2)太平門を出て左に見える小さな沼に300以上。
  (2a) 13日の昼間までに太平門周辺で生じた遺体が100〜200
  (2b) 20時の手榴弾による反乱での射殺が200
(3)以上合計400を3倍して、中島日記の1,300。
(4)合計400をちょっと水増しして、紅卍字会の埋葬記録500。

これで、すべて整合している。

以上、結論として、“太平門虐殺”なるものは実態がなく、すべて戦闘行為による戦死者が400〜500名程度発生したと判断する。




(追記)2017.03.07

第33連隊戦闘詳報でも同じ答えが出ていることに気づいた。



(1)12月13日、太平門に第六中隊を守備に残し、連隊主力は揚子江上で攻撃を行ったが「殲滅せし敵二千を下らざるもの」とある。
(2)鹵獲表に俘虜3,096とあり、その備考に「俘虜は処断す」とある。
(3)敵の遺棄死骸として12月13日分は 5,500とあるが、備考に「処決せし敗残兵を含む」とある。

従って、(3)の5,500から、(1)の2,000と(2)の3,096を引くと、残りは 404。

やはり、太平門周辺での「敵の遺棄死骸」は上限で約400というのが第33連隊の認識と言える。

実際には、連隊主力が太平門から下関に向かう途中で、進路両側の部落にいる敗残兵と戦闘しながら前進しているので、その分がさらに減る。




《第33連隊戦闘詳報》

件名標題(日本語)
南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊
レファレンスコード
C11111198100


南京付近戦闘詳報 歩兵第三十三連隊

其の六 十二月十三日の行動

一、戦闘経過の概要
十二日夕紫金山第一峰を攻略せし連隊は追撃前進に転移し十三日午前七時半頃第二第三大隊は相呼応して天文台高地を占領し同九時十分第二大隊の一部(第六中隊機関銃1小隊工兵1小隊)太平門を占領して日章旗を城門高く掲揚せり。

連隊は午前九時三十分十六師作命甲第一七一号を受領し一部を以って太平門を守備せしめ主力は下関方面に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け午前十時半出発第二大隊(二中隊欠)を前衛とし太平門−和平門−下関道を下関に向かい前進す而して進路の両側部落には敵敗残兵無数あり之を掃討しつつ前進を継続せり。

午後二時三十分前衛の先頭下関に達し前面の敵情を搜索せし結果揚子江には無数の敗残兵舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す即ち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。

爾後連隊は右側支援隊と連絡し其指揮下に入れり。




戦闘詳報 第二号 附表
自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日
歩兵第三十三連隊 武器弾薬損耗表

(太平門を占領した第二大隊分だけ抜粋)

弾薬
小銃    17,195-
機関銃    810-
重擲弾筒   105- *
手榴弾    12
拳銃       -
徹甲弾      -
速射砲榴弾    -
□□砲榴弾    -

※つまり、装備として地雷を所持していない
* 八九式重擲弾筒だろうか。迫撃砲。





戦闘詳報 第三号 附表 
自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日
歩兵第三十三連隊 鹵獲表

俘虜
将校 14
准士官、下士官、兵 3,082*

備考
1、俘虜は処断す
2、兵器は集積せしき運搬し得ず
3、敵の遺棄死骸

12月10日  220
12月11日  370
12月12日  740
12月13日 5,500
以上4日計 6,830

備考12月13日の分は処決せし敗残兵を含む

※ということは、13日の敵の遺棄死体数は2,404。
* 「証言による『南京戦史』9」の島田勝己、平井秋雄両氏によれば、あったとしても全部で数百であり、三千という数字は誇大、とのこと。




(以上)






改版履歴:
2017.03.07 《考察》に追記。

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