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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

北朝鮮に重なるふたつの日本

2013年12月13日 23時38分50秒 | Weblog
 北朝鮮で張成沢氏がクーデターを企てたとして処刑された。恐怖政治そのものである。ぼくにはその光景がまるで日本の過去と未来の幻影のように見えた。

 北朝鮮は大日本帝国の亡霊である。朝鮮人は日本に併合された時に、日本の内側から天皇制ファシズムを嫌と言うほど見たであろう。その秘密警察国家の恐怖政治を「しっかり」学んで北朝鮮を作り上げた。まさに金一族は天皇だ。

 そして北朝鮮は特定秘密保護法を皮切りに作り出されようとしている新たな秘密警察国家・日本の未来の姿でもある。
 張成沢氏を初めとして粛清された、もしくはこれから粛清されるであろう人々は、つい今しがたまで誰かを粛清する側にいた。彼ら自身が体制側にいて恐怖政治の主体だったのである。その当時はよもや自分たちが全く逆の立場に立たされるとは思ってもみなかったであろう。
 これもまさに先日の国会で特定秘密保護法に賛成、もしくは協力した国会議員の姿に重なってしまう。彼らは自分たちこそ体制であって、まさか自分が秘密法によって弾圧されるなどとは思いもしないのだろう。しかし、誰かを弾圧しようとするものは、いつか自分も逆の立場に立つ日が来るかもしれない。

 あまりにも危険な法律を安易に作ってしまった報いは、案外早い段階で彼ら自身に及ぶのではないか、そんな予感がしてならない。

12月8日の試金石

2013年12月08日 23時30分36秒 | Weblog
 12月8日はジョン・レノンの命日だ。そして日米開戦のメモリアルデイでもある。

 朝日新聞の天声人語には開戦当時の東京の様子が引用されていた。そのとき町中にはなんの悲壮感もなく、普通の日常生活があり、むしろちょっとしたお祝いムードだったことがわかる。しかしその裏では戦争に批判的な人々に対して過酷な弾圧が秘密裏に加えられていたとも書かれてある。
 戦争は殺し合いであり、真珠湾攻撃では当然日本側にもそれなりの戦死者が出たが、多くの人々にとっては大きな問題ではなかったのだろう。

 戦争が負けた時に戦争を批判することは誰でも出来る。重要なのは戦争に勝っている時にそれを批判できるかどうかである。そこにその人の真価が現れる。
 「ロハス」などという言葉が流行ったことがあった。景気が良く、豊かな時に気楽にロハスなどとファッション感覚で言うことは簡単だ。問題なのは本当に自分の生活が苦しくなり、余裕が無くなった時にでもまだそう言えるかどうかである。

 それはつまり、今ある自分を自己批判的に自己否定的に見ることが出来るかどうかということでもある。別の言い方をすれば結果を評価するのではなく、過程を評価する姿勢があるか無いかということでもある。「勝てば官軍」ではなく「結果より過程が大事」と本気で言えるかどうかなのだ。

 アパルトヘイト下の南アフリカには、黒人解放運動としてネルソン・マンデラ氏のアフリカ民族会議(ANC)と、それに対抗するパンアフリカニスト会議(PAC)という組織があった。PACの主張は明確でとても正しく見えた。つまり南アフリカを黒人の国にする、白人を排除するという主張だった。
 もちろん南アフリカという人工的な国家にはとても複雑な歴史があり、単純に語れないところがあるが、圧倒的多数を占めていたのはいわゆる黒人であったから、多数決の論理で言えばPACの路線が認められてもおかしくはない。しかしマンデラ氏はあえて「虹の国」という一見白人に対して卑屈に見えるスローガンを掲げて国家再建を行った。

 アパルトヘイトが犯した大きな罪の一つは黒人に劣等感を植え付けたことだ。白人は黒人に反抗心を抱かせないために徹底的に白人は優越種、黒人は劣等種という嘘をたたき込んだ。そのために黒人は子供の頃から白人に従うのが当然であると思い込まされたのだった。
 これに対して黒人解放運動は黒人のプライドを取り戻すことを目指した。つまりそれは黒人の自己肯定運動だった。PACの黒人優位の方針はその当然の帰結だ。

 マンデラ氏も当然、自己肯定を目指したわけだが、そこで単純に黒人と白人の立場を入れ替えること、つまり黒人優越、白人劣等というスタンスに立つことは拒否した。
 黒人もまた白人と同じように間違うことのある同じ人間なのだという自己批判的な観点を持つことによって、マンデラ氏はより高い思想に到達しようとした。自己批判はより高次の自己肯定への道であった。

 テレビで流される街頭インタビューでは、意外と特定秘密保護法に賛同する声が多い。おそらく一般の庶民にとって害になりこそ、特に役に立つわけではない法律をなぜ庶民が支持するのか。
 そこにはたぶん世の中にただよう漠然とした不安が背景にある。その不安は、今まで様々なことで「一番」であると思っていた日本の地位が揺らいで来たということに起因する。
 中国に負ける、韓国に負ける、アジアでも中南米でも、今まで見下してきた「中小国」がどんどん台頭してくる。いつまでも一番でいたい。引き摺り下ろされるのは恐ろしい。そのためにはすぐにもっともっと強くならなくてはならない。そういう焦燥が人々の中に生まれているのではないだろうか。
 いったい誰がそんな雰囲気を作り出しているかはともかく、これはまさに「一番じゃなきゃダメなんですか?」という問いを我々に突きつける問題だ。

 こういう時にこそ、自己批判、自己否定の視点が必要だ。別に言い方をすれば、それは極力冷静であれということだ。何が本当で何が嘘かを落ち着いて判断する力が必要だ。そこにおいて、本当の自己肯定にいたる自己批判、自己否定ができなければ、未来は開けない。戦争は未来を閉ざすだけである。間違って誘導されてはならない。

戦争への想像力

2013年12月08日 00時25分39秒 | Weblog
 特定秘密保護法の制定によって、日本が戦争に突入することは、ほぼ確定したと言える。おそらくこのままで行けば、早ければ来年には実質的な参戦もあり得るだろう。このことに世論もマスコミもあまりにも鈍感である。
 次の国会は一月の定例国会であり、そこには「国家安全保障基本法」が提出される可能性が高い。これが今回と同じように強行採決されれば(そして今度こそ、維新やみんなが協力する可能性が高い)、集団的自衛権の行使が容認され、現在アメリカが派兵している紛争地域に自衛隊の戦闘部隊が派遣されることになる。もう本当に秒読み段階だと思ったほうが良い。

 多くの人にとって、たぶん戦争は遠い世界のことだ。しかしおそらく今世界で最も戦争をしているアメリカ人でも、たぶん大半の人にとって戦争は遠いものなのではないだろうか。
 それはなぜか? 人々が戦争を戦争として認識できないからだ。そして戦争のしわ寄せが一部の人にだけ過重にのしかかっているからだ。

 戦争は進化する。戦争の概念を固定することは難しい。別の時代、別の価値観で見たときに明らかに戦争である事態を、当事者がそれと認めなかったケースだってたくさんある。
 19世紀までは戦争は正規軍同士が戦場で行うものだった。逆に言えばそれ以外の戦いは戦争として認識されていない。たとえば北アメリカのヨーロッパからの移住者による「西部開拓」は事実上の侵略戦争であった。しかしそれは戦争として認識されてはいない。
 20世紀に入ると戦争は戦場に固定されなくなった。世界大戦において兵器の進化とともに、空襲や機動部隊の活用によって非戦闘員の居住区まで戦争の範囲は広がった。戦争は全人民規模に拡大したのだ。
 そして20世紀の後半に入ると、戦争は正規軍隊ゲリラ軍の戦いになった。それはすでに第二次世界大戦中のパルチザン戦闘から見られたが、ベトナム戦争において定型化した。
 21世紀の戦争はそこから更に進んで、ついに群集や個の戦争へと変容してしまった。

 戦争は国家に多大な損害を与えたから、国家は国民から、大国は小国から、あらかじめ戦争の芽を摘むことに専心した。そうした人々へのコントロールの技術はとても進歩した。テクノロジーや心理学、今回の秘密法のような社会システムなどを駆使して、権力を握るものたちは自らへの反乱を封じ込めた。
 その結果起きたのは抵抗勢力の徹底的な分解であった。もはやひとつの政治主張を持った、現状の権力のオルタナティブたりうる抵抗勢力は存在できなくなった。抵抗者は個人へと分解してしまった。もはや誰も抵抗者をひとつの勢力にまとめることは出来ない。それを象徴的に表したのが例の「アラブの春」事態である。
 それはまたたとえばアルカイダのようなアメーバ型の抵抗運動を生んだ。頭は無い。それぞれの地域、それぞれの個人がいわば「勝手連」的な戦争を始めたのだ。戦争はまるで人間対ウィルスのごとき戦いとなってしまった。まさに相手は雲をつかむような存在となった。

 21世紀の戦争は、大国の正規軍がただの庶民しかいない他国の領土と国民を蹂躙する一方、本国や世界中のいたるところで無数の目に見えない個人的テロリストの攻撃を受けるという、極めて非対称的な戦争になってしまったのである。
 アメリカ人はテロへの恐怖にさらされているが、まさにそれこそが現代の戦争なのである。しかしそれをテロと言い換える限り、彼らはそれを戦争であるとは認識しない。

 さらに中央アジアや中東に派遣される米兵たちは、食うに困った下層階級である。彼らは他に選択肢が無く、生きるために死地に赴くのである。その中にはもはや米国籍を持たない者さえ多数含まれる。普通にはアメリカ人にしてもらえない者が最後の手段として兵士になるのである。
 そうした下層民の姿は一般のアメリカ人には見えていない。というよりも、見たくないから見ないのかもしれないが。
 こうしてアメリカ人の目にはそこに存在している戦争が見えないのである。

 日本がこれから突入する戦争は、こういう戦争である。尖閣諸島あたりで中国軍と軍事衝突するなどというイメージは、ただ軍事力を強化したい者たちが作り上げたひとつのマンガでしかない。もちろん、そうした事態が絶対に起こらないとは限らないが、それは必ず限定的なものにとどまるはずだ。
 そもそも第二次世界大戦後の世界で、いわゆる先進国が自国の国境問題で正規軍戦を敢行した例はほとんどない。たぶんフォークランド紛争くらいのものだろう。あの戦争でも両国家にダメージが無かったとは言えないが、それは国家が崩壊するような大きなものではなく、比較的短期間に終結した。そうせざるを得ないからである。先進国にとって現在のところ、他国との直接的正規軍戦で得るものは全くと言ってよいほどない。何の利益も無いことをやるはずが無いのだ。

 アメリカが9.11後にどんな風に戦争を遂行しているか、多くの方がご存知だろう。それは遠い異国に対する勝ち目の無い侵略戦争と、自国と自国民に対するテロ攻撃、そして国内における人権抑圧である。愛国者法という新法によって合衆国は暗黒の秘密警察国家化した。それは表向きは隠されているが、多くの人々に不安と恐怖と圧迫感を与えている。アメリカ製のドラマを見るとよい。そうした人々の気分があふれかえっているのがよくわかる。
 特定秘密保護法は、まさに日本版の愛国者法(もしくはそこへ向かう第一歩)なのだと、ぼくは考えている。

 戦争は進化すると書いた。戦争は進化する。ここで挙げたような戦争の変容は、それでも現時点までのものでしかない。戦争はおそらくこれからも進化と変容を続けていくだろう。いつでも歴史は人々の想像を超えていく。
 実感の無い戦争がますます広がっていき、我々は知らないうちに底なし沼に沈んで行くのかもしれない。そうならないために、想像できない未来を想像しなくてはいけないのだ。

ネルソン・マンデラ氏を悼む

2013年12月06日 23時31分26秒 | Weblog
 特定秘密保護法案があっけなく参議院で可決された日、南アフリカではネルソン・マンデラ氏が亡くなった。まさに20世紀の巨星であった。

 ぼくがマンデラ氏の名前をはじめて聞いた頃、彼は獄中にあった。もちろんインターネットも無い、どころか個人でパソコンを持っている人もほとんどいない時代で、マンデラ氏の顔を知りたいと思っても、40代の恰幅の良いスーツ姿の顔写真が一枚あるだけだった。逆に言えば、マンデラ氏とアパルトヘイトについて勉強するのは簡単だった。資料がほとんど無かったから、すぐに終わってしまったのだ。

 80年代の前半に日本でアフリカ情勢について関心を持つ人は少なかった。新聞を読んでも極めて表面的なことしか書かれておらず、内情、内実はあまりよくわからなかった。当時もアパルトヘイトという言葉は知られていたが、たぶん多くの人は「人種隔離」が何かを実際には知らなかったと思う。
 人種差別が激しい南アフリカで、日本人だけが「名誉白人」という大変不名誉な位置にいたことを知っていた人は、もっと少なかったろう。

 その後、アフリカ情勢は大きく動き始める。良いことばかりではなかった。むしろより大きな悲劇が起きた地域もある。第二次世界大戦前から1970年代にかけての植民地支配、新植民地支配という、言ってみればわかりやすい構図から国内外の勢力が複雑に絡み合った国内闘争の時代がやってきて、アフリカのいくつもの国々で虐殺や飢餓が横行した。
 そうした中で、マンデラ氏はすばらしい指導力で南アフリカが決定的な破滅に向かうことを回避し、国家再生を実現した。もちろんそれは完璧だとは言えないかも知れない。またデズモンド・ツツ主教のような、これまた大変優れた宗教指導者の側面援護も大きかった。それでもマンデラ氏が20世紀の世界において、チトーやガンジーと並び、最もすぐれた政治指導者であったことは間違いないと思う。しかし残念ながら、彼はまたもしかすると「世界最後」の偉大な政治指導者になってしまうのかもしれない。

 マンデラ氏以降、南アフリカ自身もそうだが、世界レベルで言っても、人類に新しい方向性を示すことの出来る政治家は生まれていないように見える。いったい人類に何が起こったのだろう。
 ひとつには政治家が理念を持たなくなったということなのかもしれない。確かに政治家はリアリティで活動しなければならない。しかし理念の無いリアリズムは底なしの現状肯定、自己肯定に向かうしかない。現代の人類における唯一の価値はマネーであり、それこそが唯一のリアリズムであると言っても良いかもしれない。現代の政治家が「理念」を語るとき、それはほぼ間違いなく「いかにマネーをより多く獲得するか」という話でしかない。
 理念は理想であるが、それは「私」個人の理想ではない。社会全体の、人類全体にとっての理想であるはずだ。本当の意味で「私」を越えなければならない。たとえばマンデラ氏はあえて黒人を差別し排除した白人系住民を赦した。黒人勢力からの大きな反発を覚悟した上で「報復」を禁じた。それはまさに理念であった。

 自己批判と自己否定、自己抑制の上にしか理念は語れない。現代の多くの政治家はそれができない。大衆の支持を失うのを恐れるからだ。自分の本音を隠して大衆のご機嫌をうかがい、仮面の裏で舌を出す。大衆も「お客様」扱いされるのに慣れすぎ、いつか選挙は芸能人の人気投票と変わらないものに堕ちていく。世界は甘ったるい臭いを撒き散らしながらグズグズと腐っていく。

 マンデラ氏の死は、現代のこの世界で、何かとても重要なものが死んだことを象徴しているのかもしれない。



民主主義と「私」の正義

2013年12月05日 23時51分58秒 | Weblog
 自民・公明は委員会審議において、ついに特定秘密保護法案を強行採決した。いよいよ参議院本会議での採決は今日の深夜か明日中ということになった。
 昨日は突然前日に決まった大宮での公聴会が開かれたが、その時、国会では党首討論が行われており、おそらく国会議員はほとんどこの公聴会の様子を知らないと思われる。しかし今日の参議院の委員会でこの公聴会で発言された意見がしっかり確認され審議に生かされたという話は聞かない。いったいなんのための公聴会なのだろう。

 与党とみんな、維新の修正協議は朝から行われ、合意に達したと言われているが、しかしそれも法案には全く反映されることがない。法案を修正したらもう一度衆院に回さなくてはならないから、という誰の立場においても理由になるはずのない理由から修正されないのだと言う。本来なら最も原則的に行われなくてはならない国家の最上級の会議がこんな適当に行われていることに、あらためてため息をつくしかない。

 急に冬めいた寒い国会前には夜になっても人々が続々と集まってきているという。その様子をテレビの夜のニュースショーで見ながら、たぶん数年前なら、ぼくもあの中にいたのだろうなと思っている。
 もちろん個人的な生活がいろいろ変化してきて、なかなか動けなくなってしまったということも大きい。しかし最も大きい理由は、自分自身が何のために何をするのか、よくわからなくなってきたということでもある。

 かつての自分なら、本当の多数派は自分の側にいると信じることが出来た。おそらくいま、国会前に集まっている人の多くも自分たちが世論の多数派であることを確信してそこにいるのだと思う。そしてそれはたぶん事実である。
 しかし一方で自民党は選挙で勝ったからこそ、こうした暴挙に出ることが出来るのであって、それもまた民主主義における多数派の意見の反映なのでもある。
 ぼくは自分のために闘おうとは思ったことはない。社会のため、多数の人のため、未来のために闘おうと思ったのである。しかしもし圧倒的多数の人が望んでこの現状があるのだとしたら、そういう思いは全く虚しい。
 ぼくは自分が民主主義的でありたいと思ってきた。しかしもしかすると、ぼくの正義と民主主義はどこかですれ違っているのかもしれない。

 自民党は今回のやり方こそが民主主義だと胸を張っている。幹事長はむしろ国民の(本気の)デモこそがテロ行為だと主張する。
 これが民主主義というものなのか?

 手続き的に言えば、確かに自民党は選挙で多数の支持を集めたのである。もちろん、直近の二つの国会議員選挙(衆議院と参議院)は裁判所の判断では少なくとも「違憲状態」であり、また徳洲会問題などからは巨大な選挙違反もうかがえ、沖縄選出議員の米軍基地辺野古移転に関する公約撤回はほとんど悪質な詐欺行為で、そもそも選挙自体の正当性には大きな疑問符が付いているのだけれど。

 ただその点はとりあえず置いて考えてみよう。今回の秘密保護法は世論調査でかなりの人たちが強行採決に反対しているから問題になっているが、もし多くの人が賛同していたら問題にしなくてよかったのだろうか。それでは、もし国民の多数が戦争をやろうと言ったら戦争することが正義になるのか。それは「正しい」のか。
 前提的な話だが、民主主義は別に正しい選択をするためのシステムではない。単にある結論を得るためのひとつの手法でしかない。民主主義であることが重要なのではない。民主主義を使いこなすことこそが肝心なのだ。例の「麻生発言」でも「ヒットラーは選挙で選ばれた」と言っている。そのとおりである。

 ずっと感じていることなのだが、マスコミの主張も何かが変だ。何だか与党が悪で、野党が正義の味方みたいな雰囲気になっているが、本当にそうなのか。確かに民主党は強行採決に反対した。しかし、よくよくその中身を見てみると、実は民主党の修正案も基本的な部分は与党案とほとんど変わらない。もちろん、みんなの党、維新の会の修正協議の内容など議論以前の問題である。
 ようするに民主党はただ戦術的に反対しているに過ぎない。立場が反対だったら強行採決をしたのは民主党だったかもしれない。まさに反対のための反対でしかないように見える。
 「数合わせ」をあれほど批判するマスコミが、秘密法反対の場合には内容を問わず、何もかも反対陣営としてひとくくりにして良いものなのか。

 おそらく本質的に秘密法に反対しているのは社共だけなのだろう。生活の党の本心はいつもながらよく分からない。もちろん各党の中には本気で反対の議員もいるだろうが、彼らは党の方針に逆らわない。とくに問題なのは与党の中にいるはずの反対派である。以前のブログで沖縄選出の自民党議員についても書いたが、自分の政治主張が大事なのか権力が大事なのかということでもある。
 多数決に勝つことが大切なのか、その内容が大切なのか。民主主義に対する疑惑はこういうところにもある。

 こういう民主主義と自分の正義との間にあるモヤモヤ感は、20代の頃に一度は整理できたはずだった。しかし、いい大人になって、というよりそろそろ老年期に向かおうとする今になって、また再び自分の前に立ち現れてきた。
 それが、ぼくがいま国会前に立っていない一番の理由なのである。


秘密保護法は何のための法律か?

2013年12月04日 23時58分18秒 | Weblog
 新しい法律を作る、ということは、それまでの法律では間に合わない問題が存在することを意味する。
 たとえば先月「自動車運転死傷行為処罰法」という法律が成立した。ぼくは法律についてはあまり詳しくないので、もしかすると間違っているかもしれないが、この法律は特別刑法と呼ばれる法律群の中に分類されるのだと思う。多くの方がご存じの通り、交通事故・事件において一部の悪質な行為(ひき逃げとか、薬物とか)が、現行の法律の網の目をくぐって処罰が軽くなる場合があり、それを是正するための法律である。
 すでに「危険運転致死傷罪」という罪が決められているが、たぶんこれまではこの罪を取り締まる法文は、狭義の刑法(刑法典)に載っていたのだが、これを刑法から分離して新しい法律に載せ替えることになるはずである。
 様々な議論がずっと以前から行われてきて、少しずつ社会的なコンセンサスが作られてきて、今この法律が成立するに至ったと言える。もちろんこれではまだ不十分だと思う人も多いし、ここからさらに実際に法律を運用していく中で、よりよい方向に法律が整備されていくだろうと期待されるところだ。

 さて「特定秘密保護法」である。
 これもおそらく特別刑法ということになるだろう。ちゃんと調べたわけではないがウィキペディアには、日本の特別刑法で廃止された特別刑法が三つ掲載されている。「戦時刑事特別法」と「軍機保護法」「国防保安法」だ。いわば「特定秘密保護法」はこうした法律の〈穴〉を埋める位置にあることが見て取れる。もう少し踏み込んで言えば廃止された法律の復活が目指されているのである。
 もちろん現状の法律でも「国家公務員法」「地方公務員法」「自衛隊法」などで、職務上知り得た秘密の意図的な漏洩は当然処罰対象になっている。アメリカのスノーデン氏や海上保安庁のビデオ流出実行者のような一部の思想的確信犯などはどんな法律があっても防ぐことは出来ないのだから例外として、現行の法律の不備によって大きな問題があったという話は聞かない。だから危険運転致死傷罪のような多くの人が時間をかけて検討してきた結果、新しい法律が成立するという流れとは全く異なり、今回の「特定秘密保護法案」は突然降って湧いたように現れたのである。ついでに言えば、この間の選挙の自民党の公約にも入ってはいなかった。
 もうひとつついでだが、この法律は自民党が中曽根内閣の時から作りたかった「スパイ防止法」(最高刑は死刑)の延長上にある。更に言えば、これも長年政府が作りたかった「共謀罪」(旧協議罪)がこの法律の中に紛れ込むように組み込まれている。

参考-「秘密保護法 共謀罪 心の中も取り締まる」(信毎web/信濃毎日新聞)

 ところで、この「特定秘密保護法案」には激しい賛否の声があるわけだが、なかなかこの法律の問題を素直にストレートに指摘する論評は少なかった。あまりに範囲が広すぎるし、「何が秘密かは秘密」とか「なぜこの法律が必要なのかも秘密」「指定する範囲には全部『その他』が付いている」とか、もう笑い話にもならないあいまいさで、さらに大臣の答弁は食い違ったり揺らいだり、修正協議をすればするほど内容が悪くなったり、最終段階で首相が第三者機関ではない意味不明のチェック機関の設立を表明したりと、論評する側も何から手をつけたら良いかわからなくなっているのかもしれない。
 しかし本質は単純である。冒頭に書いたとおり、新しい法律はこれまでの法律で取り締まれなかったことを取り締まるために作られるのである。つまり、すでに国家秘密の漏洩を罰する法律がある以上、この法律はそれ以外の〈新しい〉問題に対処するための法律なのである。それは何か?

 もちろん「特定秘密保護法」が戦争を実行するための準備の一環であることは明らかだ。今回の国会で議論された日本版NSCと秘密法は、自民党が来年に上程する「国家安全保障基本法」成立の前提条件だと言う。「国家安全保障基本法」は集団的自衛権の行使を可能にする、すなわち戦争を実行するための法律だ。
 ここでも付け加えるならば、つまりこれはまさに麻生財務大臣の言う「ナチスの手法」である。手続き上の改憲はせずに憲法を無効にする法律を作るということだ。

 ただそれならば「特定秘密保護法」はいったい戦争に向けてどのような準備になるのか。
 それは少しずつ垣間見える事柄から推測することが出来る。

 ひとつは担当の森雅子大臣の国会答弁で、違法な取材活動とは何かを問われた時に、例として西山事件(沖縄返還密約漏洩事件)を挙げたことだ。
 西山事件の詳細はここには書かないが、これは政府が不正を犯した事件である。しかし政府の必死の世論操作によっていつの間にかスキャンダラスな取材方法が問題にされるようになり、いつの間にか話が逆転して政府の重大な不正はうやむやにされてしまった。
 政府の不正を暴くのは通常の方法では難しい。なにしろ国家の最高権力である。アメリカのウォーターゲート事件に象徴されるように、多くの場合は非合法もしくは非合法ギリギリの取材をしなければ隠されたものを見つけることは出来ない。こうしたとき手段は結果によって正当化される。
 なにより違法か否かを決定するのは権力の側である。小さい話を例にすれば、みのもんた氏の息子の事件が起訴されなかった件とか、大きな話では民主党政権のときの中国漁船員の強制帰国処分だとか、それを違法として問うかどうかは権力者の裁量の部分が大きい。
 事実上、西山記者が行ったことはジャーナリストが公務員に取材し何かの情報を聞こうとする行為でしかなかった。これが秘密漏洩の教唆とされたのである。秘密保護法だとこれは共謀、つまり共犯とされるかもしれない。

 また先日から問題となっている石破自民党幹事長の発言がある。
 詳細を書くまでもないが、石破氏は自身のブログで「絶叫」するデモをテロと同じと断じた。その後の批判の中であいまいな謝罪もどきをしたが、事実上、発言は撤回されていない。
 よく引用される「特定秘密保護法案」の条文にあるテロの規定がある。テロとは

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」

というやつだ。
 素人には「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」することがテロであると書いてあるように読める。もっとも法律の専門家によれば、これは「国家若しくは~強要し、又は~殺傷し」がひとまとまりのセンテンスで、このセンテンスと「又は重要な~破壊する」が同列で「活動」にかかる文章なのだという。
 もし本当にそうなら、全くわかりにくい文章だと言うしかない。というよりわざとわかりにくく書いてあるのではないかと疑いたくなる。あえて条文を一人歩きさせるためにこういう書き方をしているのかもしれない。
 こういう批判があることを十分分かった上で、この条文の修正をしない自民党の姿勢が、まさにこの条文の意味を逆に鮮明にしていると思う。
 いずれにせよ、今回の石破発言を重ね合わせると、政権に反対するデモは民主主義的ではない=違法行為だと言うことになってしまう。これではもはや中国や北朝鮮の政府が主張していることと何の違いもない。

 そしてもうひとつ。「特定秘密保護法案」の所管省庁が内閣調査室(内調)だという点である。普通に考えれば外交機密や防衛機密の問題であれば外務省や防衛省が担当するはずだ。しかも担当大臣も消費者庁や少子化問題を担当する森雅子氏である。そもそも法務や金融関係を担当してきた人物で、とても機密保護問題の専門家にふさわしいとは思えない。彼女はただの張りぼての頭でしかない。つまりこの法律は構想から運用まで基本的に内調が完全にコントロールしているのである。
 内調とは何か。スパイ機関である。スパイを取り締まるのが公安警察であるなら、スパイを実行する役割の方が内調なのである。どこかチグハグしていないだろうか。

 ぼくは、この法律はおそらく「スパイ防止」の法律ではなく、「スパイ活動」法なのではないかと思っている。なぜなら前段に書いたようにスパイを防止するための法律はすでに存在しているからだ。新しい必要性とはこれまで何も法律でコントロールできなかった闇の任務をスムーズに行えるようにすることなのではないのか。
 それはもう少し言えば表向きに言われている他国との秘密の共有化ではなく、文字通り「秘密保護」を目的としているのではないのか。
 内調のスパイ活動がどこでどんな風に行われているのかは、もちろん全く明らかにされていない。しかしおそらく当然国内でも活動しているはずだ。そしてそれはまたおそらく、かなり非合法的手段が含まれているのではないだろうか。
 ぼくが疑っているのは、こうした政府機関による非合法活動が表ざたになることを防止するための法律が特定秘密保護法なのではないかということなのである。

 戦争を行うために必要なのは国内世論の形成と、反対派の排除である。まさにこれは内調の仕事である。この法律はそのための法律なのではないのか。
 以前のブログにも書いたと思うが、この法律は別に容疑者を起訴して処罰する必要は無い。容疑をかけるだけでよい。逮捕ぐらい出来れば上等だ。あとは「世間」がその人物を社会的に抹殺してくれる。まあ実際にはその容疑さえ無くてもよいのだ。その人物の関係者を排除するために、その人物がこんな奴と付き合っているんだと言いふらしさえすればよい。その人物自身が直接のターゲットでなくても、その人物が「不適格者」であると宣言するだけで、結果的にターゲットである関係者を排除することにつながる。

 もっといろいろと思いつくことはあるが、もう自民党による強行採決が行われてしまうだろう。
 恐怖政治の第一歩が始まろうとしている。

感動しました、石破先生!

2013年12月02日 12時56分39秒 | Weblog
 自由民主党幹事長であらせられる石破茂先生。
 オフィシャルブログにてご高説を拝読し感銘を受けました。

 特に2013年12月2日付けの「お詫びと訂正」と題された文章の中で

「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います」

 と書かれているのは誠に賢明なご意見と思います。
 もちろんデモや集会は日本国憲法に保障されている日本国民の絶対に奪われてはならない重要な権利であって、いかなる権力でもそれを妨げてはなりません。
 しかし残念ながら、一部の勢力はこの権利を濫用し「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げる」手段として使っている嘆かわしい事態も存在しています。
 当然ご存じのことでしょうが、あの「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の恫喝行為がそうです。

 ここまで明白に書かれている以上、今後、自民党あげて在特会の恫喝行為を徹底的に批判し抑制するために全力でご努力いただけるものと信じております。

 もちろん今日も11月29日付けブログに書かれていたように「議員会館の外では『特定機密保護法絶対阻止!』を叫ぶ大音量が鳴り響」くでしょうが、ご安心ください。永田町にはほとんど「一般の人々」や「平穏を妨げ」られる「市民」は住んでいません。
 当然のことながらデモ隊が大音量で主張を伝えたいと思っている対象は、「ただひたすら己の主張を絶叫」し「世論の共感を呼」べない極右政権と与党、大政翼賛化している野党の議員でしかないと考えられます。国会議員はただの市民ではありません。特別な権限を与えられた公人です。それを聞かない権利はありません。

 もう師走です。慌ただしいからと言って、様々な重要案件を適当に済ませてしまうことのないよう、それからどこかの大臣のように突然入院して雲隠れなどされませんよう、お元気でお過ごしくださいませ。