あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

秋葉原事件は理解しがたいか?

2008年06月10日 09時49分24秒 | Weblog
 秋葉原通り魔殺人事件の続報が報道されてくるに従って事件の全貌がみえてきた。

 マスコミは判で押したように「理解しがたい犯行」と言っているが、そんなことはない。ぼくには「非常に」わかりやすい。
 加害者は思春期の時に「エリート」の道から挫折し、タコ部屋一歩手前の派遣労働者になってしまった。しかも家族も友だちもいないような状況で孤独に鬱屈をためていった。自分が誰からも嫌われていると思い、誰も助けてくれる人がいないと思っていた。それは被害妄想のたぐいであるかもしれないが、誰も彼を「見て」いない環境の中でそれを治療させられることもなかった。
 彼は自分が生きて生きやすいように従順で真面目でおとなしい人間を演じたが(というよりも、それはおそらく彼の本質的な性格だったのだと思うが、逆にそれだから)、他人に見えない内的世界に激しいストレスをため込んだ。そして自分を苦しめたものが「この社会(外的世界)」であると考えるようになる。しかし、政治的にも経済的にも彼に外的世界を変え得る(もしくは外的世界と自分との関係を変え得る)希望はない。前記事で書いたようにかつての日本ではそうした希望や可能性を見いだすことが出来たのだけれど、社会改革運動が不毛と化した時代に生まれ育った若者にはそんなものが存在することすら知られていないのだろう。

 そして彼は自分に取り得る唯一の手段として、捨て身の「特攻」(今風に殉教的自爆テロと言ってもよいが)による外的世界への復讐を決行したのである。

 しかし実のところ、彼は外的社会=他者との関係を断ち切りたかったのではない。最後の最後まで彼は誰かとの関係を作りたがっていたのだ。彼が犯行直前まで実況中継のように書き込んでいた携帯電話のサイトの存在がそれを示しいている。インターネットサイトに書き込みをするのは自分の存在を誰かに知ってもらいたい、誰かに自分(の価値・主張)を認めてもらいたいからだ。彼が事細かく「実況中継」をしたのは、恐らく誰かが気づいて犯行を止めてくれるかもしれないという深層心理があったからではないのか。彼が携帯サイトに最後に「時間です」と書き込んだとき、彼の絶望は本当の絶望となった。やはり誰も気づかなかったと。

 彼がそうやって自分の心情を過剰に吹き出させていたが故に、今回の事件では加害者の行動の意味が「非常に」わかりやすくなっているのだ。ぼくには「理解しがたい」と言い続けるマスコミや多くの「常識人」の方が理解しがたい。彼らは本当に彼の動機がわからないのだろうか。それは自分の価値観や自分の利害とぶつかるから「理解したくない」だけではないのだろうか。
 この事件のことではないが、ぼくも時々「常識人」と話をすることがある。彼らが社会の最底辺にいる人々の実状を知らないのかというと、どうもそうではないらしい。そうではなく「努力していない」「がんばっていない」「我慢しない」というのが多くの「常識人」の感想のようだ。それは裏を返せば、自分は努力家で我慢を重ねてがんばってるのだという自慢話であるわけだが。しかし、そんなことを言い続けることで世の中の何が改善されていくのだろうか。
 今回の事件が凶悪な犯罪で許されない行為であることは言うまでもない。だが今後こうした事件を防いでいこうとするならば、最も重要なことは「彼(ら)」の内面の声に気づき、それを聞き、理解してやることではないのか。
 「理解しがたい」と言って、理解すること・共感することを拒む人々は、加害者の陰の共犯者になっていると思うのである。