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『世界征服~謀略のズヴィズダー~』を(完全ネタバレで)語る

2014年08月10日 13時15分49秒 | Weblog
 「謀略のズヴィズダー」は警告であり、希望の提示であり、革命論である!

 『世界征服~謀略のズヴィズダー~』は、2014年1月から3月にかけて放送されたテレビアニメである(監督・岡村天斎/シリーズ構成・星空めてお/キャラクターデザイン・黒星紅白 他)。
 内容は一口で言えば、変身ヒーロー・アクションコメディだ。もう少し言うと、仮面ライダーとか戦隊ヒーローものに出てくるような悪の秘密結社の怪人の側から描くドタバタコメディで、そこに学園ラブコメや魔法少女、怪獣、SF、ミリタリー、バイオレンス・アクション、ポリティック・ミステリーなどの要素がちりばめられている。連続ドラマだが各話毎にテイストが相当違い、まるで万華鏡をまわしながら覗いているような感じを受ける作品だ。
 基本的に明るく軽いコメディだが構成はかなり複雑で、最初はミクロな一点から始まって徐々に視野が拡大し、最終盤まで観てはじめてこの世界がどうなっているのかがわかる仕組みになっている。だからこの作品のテーマを語ろうとするとどうしても、いわゆるネタバレにせざるを得ない。
 もしこのアニメを楽しみたいのであれば、この記事はお読みにならない方がよいかもしれない。

 物語の舞台は架空の都市である「西ウド川市」だが、現実の東京都下の地理とかなり正確に重なり、立川市、東村山市、東大和市の市域になっている。おそらくロケハンもその付近で行われたのであろう。
 主人公の少年(地紋明日汰=戦闘員ドヴァー)は中学二年だが、父親とケンカをして家出状態になってしまう。少年がいる場所は一見普通の駅前に見えるのだがどうやら戒厳令が敷かれているらしい。家に帰りそびれた少年は、ひとけ無く戦車だけが爆走する夜の町中で、小学校低学年に見える謎の幼女(星宮ケイト=ヴィニエイラ)と出会う。幼女は自分を世界征服を目指す悪の秘密結社の総帥であると名乗り、少年に自分の配下に入るよう迫る…というのが導入部である。
 秘密結社の名前はズヴィズダー。不思議なテクノロジーを操って世界征服を目指す怪人集団だが、変身する前の普段の姿は女子高生、ヤクザ、ウクライナ人少女、ロボットなどで、合宿(?)しながら普通(?)の生活を送っている。一方の「正義の味方」は元をたどれば飛鳥時代から続く少女だけで構成される陰陽師集団・ホワイトライト(+一般のホワイトライト軍)である。ホワイトライトの隊長(ホワイトロビン=駒鳥蓮華)は実は少年と同級生の女の子で、お互いに正体を知らないまま私生活ではなんとなくひかれ合っているという、まあお約束のマンガ的設定もある。

 徐々に明らかになるのだが、このアニメの世界では日本全体が内乱状態にあり、東京勢力対非東京勢力の覇権闘争が続き、東京は東京都軍を各地に派遣、いよいよ九州など一部を除いて日本全国を東京が制圧したというところに来ている。作中にはホワイトライト、自衛隊、都軍などいくつかの暴力装置が登場するが、どうやら日本政府と東京都の二重権力構造になっているらしい。
 この内乱を引き起こしたのは東京都知事(地紋京志郎)で、実は主人公の少年の父親であることが後にわかる。都知事は強権的な独裁者であり、ニヒリストであり、家庭を顧みない「強い人」だ。少年はそうした父に反発して家出したのである。
 作品の舞台である西ウド川市は、そんな中、唯一の中立都市を宣言し戦乱に巻き込まれることを回避してきた。だから西ウド川市を一歩出ると、そこは戦乱で破壊された廃墟が延々と続いている。作品の最終盤で都知事はついに西ウド川市を強制的に併合・解体しようとする。その式典が最終決戦の舞台となる。

 この作品が放送された時点では、現実の東京都知事は舛添要一氏であったが、それ以前は極右タカ派の石原慎太郎氏が長く君臨し、それを受け継いだ猪瀬直樹氏が独裁者と呼ばれた。この作品の中には明らかにこうした都知事のイメージが反映している。石原氏は東京都知事であるにもかかわらず国政問題としての領土・領海問題に積極的に関与し、東京から遠く離れた尖閣諸島を都有地化しようとした。また都条例の強化などを通じて「不健全」なメディアや場所を徹底的に叩いた。
 また作品の舞台である東京三多摩地域は伝統的に住民運動や市民運動、さらには左翼運動の拠点であった。実はぼく自身も左翼党派の活動家だったときに赴任したのが三多摩地区で、実際にこうした場所で活動していた。立川は立川基地反対闘争が数十年にわたって地道に続けられてきた場所であり、今から3~40年前には、中央線沿線の各駅ごとに新左翼各派や市民運動などの拠点が存在した。

 そうした脈略で見ると、ズヴィズダーの「征服」というものが、革命の比喩であると読むことも出来る。そもそも「ズヴィズダー」という単語はロシア語の「星」を意味するそうだし、ホワイトライト側のコードネームが「ホワイトロビン」などの英語であるのに対し、ズヴィズダー側の通り名はロシア語のようである。こうしたところは東西冷戦の米露対立のパロディというニュアンスがあるのかもしれない。
 ズヴィズダー総帥である幼女=ケイトは、設定上は「古代ウド川文明」に興った王国の王女で、世界征服の使命を受けたのだが、それ以降、成長することも死ぬことも出来なくなったということになっている。ちなみにズヴィズダーが用いる超科学的機器・武器などは、この古代ウド川文明の秘密の遺産である。
 世界征服を志したとたんに成長が止まり不死になるといういうのも、ひとつの暗喩として読むことが出来る。ひとつはそれは汚れた大人の論理ではなく、青少年時代に人が持つ純粋な理想であることを意味し、そしてまたそれは人類に文明が発生して以来の永遠のテーマであることを意味しているのではないだろうか。「世界征服」は人類間の争いを消滅させ、共存できる世界の定立を言っていると、ぼくは解釈した。
 そもそもズヴィズダーの「征服」は武力によらない。ウィキペディアの記載を引用するならそれは「「征服実行」による「ヴィニエイラ式変異打倒説得術」(中略)ただし、「説得」に応じる「心」を持つ者でないと無効化される」ものである。

 第一話でそのケイトが初めて本格的な征服を開始した場面、敵方である自衛隊の戦車隊長との会話を引用してみる。

隊長「おい、何をする気だ。貴様一人で何が出来る?」
ケイト「確かにそうだ。わたし一人では何も出来ない。…お前たちが必要なのだ。征服される世界のために! お前たちはその力で何を守る気だ。家族か? 国家か? 未来か? 戦車で守れるのはくだらん軍需産業だけだ。秩序で守れるのは妥協だけだ。平和なんぞで守れるのは昨日だけだ! この世界を守れるのはただひとつ! 征服だ! 征服しかない! 世界は征服されたがっている。わたしにはその声が聞こえる… 征服の、征服による、征服のための、征服っ!」
隊長「そ、そんなの… リンカーンのパクリじゃねえかあー!」

 どうだろう? 「征服」を「革命」に置き換えるとしっくりこないだろうか。もっとも最後のリンカーンのくだりは、この後のシーンにつながって、また別の比喩(暴力に負けてしまったら理想は実現できない)にかかってくるようにも思えるが。
 「征服」について、もうひとつ、最終回で都知事と直接対決するケイトの会話も引用してみよう。

都知事「じゃあ何か、おメェはいちいち倒す相手の前にそのツラさげに行くってのか? それがお前の征服だってのか!」
ケイト「そうだ!」
都知事「うっ? …ふっわっはっはっは、あっはっはっは!」
ケイト「何がおかしい! 行くのだ。わたしはこの足で、世界中の全ての者に会いに行く。この世界に共に生きるローニャクニャンニョ(老若男女)に会いに行くっ。その者たちをことごとく征服するために! その程度やり遂げずして何が世界征服か!」
都知事「夢みてぇな事を… それじゃまるでてめぇが征服される方じゃねえかぁ! 世界中と顔なじみになって、それからどうすんだぁ! えぇっ!」
(中略)
ケイト「地紋京志郎、ケンボージュチュチュー(権謀術数)にチュカ(疲)れ、理想を過去に置いてきたと言うのなら、思い出させてやろう、この拳でなあ!」
都知事「理想なんてくだらねぇって言ってんだろぉっ!」
ケイト「求める限りあるのだ。それが征服の力なのだ! 理想を失ったそんな軽い気持ちで、誰の心も動かせるものかあーっ!」

 胸のすくクライマックスのタンカである。ここに見られるように、ズヴィズダーにおける「征服」は、相手の懐に飛び込み自らが征服されることによって、はじめて成し遂げられることなのである。それは逆説的に都知事のやり方=暴力によって強制的に人々を従わせるのとは真逆であることを示している。また別の言い方をすればこれは理想主義対現実主義の対決でもある。

 『世界征服~謀略のズヴィズダー~』は、こうした読み方をしたとき、現在の日本に広がりつつある国家主義的、強権的・暴力的な支配に対する警告であると同時に、しかしそうした動きを跳ね返す希望が存在することを教えてくれる。それは現実主義を掲げた強権ではなく、心によってつながろうとする理想主義をもって対抗することであり、それはまさに革命であり、しかもそれは自分が征服するのではなく相手に征服されることによって実現されるようなものであるべきだということなのである。

 ズヴィズダー総帥・ケイトはボスキャラ=都知事をも殲滅するわけではない。都知事から理想主義を奪い背後で操る「やつら」が存在することを知っているからである。都知事は都知事でズヴィズダーを「やつら」の手先であると攻撃する。「やつら」が何であるのかは作中で語られることはない。今後の新作などで何かしらの展開があるのかもしれないが、ぼくなりに解釈するなら、それは人間の欲望の集合なのかもしれない。
 何度かこのブログで指摘したと思うが、近代は人間の欲望を全面的に解放した時代である。近代が特殊な時代であるのは、誰か特定のひとりの欲望ではなく、解放された欲望がそれ自体自己運動をすることによって社会が動かされていくからである。皮肉なことだが、それをアダム・スミスなどは「神の見えざる手」であると表現した。近代の初期においては中世の暗黒から人類を救ってくれる正義の神の力であったものが、やがて成熟してくると邪神(もしくは悪魔)に変わり、人々を苦しめるようになったのである。
 ぼくはこの作品で触れられている「やつら」を、まさにこの邪神=人間の制御されない欲望の集合=強欲思想であると考える。この邪神との闘いは困難であり、またその対抗手段は理想主義しかないのだけれど、それを永遠の子供の魂でもって掲げ続ければ、いつか人類は世界を本当の意味で征服=被征服できるかもしれない。

 もうひとつ、近代は疎外の時代でもある。古代からあった人間社会の紐帯は「カネ」「経済」の概念に全て置き換わり、人間と人間との生の関係性が失われてきた。近代の邪神と戦うためには、必然的にこうした疎外と闘い新しい人間同士の紐帯を築かなければならない。
 この点に関して、最終話の最後に加えられているエピローグから、ケイトと明日汰との会話を引用して終わろう。

明日汰「ケイト、お前さぁ『世界中の人の前へ押しかける』なんて言ってくれましたが、呼ばれもしないのに相手の心にズカズカ踏み込んでいく必要なんてあるのか? それって悪いことなんじゃ…」
ケイト「悪いとも! 迷惑千万きわまりなかろう! だがそんなもんは知らん」
明日汰「なっ、あ!?」
ケイト「お手軽な楽園が欲しければ勝手に閉じこもっているがいい。それでも未来は否応なくやってくるのだ。わたしの未来はきっとお前の中にもあるぞ、ドヴァー」
明日汰「無いね。ふん」

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