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統一教会と保守政界の癒着の本質的問題

2022年07月31日 21時40分35秒 | Weblog

 もうずっと言い続けているのだけれど、少なくとも現在の日本の保守、右派、右翼、復古主義者、民族派という連中のほとんどは、本当の意味の復古主義でも民族主義者でもないエセ右翼である。今回の安倍元首相殺害事件に端を発した旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合、以下統一教会)と保守政治家の癒着問題は、それを改めて示した。

 統一教会は「反日」主義であり、政治や文化をすべて自らの教義の下に統一しようとする運動だ。お笑いなのは、それに頼って選挙に勝ち、あまつさえ教義と教祖を絶賛するような政治屋連中を、熱烈に支持してきたのが「嫌韓」派だということ。普通に考えたら統一教会の目的は日本政治の韓国側からの乗っ取りであり、日本支配なのに、である。
 岸信介以来、保守派は統一教会と国際勝共連合などの反共運動で結びついてきたと言われるが、現実には教会は北朝鮮を認める方向に動いており、少なくとも日本のウヨクが思うような「反共」では無くなった。それでも日本の右翼政治家が統一教会と癒着するのは、ようするに自分の権力、権益を守るためと言うことに尽きる。つまり選挙に勝ち、政権を維持するために力を利用する、それだけだ。そこに政治信条など関係無い。
 もちろん統一教会もただ利用されているわけでは無い。むしろ彼等からすれば日本の政治家を利用して、自分達の野望を着々と実現しているのだと言える。
 巷間では、悪印象の強い「統一教会」の名称変更が実現したのも安倍政権への食い込みの成果だと言われているが、そうでなくても政権党の「お墨付き」を得て信者を拡大し、資金を集め、何より日本政治への影響力を強めている。教会側の政策がそのまま自民党に採用されているかどうかはともかく、「家庭」=イエ制度の重視、反LGBTQ・反同性婚などの政策は自民党右派が押し進める政策と一致しているのだから、彼等にとっては実質的に自分達の求める方向に向かっているのと同じである。
 もっと言えば、これだけ長いあいだ統一教会が日本政治に介入し続けていることを考えれば、保守政治家の中に純粋の統一教会信者が隠れている可能性も十分あり得る。実際、若いときに原理研だったという噂のある有力政治家もいるし、公然と信者だと紹介された政治家もいる。

 しかしなぜこうも易々と「反日」と「嫌韓」が癒着出来るのか。それは右翼にとって、これは別段特別な事でも不思議なことでもないからだ。明治維新以来ずっとやってきたことだからだ。
 これも何度も言っていることだが、明治維新は西欧絶対主義とキリスト教文化の密輸入であった。その文化的基盤であるキリスト教文化を天皇制(*)・皇国史観・国家神道として創作した、これが近代日本の始まりである。(*)ここでの「天皇制」は本来の意味での「天皇制」、すなわち近代日本における天皇制を指し、それ以前から続く歴史的天皇制度とは区別する。
 そもそも「尊皇攘夷」は佐幕派のスローガンであった。彼等にとっての尊王攘夷は伝統的な「日本」の護持であったかもしれないが、討幕派はそのスローガンから攘夷を抜き去り、尊皇を換骨奪胎して異形の天皇制国家を生み出したのである。
 その歪みは日本近代の根底に延々と残り続けることになる。それは「脱亜入欧」から「大東亜共栄」、そして日米安保へと、矛盾した政策と思想が単純な一本線の上で繋がることを可能にさせた。それは何故なのか。

 それはこういうことだ。
 日本近代の支配層は、まさに世界史的必然として資本主義社会における勝者となることを唯一の目的としてきた。彼等は本質的に近代人であった。彼等は倫理や思想では無く欲望を解放された個人として、自らの欲望に向かって突き進む人間として自己形成された。本来であれば彼等は合理主義者であり、伝説的・神話的価値観などに縛られることは無い。
 その一方で、資本主義社会の圧倒的多数は「敗者」である。これまでの人類史のどの時代でそうだったように、少数の「勝者」は多数者である「敗者」を服従させ取り込まねばならない。更に言えば近代の基盤は「自由・平等・博愛」(*)だから、資本主義は民主主義と(少なくとも建前上は)一体であることで初めてその正当性を主張できる。(*)ぼくはあえて「博愛」という用語を使っているが詳細はここでは展開しない。
 近代人である新たな支配層は民衆にその支配を納得させるするための思想的根拠を示す必要に直面した。それがレトリックとしての皇国史観であった。そして合わせてそれを実体化する義務教育と国家神道が整備された。
 支配層にとって皇国史観はあくまでレトリックであり、彼等自身がそれを信じる必要も縛られる必要もない。ただ被支配層にはそれを徹底して植え込み、信じさせなければならなかった。支配層は(意識的であれ無意識的であれ、事実上)右翼・民族主義者を演じ、被支配層を煽り続けた。支配層の唱える復古主義は真の意味での古来日本文化では無く、実は西欧近代主義を和装させただけのニセモノでしかなかったのだが。

 近代人として自分の利益の追求には合理的である支配層と、非(反)近代的思想に「洗脳」された被支配層という構造が、一見矛盾に満ちた近代日本史の謎の答えである。
 戦後史で言えば、自己保身のために米国の支配の下にためらいなく入った支配層と、その支配層が演じるナショナリズム、自国第一主義の幻想を信じて支える被支配層という構図が、矛盾を矛盾のまま放置させることを可能にした。今問題となっている「反日」統一教会と「嫌韓」ウヨクが結果的に矛盾を放置しながら癒着できるのも、その構造の故である。
 もちろんこれは日本だけの構造では無く、北朝鮮でも中国でもロシアでも同じ構造が見られるし、それはまた、まさにカルト集団の教祖と信者の構図とも重なるのである。

 統一教会の反社会的な様々な問題は糾弾され、排除されなければならない。政治の腐敗も問われねばならない。しかし最も重要なことは、これが近代日本の本質的問題と深く繋がっており、また現代の専制主義国家の一般的構造とも重なっていることを理解することにある。仮に表面のサビを削ることが出来ても、その腐食の原因を見つけて取り除かない限り、いつまでもサビ続け、やがて全てが崩壊していくことになるのだから。