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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

安楽死のニュースをもう少し考えてみよう

2014年11月04日 09時56分51秒 | Weblog
 アメリカの女性がインターネットで宣言してから安楽死した。日本でトップニュースになるくらい大騒動になっている。人の死くらい静かに見守ってやればいいのにと思うのだが。そこには何か人の心を揺さぶるものがあるのだろう。ただ実はもっと暗くて深い「何者か」の思惑も反映しているかもしれない。

 安楽死と尊厳死は必ずしも同じではないが、先進国の中で尊厳死について法制化されていないのは日本くらいだという主張がある。一方で国際社会が死刑廃止の原則で動いている中、日本は頑なに死刑を存続しようとしている。もうひとつ、日本は脳死移植医療の発展拡充を狙ってもうずいぶん以前から脳死を法制化し、今では子供にまでその範囲を広げている。
 人の死とは何か、ということについては、以前に少しだけ書いたことがあるが(鎮魂の月に「死」を考える)、今回は「死を司る者」という観点から考えてみたい。

 死を司る者には三者いると思う。神と自身と第三者だ。
 はるか昔から人は神が死を司ると考えてきた。詳しくはないがたいていの宗教では自殺も他殺も禁じていると思う。つまり人が勝手に人の死をもてあそんではいけないということだ。アメリカで今回の安楽死に反対する人々も、キリスト教の戒律に反するからという理由が大きいらしい。
 自分自身が死を司るということは、もちろん今回のようなケースを含めて広い意味での「自殺」の肯定である。そして第三者が司る死とは「殺人」であり、そこには犯罪的なものだけではなく戦争や死刑など公的な殺人も含まれる。
 もちろん簡単に単純化するのは難しいが、それをあえて単純化してみると、神が優先されるのは古代的思想であり、個人を優先するのは近代的思想が背景にあると考えられる。それでは第三者の優先とは何か。封建主義、もしくは近代国家主義ということになろう。

 こういう視点から見てみると、アメリカの死の制度はそうした各者の思惑の「いいとこどり」である。それぞれの力関係の中で、それぞれが一番自分に都合の良いところを取り合っているように見える。
 日本はどうかといえば、民衆の中にある広い思想的背景は「日本宗教」とも呼べる古来から続く自然宗教的死生観、つまり自然にゆだねるという考え方であるように思われるが、こと制度上から見ると、ほぼ完全に死を第三者によって支配させようとするあり方だ。

 現代の日本人はおそらく死について思うところはあると思うが、それを制度として考えることは不得意なのだろう。それは論理的に思考するべきことであり、そのためには論理の基準点としての自分自身の思想を見定めなくてはならないからかもしれない。
 欧米人はその点、たとえばキリスト教というようなはっきりした原点が存在する。それに沿って行くにしても反発するにしても、中心点がはっきりしているからそのパースペクティブが取りやすく、論理化しやすい。日本人も実は「日本宗教」を根底に持っているのだが、それは明文化されたものではないので、そこから論理を広げることが難しく、結果的に外側から入り込んだ文章化された「思想」をついつい受け入れてしまうのだ。
 それは古くからの朝鮮や中国文化の取り入れや近代における西洋文化の取り入れとして表れ、それは明治維新におけるキリスト教と絶対王政を国家神道・皇国史観・天皇制としての密輸入する背景ともなった。

 死刑は保持しながら、尊厳死は認めず、しかし脳死は合法化するという日本における死の制度は、はたして自然に生まれてきたのか。それは本当にあなたの考え方に沿っているのか。誰かにとって都合の良い制度を気づかぬうちに押しつけられているではないのか。
 今回のニュースをただのエピソードに終わらせるのではなく、自分の「常識」がどこから来ているのか、そうした思想的な訓練、演習として、もう一段深く考えてみてもよいのではないだろうか。
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