東北地方太平洋沖地震全難聴対策本部

阪神大震災を超える超大型地震の難聴者等支援情報提供

【対策本部】110528全難聴災害対策会議 被災地報告-福島県

2011-06-01 07:39:11 | 支援活動報告

5月28日(土)夜、全難聴総会を前に全難聴東日本大震災対策本部会議が開催され、被災地域の代表にもご参加いただきました。

福島県中途失聴・難聴者協会 村松会長


義援金や支援物資ありがとう。3/11当日、私は東北大学病院入院から外泊していた。被災で10日間、病院に戻れなかった。会員消息をFAXで尋ねた。ライフライン絶たれ、停電でFAXも使えず、確認できるようになったのは2、3日後。

原発事故もあり、特に県内でも浜通りに住む会員は放射線漏れであちこち避難してしまい家にいない。津波で流された会員もいたと、後で分かった。しばらくたって会員全員が無事とわかった。

4/3に全難聴から義援金と支援物資を受け取った。4/15に避難所や公的窓口に配布しようとしたが、手順があるようで、やたらに行っても入れない。市役所に行って、そこから社協に連絡。社協がまとめていた。

中途失聴者が支援物資を持って行っていいか、確認が必要だった。要約筆記者の情報で、支援物資が余っているとのことだった。

東総合体育館、ここは浜通りの会員が避難していたところ。1000人以上いる。これから行くと連絡したが、電池やメモ用紙はすでに配布済みで不要との返事だった。それで避難所に行くことはできなかった。

協会の理事会・総会の予定があったが会員に連絡できず、中止、延期となった。

改めて6月5日、総会をやることになった。会員にアンケートをとり、被害状況をまとめたいと思っている。

 


倉島事務局長


福島は震度6強だったと思う。大きな揺れが2分以上続いた。家が倒壊するか、一巻の終わりになるかと思った。歩けない、逃げようもない状況。柱にしがみついていただけだった。

浜通りは震度7。津波もあった上に、原発事故も。三重苦だ。

浜通りに住んでいた会員のうち、二人の家の一部が流された。本人や家族は高台に避難、無事だったが、家財が流出、家の残骸が残った。これもいろんなところに問いあわせて、5月に入ってからやっとわかったこと。ろう協は情報網が完備していたようだ。

避難所名簿から調査し、二人のうち一人はまず息子のいる会津若松市に避難、それから郡山市の妹のところに移って、やっとハガキで無事がわかった。

もう一人は自宅では生活できず、娘のいる埼玉に転居。協会も退会してしまった。


協会の避難者は4人、一人は状況が不明、透析しているので心配している。FAXにも返事がない。無事なことだけはわかっている状況。他の会員は家が一部壊れたり、室内に散乱した程度。

ろう協と聴覚障害者対策本部立ち上げたが、ほとんどろう協側がやっている。ときどき事務所に、物資を配る等の連絡がある。携帯電話とパソコンの中間のようなものなどが配布され、2ヵ月間貸与してもらっている。


4月はじめにJDF支援センターの福島県本部立ち上げの発会式が、郡山であった。JDF支援センターから連絡があり、私が出席したが、要約筆記もループもなく、内容が理解できず帰宅した。

(小川)


4月3日福島市で。写真右から福島難聴会長の村松さん、全要研福島支部長丹治さん、福島難聴事務局長の倉島さん、佐野全難聴事務局長。

 


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