今年はワーグナー生誕200年の記念年。しかしNHKの放映はさびしい限り。バイロイト中継は7月のガラコンサートと8月25日深夜の「さまよえるオランダ人」だけ?。もちろんヴェルディも200年記念年だがこちらもさびしい。それよりも貧乏人にとってのNHKは唯一音楽を楽しめる放送だが、その放送量もBS2の時代に比べ、質・量ともに低下した気がする。
放送量もさることながら、演奏そのものも、「西欧のたそがれ」を強く感じた。ここ数年のバイロイト音楽祭は、新しい芸術の芽吹きを感じるものはなく、マスコミ向けのスキャンダラスな演出と、関係者のゴシップ騒動で、芸術外の賑わいが、演奏の話題を超えている。もうすでに法外な入場料を夏の観光セット料金に組み込むイベント化しているのだろう。(もっとも行けない者の僻みでもあるが)
それにしても今年のオランダ人の演出はひどさを通り越した、改作劇でオランダ人とは別のものを、これこそマスコミ向けに音楽祭に集う金満家向けへのしっぺ返しなのだろう。でもそれが演出家にとって何の価値があるのだろうか、最後の会場からのブーイングの大合唱を期待して何が楽しいかを聞いてみたい物だ。
この演出を受け入れた演奏者の本音を聞いてみたい。特にバイロイトの救世主ごとき扱いをマスコミから受けている指揮者テーレマンにはぜひともこの演出の解釈を聞いてみたいものだ。
「扇風機工場の女工もそのセールスマンもキリスト教ではその下済み生活は救済できない」とでも言いたいのだろうか、しかしワーグナーの音楽のどこに接点があるのだろうか。あまりにも安易な演出は、ここバイロイトの名物となるだろう。
チューリヒオペラの現代への置き換え演出はある種の古典の伝統を乗り切れない現在のヨーロッパ文化の停滞の表れだが、バイロイトのここ数年のナチスの亡霊、自虐の歴史観はなにか次に来るヨーロッパからの反動の予感を感じて薄気味悪い。
手持ちのメディアはLP時代は、ワーグナーの中では全曲が短いこともあり最初に手にした。ただし値段の安い輸入盤のため言葉の理解は難しかった。
カラヤン盤はCD時代直前のデジタル録音で行われたLPだった。いつものカラヤンのオペラ録音同様、彼がチョイスした当時のスターをそろえたものであるが、男声陣はその後の録音も豊富だが、女声のゼンタ役のDunja Vejzovic,マリー訳のKaja Borrisの活躍は知らない。ここではバリトンのJose van Dam とバスの Kurt Mollの出来がすばらしい。
CD時代になり、録音は1960年と古いがオランダ人がフィシャーディスカウ、そして舵取りの端役にF・ブンダーリッヒを配した、コンビチュニーとベルリン国立歌劇場盤を入手した。偉大な人は最初から人並みはずれているのだということを思い知った。このCDは「オランダ人」を聞くためのCDだ。
DVDはサヴァリシュとバイエルン歌劇場との最初の版を購入したが、ここの聞き物はカテリーナ・リゲンツァのゼンタだ。リゲンツァはクライバーの指揮するトリスタンでバイロイトのデビューをしたがその後はすぐに引退してしまい、我が手元にはベームとのエレクトラのクリテムネストラを演じる映像しかなく、ワグネリアンとしての彼女の声を聞きたくて入手したが、音と映像の別撮りでしかも省略もあり購入を悔やんでいる。
NHKの放映された中では、大野和士とブルッセルのモネ劇場が楽しめる。いずれもがオランダ人も船長も肥満の大男の役柄が、ここではスリムで知的な役柄になり、筋の流れが明瞭でゼンタも見栄え良く、要所をCGを駆使した舞台設定が見ていて楽しい。
役者のネームヴァリューでは1998年のテーレマンとベルリンオパーで、今年のバイロイトに比べれば数段上だが、それはバイロイトがひどすぎるだけで、必ずしもフリードリヒの演出が優れているとは思えない。ただ男声陣はオランダ人のベルト。ワイケル、船長のマルッティサルミネン、、エリックのペーター・ザイフェルトとスターを並べ、ゼンタにはロイヤルオペラを肥満を理由に首にされる前のデボラ・ヴォイトで声には不満はないが、舞台そのものが暗すぎ演出そのものの評価はバイロイトでは評価は高かったが、私はあまり評価できない。あまりにも暗すぎるのと、最後の場面が意味不明で終わるのが解せない。
小澤版は役者は私にはなじみがない人たちだが、それなりにさすがウィーンのできばえで、演出もフリードリヒの流れを汲む終始暗めの舞台進行だが、筋書き通りの演出でわかりやすい舞台だが、何か物足りない。
そんなわけで、手持ちの中には決定盤はなく私には「さまよえるオランダ人」で今後は現在廃盤中のサヴァリッシュのEMIでの実況版を探すか、新規の映像を期待することにしたい。
放送量もさることながら、演奏そのものも、「西欧のたそがれ」を強く感じた。ここ数年のバイロイト音楽祭は、新しい芸術の芽吹きを感じるものはなく、マスコミ向けのスキャンダラスな演出と、関係者のゴシップ騒動で、芸術外の賑わいが、演奏の話題を超えている。もうすでに法外な入場料を夏の観光セット料金に組み込むイベント化しているのだろう。(もっとも行けない者の僻みでもあるが)
それにしても今年のオランダ人の演出はひどさを通り越した、改作劇でオランダ人とは別のものを、これこそマスコミ向けに音楽祭に集う金満家向けへのしっぺ返しなのだろう。でもそれが演出家にとって何の価値があるのだろうか、最後の会場からのブーイングの大合唱を期待して何が楽しいかを聞いてみたい物だ。
この演出を受け入れた演奏者の本音を聞いてみたい。特にバイロイトの救世主ごとき扱いをマスコミから受けている指揮者テーレマンにはぜひともこの演出の解釈を聞いてみたいものだ。
「扇風機工場の女工もそのセールスマンもキリスト教ではその下済み生活は救済できない」とでも言いたいのだろうか、しかしワーグナーの音楽のどこに接点があるのだろうか。あまりにも安易な演出は、ここバイロイトの名物となるだろう。
チューリヒオペラの現代への置き換え演出はある種の古典の伝統を乗り切れない現在のヨーロッパ文化の停滞の表れだが、バイロイトのここ数年のナチスの亡霊、自虐の歴史観はなにか次に来るヨーロッパからの反動の予感を感じて薄気味悪い。
手持ちのメディアはLP時代は、ワーグナーの中では全曲が短いこともあり最初に手にした。ただし値段の安い輸入盤のため言葉の理解は難しかった。
カラヤン盤はCD時代直前のデジタル録音で行われたLPだった。いつものカラヤンのオペラ録音同様、彼がチョイスした当時のスターをそろえたものであるが、男声陣はその後の録音も豊富だが、女声のゼンタ役のDunja Vejzovic,マリー訳のKaja Borrisの活躍は知らない。ここではバリトンのJose van Dam とバスの Kurt Mollの出来がすばらしい。
CD時代になり、録音は1960年と古いがオランダ人がフィシャーディスカウ、そして舵取りの端役にF・ブンダーリッヒを配した、コンビチュニーとベルリン国立歌劇場盤を入手した。偉大な人は最初から人並みはずれているのだということを思い知った。このCDは「オランダ人」を聞くためのCDだ。
DVDはサヴァリシュとバイエルン歌劇場との最初の版を購入したが、ここの聞き物はカテリーナ・リゲンツァのゼンタだ。リゲンツァはクライバーの指揮するトリスタンでバイロイトのデビューをしたがその後はすぐに引退してしまい、我が手元にはベームとのエレクトラのクリテムネストラを演じる映像しかなく、ワグネリアンとしての彼女の声を聞きたくて入手したが、音と映像の別撮りでしかも省略もあり購入を悔やんでいる。
NHKの放映された中では、大野和士とブルッセルのモネ劇場が楽しめる。いずれもがオランダ人も船長も肥満の大男の役柄が、ここではスリムで知的な役柄になり、筋の流れが明瞭でゼンタも見栄え良く、要所をCGを駆使した舞台設定が見ていて楽しい。
役者のネームヴァリューでは1998年のテーレマンとベルリンオパーで、今年のバイロイトに比べれば数段上だが、それはバイロイトがひどすぎるだけで、必ずしもフリードリヒの演出が優れているとは思えない。ただ男声陣はオランダ人のベルト。ワイケル、船長のマルッティサルミネン、、エリックのペーター・ザイフェルトとスターを並べ、ゼンタにはロイヤルオペラを肥満を理由に首にされる前のデボラ・ヴォイトで声には不満はないが、舞台そのものが暗すぎ演出そのものの評価はバイロイトでは評価は高かったが、私はあまり評価できない。あまりにも暗すぎるのと、最後の場面が意味不明で終わるのが解せない。
小澤版は役者は私にはなじみがない人たちだが、それなりにさすがウィーンのできばえで、演出もフリードリヒの流れを汲む終始暗めの舞台進行だが、筋書き通りの演出でわかりやすい舞台だが、何か物足りない。
そんなわけで、手持ちの中には決定盤はなく私には「さまよえるオランダ人」で今後は現在廃盤中のサヴァリッシュのEMIでの実況版を探すか、新規の映像を期待することにしたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます