6月、7月、8月と震災の影響で来日中止だったりで音楽会に行く機会が少なかった反動か今月はオペラ「カルメン」と今日のモーツァルト、そして来週はブルーノ・ゲルバーのベートーベンの四大ソナタとコンサート通いが続く事になった。
その中でも今日のコンサートは正直一番楽しみにしていた。
所沢ミューズではフィガロ、ドンジョバンニとオペラは聴いたが、これまでモーツァルトの交響曲を聴いた記憶がないのだ。またこれまでのコンサートゴーアーの長い経験からも三大交響曲を一夜のプログラムで聴いた経験はなかった。何処で休憩を挟むか興味があったが、前半39,40の後に休憩が入るプログラムだった。
客席は例のごとく空席が目立ちすぎるくらい目立ち、我が定席の最上段の最後列は誰もいない1だけのマイルーム。
どうもプログラムからは札幌、東京、大阪、鎌倉、四日市だけの公演だが所沢だけが三大交響曲なのだがこの客の入りはそもそも所沢の文化水準が図りかねる客の入りだ。
やはり不況なのだろうか。企業スポンサーがつかずに「ダダ券」が出回らないのか。不況のベートーベン、バブルのモーツァルトの「定説」になるか、来週の日曜日はベートーベンなので結果がわかることになる。
モーツァルテウム管弦楽団のCDはペーター・グラーフの指揮によるモーツァルトの初期交響曲集を始め何枚かの手持ちのCDはあるのだが、指揮者アイヴォー・ボルトンはDVD1枚しか所持していないのだが、このDVDは非常に気に入った出来なので、期待していた。このDVDについては別の日に述べたいと思う。
グルック:「オルフェーとユリディス」(「オルフェオとエウリディーチェ」 ベルリオーズ編)
ヴェッセリーナ・カサロヴァ(オルフェー)
ローズマリー・ジョシュア(ユリディス)
デボラ・ヨーク(アムール)
バイエルン国立歌劇場合唱団
アイヴァー・ボルトン(指)バイエルン国立管弦楽団
演出:ナイジェル・ローリー,アミール・ホセインプール
最初の39番の序奏からピリオド・アプローチの魅力が溢れでた魅力ある音楽だ。イギリス人はモーツァルトの音楽が会うのだろうか。元来ピリオド・アプローチはイギリス人の考え出した指揮者の登竜門なのだろうか。?。ホグウッド、ノリントン、ガーディナーとローカルピリオド楽団を率いてメジャーになったが、ボルトンも同様の道を歩むのだろうか。
ノリントン、ガーディナーのモーツァルトは聴いていないので、比較はできないが、ホグウッドよりは強弱のアクセントは強く、メリハリをはっきり打ち出した演奏で、小気味良い演奏だ。特にピリオド楽器のホルン、トランペットの幾分くすんだ音色も魅力を感じた。また第一Vn,Vc、Va、第二Vn弦楽の並びに、第一Vnの後ろにコントラバスの配置は、リズムの刻みが明瞭に聞こえたがその分響きの融け合った柔らかさは失っていた。でもそれも良しとする出来栄えだった。
40番もどこぞの国の評論家により「悲しみのシンフォニー」なるものに変えさせられたローカル価値観を微塵にも感じさせないリズム感で貫かれた生き生きとした音楽だった。
これはホグウッドも同様だがホグウッドの響きは軽く柔らかいがボルトンのは響きに荒さがあり躍動がある演奏だった。このモーツァルトの多面的なアプローチ、価値観が面白いと思った。
41番はその良さが一番感じられた。聴いていて心楽しい演奏だった。何度も繰り返して聴きたいとは思わないが、演奏会としては満足出来たコンサートだった。
アンコールも K.408行進曲 K.63カノンの2曲とも素敵だった。
家に帰りホグウッドの交響曲全集を引っ張り出し、比較しながら聞き直すと、イギリス人指揮者の分析力と言うか物事の見方の個性強さと言うか、計算ずくの自己主張の旨さを感じた。
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