とりとも雑楽帳

狭山丘陵の里山歩きとクラッシク音楽の鑑賞日記です。

雨の日はオペラ 2015年バイロイトのトリスタンをNHKの録画を観て

2015年11月08日 | オペラ

「トリスタンとイゾルデ」については2011年2月11日に 下記にこのBlogですでに述べているが、今年のバイロイトは、いよいよというかやっとというか、ティーレマンの指揮で行われたことから、NHKでの放映を録画したものだが、4時間の大作ゆえになかなか見る時間ができずにいたが、雨で家にとじこもりやっと見ることができた。

 http://blog.goo.ne.jp/yyamamot7493/e/2d7d4bc897f7f61a9a7348d9ae4299fa

 期待が大きかった分だけ、見た後の失望も大きかった。最もその原因はティーレマンの音楽というよりは、ここ数年「毎度おなじみのバイロイト流の演出」にあるのだが、ひ孫のカタリーナ・ワグナーの演出は、物語の筋書までをいじくりまわすのはひ爺さんワグナーに対しての冒涜であり著作権の侵害だろう。特に幕切れの、心中の片割れを妻として連れ戻すなどとは、劇の余韻も台無しの演出に拍手が起こるのは、バイロイトがすでに芸術のパトロンのための音楽祭ではなく、世界一高い入場料を売りとする成金趣味者の音楽祭となって、オイルマネーと華僑の資金還元劇場化していく先ぶれの証だろう。

 前回述べた2008年のトリスタンはまだ、シュナイダーの音楽が「これぞトリスタンの音」を味うことができたが、ティーレマンの音は演出で消し飛んだ。

 前回以降に入手した手持ち

 

 パトリス・シェローが1976年の衝撃のバイロイトでの「リング」から30年、トリスタンを残して世を去ったことは、素晴らしい彼の遺言だった。昨今のバイロイト演出の、「置き換え」演出と根本的に違うのは、登場人物のその場面ごとの心理描写を演出したのであって、衣装、舞台といった「物を現代に置き換えた」演出とは基本的に相違がある。この映像からは、バレンボイムの音楽も既出の前2作のように舞台の「美しさ」に合わせた、音の流れというよりは、むしろトリスタンとイゾルデの心理変化に合わせた音の強弱を巧みに作り出している。マイヤーの一人舞台とも言えなくもないが、その意味ではサルミネンのマルケ王が舞台を締めて出来は素晴らしいものになっている。

 

今回在庫整理をしていたら思いもかけず1990年11月1日にNHKホールで行われた、当時は東独であったベルリン国立歌劇場の引っ越し公演をNHKが放映したのをVTR録画したものをDVDにダビングしたのが出てきた。四半世紀前の録画だけに当時のTVカメラの感度性能が悪く、全般的に暗く鮮度がないが、それでも今年のバイロイトよりは楽しめた。演出がエアハルト・フィッシャーで、写真でしか知らないが、ヴィーラント・ワグナーの演出を彷彿する舞台で、ハインツ・フリッケの指揮も特に不満はない。出演者はトリスタンがハインツ・シウコラ、イゾルデがエヴァ・マリア・ブントシュとマルケ王役のジークフリート・フォーゲル以外は当時も今もなじみはない人たちだが、聴き終わった後では、昨今のバイロイトに比べれば、数段上の内容と思えた。

「トリスタンとイゾルデ」を見るたびに学生時代に見た映画「心中天網島」を思い出す。篠田正浩の演出も武満徹の音楽もすごかった。もととなった浄瑠璃でのテンポ、三味線主体の音響は、「トリスタンとイゾルデ」に匹敵する。映画はそれを証明して見せた。西欧の黄昏と言われて久しいが経済大国となった日本が、西欧を乗り越えたオペラが生まれないのは単に言葉の問題だけなのだろうか。

 

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