先週マルケヴィチのCDがまとまって発売された。これだけまとまって20世紀の巨匠シリーズとして売り出されることは、かつて「レコード芸術」に「われマルケヴィチの復活を待ち望む」として投稿した身にはうれしい限りのことだ。未所有だったヴェルディのミサとストラヴィンスキーのアポロを購入した。これで私の知る限り彼の正規録音で未所有盤はダルピコラの囚われ人とリムスキーコルサコフのシエラザードだけになった。
中学生の時にどうしてもステレオ盤の第九のレコードが欲しくて当時1枚で出ていて一番安かっただけが理由で彼の第九を買ったのが彼の音楽との出会いだが、それ以来、来日公演を含め彼の音楽を聴き続けている。最近は彼の息子カエターニのCDも聴いているが親を越すものは無いと、購入を中断した。ところでヴェルディのミサだが、これは先入観から今まで購入をためらっていた。何せオケがモスクワフィル、コーラスがA.スベシニコフの国立アカデミー、独唱がヴィシネフスカヤにI.ペトロフ、このメンバーでオペラ、ボリスであれば文句なしだが、イタオペそのもののヴェルディだけに二の足を踏んだ。しかも冷戦さなかの宗教はアヘンと決め付けた国是のなかでのライヴには、すでにTAHRA盤で圧倒的な名演を経験した身には蛇足ものでしかない気がしていた。しかし音がでるや、思ったとおり重い。低音の響きがすごい。トスカニーニ、アバド、レニー、ジュリーニ、出だしの弦に神経が集中する。しかしこのヴェルディは何だ、唸りがする、苦しみもだえが聞こえる。別物だ、敢えて曲解をすればスターリン主義の苦しみ、圧政の苦悩が響く。この重低音の響きが曲全体を支配する。TAHRA盤での鋭い切れ味、圧倒的な推進力は吹き飛び、ペトロフのバスとスベシニコフの分厚いコーラスの響きが主役となっている。これはヴェルディの想定外の演奏だ。だからマルケヴィチだからできた、彼の編曲と言って良い演奏だ。
思いも因らぬ演奏だ、一般論で言えば「ダメ」演奏だがシェーンベルク盤の青きウイーンと同様に思えば比較できぬ名演と言えなくもない。
中学生の時にどうしてもステレオ盤の第九のレコードが欲しくて当時1枚で出ていて一番安かっただけが理由で彼の第九を買ったのが彼の音楽との出会いだが、それ以来、来日公演を含め彼の音楽を聴き続けている。最近は彼の息子カエターニのCDも聴いているが親を越すものは無いと、購入を中断した。ところでヴェルディのミサだが、これは先入観から今まで購入をためらっていた。何せオケがモスクワフィル、コーラスがA.スベシニコフの国立アカデミー、独唱がヴィシネフスカヤにI.ペトロフ、このメンバーでオペラ、ボリスであれば文句なしだが、イタオペそのもののヴェルディだけに二の足を踏んだ。しかも冷戦さなかの宗教はアヘンと決め付けた国是のなかでのライヴには、すでにTAHRA盤で圧倒的な名演を経験した身には蛇足ものでしかない気がしていた。しかし音がでるや、思ったとおり重い。低音の響きがすごい。トスカニーニ、アバド、レニー、ジュリーニ、出だしの弦に神経が集中する。しかしこのヴェルディは何だ、唸りがする、苦しみもだえが聞こえる。別物だ、敢えて曲解をすればスターリン主義の苦しみ、圧政の苦悩が響く。この重低音の響きが曲全体を支配する。TAHRA盤での鋭い切れ味、圧倒的な推進力は吹き飛び、ペトロフのバスとスベシニコフの分厚いコーラスの響きが主役となっている。これはヴェルディの想定外の演奏だ。だからマルケヴィチだからできた、彼の編曲と言って良い演奏だ。
思いも因らぬ演奏だ、一般論で言えば「ダメ」演奏だがシェーンベルク盤の青きウイーンと同様に思えば比較できぬ名演と言えなくもない。
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