多分20年位い前に、中古で購入して読んでいました。1979年に単行本「原発ジプシー」として現代書館より発行され、私のは1984年の講談社の文庫本です(因みに初版本でした)。
美浜・FUKUSIMA・敦賀原発を7ヶ月以上かけて、下請け作業者として実際に働いた、ドキュメントです。先日から再度読んでいますが、現在の原発定検(定期検査)の作業とそんなに変わった感じがしませんでした。
1975年に固体放射能廃棄物ドラム缶は4万本でしたが、1982年にはなんと35万本に!そこで考えたのが、固体の低放射能廃棄物を燃焼してしまうこと???で、その灰をレンガに混ぜて、全国で売ってしまっている事実!他の廃棄物は、当時六ヶ所村が候補に挙がっていたそうです。拒否すれば、良かったのに。
この、作業服は現在でも同じような気がします。定検(メンテナンス)の為の設計は、殆どされていないようです。その為、当時の原発は現在でも使用可能となっていますから、その保守点検や修繕は、前時代的な人海戦術。つまり、放射能を浴びながらの作業と言う事になります。
広島・長崎に続きFUKUSIMA原発は被爆地です。また当時、このような科学技術庁のポスターあったそうです!海が汚染されているのに、誠に信じられないことです。 当時のFKUKUSIMAの全景写真ですが・・・・信じられないメルトダウン!!
本誌の182Pに内部被爆を避けるための「前面マスク」の項目があり、高線量下の原子炉圧力容器の下でのボルト閉めの作業のこと。 「頭痛が激しさを増してきた。早く前面マスクをはぎ取ってしまいたい、新鮮な空気を肺のなか一杯に詰め込みたい、そのことしか頭になかった。放射能を恐ろしいと思うだけの精神的ゆとりは、すでに喪失していた。むしろ、多量の放射能を浴びることで早くこの場から逃れたいとさえ思った。」
と、読んだとき、これは異常な出来事です。今のFUKUSIMAや他の原発定検も、残念ながらまったく同じでしょう。
ちょっと見えにくいと思いますが、192ページに「朝日新聞の大熊記者が多重防護だから絶対安心」といっているのに、現場では汚染スパナが簡単に外部に持ち出されていた事実。この方は、当時の原発推進派の事はどこかに忘れてきて、今回の震災では、介護福祉と精神病院について発言している。国際医療福祉大学大学院教授・佛教大学社会福祉学部客員教授・ 千葉県健康福祉政策担当参与・国立大学法人筑波技術大学理事の単なる肩書きの人です。多重防護の原発を忘れているようで残念です。一言、コメント欲しいですネ。
市民エネルギー研究所にあった、ドイツからのメッセージから
「11日の日本の原発事故の翌日、私たちはシュツットガルトから最も古い原発まで40キロの反原発の人間の鎖を行いました。
日本の方へ、私の憂慮の気持お伝えください。
皆様へよろしく。」
と言うのがありました。遠い異国でも、同じ問題を抱えているんですね。
私は原発に反対です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます