ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

桜が咲いていた

2015-10-31 18:43:53 | Weblog






今治から松山へ抜ける水ヶ峠トンネル入り口手前の駐車場に植えられていた桜。
春の桜と違って淋しい感じだ。
種類違っていても確かに花は桜だった。
植物の命の不思議には驚けれど桜は春がいい。

パーカーのクインク:ブルーブラック

2015-10-30 11:13:28 | Weblog


久し振りに町一番の文房具屋さんへパーカーのインクを買いにいった。
出されたインクはカートリッジだった。
ビン入りのパーカーのクインクのブルーブラックと指定した。
引き出しから取り出したビンのラベルが少し浮き上がって丸まり、
売れずにいた時間の長さを感じさせた。
今は殆どの万年筆のインクはカートリッジ式になってしまっているのだろう。
スポイド式は時代遅れの遺物のようになってしまったのだろうか。

中学生時代に万年筆が流行っていてみんな1~2本は持っていた。
金額は忘れてしまったが、子供が買うのだから安もん(安物)だった。
万年筆を勉強で文字を書くのに特段使った訳でもないのだけれど持っていた。
その頃の万年筆はもうないけれど、高校へ入学した記念に父がくれた
パーカー万年筆は今も使っている。
写真の一番前の万年筆がそれだ。
一番後ろがモンブラン、真中がプラチナで父のお下がりだ。
40年も50年も使っている。
夫々に個性があって、指先に感じる感触、書き味が違って面白い。
パーカーはおおらかで走るような・・モンブランは端正な・・
プラチナは細く、堅いような気がする。
どうしようもない生来の悪筆の自分が万年筆を云々するのはどうかと思うのだけれど
毎日解らない単語を字引で引いてスペルを書いて、意味を書いている。
ぼけ防止にはモッテコイの作業だと思っている。
字は一向に上達しないけれど・・・・・

後期高齢者の運転講習

2015-10-29 18:09:15 | Weblog


昨日は後期高齢者の講習だった。
アルツハイマー検査があると聞いていたのでドキドキものだったけれど、
絵を見て少し時間をおいてからの記憶テストだった。
テストの結果は上々で一安心でした。後は目の検査や瞬発力、
模擬画面の信号の赤を見てブレーキを踏む動作確認、
そしてコースで実地運転、果たして役に立つのだろうか、疑問あり。
80才の人や90才の人がいてビックリだった。車に乗れないと買い物に困るらしい。
それにしてもタフな人がいるものだ。
少し危ないと思うけどね。
人のことは言えない・・・

“ナチ科学者を獲得せよ”を読む

2015-10-27 17:22:57 | Weblog


この本を読み始めて高校時代に観たり読んだりしたナチの“夜と霧”が頭をよぎった。
本当に恐ろしい記憶だ。
夜誰もいないだだっ広い部屋の一番奥に布団を敷いて電気を消して天井を見ていると
ガス室へ送り込まれた人の眼鏡や靴や遺品がうずたかく積み上げられた写真から
想像が広がって、骸骨のようにやせ細った人々の顔が闇の中に浮き上がったように
思えて中々眠りに入り込めなかった。
ドイツの降伏と同時に始まったナチの科学者のアメリカとソビエトの熾烈な争奪戦は
何百万人ものユダヤ人の人種浄化を無視して続けられた。
ロケット、毒ガス、生物兵器、などなど相手を殺戮する兵器のノウハウ持った科学者を
アメリカへ連れ帰ってソビエトに負けない軍事力を作り上げることに邁進していた。
米ソ冷戦が始まる時代だから、と言えばそれまでだけれど軍事力が世界を制する、と
言うのには同調できない。
NASAの初代所長がナチのV2ロケットを開発したフォン・ブラウンだったとは・・・
サリンもLSDもドイツの化学者が作っていたとは、戦争って本当に恐ろしい。
ベトナムに撒かれた枯れ葉剤も然り。
日本も同じようなことをしていたのでは、と思うと、憲法9条を守ることが
大切だと思うのだが・・・左の頬を出して、耐えることも出来ない。


故人からの出席通知(2343文字の話)

2015-10-26 17:42:47 | 小説
 七月の蒸し暑い日曜日の朝、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいると「お父さん、今度のお盆は高校の同窓会へ行かせてもらいますから」と言って、妻が椀から汁をすすった。
首を少し曲げ、妻の方を見たが何時もの癖で声に出して言葉を返さなかった。
 新聞と一緒に持ち帰った封書を開けると同窓会出席のハガキと一通の手紙が入っていた。怪訝に思って広げて驚いた。

 この度は家内への同窓会の案内状ありがとうございました。
残念ながら妻はつい一ヶ月前に他界しました。子供たちも成人し、私も家内も定年してこれから第二の青春を楽しもうと話し合っている矢先のことでした。
 いつものようにテーブルに肘をついて新聞を拾い読みしている私に話しかけながら夕飯の支度の最中に突然「おとうさん」と声を発して蹲って、前に崩れ込み動かなくなってしまいました。
本当に一瞬の出来事で気が動転して、おろおろ震える声でひたすら耳元で名前を呼び続けても全く反応がありませんでした。頭が真っ白くなって、からだが凍り付いて茫然自失したまま床に跪いて、虚ろな時が過ぎると何とか自分を取り戻して救急車を呼び、病院へ連れていきましたが既に亡くなっていました。呆気ない最後でした。
 病気一つせず健康そのものでいたものですから、まさかこのようなことが起こるとは思ってもいませんでした。命の切なさをつぶさに思い知らされました。元気なときはお互い空気のように存在を殆ど意識もせずに過ごしておりましたが、亡くなってしみじみとその有難さを思い知りました。もう再び会えないと思うと本当に寂しい毎日です。そこへ同窓会の案内状が届き、思わず、家内が台所に立って夕飯を作っているような錯覚を覚えて、「おい、同窓会の案内状が届いているぞ」と声をかけようとして、相手のいないことに気付き、言い知れぬ淋しさがこみ上げてきました。案内状はそのままテーブルの上に放り投げました。
 少し時間が経つと、元気であればきっと出席するだろうと思えて、その晩は仏前に案内状をそっとおいて寝ました。
 
 彼女の声が聞こえた訳ではありませんが夜が明けると、おかしなことですが気持ちに変化が起きて、出席の返事を出そうと思えてきたのでした。
 この出席の返事をきっと不思議に思われるでしょうが、そうすることで彼女を身近に感じていたいのかも知れません。   
 男一人残された淋しさは暗闇で手探りしているようで、落着きません。妻の「お父さん不甲斐ないですよ」の声がいつも聞こえるようです。男は駄目です。お笑い下さい。
 出席の費用と写真代を振り込みますので集合写真を送って貰えればと思います。
 会費は彼女が出席したものとして扱って欲しいのです。皆さんの五十年後の姿を見せてやりたく思います。    
 ご手数をお掛けしますが心情をお汲みいただき宜しくお願いします。
            北斗高等学校十回生同窓会世話人様       
                       佐久間次郎
                    (妻旧姓大佛章子) 

 手紙を読み終えて暫しの間どこをみるとも無くぼんやりと瞬きもせず前の庭を見ていた。
 亡くなった方からまさか出席の返事がくるなんて思ってもいなかった。
ご主人が出されたのは分かるけれど手紙の内容からだけでは心情を理解しきれないものがあった。
 この手紙を出させた動機は何処にあるのだろうか。恐らく此れまで彼女の願いを拒んでいたことへの贖罪の心情から出たものかもしれない。しかしそのことを攻めることはできない。その頃は、互いに仕事に押しつぶされそうな大変な時で、彼女も同窓会に出るなんて言い出せず、頼んだとしても彼から気持のいい返事も返ってこないことを知っていたはずだ。
 いろいろ思い巡らすと彼の心境に同情せずにはいられなかった。立場を自分に変えると空恐ろしくて考えることすら出来なかった。 時折真っ暗な仏壇のある部屋に入って、目を確り大きく開けて見回しても何も見えない時に感じる、もし一人になったら、と思う孤独と言うか、つかまえどころのない不安な思いが現実になると、恐らく彼の心境の状態になるのだろうと、彼の思いが傷から滲みだす血のように私の心のひだを湿らした。
 二人がどのような人生を辿って来たかのかは皆目分からないけれど同世代の私と大差ないことは想像に難くなかった。
 真珠湾攻撃の前年に生まれ、戦中戦後の混乱期を生き延び、戦後日本の復興期を遅ればせながら支え続けた人生だったに違いない。
 私にしても、ひたすら毎日を走り続け、仕事、仕事で家族との楽しい夕食や旅行の思い出は頭に浮かんでこない。朝早く出かけ、帰宅は殆ど十二時を過ぎ、昨日、今日、明日と時間に急かされる日々の繰り返しで、仕事が最優先の生活だった。
 
 限りなく続くと思っていた仕事人生も時間と言う消しゴムが殆ど消し去ろうとしている。
 古希を迎え、子供が巣立ち、夫婦二人の生活になって、張りを失ったボウルのようにふにゃふにゃとした、とらえどころのない、緩やかな生活の中へ、突然舞い込んできた、妻に先立たれ一人取り残された夫からの亡き妻の同窓会出席の手紙は自分の来し方と残りの人生の有り様をしみじみと考えさせるきっかけになった。
 今は、若い頃あれ程憧れていた「自由な時間」の中で溺れてしまいそうなのだが、今度は時間を使う術が思い浮かばない。それでも高校時代好きだった英語の授業を思い出し、手始めに洋書の毛沢東伝を読み始めた。七百ページに及ぶ大作で読み終えるまでに六ヶ月も要した。時間はいくらでもある,と言っても私が乗り込んでいるタイムトレインは私の終着駅に否応なく急停車して、「ここがあなたの下車駅です」と臆することなくアナウンスするでしょう。
 新聞を見てもテレビを観ても本当に色々なことが日々起こっている。しかし自分の周りはどうだろう。昨日と今日の差異は殆ど感じられない。しかし人生は静かに時を刻んでいる。

新米が届いた

2015-10-25 15:17:15 | Weblog


農家に嫁いだ娘の家族が新米を持って来た。
夫婦でお米の銘柄を言いながら炊飯時の水の量を教えてくれた。
結婚当初は、農家のことなど全然知らない町育ちで大変だったようだが
今ではすっかり農家の奥さんになっているようだ。

みかんが鈴生り

2015-10-24 19:39:48 | Weblog


私のサイクリングコースの道沿いにみかん、伊予柑、柿、
そして色々な作物を70代の方が一人で2反もある畑で育っている。
みかんはいつも殆ど穫られることもなく旬が過ぎてしまって、木の根元に転がっている。
みかん大好きの私は落ちて見捨てられたものでもいいから
とって食べたいけれど黙って人のものを食べる訳にもいかない。
手を伸ばせば届くところにゴロゴロ転がっていると言うのに・・・・・

駅舎・鉄路・機関車の思い出

2015-10-23 13:50:19 | Weblog






賑わった駅も交通事情の変遷ですっかり寂れてしまった。
昔は通勤客や学生で溢れていた。
夏は近くの海水浴場へ行く家族連れが列をなしていた。
今は学生の自転車が駅舎の前に駐輪しているばかりだ。
高校時代は蒸気機関車がシュシュシュシュと蒸気をはいて勢いよく走っていた。
列車のそばを通ると力強い大きな車輪に圧倒された。
中学時代には駅に止まっている機関車に乗せてもらって汽笛を鳴らした思いでもある。
小学生の頃にはレールに耳をつけて伝わって来る列車の近づく振動音を頬を黒くしながら聞いた思いでもある。
硬貨をレールに置いてペッチャンコにした記憶もある。
列車の進行を気にしながら小さな川の鉄橋を渡ったこともあった。
今そのようなことをすれば大問題になってしまうことだろう。
65年以上も昔は親も世間の人も子供の遊びなど誰も気に留めていなかった。

稲刈り終了

2015-10-22 21:16:31 | Weblog






小さな田圃も大きな稲刈り機であっという間に丸刈りだ。
しかも刈り取った籾は袋へ入れるのではなく、稲刈り機のノーズから
軽自動車へ積み込んだ小さなサイロへ吐き出して、そのまま乾燥機へ
運び込んでいるらしい。終戦直後に稲刈りや稲の株切りを手伝ったのが
懐かしい。昔稲刈りはみんなでする農家の最大のイベントだったが、
今はどうなのだろうか・・・