終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

法妙なるが故に人貴し 人貴きが故に所尊し 

2013-07-29 08:37:31 | 大切なことの為に
 十界互具 之を立つるは石中の火・木中の花。
 信じ難けれども 縁に値ひて出生すれば
 之を信ず。

  (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)


 

  美味しいランチ一回分の出費を、どうぞこれらの本に。
  きっと、自身を養う素晴らしい投資になるでしょう。

 仏陀記して云く

「後の五百歳に法華経の行者有りて
 諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦石・流罪死罪せられん」
 等云々、

 日蓮無くば、釈迦・多宝・十方の諸仏の未来記は当に
 大妄語なるべきなり。

  (真言諸宗違目)

 
 仏になる道は必ず身命を捨つるほどの事有りてこそ
 仏にはなり候らめとをしはからる。

 既に経文の如く悪口罵詈・刀杖瓦石・数数見賓出と説かれて、
 かかるめに値ひ候こそ法華経を読むにて候らめと、
 いよいよ信心もおこり、後生もたのもしく候。

  (佐渡御勘気抄)


  
 おススメ 第四章

 至理は名無し、
 聖人理を観じて万物に名を付くる時、
 因果倶時・不思議の一法之れ有り。
 之を名けて 妙法蓮華と為す。

 此の妙法蓮華の一法に、
 十界三千の諸法を具足して欠減無し。
 
 之を修行する者は、
 仏因仏果 同時に之を得るなり。

  (当体義抄)


  
 おススメ P.176~P.227 P.270~271 P.274~P.280 
 P.282~P.286 P.295~P.304 P.306
 お時間の無い方は上記のページをご覧になるだけでも、
 この書の斬新さと素晴らしさをご理解頂けると思います。
           
 人を、システム内での有用性という観点からのみ
 客体化し個別化するか、或いは
 尊い生命としての存在意義に光を当てるか。

 無自覚に規格化された集団・個人が依存する
 既存のシステムの是非は、個々人で問うしかない。


  
 おススメ P.394~P.408 P.410~P.411 
 彼と彼の主張の魅力が余すところ無く記述されています。

問うて云く、
ただ法華経の題目を聞くと雖も
解心無くば如何にして三悪趣を脱れんや、

答へて云く、
法華経流布の国に生れて此の経の題目を聞き、
信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。

設ひ今生は悪人無智なりと雖も必ず
過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて
信を致す者なり。故に悪道に堕せず。

  (守護国家論)

濁水心無けれども 月を得て自ら清めり。
草木雨を得てあに覚(さとり)有りて
花さくならんや。

妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、
唯一部の意(こころ)ならくのみ。

初心の行者 其の心を知らざれども而かも
之を行ずるに 自然に意に当たるなり。

  (四信五品抄)



 今こそもう一度、読み返してみませんか?
 目には見えない大切なものを思い出す為に。


 人生とは、
 切符を買って軌道の上を走る車に乗る人には
 分からないものである  (モーム)


以前、或る賢明なブロガーさんがご教示下さいました。
我武者羅な一生懸命ではなく、
直向に・自分の居場所で心を尽くす「一所懸命」が大切だと。

もうやめませんか?
そして、
本当に自身が望む・大切な自分の星へ帰りませんか?
新しい世界を目指しませんか?
気づいた人から順々に。


  
☆キツネならぬ、犬と王子さま☆

   Thank you!


忍辱の心決定し 端正にして威徳あり (法華経従地涌出品)

2013-07-21 08:08:02 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
常識とは、
18歳までに身に付けた偏見のコレクションである

   アインシュタイン


世の中ものうからん時も
今生の苦さへかなしし、況や来世の苦をやと思し食しても
南無妙法蓮華経と唱へ、

悦ばしからん時も
今生の悦びは夢の中の夢、
霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又
南無妙法蓮華経と唱へ、
退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、

  松野殿御返事


しばらくの苦こそ候とも・

ついには・たのしかるべし

  上野殿御返事




日蓮聖人は、九界も仏界も平等である。
地獄の中にも仏があり、仏の中にも地獄がある。
衆生にも地獄界から仏界までの境地が具わっている、と仰せで、
これは事の一念三千・十界互具の御法門とよばれます。

ですから、日女御前御返事に

此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。

只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる

胸中の肉団におはしますなり

とありますように、
みだりに「死んだら仏と同格・同等」と解釈することは、
自分自身が本尊であると曲解した宗教などと同じく、
驕慢の至りと厳に慎まねばなりません。

ともかく、謗法無く、一途に信心を全うするならば

「相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、

ご臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし」

と上野殿御返事にて固くお約束下さっているのですから、

これからも

「良くがんばった、此処へお越しなされ」

と日蓮聖人からお声掛け頂ける様な正直な信心を
全うしたいと願うばかりであります。

 Mr.mount-hat(私の仏道の恩師)



我等現には此の大難に値ふとも
後生は仏になりなん。
設へば灸治のごとし。

当時はいたけれども・
後の薬なればいたくていたからず。

~ただ一えんにをもい切れ、
よからんは不思議・
わるからんは一定とをもへ。

    (聖人御難事)

Thank you!


合掌とは法華経の異名なり

2013-07-13 07:40:09 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
世間出世善き者は乏しく
悪しき者は多き事眼前なり。

然れば何ぞ強ちに少なきををろそかにして
多きを詮とするや。

土沙は多けれども米穀は希なり。
木皮は充満すれども布絹は些少なり。

汝只正理を以って前とすべし。
別して人の多きを以て本とすることなかれ。

  (聖愚問答抄)
    
    日蓮



私達が法華経を受持し・日蓮聖人の教えを求め・
学んで得た因縁観を持つことで、
過去・現在・未来の三世は
今この一瞬の中に凝縮しているのだと確信できる。


仏教の深い生命観・因縁観が自然に身に備わってくる。

だからこそ常に来世を意識できるようになり・
何時如何なる時でも未来を信じる心が却って
今を正しい方向に導く智慧の働きにも繫がってくる。

そこには絶望という観念はありません。

どの様な情況になっても未来に向けての確信が生まれ・
如何なる苦難をも乗り越えて行く力を養うことができます。

現在の姿から過去も未来も
知ることができるということは、
現在を正直に正しく生きる力となるのです。


 Mr.mount-hat (私の仏道の恩師)

 



我が心身より外には

善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物を、

されば我が身が頓て三身即一の

本覚の如来にてはありける事なり。


是をよそに思ふを

衆生とも迷ひとも凡夫とも云ふなり。


是を我が身の上と知りぬるを

如来とも覚りとも聖人とも智者とも云ふなり。
    
     (十如是事)



法華経の行者は如説修行せば、

必ず一生のうちに一人も残らず成仏すべし。


譬へば春夏田を作るに早晩あれども


一年の中には必ず之を納む。


法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す
    
  (一念三千法門)




人身は得難く、天上の糸筋の海底の針に貫けるよりも稀に、


仏法は聞き難くして 一眼の亀の浮き木に遇ふよりも難し。


今既に得難き人界に生をうけ、遇い難き仏教を見聞しつ、

今生をもだ(黙)しては

又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。


   (聖愚問答抄)


     日蓮

  


   Thank you!

因果応報

2013-07-08 04:03:44 | 亡国
 人間にとって 苦悩に負けることは恥ではない


 快楽に負けることこそ 恥である



     (パスカル)



 学の要は 道を知るにあり 


   会津藩・松平慎斎



  


 死出の旅路に赴く時、人は完全に独りになる。

 どんなに大切に思う人があっても、

 黄泉の道を共に歩むことは出来ない。

 誰人にも、その人生の足跡に刻まれた真実を 
       
 鼻面に突きつけられる時が訪れる。

 逃れられない瞬間に何を思うか。

 人生の意義は、その時に見出されるのかもしれない。


  根無き草は ひさしからず
          

  みなもとなき河は 遠からず 


   日蓮 (寿量品得意抄)



 思ひ立つ 重きその荷を 卸すなよ  

 
 力車は くだけぬるとも


   会津藩・宗川 儀八


 


石の中に火あり 珠の中に財あり (重須殿女房御返事) 

2013-07-07 06:44:28 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
~恩師からの手紙~ Mr.mount-hat

タイトルの言葉は、別名「十字御書」にある日蓮大聖人のお言葉です。
この御文の前に、以下の御文があります。

そもそも地獄は何処にあり・仏は何処にいらっしゃるのかと調べたところ、
地の底という経もあり・西方浄土という経もあったが、
本当にそのようなところにあるのだろうか。
では何処かといえば、私達の心中に。

例えば美しい蓮の花も、そこには既に種を孕んで
いるのであって、
これこそ因果は同時に存在することの表象である。

だから、親を見くびり・疎かにする心には既に地獄があり・
仏に縁する人の心には既に仏が存在すると知ることができるのだ。

 

この「石の中に火あり」について、
第二十六世日寛上人が万葉仮名で詠まれた和歌三首があります。
歌から学べるのは、

~火が見えないからといって、
火が存在しないと決め付けてはならない。

世の中のあらゆるものは五大(地水火風空)で成り立ち、
それらが互いに関り合いつつその時々の相を成すのだから、
例え石に火を見ることは無くとも、 
極まったところには火が孕まれている。
(火打石に火打ち金を中てて火花を散らす切り火という作法があります)

火に限らずあらゆる事象は
元々の相(すがた)で存在しているとは限らない。

自分自身にしても、
あらゆるものの因縁果報によって現世に集まり生れて
きたものの、
己たる真理は元々存在していたのであり、
火も石の中の極まったところに
真理として元々存在しているものなのだ。

火打ち金と火打石が触れて飛び散る火花を上手に火口に移せば
火種となり、灯心に移せば燈火となり、
薪に移せば煮炊きに使える火となる。
凍える体を温めてくれることもあり・
小さな炎が寒々とした心を温めてくれることもある。
一旦火が熾きたのなら、その火はもう自由自在に使うことができる。
石を人に当て嵌めれば、
火は真理や智慧に置き換えることができるのだ~ということです。

「石の中に火あり」という御文は、私達の中には必ず仏が存在するということが
理解出来るよう譬えられたものです。
肉眼では見えなくとも、仏は私たちの中に真理として存在します。

そして私たちが御本尊に向き合い南無妙法蓮華経と唱えることで、
自身の奥深くにある仏種が膨らんで表に顕れて来るのです。
法報応の三身を具えた仏様の存在とはたらきが、
この短い御言葉のなかに込められているのだと拝することが出来ました。

 

世の中のあらゆる人・あらゆるものには妙法蓮華経という仏の命が
存在していますが、求めなければ仏を感じることはありません。

お金や健康・長寿や快適さといった刹那の幸せ感を
否定する訳ではありませんが、
そういった「幸せ観」にばかり囚われていると、
本当に大切なものを見失ってしまいます。

若くて溌剌としている頃には身体の衰えなど考えもしませんし、
サプリメントを次々口に放り込んでも老いは必ず迎えなければなりません。
若い頃から美味しい酒やご馳走を求めていた方ほど健康を害してしまうことも
多いようです。
長寿を願っても、臨終は必ず訪れますし、
就職したら定年まで勤め上げられると信じていても、
リストラは容赦なく言い渡されます。
何が幸せで何が不幸かなどとじっくり考える心の余裕さえ失っている方も
少なくないでしょう。

ところで、「幸せ=サチ」という言葉の由来を
ご存知ですか?
幸運・幸福といった概念を示す幸(=サチ)は、
縄文時代晩期から後期には「鉄」を表す言葉でした。

人間の知恵によって石の中から取り出された鉄は、
様々な有用な道具となりました。
鉄の矢(古代、矢をサチと呼んでいました)・鋤・鍬・鎌・鍋の類で、
当時鉄を多く所持できることは福とされており、そこから「サチ=フク」という
概念が生じました。
後年、漢字の使用により「幸福」となったのです。

けれども素晴らしい鉄器であっても、
いずれは錆びて壊れてしまいます。つまり、
貴重な品々を持っていることが幸せというわけではないのです。

古来、人はその魂(霊=たましい)の清らかさによって
衆人に敬われて参りました。
その魂の拠り所と見做されたものが珠(たま)であり、
魂を自身の外に逃がさぬよう美しい珠を身につけ・頸に掛け、
自身の心として大切に扱ったのです。

タカラ(宝・財)という言葉は、インド南部のタミル人が、
貴重な錫(すず)という金属にあてたものです。
珠は貴重なもの・大切なものであり・魂が宿ると
された為、死後は胸にかけて葬ったほど。
珠はそれを持つ人間の魂であり・その魂をタカラとする
考えかたが伝わってきたのです。

「石の中に火あり、珠の中に財あり」。

私たちが数珠を手にかけ合掌し・本尊の前に端座して唱題するその一心に、
仏は常住されているのだという思いを常に抱き・暮らせることは尊いことです。

そして、石の中から出た火を役立たせようという思いをもつなら、
その火はもう自由自在な働きをみせるように、
仏としての振る舞いも自然と・自由自在になされるようになるのでは
ないでしょうか。

苦しい時も楽しい時も、仏を求めて生きていく。その思いこそが、
人生で一番の財(タカラ)となるはずです。

  Mr.mount-hat(私の仏道の恩師)