終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからなんだよ サン・テグジュペリ

2013-09-29 08:58:33 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
何(いか)なる世の乱れにも、

各各をば法華経・十羅刹助け給へと、

湿れる木より火を出だし、

乾ける土より水を儲けんが如く

強盛に申すなり。

  (呵責謗法滅罪抄)

    日蓮



夫れ此の国は神国なり

神は非礼を稟(う)けたまわず

天神七代 地神五代の神神・其の外諸天善神は

一乗擁護の神明なり、然かも

法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す、

法華経に云く 諸仏救世者・大神通に住して

衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ずと、

一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや、

仁王経に云く

「一切の聖人去る時 七難必ず起る」と

   
 (宿屋左衛門光則への御状)


今日本の国王より民までも教主釈尊の御子なり

釈尊の最後の御遺言に云く

「法に依って 人に依らざれ」等云々、

法華最第一と申すは法に依るなり
  
 (本尊問答抄)


今日蓮等の類い

南無妙法蓮華経と唱え奉るを智慧とは云うなり

 (御義上)



 <松野殿御消息>



昔乃往過去の古へ 珊提嵐(さんだいらん)国と申す国あり

彼の国に大王あり無諍念(むじょうねん)王と申しき、
彼の王に千の王子あり。 

又彼の王の第一の大臣を宝海梵志(ほうかいぼんじ)
と申す。彼の梵志に子あり法蔵と申す、

彼の無諍念王の千の太子は穢土を捨てて浄土を取り給ふ、
其の故は
此の娑婆世界は何なる所と申せば
十方の国土に父母を殺し正法を誹謗し
聖人を殺せる者・彼の国国より此の娑婆世界へ
追い入れられて候、例せば此の日本国の人 
大科有る者の獄に入れられたるが如し、
我が力に叶はざれば哀愍せずして捨て給ふ、

宝海梵志一人請け取りて
娑婆世界の人の師と成り給ふ、

宝海梵志の願に云く
我未来世の穢悪土の中に当に作仏することを得べし、
即ち十方浄土より擯出せる衆生を集めて
我当に之れを度すべしと誓ひ給ひき、

無諍念王と申すは阿弥陀仏なり、
其の千の太子は今の観音勢至普賢文殊等なり、
其の宝海梵志と申すは 
今の釈迦如来なり、

此の娑婆世界の一切衆生は十方の諸仏に
捨てられしを

釈迦一人計りして
扶(たす)けさせ給ふを
唯我一人と申すなり。


   日蓮


何を生命と呼ぶか。

あらゆる意味から君を激動させるもの、

君を突き貫くもののことです。 

     ロダン



  Thank you!!

譎詭の証徴

2013-09-22 07:54:20 | 大切なことの為に
<1868年 9月22日>
 
 会津藩降伏開城の日



幸せはゴールではなく

満足に生きた人生の副産物なのです


自分でやりたくないことを

他人に頼むのはフェアではありません


人の生き方を一番よく表すのは言葉ではない。

その人の選択である。

我々の選択とはつまるところ、

我々の責任なのだ

   エレノア・ルーズベルト



無責任とは良心の欠如ではなく、
自らの判断を変えないことに
固執することである

    カント


地球に攻撃を仕掛けるのは、

一見したところ意図は申し分ないけれども

善の本質を十分につかめていない人々である

  トマス・ベリー





法華経の行者をば 第六天の魔王の必ず障うべきにて候、
十境の中の魔境此れなり、

魔の習いは 善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、
強いて悪を造らざる者をば 力及ばずして善を造らしむ、

又二乗の行をなす者をば・あながちに怨をなして
善をすすむるなり、

又菩薩の行をなす者をば 遮って二乗の行をすすむ
是後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕とすなり
止観の八をごらむあるべし

悪鬼入其身はよも・そら事にては候はじ。
  
    (常忍抄)


涅槃経に転重軽受と申す法門あり、

先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、
今生にかかる重苦に値い候へば
地獄の苦しみぱつときへて死に候へば、
人天・三乗・一乗の益をうる事の候、

不軽菩薩の悪口罵詈さられ杖木瓦礫をかほるも
ゆへなきにはあらず、
過去の誹謗正法のゆへかとみへて其罪畢己と説かれて候は
不軽菩薩の難に値うゆへに
過去の罪の滅するかとみへはんべり。

   (転重軽受法門)

      日蓮

設ひいかなるわづらわしき事ありとも
夢になして
只法華経のことのみさはぐらせ給うべし

   (兄弟抄)日蓮

武士道とは
そのいのちの終わるときに
花を咲かせるのである。

在世とは その一瞬のための
修行の時だったともいえる

  早乙女 貢

 ☆
今の法華経の文字は皆生身の仏なり。

我等は肉眼なれば文字と見るなり。
たとへば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、
天人は甘露と見る。

水は一なれども果報にしたがつて
みるところ各別なり。

   (法蓮抄)

    日蓮

 南無妙法蓮華経
   合掌

大悲とは母の子を思う慈悲の如し

2013-09-19 18:24:49 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
夫れ以みれば

末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照らし、
久遠実成の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、

於戯仏法に値うこと希にして喩を曇華のはなしべに仮り
類を浮木の穴に比せん 尚以て足らざる者か、

ここに我ら宿縁深厚なるに依って
幸いに此の経に遇い奉ることを得、
随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、
偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり

   (日興遺誡置文)

     日興


第一譬喩品の事

文句の五に云く 譬とは比況なり喩とは暁訓なり

大悲息まず 巧智無辺なれば
更に樹を動かして風を訓え 扇を挙げて月を喩すと。

御義口伝に云く
大悲とは母の子を思う慈悲の如し 今日蓮の慈悲なり

章安云く
「彼の為に悪を除くは即是れ彼の親」と。

巧智とは南無妙法蓮華経なり
諸宗無得道の立義なり 巧於難問答の意なり

更とは在世に次で滅後の事と意得可きなり


樹を動すとは 煩悩なり

風を訓るとは 即菩提なり

扇を挙ぐとは 生死なり

月を喩(さと)すとは 即涅槃なり


今日蓮等の類い 南無妙法蓮華経と唱え奉る時、
大百牛車に乗じて直至道場するなり、

記の五に云く
「樹と扇と風と月とは 唯円教の理なり」と。

又云く
「法説の実相は 何ぞ隠れ何ぞ顕れんや
長風息(や)むこと靡(な)く 空月常に懸れり」と。

此の釈之を思う可し

隠とは死なり 顕とは生なり

長風とは 我等が息なり

空月とは心月なり


法華の生死とは 三世常住にして隠顕之無し

我等が息風とは吐く処の言語なり

是南無妙法蓮華経なり

  (御義上)

   日蓮


 




一切衆生等しく仏性有り 仏性同じきが故に等しく是れ我が子なり

2013-09-16 08:05:29 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
人間の善が 最高の法である

   キケロ


知識とは 

天に飛翔するための翼である

  シェイクスピア





天竺をば月氏国と申す 仏の出現し給ふべき名也、

扶桑国をば日本国と申す あに聖人出で給ざらむ

月は西より東に向へり、
月氏の仏法 東へ流る可き相也。

日は東より出づ 
日本の仏法月氏へかへる可き瑞相なり、

月は光あきらかならず、在世は但八年なり、

日は光明月に勝れり、
五々百歳の長き闇を照す可き瑞相也。

仏は法華経謗法の者を治し給はず、
在世には無きゆへに、

末法には一乗の強敵充満すべし、
不軽菩薩の利益此なり、

各々弟子等、はげませ給へ

 
   (諫暁八幡抄)


此の時 地涌千界出現して
本門の釈尊を脇士と為す、
一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。

月支震旦に未だ此の本尊有(ましま)さず。


一念三千を識らざる者には 仏大慈悲を起し、
五字の内に此の珠を嚢み、
末代幼稚の頸に懸けせしめたまふ。


 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)



事実というものは、英語の諺にもいうように

曲げられないものである

  レーニン





仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり

仏法は体のごとし 世間はかげのごとし

体曲がれば影ななめなり

  
  (諸経法華経難易事)


法界を自身と開き、法界自受用身なれば
自我げに非ずと云ふ事なし。

自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは
一念三千なり。


  (御義口伝)



過去の不軽菩薩は
一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、
彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて
礼拝の行を立てさせ給いしなり、

法華経を持つ者をば互いに毀るべからざるか、
其の故は
法華経を持つ者は必ず仏なり、
仏を毀りては罪を得るなり


 (松野殿御返事)


所以は経に出でたり、人の語を信じること勿れ
 
  (釈迦一代五時継図)

才芸を通し 浮言を吐くには依るべからず
正しき経文・金言を尋ぬ可きなり

  (真言見聞)

    
    日蓮



   Thank you!


或る雨の朝の夢

2013-09-11 09:13:19 | 大切なことの為に
ある日、可愛がっていた人形の男の子に突然魂が宿った。


着てみたい服があるという。


嬉しくて愛らしくて、
私は彼の望む服を探し・行きたいという場所に連れ出す。
私の旧友達も、
ささやかな願いにキラキラと瞳を輝かせる彼が愛しくて・共に協力してくれている。


夕暮れ時、実は今日一日の限られた生だったことを私たちに告げると、
男の子は満ち足りた笑顔を浮かべ、
長い睫毛の目を閉じて、そのままぐったりと動かなくなった。




ああ、何てこと!
切ない涙にむせぶ私達の胸には、それでも何か幸福な思いが溢れていた。
彼は、刹那の限られた時間を・自身が本当に望むことの為に生き・
幸福に満たされてこの世界を去った。
私達を巻き込んで・私たちにも幸福を分けてくれながら。


その望みがどんなにささやかであったかなど、私たちが問題にすることではない。
あの・最後の笑顔がそれを教えてくれていた。


そして思った。
私たちは、本当に自らが望むことの為に
限られた時間を生きているだろうか?


そう問いかけることが、それほど馬鹿げたことだろうか?


与えられた刹那の時間に・
満足な笑顔でお別れできる・・・そんな風に、生きているだろうか?


それは本当に、自分が望んだものだろうか?


・・・・これが、私の今朝の夢。



 

Thank you!