終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

言葉で与えた痛みですらも、死の瞬間に自身に返る

2013-07-04 05:23:28 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
各々師子王の心を取り出して

いかに人をどす(脅)とも

 
をづる(怖)事なかれ。

 
師子王は百獣にをぢず、


師子の子又かくのごとし。

   
 (聖人御難事) 日蓮 



この御法門は、師匠も弟子も共に迷者であります。
その迷いの二人が相寄って「一仏」を形成しているのです。

師が高い位置から弟子を取り入れ引っ張り上げるのではなく、
師と弟子が 同じ立場で出会う。
その出会い頭のところに「一仏」を見ているのです。

師匠も弟子も共に迷者の位にいる訳ですから、そこには
絶対的な上下というものはありません。

自ずと生じる礼節はありましょうが
それは特段に強調される性質のものではありません。

  Mr.mount-hat (私の仏道の恩師) 



自分の家族や

大切に思う人達さえ良ければ、

他には牙を剥こうが奪い取ろうが

お構いなし。
  
・・・これは、畜生の心。


自分たちは満ち足りている。

徳を備え・理も弁えている。


だから、他人がどうあろうと

自分には関係ない。
  
・・・これは、増上慢といい、
  やはり自分たちさえ成仏すれば
  それでいい、という
  二乗の心。


どちらも成道からは外れているが、法華経では特に、
増上慢の者は尚、成仏に遠いと誡められる。



仏教で因陀羅網が説かれる様に、
この地上に生を受けた以上、
地上に生きる命との繋がりを完全に断つことなどできはしない。
善きにつけ悪しきにつけ、互いに影響し合うのが必然ならば、
地上に生起する全ては・直接間接・どれ程時間を経ようが・
大なり小なり自身に巡ってくることなど
書くまでもないだろう。 

 

国を失ひ 家を滅せば


何れの所にか世を遁(のが)れん


汝須く一身の安堵を思はば先ず 


四表の静謐を祈るべきものか    
 
 
  (立正安国論  日蓮)


 

但し、執着が生じて相手の隠匿心に誘引され・
自身の善心が知らず破られるようでは本末転倒である。

為に日蓮聖人も


 かたき(敵)はををく・かたきは・つよく、
 
 
 かたうど(方人)は・こわく(硬)くして・
 
 
 しまけ(為負)候へば 悪人ををこして・


 かへつて法華経の信心をもやぶり・


 悪道にをち候なり。 
 
 
 あしきところをば、ついしさり(退)てあるべし

   
   (堕信堕悪御書)


と注意を促す。

ご自身も各方面への諫言を敢行なさり・
流罪の憂き目に遇いながらも幕府への直言を実現なさるが、

「三度まで国主に諫言を用いられなければ、閑居する」


との言葉通り、後に山間に幽居なされた。

成仏の種を蒔いて差し上げることが肝要で、
萌芽の時は仏天の采配に委ねよ、と
私自身も、師に念を押されている。
 

 自分が何者かは、自分が何を為すかだ。
 

 すなわち、実存とは、選択に他ならない。  
  

    (キルケゴール)



快・不快だけで物事を判じた時、
往々にして人は、事の真価を見誤る。
過度に求められるインテグリティー。
閉塞感に囚われ、自ら臍を噛む結果を招いていまいか。

誰もが完璧ではない。だからこそ今、
互いに学び「合い」、磨き「合う」為に
この地球に生まれ合わせたのだ。


法華経だにも・ほめられたてまつりなば・


なにか くるしかるべき


(四条金吾殿女房御返事)




但し、伝統や歴史に基づく地域文化の実状を現実的な考慮の内に容れないと、
この連邦論は個人的には脆弱の感を否めないことを付言しておく。
 
 
 
悲しきかな数十年の間、


百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷へり。


謗(ぼう)を好みて正(しょう)を忘る、


善神 怒りを成さざらんや。


円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。


如かず彼の万祈(ばんき)を修せんよりは、


此の一凶を禁ぜんには。    
 
  
  ( 立正安国論 )

    
     日蓮