終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

石の中に火あり 珠の中に財あり (重須殿女房御返事) 

2013-07-07 06:44:28 | 日蓮聖人・本来の姿に戻ろう!
~恩師からの手紙~ Mr.mount-hat

タイトルの言葉は、別名「十字御書」にある日蓮大聖人のお言葉です。
この御文の前に、以下の御文があります。

そもそも地獄は何処にあり・仏は何処にいらっしゃるのかと調べたところ、
地の底という経もあり・西方浄土という経もあったが、
本当にそのようなところにあるのだろうか。
では何処かといえば、私達の心中に。

例えば美しい蓮の花も、そこには既に種を孕んで
いるのであって、
これこそ因果は同時に存在することの表象である。

だから、親を見くびり・疎かにする心には既に地獄があり・
仏に縁する人の心には既に仏が存在すると知ることができるのだ。

 

この「石の中に火あり」について、
第二十六世日寛上人が万葉仮名で詠まれた和歌三首があります。
歌から学べるのは、

~火が見えないからといって、
火が存在しないと決め付けてはならない。

世の中のあらゆるものは五大(地水火風空)で成り立ち、
それらが互いに関り合いつつその時々の相を成すのだから、
例え石に火を見ることは無くとも、 
極まったところには火が孕まれている。
(火打石に火打ち金を中てて火花を散らす切り火という作法があります)

火に限らずあらゆる事象は
元々の相(すがた)で存在しているとは限らない。

自分自身にしても、
あらゆるものの因縁果報によって現世に集まり生れて
きたものの、
己たる真理は元々存在していたのであり、
火も石の中の極まったところに
真理として元々存在しているものなのだ。

火打ち金と火打石が触れて飛び散る火花を上手に火口に移せば
火種となり、灯心に移せば燈火となり、
薪に移せば煮炊きに使える火となる。
凍える体を温めてくれることもあり・
小さな炎が寒々とした心を温めてくれることもある。
一旦火が熾きたのなら、その火はもう自由自在に使うことができる。
石を人に当て嵌めれば、
火は真理や智慧に置き換えることができるのだ~ということです。

「石の中に火あり」という御文は、私達の中には必ず仏が存在するということが
理解出来るよう譬えられたものです。
肉眼では見えなくとも、仏は私たちの中に真理として存在します。

そして私たちが御本尊に向き合い南無妙法蓮華経と唱えることで、
自身の奥深くにある仏種が膨らんで表に顕れて来るのです。
法報応の三身を具えた仏様の存在とはたらきが、
この短い御言葉のなかに込められているのだと拝することが出来ました。

 

世の中のあらゆる人・あらゆるものには妙法蓮華経という仏の命が
存在していますが、求めなければ仏を感じることはありません。

お金や健康・長寿や快適さといった刹那の幸せ感を
否定する訳ではありませんが、
そういった「幸せ観」にばかり囚われていると、
本当に大切なものを見失ってしまいます。

若くて溌剌としている頃には身体の衰えなど考えもしませんし、
サプリメントを次々口に放り込んでも老いは必ず迎えなければなりません。
若い頃から美味しい酒やご馳走を求めていた方ほど健康を害してしまうことも
多いようです。
長寿を願っても、臨終は必ず訪れますし、
就職したら定年まで勤め上げられると信じていても、
リストラは容赦なく言い渡されます。
何が幸せで何が不幸かなどとじっくり考える心の余裕さえ失っている方も
少なくないでしょう。

ところで、「幸せ=サチ」という言葉の由来を
ご存知ですか?
幸運・幸福といった概念を示す幸(=サチ)は、
縄文時代晩期から後期には「鉄」を表す言葉でした。

人間の知恵によって石の中から取り出された鉄は、
様々な有用な道具となりました。
鉄の矢(古代、矢をサチと呼んでいました)・鋤・鍬・鎌・鍋の類で、
当時鉄を多く所持できることは福とされており、そこから「サチ=フク」という
概念が生じました。
後年、漢字の使用により「幸福」となったのです。

けれども素晴らしい鉄器であっても、
いずれは錆びて壊れてしまいます。つまり、
貴重な品々を持っていることが幸せというわけではないのです。

古来、人はその魂(霊=たましい)の清らかさによって
衆人に敬われて参りました。
その魂の拠り所と見做されたものが珠(たま)であり、
魂を自身の外に逃がさぬよう美しい珠を身につけ・頸に掛け、
自身の心として大切に扱ったのです。

タカラ(宝・財)という言葉は、インド南部のタミル人が、
貴重な錫(すず)という金属にあてたものです。
珠は貴重なもの・大切なものであり・魂が宿ると
された為、死後は胸にかけて葬ったほど。
珠はそれを持つ人間の魂であり・その魂をタカラとする
考えかたが伝わってきたのです。

「石の中に火あり、珠の中に財あり」。

私たちが数珠を手にかけ合掌し・本尊の前に端座して唱題するその一心に、
仏は常住されているのだという思いを常に抱き・暮らせることは尊いことです。

そして、石の中から出た火を役立たせようという思いをもつなら、
その火はもう自由自在な働きをみせるように、
仏としての振る舞いも自然と・自由自在になされるようになるのでは
ないでしょうか。

苦しい時も楽しい時も、仏を求めて生きていく。その思いこそが、
人生で一番の財(タカラ)となるはずです。

  Mr.mount-hat(私の仏道の恩師)